――『散満惨然産残譚』より
『――イロンデル』
声が聞こえた。
「―イロンデル」
彼が呼んでいる。
「さあ、起きて」
誘われるように目を開けると、イロンデルが地球にいた頃の部屋だった。なるほど、これは夢だ。だがいつもの夢とは違う。ぼやけた様な記憶ではなく、はっきりと、自分が立っているという自覚がある。
追体験とは違う。この場にいるという意識。
初めての経験に混乱していると、後ろでドアの開く気配がした。
「まだ寝ているのかい、イロンデル?」
入ってきたのは…シュエット。彼がいるという事は少なくとも8年以上前の記憶か。その背格好は最後に見た時と比べてまだ幼い。少年のようだ。
「兄様、おはようございます」
答えたのは自分ではない。ベッドから起き上がった小さな影。
小さな彼女。
記憶の中のイロンデル。
少女と揶揄される自分よりも数段小さい、幼女の頃の彼女。薄蒼いネグリジェを着た彼女が身を起こし、シュエットの方に近づく。
「…また本を読んでいたのかい?夜更かしは感心しないな」
「ごめんなさい。どうしても読むのがやめられませんでした」
「はぁ…。まあいいけど。早く着替えるんだ。今日は僕にとって大事な日なんだから」
淡々と用事だけを言い、少年は出て行った。随分と冷たい。
そうか。この頃はこんな関係だった。
「…やってられない。…ってこういう時に言うんだっけ?わかんないや」
だが幼女は気にする気配はない。当然だ。慣れているのだから。そして何より、彼の心が自分を受け入れていることを理解している。
幼女が着替えているのを直視するのは、いくらなんでも気まずい。現状を確かめるため、自分がいる部屋を見回す。記憶の中にあるままの部屋。
わかったのは物を動かせないということ。どれだけ力を込めても、まるで手応えがない。扉も動かないので、部屋から出る事ができない。あくまでも記憶を見ているだけということか。
そして気になったのは壁一面にならんだ本棚と、そこにびっしりと詰められた本だった。何冊かのタイトルが読めなくなっている。記憶の中という事は曖昧なものが霞んでいるのか。逆に読めるものははっきりと読める。
――『くだらないジャッジメンター』
――『そこのけそこのけ私が通る』
――『冬の麦わら帽子』
――『画家の30日と小説家の300日』
『ネクサス』の中にも入っている、イロンデルのお気に入りの蔵書。今でも時々読み返している。
ふと、1番好きな本が見つからない事に気がついた。だがそれは、幼女の枕元にあった。ページが開かれ、栞が挟まれていないことを見ると、読みながら寝落ちでもしたのだろう。
――『
病床の少女チルウと元冒険家の中年ミツルが、夢の世界で繰り広げる冒険譚。外の世界を知らない故に夢の世界を創り出した少女と、外の世界を知ってなおも知らない事に挑戦する中年。その関係性と世界観は、ハマる人にはハマる一種のマニアックノベルと評価された。
売り上げは振るわず、数年で絶版となってしまったが。ここにあるのは、その初版。C.E.71において、現存するのはほんの数冊程度だろう。
隙間の空いた窓から風が入り込み、パラパラとページをめくる。どうやら文章も、記憶に残っていないとボヤけるようだ。この小説は詩的な言い回しや回りくどい言葉が多く、辞書並みの厚さを持つ。しかし他の作家が書いたら文庫本サイズになる。という、ジョークがあるほどだ。
『洞窟に入ると、そこには青い空が広がっていた』
不条理な夢の世界を表した、イロンデルの好きな一文だ。チルウは物心ついた頃から病床にあり、外に出た事が無かった。現実では窓から見えるだけの小さな空が、夢の世界では目の前に広がっている。そんな夢が叶う、夢の世界。イロンデルは彼女に自分を重ねていたのかもしれない。
そして物語の中で、夢の世界の非現実的な状況に直面するとミツルは決まってこう言った。
『やってられんな』
自分の常識が通用しない世界で、それでもチルウを導いていく道先案内人としてのキャラクターがイロンデルは好きだった。
そうこうしていると着替えが終わり、幼女が出て行く。閉じ込められてはたまらないと、自分も素早く扉を通った。
その時一瞬視界に霧がかかったかと思うと、今度は大きな部屋に立っていた。
部屋の中には自分を除いて4人。幼女のイロンデルと、その父と母。そしてシュエット。
「わかっているな、シュエット」
「はい。お父様」
「お前はこのテストをクリアしなければならない。それも完璧に。そのために高い金を払ってお前を作ったのだ」
「…わかっています」
なるほど。どうやら自分は記憶を辿っているようだ。原因はわからない。おそらくは『ユニウスセブン』に接近した事で彼らの思念を感じ、それに自分の『病気』が感化されたのだろう。つくづく忌々しい。
この記憶は十数年、地球でのことだ。彼らの家系には代々、『予知能力』や『読心術』ができるという超能力者が誕生していた。その力を持って権力を増し、貴族として栄えたという。
しかしそれも今は昔。長い間能力者は生まれず、家は落ちぶれた。当主であるコルボは再興の秘策として、コーディネイターに手を出した。
「お前には能力がある。…そう思わせるだけの才能を、お前に注ぎ込んだ」
コルボが示すのは、テーブルの上に並んだ5つの短銃。形は様々で大きさも違う。
これから行うテスト。この5つの中から、実弾の入っていない物を選ぶ。どれに入っているかを知っているのは出題者である当主のみ。被験者はその心を読み、正解を当てる。通常は能力の
シュエットに能力は無い。込められた弾による微妙な重心のズレを感じ、そしてコルボの表情から見分ける事が求められる。
「…まず、コレです」
「なるほど」
コルボはシュエットが選んだ短銃を手に取って、彼の眉間に狙いを定める。引鉄を引くと、カチリと軽い音がするだけだった。
「次だ」
もし実弾が入った物を選べば被験者は死ぬ。能力を持たない者は必要ない。
流石はコーディネイターといったところか、彼は次々と弾のない物を選んだ。しかし最後に2個が残ったところで、彼に迷いが出た。何度も持ち上げ、コルボの表情を確かめる。しかしその顔は鉄面皮のように動かない。
実弾の入った銃の数は、コルボしかしらない。この2個は、両方に入っているか、片方だけか、或いはどちらにも入っていないか。
「……これを…」
「……」
ようやく選んだ1つを、彼はコルボに渡す。
受け取った銃をシュエットに向ける。
その間に過去のイロンデルが割り込んだ。
この瞬間に、彼女の運命は変わった。
「何のつもりだ」
「…ダメ。…痛いから」
「……」
「…痛いのは、ダメだから…」
目は見開き、焦点が定まっていない。その異常な様子にコルボは気がついた。
「兆し、か。…面白い」
開いた窓に狙いを変え、引鉄を引く。バンッ。と、重い音がして弾丸が放たれた。
「…我が娘に感謝する事だな、役立たず」
「お父様、僕は――!」
「迷った時点でお前に価値は無い。…いや、お前の危機に反応したのか?…なら価値はあるな。家名を剥奪し、使用人にする。…わかったら去れ」
すがるシュエットを無視し、コルボは過去のイロンデルに近づく。
「お前を正式に我が嫡子とする」
「私は…私の……私が、私を…」
何かに怯えたように震える彼女の肩を抱く。この時彼女は、初めて死の気配を感じ、その冷たさと静かさに混乱していた。
「…私の言う事を聞け。イロンデル…」
優しく囁き、彼女を懐柔する。
そしてこの後およそ10年に渡り、その能力を利用して彼は『怪物』と呼ばれる程に富を拡大していく事になる。
「……どうでもいい。こんな記憶なんて」
現在のイロンデルが吐き捨てる。今更こんな物を見たところで、彼らが生き返るわけでもない。彼らが死んでしまった事への負い目こそあるが、自分はその事を嘆いたりはしない。
そもそも、自分は彼らに愛されてなどいなかったのだから。
「…本当に?」
ふいに声をかけられた。自分しかいないはずの記憶の中で。驚いて声のした方を見ると、過去のイロンデルが佇んでいた。
「馬鹿な⁉︎」
記憶の中の彼女は、コルボと共にいる。では目の前の幼女は?…何が起きている?こんな事は…ありえない。記憶の中に別の同一人物がいるなどと。
「兄様が貴女をどう思っているのか…本当にわかっているのですか?」
謎の幼女は淡々と自分を問い詰める。
わかっているか、だと?ああ、わかっている。解ってしまう。
「…それが私の…『病気』なのだから」
「そうやって病気と呼んで拒絶しているのに?…思い込みたいのではないの?……彼を…
「黙れ!所詮は記憶の中の人形が‼︎」
憤怒と共にその細い首を手にかけようとするも、まるで手応えがなくすり抜ける。
「貴女はこうやって記憶を再生して、せめて愛された記憶を自分の物にしたいだけ」
「うるさい!死人が口を出すな‼︎」
黙らせようとしても、手が空を切る。何度も、何度も何度も。
「どんなに記憶に縋ったところで、
「私はお前とは違う‼︎」
「なら何故、こんな記憶を見るのですか?」
何なのだ、こいつは。今までこんなのが出てきた事はない。幻影か?
或いは…本当に
「『黙れ』『うるさい』…。そうやって拒絶してばかりでは、いつまでも貴女は貴女に成れないわ」
彼女が手をかざすと、自分の意識が遠退く。視界がぼやけ、体が引き戻される感覚。
「見つけなさい。…知りなさい。貴女の生き方を」
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イロンデルが目を覚ますと、そこは『アークエンジェル』の医務室だった。
周囲に誰もいない、静かな空間。だが彼女の胸はうるさいほどに鼓動を繰り返す。自分の存在を主張するように。