翌日。私はまた艦隊を見送って、迎えて、時に指揮を補佐して、任務を取り次ぐという職務をこなした。提督は、昨日のことなんて無かったみたいに平然と接してくる。
正直、不気味だ。からっとしているといえば聞こえはいいけれど、あまりにも虫が良すぎる。もっとも、よそよそしくなられたらそれはそれで彼の器を疑いたくもなるし、謝られても困るけど。
いや。
私はあの時、確かに「お慕いしていますよ」と伝えたはず。つい自嘲してしまう。返事を貰えるのを期待しているなんて、私も大概ロマンチストじゃない。
いやいや。
あの時、そこに心が無かろうと、結ばれようとしていたのは誰? 私だって、過程にも、状況にもこだわらず、ただ情欲を満たそうとしていただけでは?
そんなことを考えていても、職務は一通り終わった。
そういえば、今日の夕飯はなんだったかしら。
――思い出せない。
提督は何を考えているのかしら。
――わからない。
昨日の工廠で出てきたアレは何なのかしら。
――わからない。
きっと、昨日からわだかまっているもやもやのせい。どうしようもなくて、天井をぼーっと眺める。
この部屋。
明石との相部屋だけど、お互い部屋に戻る時間がバラバラだから、夜は顔を合わせるとは限らない。明石は私が帰る頃には大抵部屋に居ないし、居たとしても先に寝てる。昨日は一緒に帰った筈だけど、道すがら、「用事を思い出した」と別れて、起きてるうちには帰ってこなかった。たまには話したいことだって、あるのに。
こん、こん。
ノック。誰かしら。きっと明石じゃない。明石はノックする代わりに、疲れきった声で「ただいまぁ~」なんて言いながら、勝手に入ってくるもの。
「誰? ……ですか?」
「長門だ。交代の時間だ」
凛々しい声だけれど、夜更けだからか、声量は大分抑えられている。
「交代……?」
言わんとすることは分かるけど、聞かずにはいられない。
「ああ、提督はしばらくの間、夜間は大淀に旗艦を任せたいらしい。これからも時間になったら呼びに来るぞ。そういうわけだから、執務室に向かってくれ」
まさか。これってつまり、そういうこと? 体の芯が熱くなる。頬も火照っているかもしれない。自分の呼吸と拍動が急に気になり始める。
「わかりました。すぐにお伺いします」
それを悟られないように、「いつもの調子」で返事をする。
「皆眠っている。静かに行くんだぞ」
だんだんと遠ざかる足音は、次第に夜に染み込んで、私の所まで届かなくなった。他の音もしないのを確認してから、音を立てないように引き戸を開けて、部屋を出る。
月明りが廊下を照らしている。蒸し暑い夏の大気にまとわりつかれて、肌が汗ばむ。熱帯夜。熱帯。思い出は色々あるけど、天候にはいつもうんざりさせられた気がする。でも今はなんだか、湿り気が淫靡に感じてしまう。
ふと立ち止まって窓を見ると、私が映っている。元から肌は白いけれど、月に照らされていつもに増して青白い気がする。湿気と汗のせいか、心なしか髪が乱れていたので、手櫛で直す。もう一度見たらやっぱり変な気がしたから、眼鏡を外してまた直す。やっぱり、誰かに見られないかしら。振り向くと、練兵場の明かりが灯っていて、少しぎくりとする。さっと見渡してみても、誰も居なかった。
誰かに見られないかという緊張。
執務室で起こることへの期待。
あるいは、失望させられるのかもしれないという不安。
進めば進むほど胸の高鳴りが増していくようで。
どれだけかかったか分からない。いや、どうせなら着かなければいいと思ったりもしたけれど、結局その扉に辿り着いてしまった。
この向こうで提督が待っている。
恐る恐る、ドアに手を伸ばし、叩く。
コン。
他の子たちに気付かれないように。
コン。
でも提督は気付いてくれるように。
コン。
ガラスでも叩いているみたい。
「待ってたぞ」
ドアの向こうまで聞こえる声。でも、昼間のように張り上げてはいない。
「あの、入っても、よろしいでしょうか……?」
どうなるんだろう。
私の問いに返事をくれるのか。
無作法をお詫びてくれる気なのか。
あるいは揶揄したことの報復をする気なのか。
ドア越しに足音が近づいてきた。私が押して入るとばかり思っていたドアが、執務室に引き込まれる。提督は、開いたドアから首だけ出してきた。
「よし、工廠行くぞ」
*
「んあーっ疲れたあぁ……」
提督ってば、今日も今日とて例のレシピを試すんだから眠いったらない。
「あら、今日も研究ですか?」
「まあね、新機能だのなんだのがどんどん追加されちゃって……私たちだけ他の皆の何倍も働いてない?」
愚痴を言いつつ、机を探ります。引き出しにはいつだって、お菓子がいくつも仕舞ってある。だって、自分へのごほうび無しにはとても耐えられないでしょ……。
「そうですか? 遠征や出撃も大変そうですよ」
大淀は先に何か食べてる。大淀だって大変だもんね。
「あー、大淀は遠征には詳しいか。延々と海の上を行くのも大変そう……。小腹が空いたときとかどうするんだろ」
喋っていて、思考が空腹に引っ張られている気がする。煎餅の包みが指に触れたけど、依然として机の中をまさぐる。今は煎餅よりクッキーの気分だから。
「何食べてるの?」
「そこにあったクッキーですが」
「そうじゃなくて、遠征中の子たち。……うぇ、大淀! 私のクッキー!」
「あ、いつも気にしないので、つい……。ダメでした?」
げ。これは残念。でもまあ、好きに食べてって言ったのは私だし。
「いいよ、いいんだけど……これからは食べていいやつは机の上に出しとくから、それだけにしてね」
「ごめんなさい。厚意に甘えすぎましたね……」
「いいのいいの、それはいいから……机を開けるのはやめて」
そう、今はクッキーよりも危険なものがある。
「はい」
口元を隠しながら大淀が答える。
「大変といえば大淀も! また提督と来たじゃん」
「ええ、まあ……」
「いやー、見てる分には仲良さそうだけど。にひひ」
「本当にそういうのではないから、冷やかされても困るわ……」
この話をしても大淀が照れないのは不思議だ。長門を差し置いて夜一緒に来るのだから、その……ただならぬ関係? ではないにしろ、何かあるんじゃないかと思うけど……
「私にしか、アレは作れないから、ですって」
「本当にそれだけかなぁ」
「それだけ……ええ。それだけです」
「ふーん」
話したがらないから、今日はここまでにしよう。でも、それだけか……。大淀と提督、もうちょっと距離を詰めればいいのに。折角付き合い長いのに、ほんとに何も無いのかなぁ。大淀におねだりされたら、提督何でも買ってくれそうなのになあ。
「歯、磨いて寝ます」
「はーい、私は後で」
大淀、歯ブラシとコップを持って行って帰ってくると、すぐに寝ちゃった。私と大淀の一日は、いつも微妙にすれ違って終わる。
二段ベッドの梯子を登って、大淀の寝顔を眺める。他のみんなは、寝顔どころか眼鏡を外したところすら見たこと無いんじゃない? 常夜灯の薄明りでもわかるくらい、すべすべの白い肌。触ったら陶器みたいなんだろうど、触れた試しが無い。
起きる気配が無いので、身を乗り出して、大淀の顔にもっと寄る。すやすや、すやすや、気持ちよさそうな寝息が聞こえる。大淀の寝方があまりにも上品だから、私の寝息がうるさくないか、いびきをかいていないか、無性に気になることがある。ルームメイトはもうちょっとガサツな方がリラックスできるかも。まあ、私は大淀がいいけど。
さて、大淀の爆睡を確認したら、寝る前に一仕事。
懐に隠した、今日の研究成果を取り出す。
お菓子とは別の段の引き出しを開き「
大淀は自分にしかできないと信じているけど、ホントは私にもできるんだよね。提督だって、私に作れることは知らない。だって、これが製造されたときは、提督には報告しないで、こっそり持ち帰っているんだから。
危うく大淀にここを見つかるところだった。鍵でも作ろうかなあ……。
*
「明石、これって近代化改修できるのか?」
提督は大きな段ボールを抱えながら、明石に尋ねた。その中には大量の「本気のおなづま」が詰まっている。
「え? まぁ、やってみないことには分かりませんけど……」
明石は、段ボールから「おなづま」を一本取りだした。袖の余ったセーラー服を纏った、自信なさげな目つきの少女が印刷されている。
「おなづま……」
取り出されたそれを見て、大淀が独り言ちた。提督も、明石も、大淀の言わんとすることは察したが、一切反応しなかった。
深夜ということもあって、飛び回る妖精はまばらである。しかしながら、だだっ広い工廠に響く明石の靴音を聞くと、何人かがふわふわとこちらにやってきた。明石は、つなぎを着た一人に「おなづま」を差し出し、提督らにはよくわからない身振りや手指の仕草を始めた。
つなぎを着た妖精は腕を組みながら聞いていたが、最後には首を横に振った。
「あー、ダメですって。やっぱり」
「そうか……だがこんなにもダブってしまうとな……なんとか使い道がないものか……」
提督は屈みこみ、抱えた段ボールを床に置いた。「おなづま」が十ばかり詰まっている。
「提督、これだけ作るのに燃料五万くらい、ですか」
大淀が心配そうに箱をのぞき込んでいる。
「ああ……」
「提督、鎮守府の残り資材、ご存知ですか?」
「おなづまなら、執務室にもう十個はある」
「大型艦建造は次が最後かと」
提督の的外れな返事を無視し、大淀が残酷な事実を告げる。
「そうか……今なんと?」
「もうやめにしませんか、提督。各資材が五千を切っています」
提督は返事をせず、すっくと立ち上がった。
「少しばかり、入れ込みすぎたか……」
そう言うと、腕を組み、床をじっと見つめ始めた。
明石は、次の実験の算段をしているのを期待しつつ、その横顔を眺めた。
大淀は、もう提督と夜の廊下を歩くことはないのかと、寂寥の感に浸りつつその背を見つめた。
提督は、好奇心と下半身のためにとんでもないことをしてしまったと、内心ひどく後悔していた。
「……やめにするか。何の成果も出せず、済まない」
明石は困惑を、大淀は落胆を顔に滲ませた。
「二人とも、新発見にのぼせて随分付き合わせてしまったな。これからは堅実に資材を集めて、またこれまで通りやっていくさ……」
「提督……」
大淀は、提督の言葉が纏う投げやり加減や哀愁に胸を痛めた。そして、自分からの慰めは求めていないだろうことを思うと、彼女の胸の痛みはさらに鋭くなった。
明石は、あれらを量産した挙句、勝手に研究を打ち切って、勝手に反省し始める提督の考えることを理解しかね困惑した。しかし、なぜか湿っぽい雰囲気のあとの二人のせいで、指摘する機を逸してしまった。
「明石、残りの資材を全部つぎ込んで建造してくれ。再出発だ」
「あの、意味がわかりません……」
「いいんだ」
さっぱりした顔で言って誤魔化したが、提督はまた自棄を起こしただけである。もっとも、何かの間違いで激レアオナホが出ないかと淡い期待を抱いていたが。
「いいんですね、提督? 了解……」
そういうと、明石は奥に行き、何やら設備をいじくり始めた。妖精たちがあわただしく動き、工廠の設備がうなりを上げる。妖精の一人が明石に寄って行き、何か耳打ちした。明石の眉がピクリと動いた。
「……提督、二時間半で――」
「高速建造だ」
待つつもりのない提督は、その報告を聞き流した。初めて告げられる建造時間にもかかわらず、一切の見当をつけずにである。
「了解!」
すぐにドックが炎に包まれた。もはや三人とも、破滅的な所業の産物であることは考える気も起きず、ただその炎を眺めていた。鎮守府の蓄えのすべてを燃やす炎も、十秒ほどで収まった。
だが、建造時間に違わず、その結果もまた初めてのものだった。
「ン、何だ?」
どうせまた小箱なのだと思い込んでいた、いや、いっそのこと新作にこの衝動をぶつけて味わい尽くしてやろうとすら思っていた提督は、そこに誰か立っているのを受け入れかねた。例の箱よりは相応しい結果である筈だが。
中に立っているのは、少女。本来建造されるべきもの。艦娘だ。
だが、顔も、手も、足も、驚くほど白い。大淀も美白だが、それをさらに凌駕する白さである。衣装はほとんど鼠色で、全身が二色で色分けされている印象を受ける。普段は水兵服じみた衣装ばかり見ているので、提督は否が応にも学ランを想起したが、その下はスカートだった。彼女は、猫背気味に、この状況に戸惑うかのようにそこに立っていた。
「誰だ、君は……」
恐る恐る尋ねる提督に、彼女はゆっくりとした口調で、しかしどこか落ち着きなく答えた。
「自分は、陸軍の特種船……『あきつ丸』であります」
これが提督とあきつ丸の出会いのいきさつである。
この後、潜水艦や遠征艦隊の死ぬような努力により資材を復旧し、ディルド茶道事件を乗り越え、この鎮守府はここまで持ち直した。