大きく背伸びをした空を、澄んだ風が突き抜ける。
豊かな色彩は揺られ、秋の音を奏でていた。
こんなにもいい日なのに、心が穏やかでないのは何故だろう。
そう、これはすべて、奴のせいなのだ。
奴さえいなければ……。
しかし、今さらどうしようもない。
私は、私の為すべきことを、為す。
残酷な、この世界で……。
*
「飛竜?」レオンは、動かしていた手を止めてリザを見た。彼はちょうど、ユクモ農場で大剣の手入れをしているところだった。
「えぇ、村人が話していたのを小耳に挟んだの。飛竜が飛んでいるのを見たってね」
「そりゃあ、飛竜なんだから、飛ぶに決まってるだろ」
「でも、この地域では珍しいって。それに、かなり低空飛行していたみたいなのよ」
「それじゃ、そいつは……」
レオンが言いかけたとき、側にいたソラが口を開いた。
「飛竜って、すごく強力なモンスターなんですよね?」
「そう。生態系でも上位に位置する種族ね」
「そんなのが渓流に居座ってるとしたら、村は軽くパニックになるな……」
「この村は周囲を岩壁に囲まれているし、そう簡単に襲撃されるような場所ではないでしょうけど、その飛竜に襲われる危険性があるのなら、村人も簡単には渓流へ足を運べないでしょうね」
「ギルドの方も調査に動き出すよな」
「もちろん、そうでしょうね。飛竜なんてめったに現れるものじゃないし。それにしても、どんな飛竜かしら……」
「あ、そうそう。古い本によれば、昔、渓流には飛竜の……ナルなんとか……が来たことはあるらしいです」
「
「あ、そうそう、それです!」
「でも、ナルガクルガって翼が小さいから、飛ぶのはあまり得意じゃないんじゃなかったっけ」
「そうね。だとすれば、飛ぶことは少ないから、飛んでいるのを目撃される可能性は極めて低いと言えるわ」
「じゃあ、ほかの飛竜ってことになるんですね」
「
「レオン、代表的なモンスターを忘れているわ」リザは片目を細めた。「もしかして、意図的に言わなかったの?」
「あぁ」レオンは少し目を開く。「リオレイアとリオレウスも、だったな」
「レオンの防具も、そうだよね」とソラ。
「あぁ、レウス装備だ」
「私のも、ね」とリザは付け加えた。
「でも、よくよく考えてみたら、レウス装備のレオンも、リオレウス……を狩れるほどの実力があるってことだよね。なんか、改めて尊敬できるかも」
「うーん……一人で狩ったわけじゃないし、そこまでの実力があるとは思えないけどな」
「でも、立ち向かっていく勇気があるだけでもスゴいなぁ……」
「リオレウス……か。懐かしいな……」そう呟くレオンの表情は、少し悲しそうに見えた。
「初めて狩った飛竜」リザが言う。「いろいろあったわね」
「あぁ……」レオンはふぅ、と小さく息を吐いた。「いろいろ、あったよ……」
「どうしたの……?」ソラは心配になって訊く。レオンの思い詰めたような表情を見るのは初めてだからだ。
「いや……、うん。何でもないんだ」
「……もしかして、胸の傷と何か関係が?」
ソラの言葉に、レオンは黙り込む。彼は、じっと地面を見つめたまま瞳を動かさなかった。
「あ……ご、ごめん……なさい」
「謝ることなんてないわ」俯くソラの肩を、リザが叩いた。「たぶん、いろいろと考えてるんでしょう。昔から、だんまりすることはよくあるから」
「……そう、ですか……」
「そんな顔しないで。笑っていなくちゃ、いいことが逃げちゃう」
「そうだぞ、ソラ」レオンは顔を上げた。その表情は、さっきまでの重いものではなくなっていた。「すまない、さっきまでいろいろと考えてたんだ。その飛竜のことについて」
「正体がわかったの?」
「いや、推測してみた。まず、村人が目撃したのは飛竜でなかった可能性がある」
「飛竜じゃない?」
「うん。村人は飛竜を見たことがないかもしれないから、大きな鳥を飛竜だと勘違いしたっていう可能性がある。で、目撃したのが飛竜であるとするならば、考えられるのは……そう、リオレウスかリオレイアだ。もしくは、その両方が渓流にいる」
「レウス、レイアね……」リザは腕を組んで頷く。「相手としては申し分ないけれど、あまり闘いたいと思えるような相手じゃないわ」
「だから、見間違いであってほしい……っていうのが正直なところ。現に、この村に来る観光客だって次第に増えてるし、騒ぎなんか起こってほしくないだろう」
「そうだね……」そう呟くソラは前髪を
「でも……」
「でも?」
「……いや、何でもない」
上手く事が運ぶことはほとんどない、とレオンは言おうとしたが、口に出すと、本当にそうなってしまいそうな気がしたので、言葉を呑み込んだ。
「とりあえず……今日はゆっくりしよう。たまには休養も必要さ」
*
「奴」のことを考えるときがある。
普段は姿など滅多に見せないのに……、何故今になって現れるのだ。
しかし、ここに近づいてきている気配は感じ取れない。ひとまず、安心だ。
だが、その安心も長くは続かないとこは分かりきっている。
さらなる厄災が、私を襲うだろう。
逃れられるかどうかは、予測できない。
それは、確実に、私に迫ってくる。
そのとき、私は行動を起こせるだろうか……?
いや、きっと起こす。
そういう風に、できているのだから……。
*
不安そうな表情で空を見つめているのは、ここユクモ村の村長だった。彼女は腰掛けに座り、澄んだ空を見上げているのだ。
妙な胸騒ぎがするのは、初めてではなかった。
それを感じ取ったのは数ヶ月まえからだ。
最初はとくに気にも留めなかった。しかし、それは日を跨ぐにつれて大きくなるような気がしていた。
これは、竜人族であるが故の予感なのかもしれない。何かが、この村に起ころうとしている。
不安。それだけが、彼女の精神に絡み付いていた。
しかし、村長という立場である以上、村人に不安を伝染させてはならない。
内部では激しく動乱しながらも、表面上は冷静を装う必要がある。
これは、使命。
守るべきものは、目の前にある。
*
「何でしょうか、村長」
「あなたたちにお話がありますの」
ゆっくりと瞬きをして、村長はソラ、レオン、リザを順々に見つめる。
「これは、あなたたちにしか話さないことです」
わたしたちにしか話さない――ということは、それは重要な案件であり、他言は無用だ、ということなんだろう。ソラは、瞬時にそれを理解できた。
「実は、渓流にとある飛竜が出現しましたの」
それは、予想していた話だった。問題は、その正体は何なのか、ということである。
「その飛竜は……、リオレイア」
「やっぱり、か」
レオンの呟きに、村長の目が開かれる。
「ご存知でしたの?」
「いえ、村人の目撃情報を元に推測しただけです。たぶん、リオレイアかリオレウスだろう、って」
「そうですか……。それで、渓流とその近辺を、リオレイアが移動したり、飛んだりしているのをギルドの方で確認致しましたの」
「つまり、わたしたちに狩ってほしいということですね?」ソラは自信に満ちた口調で言った。
「いえ、これは、ユクモ村専属ハンターの娘さんという立場を考えて、このお話をさせていただいているだけです」
「えっ!?」ソラの眉がつり上がる。「い……、依頼じゃないんですか?」
「えぇ。これは、あなたにとっては危険すぎますわ。この通達には、あなたを危険に遭わせないためという目的もあります。依頼は、別のハンターか、あるいはレオンさんとリザさん姉弟にお願いすることになるでしょう……」
「確かに、リオレイアは上級飛竜。命だって落としかねない……」レオンが言う。「まして、ソラはまだまだ未熟だ」
「そんな……! レオン、わたしと一緒にたくさん狩りをしてきたじゃない! 忘れちゃったの?」
「……それでも、飛竜を倒したことはないだろ?」
「そりゃ……そうだけど!」
「だったらやめとけ。正直なところ、オレも狩りに行きたいとは思わない。無茶は禁物だ」
「……わ、わたしが、そんなことで簡単に引き下がると思ってるの? わたし、けっこう成長したなぁ、って自分でも思ってるよ?」
「あぁ、確かに成長はしてるさ。でも、オレの胸の傷を見ても、飛竜を狩りに行きたいって思うのか?」
「それは……」ソラは
「言っただろ? 生きて帰ることが、狩りにおける最優先事項だって」
「それは聞いたよ! でも……」
「でも……? 未熟なまま、のこのこ出て行って死にたいのか?」
「そんなこと、誰も言ってないじゃん! それに、わたしは大丈夫だから!」
「いや、止めた方がいい。死んでからじゃ後悔も何もできないんだぞ!?」
「なんで……!」ソラは歯を
「……駄目だ」
「わたしだって……力になりたいの!」
「ダメだ!」
「わたしの言うこと聞いてよ!」
ソラが叫んだ瞬間、掌が左頬を捉える。
乾いた音と、熱い衝撃。
「……っ」
レオンは、左頬に痛みを感じていた。リザがビンタを食らわせたのだ。
「レオン、あなたは……彼女から、守るべきものを守ろうとする強い意志を感じないの?」睨み付けるリザの眼光は、万物を切り裂いてしまうような鋭さを持っていた。「彼女の目を見た? 真っ直ぐにあなたを見つめていたわ……。それに気付けなかったのかしら?」
「……」レオンは左頬を指で撫でる。
「あなたの狭い了見だけで、物事を判断しないことね」
「……何かを掴み取ろうとすれば、目の前に立ち塞がる壁に立ち向かっていかなきゃいけないってことは解ったよ。それは、モンスターに対しての恐怖かもしれないし、死への恐怖かもしれない。でも……」ソラは、ぎゅっと拳に力を入れる。「自分は何もできないんじゃないか。何もできず、何の成果も得られないままにすべてが終わっていくんじゃないかっていう恐怖に、わたしは……立ち向かっていきたい」
「…………」レオンはただ口を
「村長……」ソラは向き直る。「いいですよね?」
「……えぇ。あなたの強い思い、受け取りましたわ」村長は目を閉じ、ゆっくりと頷いた。「では、正式に、リオレイア討伐令を下します。可能なら、捕獲でも構いません。でも、くれぐれも怪我はなさいませんよう……。こちらも万全を尽くしますが、危なくなったらすぐに引き返すなど、対処してください」
「はいっ」
「出発するときは、一声かけてくださいね」
「はい、了解しました!」
威勢のいい声を上げると、ソラは身を翻して歩きだす。レオンとリザは一礼すると、彼女の背中を追った。
集会浴場を出て石段を下る途中、レオンが
「ごめん……」重い声だった。「さっきは、言い過ぎたよ」
「ううん、気にしてないよ」ソラはレオンの顔を見る。彼の顔もまた、重々しいものだった。「だって、わたしの身を案じて言ってくれてたんでしょ? だったら、何も文句はないよ」
「……あぁ。でも、ソラの気持ちに気付いてやれなくて、すまなかった」
「終わったことにグチグチ言ったって仕方ないよ。ほら、次のことを考えよ?」
「……レオンも、何を弱腰になってるのよ?」リザは腕を組んで言う。
「そうだよ。なんだか、らしくないよ?」
「……怖がってる自分がいるんだ」レオンは一度目を瞑ると、長めの吐息をつく。「何が怖いのか、自分でもよく分からない。……だからかな」
「嫌な予感がするの?」
「それとは違う……はず」
「レオンに分からないんだったら、私たちにも分かるはずがないわ。そうでしょ? なら、この話はおしまい」
リザの言葉に、レオンの目付きが変わる。
「あぁ。今考えるべきは、レイアのことだ。相手は飛竜……準備は、今まで以上に入念にしておかないと」
「心の準備も、ね」リザは胸に手を置いた。
「何か、特別に必要なものはあるの?」ソラが訊く。
「リオレイアの尾には毒があるから、解毒剤が要る。解毒薬、あるいは漢方薬が効果的だ」そこまで言うと、レオンは鼻を鳴らした。「でも……、尾に当たりさえしなければ問題ないけどな」
「毒……」
「あぁ。全身に回れば、死に至る可能性もある毒だ。でも、ソラは弓だし、毒を浴びることはほぼ無いかな」
「そ、そっか」
「でも、厄介なものが一つ」レオンは人差し指の先を空に向けた。
「厄介なもの……?」
「火球ブレス、だ」
「火球……?」
「リオレイアは、別名を
「え、えぇぇ……」ソラの顔が引き
「おいおい……あれだけの
「レオンが必要以上に脅し過ぎなのよ」リザは肩を竦めた。「大丈夫。いざとなったらレオンを盾に使えばいいわ」
「うん……、大剣の刀身で防げないこともないだろうけど……」
「大丈夫だよ。わたし一人で、なんとかしてみせるから!」
「あらぁ……頼もしいわね」リザは意味ありげに、レオンの肩を叩いた。「それにひきかえレオンときたら……」と言いたいのだろう。
「あぁ……確かに、すごく頼もしくなった気がする」
へっへーん、とソラは胸を張った。「リザさんに弓の技術をたくさん教えてもらったし! わたしは大丈夫! レオンは自分のことに気をつけていればいいよ!」
レオンは、目を閉じて深く息を吐いた。「……そうだな。そうする」
「なんだか、しんみりしちゃったわね……」
「うん……、とりあえず、準備しよう。必要なものは家で揃えるとして、あとはユクモ農場で躰を動かしておく。これでいいかな?」
「ねぇ、ナナちゃんとタイガはどうするの?」ソラが訊く。「一緒に行くの?」
「あぁ。オトモだしな……、もちろん、狩りには一緒にいくよ」
「それでレオン、決行はいつ?」今度はリザが訊いた。
レオンは天を仰ぐ。茜は、群青に侵されつつあった。何かを暗示しているような、そんな色合いが
一日は、夜に移りつつあった。
そして彼は、答える。
「決行は……、明日の昼だ」
*
今日も、夜が更けていく。
大地は眠りにつき、小さな寝息が、静寂に響く。
暗い闇は、何もかもを呑み込んでいる……。
そこに、一つの光が射し込んだ。
一部を失くした月の灯りが、暗闇を灯す。
あの月が満ちる頃、私はどうしているだろうか……。