胡桃ちゃんはおかしかった 作:生タマゴ
幾つものシーンが脳裏を過る時間、つかの間の静寂が破られて、次に起こったのは感情の変化だ。
流れ行く記憶の中、味わったであろうものが次々とこの身を襲う。
それは想像も出来ないほどに揺れ動く傍迷惑な代物で、どれもが1度知ってしまえば驚くほどに馴染んだ。足りないピースが欠けたパズルと嵌まるように。
…やがて差し込んでくる光に起こされて、瞼を開く。
時刻は午前7時、部屋で寝ているのはゆきと私だけのよう。
ゆきの目覚ましは7時15分にセットされているので、僅差で先に起きたらしい。
窓のカーテンは既に開かれていて、暖かな春の日差しが部屋の中を照らし、ついつい目を細めてしまう。
それなりに良い目覚めだ。
部屋の中を見渡すと、寝る前までは未知の教室だったのに、今は慣れ親しんだ寝室とも認識出来ていた。
睡眠中に人の記憶は整理される。
言うなれば部分的な統合だろうか。私は今まさにその成果を体感していた。
不思議と慣れた手つきで布団を整え部室へ向かい、そして扉を見て思い出す。
生徒会室を学園生活部という部の部室にしている事を。
よく分からない部活という感想しか以前は湧いて来なかったが、こう新鮮な気分で考えてみると中々有意義だ。どうしても溜まりがちなストレスを解消する場として優秀である。
そんな事を考えていると部室から紙を擦るような音が聞こえた。音を立てないようにドアノブを捻り中の様子を覗き見る。
「…」
りーさんが椅子に座って家計簿を眺めていた。
数秒程待ちドアノブから手を離すと、金属のぶつかる音でりーさんが振り返る。
「…ゆきちゃん?」
「私だよりーさん、おはよ」
「あらおはよう。どうしたの?いつもはもう少し寝ているのに」
「ち、ちょっと早く目が覚めてさ」
「そう…丁度いいわ、朝ごはんの準備少し手伝って貰えない?」
「いいぜ、何すれば良いんだ?」
「玉葱と人参のみじん切りをお願い」
「おっけ、玉葱と人参だな」
包丁とまな板の位置も何となく分かる、用意はささっと終わらせて千切りに移行した。
が、肝心の包丁の扱いが少し覚束ない。
決してみじん切りが出来ない程酷いと言うわけではないのだが、どうにも元の世界より体の動きが鈍くてイメージした通りに手先が動いてくれなかった。
何か心当たりは無いかと思えば、1年前からアイツが始めていたパルクールと、部活以外に追加で行っていた下半身以外の筋力トレーニングを此方の私はしていないらしい。
道理で腕が1回り細いと思った。
いや、陸上選手としてのボディメイクなら間違いなくこっちが正解なんだ。必要最低限体のブレを抑えられるだけの筋肉があれば良いんだから、元の世界の私より足は早いだろう。
しかし、奴らとの接敵で少なからず鍛えられる筈。なのにそれの痕跡すら感じられないのは一体何故なのか?
そう思い至り記憶に再び探りを入れると、原因が見えてきた。
ゆきとめぐねえが荒事を極力回避するスタンスで行動をしていたからだ。
非常に現実的な思考、本来なら何らデメリットのない作戦だが今の私にとっては微妙なカード。筋力不足が懸念となる。
神経の発達だけなら数週間あれば可能だが、どうしてもスタミナの絶対値は犠牲にせざるを得ない。元の心肺機能が十分にある方でも、こればかりは。
...あまり無茶は出来ないのかも。
しかしまあ何と、ただ手伝いをしていただけで推測しうる問題点を発見。早く気付けたのは幸いだ。
ただ、尚更無傷で生き延びるのが難しくなったのを知っただけのような気もする。
一朝一夕で埋められる差でない以上、受け入れた上での対策が必要になってくるのだろう。
と、思考に一段落ついた所で千切りが終わった。
りーさんに尋ねた所これは炒飯に使うのだとか。
人参なんて夢中で切っていった結果ひき肉のような有り様なんだが大丈夫だろうか。
廊下から聞き覚えのある音が響いてくる。靴の底とタイルが触れる度に発生するものと、中空での呼吸音。
これは、ゆきが起きてきたのだろう。
時計を見ると今の時刻は7時25分、着替えをして布団を片付けてきたのなら妥当な時間だ。
炒飯はもう完成し、出来たてほかほかの状態でテーブルの上に並べられている。
りーさんはとても手際が良い、経験の差だな。
「おはよー」
「おはよ」
「おはよう、ご飯出来てるわよ」
「は~い...」
ゆきは目元を擦りながらあくびをしていて、返事も砕けたもの。
「なんか眠そうだな、何かあったか」
「夢を見たんだ」
「夢?」
「うん、みんながいなくなっちゃう夢。それで1回起きたの」
「それでか、植物みたいだな」
「なんで植物?」
「ほら、暗期の途中で光を浴びると中断されるって。生物基礎で習ったろ」
「う、ぜんぜん覚えてないよ」
こんなシチュエーションは...めぐねえと補習の事をちらつかせれば自然か。
「ふ、めぐねえに補習を頼んだ方が良いかもな」
不敵な笑みを浮かべてやるとゆきは慌てたような表情になった。そんなに補習が嫌らしい。
「くるみちゃんひどい~」
「学生の本分を疎かにしてるからだろ」
うりうりと額を指でつつくとゆきは苦い顔をする。
「ゆきちゃん、胡桃?もう全員集まってるわよ?」
りーさんの呼びかけで指を離して、テーブルの方に視線を向ける。そこには既に3人が座っていた。
「...先輩たちはいつも楽しそうですね」
なんとも表現しづらい視線を向けてくる美紀とめぐねえ。
「あれ、いつの間に来てたんだ?」
「植物のくだりの時です。ほら、早く食べちゃいましょう」
「そこか、まるで気付かなかった」
返事を返しながら空いてる席に座ると、めぐねえの席に炒飯が置かれていない事に気付く。
「あれ、めぐねえはいいのか?」
「いつも少し早く食べてるじゃない」
「...そうだったな、うん」
「だから気にしないでね、恵比寿沢さん」
「わ、分かりました」
「ほら、ゆきちゃんも座って」
「はーい」
「もう良い?」
「ええ」
「よし、いただきまーす!」
「「いただきます」」
「わ、炒飯だ!いただきまーす」
匙で炒飯の山を切り崩し、掬い上げて口に含む。
コンソメの香りに胡椒と七味の辛みがマッチしていて美味い。
りーさんが後から加えたであろうグリンピースとベーコンもいいアクセントになっていて、舌触りを賑やかなものにしている。
匙の休まる暇はないとばかりに黙々と山を切り崩していくと、炒飯はあっという間になくなってしまった。
「おいしかったー、おかわりない?」
「...くるみちゃん太るよー」
「いいんだよ、動いてるんだから」
「それに――」
―――?
次の言葉が浮かばない。朧気な輪郭を捉える事は出来るが、その本質を表すべき単語が見つからない。
まるで一瞬思考が途切れたような違和感。繫がりかけたモノが消散するような。
「それに?」
「――いや、なんでもない」
「えー、気になるなー」
「...」
「くるみちゃん?」
「...悪い、少しぼーっとして。夢の話だったか」
「ううん、太る心配しない理由」
「ああ、それは朝食べた物は日中に使われるからだ。使い切れば脂肪にはならないだろ?」
「ふむふむ」
「逆に夜は脂肪になりやすいけどな。要するに、朝はバランスさえ整っていれば多少食べ過ぎても大丈夫ってわけ」
「なるほど…そうだったんだ」
「ほら、そうこうしてるうちに…」
一通り話し終えると、学校のチャイムが鳴る。
ゆきを教室に促すべきかとも思ったが、あれは幻覚に合わせた行動だった筈、此方ではする必要もないだろうと口を閉ざす。
「本当だ、急がなきゃ!」
そう告げてゆきは部室から立ち去ってしまった。
「…どうなってるんだ?」
後を追いかけてみると、教室ではゆきとりーさんと美紀が勉強をしていて。時折めぐねえが分からない所を教えているように見えた。
「先輩、もう見回り終わったんですか?」
たまたま目の合った美紀が不思議そうに尋ねて来る。
無論その答えはNOで、朝の見回りの事も言われて思い出す。
「ちょっと寄っただけ、今から行ってくる」
我ながら苦しい方便だけど、通すしかない。
引き戸を閉じてバリケードへ歩みを進めると、めぐねえの声が聞こえてくる。
…恵比寿沢さん、無理してないかしら。と
鋭くなった聴覚、捉えられる限界の距離で微かに響いた言の葉。
それに背中押され、私の足は階下へと向かっていた。