胡桃ちゃんはおかしかった 作:生タマゴ
「本当にそれで良いんでしょうか」
「良いんだよ、そんなものでさ」
「...先輩は無責任すぎます」
鼻から息を逃すような、ちょっと上品な笑い方。
微かに上がった口角。
「これでも頭を捻ったんだけど」
「素でそんな事言ってるなら尚更ですよ」
「まあな」
緩んだ頬を指で掻き空を仰ぎ見ると、雲一つない晴天が果てなく続いていて。
なんだか場違いに平穏な空気を感じた。
「なあ」
美紀の鼓動が緩やかになったのを見計らい、話しかける。
「何ですか」
「元気出たか」
「…バレてたんですね」
「当たり前だろ、今にも死にそうな音してた」
「音?」
「あ、いや、なんていうか雰囲気が落ち込んでたからさ」
「先輩も言いかけは無しですよ、教えてください」
「耳が良いだけだって、ほら、火も収まったみたいだし地下に行こうぜ」
追及を逃れる為にベンチから立ち上がって、美紀の肩をポンポンと叩く。
「釈然としませんが…分かりました、行きましょう」
一瞬不満げに眉を歪めた後に美紀は立ち上がり、玄関へと向かい始めた。
私は握られた手を引かれるままに後を追って、校舎内へ。
一階のシャッターを通って地下通路を進み、地下二階にある資材倉庫の扉が開かれると、そこには三人が無傷の姿で居た。
「胡桃、美紀さん、無事だったのね…」
「間一髪な、命拾いした」
「あれ?くるみちゃん、何か肩が変だよ」
「これか?大丈夫だって。ちょっとぶつけただけだ」
「どう見ても大丈夫じゃないわ、ちょっとこっちに来て。薬箱あるから」
りーさんに付いて地下一階へ進んで行くと、そこには扉があった。
確かここは首吊り死体があった部屋の筈だが、中を見てみれば綺麗に掃除されている様子。
簡素な鉄の事務机と刑務所みたいなパイプベッドが一つ、照明は白熱球がやや赤み掛かった光を放つのみというシンプルさ。扉は厚く、地下なので当然だが窓もない、少し閉鎖的に感じる部屋だ。
私はベッドに、りーさんは机の前の椅子をベッドの近くに持ってきて腰かけた。
そしてベッドの下から薬箱を取り出して中身を眺めている。
「あれ、掃除したのか」
「あれって?」
りーさんの視線が私に向けられるが、何処か要領の得ない話をされているようだった。
初めて来たときはここに死体があった筈だけど。
「ここにあった死体の事だよ」
「そんなの初めて聞いたわ、美紀さんが夜番の内に片付けていたんじゃない?」
「うーん、一言も言わないのはちょっと不自然じゃないか?」
「でも私と胡桃が知らないんだったら後は美紀さんしか居ないわ。ゆきちゃんとめぐねえは基本三階より上にしかいないもの。それに、胡桃だってわざわざ倒した彼らの事を話したりはしないじゃない」
「それもそうなんだけど、なんかモヤモヤする」
「...取り敢えず手当をするから、早く左肩を見せて。どうなってるのか確認したいの」
「分かった。ええと、こんな感じ?」
上制服を脱ぎ、肩をりーさんに見せる。
「ちょっと体を右に向けて」
「これ、二人とも立ってやった方がよくないか?」
「多分内出血を起こしてるから、血流を早めないようにしているのよ」
なるほど確かに左肩から先は全体的に毒々しい赤紫色だ。
靴を脱いで胡坐をかき、言われたとおりに右を向く。
「ちょっと触るわ」
「お手柔らかに頼む、何もしてなくても痛い」
「大丈夫、素人の押痛テストが危険なのは分かっているから。少し触るだけ」
そっとりーさんの掌が肩に触れる。
触られている感覚が斑に途切れていて擽ったかった。
「今ので痛みが強くなった場所はある?」
「全体的にくすぐったかっただけかな、もう少し強く推しても良いぞ」
「左手に痺れとかは?」
「ある。正直動かせる気がしないくらいには」
「大体わかったわ。骨はたぶん折れてないと思うけど、前方脱臼と急性挫傷かしら。神経が血で圧迫されて麻痺しているみたい。それが収まるまでは無理に嵌められないわ、しばらく絶対安静ね」
そう言いながら細かい擦り傷に消毒液を吹きかけて軟膏を塗るりーさん。
こっちでは一度もされたことが無いのに、とても丁寧な処置だった。
傷当てを貼りつけて、包帯を巻きつける。最後に三角巾で腕を吊り、皆の所に移動した。
「恵比寿沢さんの怪我はどうだったの?」
めぐねえが真っ先にりーさんへ問いかけた。
その返答として先程の私への説明を皆にする。
「だから当番は当分の間みんなで...」
「いや、今まで通りに私がやるから大丈夫だって」
「くるみちゃん、無理しちゃダメだよ?」
「私たち四人で分担すれば大した負担じゃありません。先輩はそれを治すのに専念してください」
良いですよねと美紀が聞くと、すぐに全員が首を縦に振る。
「…本当に良いのか、治ったって元通りに動かせないかもしれないのに」
ここまで重症化していればほぼ確実に何らかの後遺症が残る。きっと今ほどでないにせよ、足手まといになってしまう。
「それでも、後悔しないのか」
「するわけないよ。むしろそうならない為にも、今はしっかり休んで欲しいって思ってる」
鎧袖一触。私の弱気をゆきはバッサリと切り捨ててしまった。
こいつはこういう所が結構良い奴だというのは知っていたが、不意に目頭が熱くなる。
「…悪い、ちょっと立ち眩みがしてきた」
「さっきの部屋のベッドに行くの?」
「ああ、そうする」
「一人で大丈夫?」
「すぐそこだし平気だって。ありがとな、ゆき」
顔を背けて部屋を出た。
私の顔を何故だか今は見られたくない。
扉を閉めると、三人の会話が聞こえて来る。
殆どは他愛のない話だったけれど、進路の下りで移り住む…進学先の大学名が出てきた時。そこはあのマニュアルに記されていた場所、聖イシドロス大学だった。
「下見、行きたいんだけどな」
皆が移住を決めたのも無理はない。
だって、もうこの学校にいるメリットがなくなってしまった。設備の大半が破損し、話を聞くとマニュアルや重要な資料も恐らく燃えているだろうとの事。
ならば先生もいるし、少しでも速く移動して今まで通りの生活環境を整える為に学校と同等かそれ以上の設備のある大学へ行くのは当たり前だろう。
けれど、そんなのどうでも良いくらいに大きな問題がある。
走る奴らの存在。
この数週間の内に何度か出会ったが、かなり手強かった。力と速さで勝っていても数の不利で押し切られそうになる。
ただでさえ私は弱体化しているというのに、敵は強化されていて。正直私無しで持ちこたえていたのが不思議な窮地だった。
奴らは強い、前みたいに捨て身をしてもたった一人じゃどうしようもないくらいに。
前の世界では一階までを…捨て身でこそあったが制圧出来た。一人で。しかし此方ではそれすら叶わず、一階だけはどうしても無理で、結局ヘリの爆発で大半が焼け死んでいたと言っていい。
この学校ですらこんな状況だ、さらに多くの人が生前集まっていたであろう大学に行けばきっと今以上に多くの危険な橋を渡らなくてはならなくなる。
一応私が回復するまでは学校に留まるようだが、
地下の備蓄食糧も一割を切っているから、一人少なくなった状態でより多くの回数『遠足』をする必要がある。その上もうガソリンもそれほど多くは残っていない。車が使えなくなったら『遠足』も『進学』もより困難になるだろう。
正直な所、私としては行くも地獄留まるも地獄だ。
大学は危険過ぎるが、学校に居ても物質確保の為にりーさん達がリスクを負う必要があって。それも長くは続かない。
「...一人で行っても死ぬだけか」
既に声は聞こえない。地下二階の扉を開き、寂しい部屋でベッドに横になる。鍵なんて持っていないけど、不思議なことに扉が閉まった時は少し安心した。
「寝よう」
結局まともな睡眠は出来ていなかった事を思い出すと眠気を感じ始める。単純なものだと思うが、興奮状態だったのだろう。
無意識に上がっていた鼓動がやけにゆっくりと聞こえて、私は瞳を閉じた。