名前も知らない君が好き 作:塔野うと
腐れ大学生の朝は遅い。一説によれば大学生は赤ん坊の次によく寝るらしい。そんなこんなで朝はゆっくりと寝てしまう。人間は怠惰な生き物だということが私の持論だ。もちろん中には大学生活を有意義に過ごす者もいるだろう。
しかし、私はその一部になれなかった。漠然とした目標すらなく、ただ社会に直ぐに飛び出したくなくて逃避の場所として大学を選んだのだ。まったくもって大学へ進学する目的としては不純である。
大学生というものはレポートに追われるものだ。私のように幾つも単位を落としている者にとっては猶更である。真面目ではないが完全な不良学生でもない。そんな立ち位置に私はいた。大学を辞めてまでやりたいことも無ければ、大学で勉強したいことすらないのだ。
汚い安アパートの万年床からゆっくりと私は立ち上がり、コンビニを目指した。自炊能力の低い私にとって、コンビニは生命線であり、恋人と言っても過言ではないのだ。
部屋から出るとむわっとした熱気が私に襲い掛かった。お天道様はこんな時間に起きた私を咎めるかのようにギラギラと輝いている。暑い。私のようなモヤシにとっては太陽光線の洗礼は強烈すぎるのだ。
それに私の下宿は坂の多い地区に立っている。交通の便は悪く、大学には遠い。しかしその代償として安い家賃を誇っているのだ。直近で買い物が出来る場所はコンビニくらいしかなく、スーパーに至っては自転車で十数分は掛かる距離にある。陸の孤島といっていいだろう。
コンビニ、私の愛するその場所に行くのに、今日は何故か自転車という手段を選ばなかった。徒歩で行くに足る理由なんて存在していなかったのに。
暑い、暑いとぼやきながら、私は坂道を蝸牛のように進んでいた。私の内心は自転車を選ばなかった自分自身への罵倒でいっぱいだった。無精髭には汗が伝っていて非常に気持ちが悪い。
内心で自分自身に悪態を突くのは私にとっては日常茶飯事だった。だからといって周囲への注意を怠らず、内心で悪態を突くことに集中しすぎることが有り得るだろうか?いや有り得ない。
甲高いブレーキ音と、自転車のフレーム、そしてスカートとその奥の白い布地。私が覚えていたのはそれらの断片的な情報だけだった。
やたらと涼しいことで、私は違和感を感じた。下宿にはそもそも冷房なんてなく扇風機が現役で活動しているのだ。これは異常である。
これらの異常について我が鋭い頭脳で解を求めんと思った時に、頭にずきりとした痛みが走った。強制的に思考を停止させられた私はいたた……と婦女子の如き弱音を吐いた。
いや、待て、おかしい。私の声はそんなに繊細であっただろうか?イケボだと褒められたことは無いがそこそこにイケてる声だったという自負があったのだ。
「あっ、あっ、マイクテス、マイクテス……」
「隣の客はよく柿食う客だっ」
「…………」
「いや、ちょっと待て。私の声はこんなんじゃなかった。それに身体も!これじゃあ私が女みたいじゃないか!?」
そんな私の混乱を更に助長したのが看護師の対応だった。彼女は私が女性になっていることに全く触れずに私の容態に対して質問をし始めたのだ。
それによると、私はやはり自転車に轢かれたらしい。自転車主は轢かれた私が一向に目を覚まさないことで不安になり、救急車を呼んだそうだ。そして私は病院に運び込まれたらしい。
幸い異常はなく、すぐにでも退院できる様子であるが、何かあったらすぐに病院へ来て欲しいと言われた。何も異常がない。これはどうしたことだろうか。私は先刻までは確かに男だったはずなのだ。股間には息子も付いていた。
不憫なことに息子は未使用のまま消滅してしまったのだ。そうして、微妙ながら私の胸には膨らみがある。これはどういう神の思し召しなのだろうか?
不思議な気分のまま、私は病院から退院し、懐かしき下宿に戻ることにした。この現状が夢である可能性に気が付いたのだ。そうこれは明晰夢とか夢遊病とか幽体離脱とかいうものである。
それなら、オチは私が元の身体に戻り、目覚めておしまいというはずだ。だから、私は部屋に戻るべく下宿へと足を急がせたのだ。
時刻は夕刻になっていた。今日は何もしていないが疲れたのでそのまま寝てしまおう。いや、それ以前にここは夢の中である。そんなくだらないことを考えて私は下宿へと戻った。
そうして自室へ戻るべく、階段を上がった。
自室が無かった。そこだけが切り取られたかのようになくなっていた。私の部屋である304号室はなくなっていたのだ。そこにはただ壁があるだけだった。
「馬鹿な……こんなの……」
「夢だ、夢だ。夢なんだ。頼むから覚めてくれ!」
頬をつねっても痛いばかりで、一向に目が覚めることはない。なんどつねっても、目は覚めない。ただ頬が痛い。思い返せば、おかしかった。写りの悪い学生証の写真に写っていたのは男には見えない少女であったし、私のカルテの性別は女になっていたのだ。
「おかしいって。私は。誰なんだ!こんなのは絶対に私じゃない。出て来いよ。私をこんなにした奴出て来いよ!元にもどしてよぉ。かみさま……」
とめどなく涙がこぼれて止まらなくなった。私のことを誰も知らない。私が男だった事実が消えて、私が女になっていることだけが事実として成立している。
この世界でわたしを知っている人間はいなくなったのだ。すすり泣くだけでは何も変わらないというのに、どんどん涙があふれて、止まらない。
「おねがい。どまっでよぉ」
どんどん胸が苦しくなって、息が荒くなる。
「けふっ、えふっ、はっはっはっはっはっ」
過呼吸に陥る。世界が全て敵に変わったしまったようで、自分だけ空に、虚空に吸い込まれて別の世界に来てしまったように感じた。あるいはそれが正解なのかもしれない。
男だった自分こそが幻影だったのかもしれない。全ては私が見ていた夢だったのかもしれない。苦しくなっていく世界に私は終焉を見た。
「ねえ、大丈夫?」
「いや、大丈夫じゃないね。ごめんね私のせいなんだ」
私に話しかけたのは明るい髪色をした女だった。少女というには大人びすぎているけれども、まだ少女を脱してはいない。周囲に合わせているようでどこか浮いていてる女だった。
小さくなった私の背中を擦る手の温もりで、止めようとした私の涙は溢れ出した。過呼吸は収まり、世界の閉塞は散った。
私とて、いつまでも幼子のように泣いていてはいられない。しかし腰が抜けていた。そこを見かねた女に私は背負われた。背負われながら向かった先は女のアパートらしい。
さすがにそれは男としてどうなのだろうか。だから私は必死に彼女の背中から逃れようと暴れたが、全ては無駄に終わった。女性にしては異様に力が強いように思えたが、それは私が非力な少女のような身体になってしまったからかもしれない。
流石に背負われたままでは恥ずかしいと私が訴えても彼女はニヤニヤと顔を歪めるだけで何もしなかった。
「だって君、そんな事したら逃げちゃうんでしょ?」
図星だった。男子たるもの、初対面の女性の家に転がり込むような破廉恥な真似はしないものなのだ。それをこの女は分かっていないのだ。
「じゃあ、下ろしてもいいけど手を繋ごうか」
顔から火が出る思いだったが仕方が無い。背負われたままか、手を繋ぐだけというのは中々に酷な二者択一だが、私は論理的な思考でもって手を繋ぐことにした。
「温かいでしょ?手が温かい人は心が冷たいんだって」
非論理的だと私は返した。私を見つけてくれたことには素直に感謝しないでもなかったからだ。女はニヤニヤしている。私がデレたとか何やらとぬかしていた。
女の家に着いた。そこは私にとっては最後のチャンスだった。野生動物でも巣では気を抜くものである。野生動物でもそうなのだから、この女だって気を抜くに違いない。だから私は女の手を放して、走り去ろうとした。漫画喫茶で夜を明かすくらいは私にとって何ともないことなのだ。
しかし、女は非常だった。私の手を素早く掴むと、マンション内へと連れ込んだのだ。私は屠畜場に連れられて行く野生動物のような悲鳴を上げて、どなどなと女の部屋まで連れていかれた。
私にとって女性の部屋に入るなどは、これまでの人生ではなかったことだった。私は女性というものに嫌悪感を持っていたことは一度もなかったのに、何故か私は女性から嫌悪される事態が相次いだからだ。それゆえに私は女性というものに見切りを付けたのだ。
初めて、入った女性の部屋は、生活感の無いものだった。部屋には埃一つ落ちておらず、家具は必要最低限の者だけがぽつんと存在していた。
「がっかりした?初めての女の子の部屋がこんなもので」
私は答えに窮した。正直なことは美徳ではあるが、ここで正直に言ったら女の機嫌を損ねることは間違いないだろう。そんなことを考えオロオロする私を見て、女は微笑んだ。その笑顔にどこか影があったのは私の気のせいだろう。
「汗かいてたし、目腫れてるしお風呂入ってきちゃいなよ」
それは駄目だ。私には出来ない。必死に拒否する私に対して女は手をワキワキとさせた。なるほど。そちらがそのつもりなら私は撤退しよう。私が平和主義で助かったな。
私は意識していなかったため気が付かなかったが、私の服装は女性のものに変わっていた。脱衣所の鏡に映ったのは、ぼさぼさな黒髪に、泣き腫らして赤くなった目をしたどこか少女だった。線が細く折れそうな見た目をしていた。
私が目を瞬かせると、鏡の中の少女も目を瞬かせた。眉を吊り上げると、眉が吊り上がる。ぎこちなく笑うとぎこちなく笑う。
風呂に入るためには服を脱がなければならない。しゅるりという衣擦れの音が脱衣所に響く。現れたのは白い裸体だった。申し訳程度に添えられた、桜色の頂点と、一本の草すら生えぬ不毛の谷があった。
私は、私ではなくなっていた。私が私じゃないということは私以外にはどうでもいいことだろう。近しい誰かだって家族だって究極的には他人なのだから。
熱くしたシャワーを浴びた。
「あついぁ。痛いのはきっと熱いからなんだ」
シャワーから溢れた水滴に塩辛いものが混ざっていたとしても、それは熱かったせいであって悲しみのせいではないのだ。
シャンプーやリンスといった浴室用品も綺麗なものでこの部屋の人間の非実在性をこの上なく演出していた。それらを私は無造作に使っていく。わしゃわしゃと長い髪の毛を洗う。身体を洗い、泡を洗い落とすころには私の心は多少マシにはなっていた。
脱衣所には、洗剤の香りがする服が置かれていた。女の着るものだったのだろう。私にはすこし丈が長いように感じられた。下着に関してはボクサータイプのショーツとキャミソールだった。
風呂から上がると女は、私の髪をタオルでわしゃわしゃと撫でまわし始めた。どうやら私の髪の毛が濡れたままなことが気になるらしい。私を脱衣所へ連れて行って頭にドライヤーを当て始めた。
他人に髪の毛を任せることが気持ちがいいことであることを私は否定しない。さらに私が疲れていたことは事実だった。うつらうつらとし始めた私は、女に寄りかかっていた。
それが昨日の最後の記憶だった。目が覚めた私は、ここがいつもの万年床ではないことを悟り愕然とした。そして女が隣で寝ていたことに気が付き、思わず奇声を上げ惨めにベッドから転げ落ちた。
同衾してしまった。なにか大切なものを失った気分である。彼女は全く悪びれる様子も無くすやすやと寝ている。呑気な寝顔である。何かその顔を見ていたせいか私まで眠くなってしまった。
気が付いたら、私はまたベッドの中で寝ていた。隣には彼女の姿はなく私一人だけである。布団に染み付いた匂いが私のものとは全く違うことに衝撃を受けた。私は失われてしまったのだ。
「おはよう。良く寝ていたみたいね」
にこやかに挨拶をしてくる彼女に、私はぶっきらぼうにおはようと返した。朝は食パンとスープとサラダが用意されていた。本来朝は小食である私だが、考えたら昨日の昼から何も食べていないのだ。
目の前に並べれた朝食を私が食べていると、彼女は言った。
「私があなたを女の姿にしてしまったの。だけど一週間後にはあなたは元に戻るから安心してね」
私にはその言葉が信じられなかった。彼女は初対面の私を部屋に連れ込んだのだ。それに同衾までするようなふしだらさを持っている。更には異様に生活感のない部屋に住んでいる。端的に言って私はこの時彼女をヤバいやつだと考えていたのだ。
疑惑に満ちた目で、彼女を私は見つめていた。
「あなたは大丈夫だから。あなたは元に戻れるからね」
はっきり言って疑わしい。しかし、他に手立てが無いのは確かであるし、一宿一飯の恩義は有る。彼女の話を信じてみるだけ信じてみようと私は思った。
朝食の後の食器洗いくらいは私がしようと提案した私だったが、彼女にすげなく断られてしまった。彼女によると私は彼女の被害者であり、私に対しての償いとして家事などは全部やってくれるらしい。
さらには私が怠惰で片づけが下手であることが見抜かれているらしく、この部屋の中でダラダラしていていいという命令を出されてしまった。気分は駄目亭主である。
同衾してしまったからか、私は彼女から逃げようなんてことを頭の片隅に浮かべたが実行しようとは思わなかった。第一、私の過去の経歴は女体化したことで真っ白なものとなってしまったのだ。
役所に行って自己証明をしなければならないだろう。面倒である。私は面倒なことは先延ばしにするタイプなのだ。もし仮に一週間後に私が男に戻ったとしたら、二度手間が発生してしまう。
だから、私は部屋で大人しくゴロゴロすることにしたのである。昼には彼女が私に向けて作ったサンドウィッチをもさもさと食べ、彼女が私に使用許可を与えてくれたパソコンで動画を見たりしては一日を終えた。
夜には彼女が帰ってくる。それに備え簡単な夕食を私は用意していた。世話になりっぱなしでは私の立つ瀬がないのだ。
帰ってきた彼女は、私の作った簡単な料理を嬉しそうに食べていた。私のことを彼女は見直したらしく、家事の許可をくれた。働くことが出来るのは私にとって喜びである。
夕食後には食器を洗い、私は風呂に入りテレビを見ていた。テレビを見ている最中に彼女は風呂に入ったらしく、脱衣所からうっすらと聞こえる衣擦れの音に私はどぎまぎしていた。
ベッドは一つしかないから、私は彼女と同衾することになる。むずむずする思いでベッドに入ると、彼女が私めがけて飛び込んできた。ぐへっという蛙がつぶれたような声を私は出した。
彼女はニヘラと笑って、私を擽ってきた。擽りには弱いと自負のある私は、ごろごろと転がった。
「まって、おしっこでちゃうから。まってやめ」
このような女子の発するような台詞が私の口から出てしまったことは事実である。忌むべきことだ。私自身の名誉の為に漏らしてはいないことを告白する。少しちびったかもしれない……
そんな風に、私と彼女の日常は過ぎて行った。私は自分が思うより怠惰ではなかったらしく、この部屋でだらだらと生活することに飽きていた。六日目のことだった。
まるで呪文に罹ったかのように部屋から出なかったのが異常なのだ。この現状は異常だ。薄々私にはそれが分かっていた。だから外に出たということもあった。
軽そうな材質のドアは見かけによらずに思い音を立てて開いた。何かが砕ける音がした。私は誘われるように外に出た。その様子を見たものは誘蛾灯に誘われる蛾のようだと感じるであろう。
頭の中に靄がかかり、夢の中にいるみたいだった。昼間だというのに、外では一切の音がしなかった。
熱いはずの太陽には白く靄がかかっていた。クスクスと笑い声がした。
そこには穴があった。穴に入れば私は消滅するという確信があった。
だから、私は穴に入ろうとした。
「危ない!」
私の企ては間一髪のところで止められた。彼女だった。
「部屋から出ちゃったのかー。あちゃーこれでおしまいか」
「時間が来ちゃったみたい。じゃあね。仮初のものだったけど楽しかったから」
気が付いたら私は、彼女の部屋で一人ベッドで寝ていた。無機質な部屋が余計無機質に見えた。彼女がこの世界に存在していたという証を探すために部屋をかき回した。だけれども何も出てこなかった。
私はバカだった。彼女の異常性を知っておきながら放置していた。さっき見た夢では彼女が黒い孔に呑み込まれていっていた。非科学的だし非現実的だ。
だけれども、私には彼女が消え当てしまったという不思議な実感があった。彼女を探しに外に出ようとしたけれどもドアに手を掛けたとたんに震えが止まらなくなった。
玄関にへたり込む。待っているだけじゃ彼女は帰ってこない。私が動かないと事態は解決しないんだ。
靴も履かずに私は外へ飛び出した。夢、いや過去の光景とは違って、街には人だかりがあったし、音に溢れていた。近場を走って彼女を探す。
だけれども、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
足の裏には、小石がめり込んで酷く傷んだ。それでも私は彼女を求めることを諦めたくなかった。だってまだ彼女の名前さえ知らないのだから。
走る、走る、走る、走る。
宵を私は走り抜けた。彼女に出会うために。
「はあっ、はあっ、はっ」
息が上がって苦しくなって道路にへたり込んだ。
そこは私が彼女に自転車で轢かれた場所だった。
いつもは見ないような道路わきにポツンと花が咲いていた。どうしてか、私はその花の名前を知っていた。
勿忘草。
その花の名前はそうだった。
花に触ろうとした瞬間。私は浮遊感を覚えた。
どすんと尻餅を付くと、そこは一面の花畑だった。月光を反射した、美しい花たちが咲き誇る花畑。その中心に彼女はいた。白いドレスを纏い月に照らされた彼女はまるで月の女神のようだった。
「へえ、こんなところまで来ちゃったんだ」
「私は、私は!」
私が、何か言葉に出そうとしたことは彼女に遮られた。
「ねえ、××××君、元に戻りたいとは思わないの?」
「……」
「私のこのセカイでの余命は長くないの。私は魔女。科学と相反し神秘を追い求めたもの」
「だからね、これは運命なのよ。一人になった魔女は生きてはいけない。私は今まで死ぬために生きてきたんだから」
「じゃあね。もう二度と会うことは無いと思うけれど」
踵を返す彼女は固い決意をしているようだった。
けれども私は諦められなかった。
「馬鹿なの?あなたの私への好意は全部偽物。埋め込まれただけのものなのよ。だからあなたの心を踏みにじった私は憎まれるべきなのよ」
そんな言葉が本心からじゃないことは、明らかだった。彼女は泣きそうな顔をしていたのだから。
「だから?」
「私は自分の心に従ってここに来た。」
「この思いが偽りだなんて知ったこっちゃない。恋だか愛だか分からないけれども。私は君の傍にいたい」
彼女はあっけに取られた表情をした。
「元々、私は消えるはずだった。あなたとぶつかったあの日に……」
「だけどあなたを巻き込んでこんなことになっちゃった。だから私がこの世界から消えることでバランスが元に戻るの。それでいいと、思ってた」
「だけどさ、君がこんなところに来たら、気持ちが揺らいじゃうじゃない!」
「教室で格好つけて意味も分からない哲学書を読んでた男だった君を私は知っている。難しそうな顔をしている君もね。だから君を助けたかった。でもね、もう遅いみたい」
彼女の身体が透けていくことが分かった。
「もっと君といたかったな……」
世界が否定するからってこんなの理不尽じゃないか。私は絶対に認めたくなかった。なんだっていい彼女を繋ぎとめたかった。男になんて戻らなくていいから。きっと私は彼女をとっくに好きになっていたのだから!
私は彼女に駆け寄ると、その淡い桜色の唇にキスをした。
「消えるな!私は君が好きだ!愛している!名前も知らない君が好きなんだ!」
「私の名前はね、××××」
私の口づけに顔を赤くした彼女は、恥ずかしそうにそう告げた。
「あれ?消えてない?」
途端に可笑しさがこみあげてきて、私と彼女、どちらともなく笑いが口から溢れた。
「忘れていたの。魔女の口づけ。おばあちゃんが教えてくれたこと。魔女は誰かを虜にして虜にされた誰かに忘れられない限りは存在していけるの」
「そっか、それはよかった。本当によかった」
「私の魔法見せてあげるから」
彼女がポンと手を叩くと、私と彼女の服は真っ黒ないかにも魔女というようなものに変わっていた。更に私のじくじくと傷んだ、足からは全く痛みが無くなっていた。
「さ、乗って」
彼女が、差し出したのは箒だった。彼女が何か呪文を唱えると箒はふわりと浮かんだ。浮かんだ箒に彼女はちょこんと座る。恐る恐る私は彼女後ろに乗った。
足を離すと箒は高さを増した。私は慌てて彼女にしがみつく。
夜風を受け、ふわりと髪が踊る。
月明かりが照らす花畑と、星々が彩る夜空が、私達の未来を祝福してくれるようだった。