川の流れが行き着く先   作:彼岸花ノ丘

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八歩目

 夢を見た。

 香は真っ暗な空間の中を漂っていた。右も左も、前も後ろも、上も下も、全てが黒く塗り潰されている。

 ぐるぐると身体を回して辺りを見渡せば、やがて一つの、白い点を見付けた。

 香はゆっくりと漂いながら、白い点がある方を目指す。身体は思うがままの速さで空間を飛び、真っ直ぐに、ぐねぐねと、そこへと向かう。

 一秒と経たずに、気怠くなるほどの時間を掛けて、香は白いものの目の前に辿り着く。

 大きな目玉だった。

 十メートルはあるだろうか。目玉だけがぽつんと浮かび、虹色の瞳孔がこちらをじっと見つめている。目玉だけで生きている筈がない。だけど目玉には強い意識が感じられ、その視線は間違いなく自分を凝視していると、香は感じた。

 得体の知れない風体。

 人智を否定する怪異。

 正気が削られる異常。

 人間として、何がなんでも拒絶しなければならない存在。にも拘わらず、香はその目玉と静かに見つめ合う。目玉はなんの行動も起こさない。動きもしないし、瞳の大きさが変わる事もなかった。

 目玉がしたのは、ただ一つ。

 

 ――――おいで

 

 短い言葉で呼び掛ける事だけ。

 感情なんて読み取れない声。いや、そもそもこれは声なのだろうか。目玉に口のような器官はなく、音を発せられるような穴さえもない。幻聴か、いやそもそもこれは夢だ。声に物理的な意味などあるものか。

 理性は必死に叫んだ。この異常なものの存在を拒むために。

 だけど香は、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

 目覚めは穏やかだった。

 ゆっくりと身を起こし、布団を畳むように身体から退かす。窓から差し込む朝日を浴びながら、ぱちり、ぱちりと瞬き。

 目に映るのは、見慣れてきた景色。白い壁も、白い箪笥も、白い布団も、全てに見覚えがある。

 だから香は、両腕で自分の身体を抱き締めながら震えた。

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「(あんな、怖い想いをしたのに……)」

 

 思い返すは昨日の出来事。

 大人山の池で出会った教祖から逃げ出した後、香は体験修業の施設にある自分の部屋へと向かった。目的は荷物を纏め、この恐ろしい場所から脱出するため。

 無論それは本来ならば許されない事だ。香は遊びや、ましてや『自己啓発』のために此処を訪れたのではない。警察官として、本当に此処で犯罪が行われていないかを確かめるためにやってきたのだ。証拠を見付けたならば兎も角、怖くなって逃げましたなんて理由が上司に通じる筈ない。良くて減俸、下手すれば素質がないとして降格もあり得る。

 だが、それがなんだというのか。この恐怖から離れられるのなら、降格どころか懲戒処分だって構わない。それほどまでに、あの池で体験した事は恐ろしかった。

 なのに。

 

「(また、ここで一夜を明かした)」

 

 陽が暮れた頃、気持ちはすっかり落ち着いていた。最初は単に時間が経った事で冷静さを取り戻せたのだと思っていたが、更に時間が経つと、冷静さを通り越して居心地の良さを感じ始めた。

 逃げろ。理性は必死にそう訴えかけていたのに、身体は、心の奥底は、その訴えに耳を傾けもしない。

 香の身体は意識に反して、ベッドに潜り込んだ。まだ外は微かに明るい黄昏時だったが、疲れていたのかすとんと眠りに落ち……

 先の夢を経て、今に至る。

 

「……わたしは……」

 

 ぽそりと漏れ出た言葉。理性ではもう、自分がどうなっているのか分からない。

 ならばいっそ、本能に身を委ねれば。

 思うがまま発せられた言葉なら、自分の事が分かるのではないか。根拠のない思い付きだが、他に縋るものもない。意識したが故に一度閉じた口は、自然と開いていき――――

 どんどんとドアを叩く音に驚いて、ぴたりと閉じてしまった。

 

「えぁ、な、何……?」

 

「源川さん! 源川さん開けて!」

 

 困惑している香に、ドアを叩いているであろう者が呼び掛けてくる。

 聞き覚えのある声。警察官として働く中で培われた察しの良い頭は、その声が美絵のものであるとすぐに気付く。最早悲鳴のようにも聞こえる叫び方は、少なくとも美絵にとって重大な事件が起きたのだと物語っていた。

 昨晩の事、夢の事、自分の事。様々な異変に未だ混乱気味の香であるが、悲鳴を聞けば警察官としての意識が蘇る。助けを求める人を放ってはおけない。

 香はベッドから下りるや、駆け足で部屋の扉の下へと向かい鍵を開けた。途端、美絵が扉を開け、中に転がり込んでくる。鍵が掛かっていると分かっても、ずっと開けようと奮闘していたのだろう。勢い余って美絵は転んでしまった。

 けれども美絵は痛みを訴える事もなく起き上がり、香の方へと振り返る。

 美絵の顔は真っ赤に染まっていた。両目からはぼろぼろと涙が零れ、溢れ出す感情の所為か顔をくしゃくしゃに歪めている。起こした身体はふらふらと揺れており、疲れ果てるほどの長い間悲しみが止まらなかったのだと窺い知れた。

 香は、このような状態に陥るのが、どんな人々なのかを知っている。そして浅いながらも美絵と交流があり、彼女の人となりを理解していれば、何が起きたのかを察するのは容易い。

 

「源川さん助けて! ダーリンが、ダーリンが何処にもいないの!」

 

 それでも美絵の訴えを聞いた瞬間、香の頭の中は真っ白に塗り潰されてしまうのだった。

 ……………

 ………

 …

「少しは、落ち着きましたか?」

 

「……………うん」

 

「良ければ、お水を飲んでください……洗面台の水ですが」

 

 ベッドに腰掛けている美絵に、香は水入りのコップを控え目に進める。美絵は特段躊躇った様子もなくコップを受け取り、一気に飲み干す。

 

「……しょっぱい」

 

 未だ涙を零しながら、美絵は愚痴をこぼした。

 悪態を吐けるのなら、多少ではあるが落ち着きを取り戻した証拠。ちゃんと話をしてもらうには、やはりこれぐらいの冷静さはなければならない。

 

「それで、何があったのですか? ダーリンというのは、相良さんの事ですよね?」

 

「うん……私とダーリン、何時も一緒に寝てて。昨日も一緒に寝ていたんだけど……朝に、なったら、そ、傍に、いなくて……」

 

 話しているうちに、美絵はどんどん元気を失い、声も詰まっていく。

 無理はさせたくない。「もう大丈夫です」と伝え、美絵の話を一旦打ち切ろうとする。しかし美絵は顔を横に振り、一呼吸挟んでから、また語り出す。

 

「私、怖くなって、建物中を探して……信者の人達にも聞いたけど、なんとかにみ、認め、じゃなくて。えっと……」

 

「……見初められた?」

 

「う、うん。見初められたって言うだけで、誰も場所を教えてくれなくて……怖くなって、でも諦められなくて、私、源川さんのところに……」

 

「そうなのですか……頼ってくれて、ありがとうございます」

 

 弱々しく事情を話し終えた美絵に、香は礼を伝えた。美絵はこくんと俯くように頷く。

 頼られたからには期待に応えたい。香は考えを巡らせ、それから、辛いのは承知しているが幾つかの質問をぶつける事にした。

 

「何時頃からいなくなったか、分かりますか?」

 

「……分かんない。何時もなら、ダーリンが起きたら、すぐ気付くのに」

 

「それでパニックになって、辺りを探し回った?」

 

「うん……信者の人にも探すのを手伝ってほしかったけど……でも……」

 

「でも?」

 

「……ダーリンがいなくなったって知ったら、みんな、そのお祝いをするとか話してて……なんで人がいなくなったのにお祝いするのか分かんなくて、怒るよりも気持ち悪くて……」

 

 思い出してしまったのか、美絵は口に手を当て、嗚咽を漏らす。

 助けてほしかったのに、まるでその助けを嘲笑うような光景を目にする。

 新しい信者を増やすためという『打算』がある事は知っていても、信者達そのものはとても良い人達だった。そんな人達が行方不明を祝おうとしたら、誰だって混乱するだろうし、不気味さを覚える筈だ。ましてや大切な彼氏が傍に居ないとなれば、さぞや心細かったに違いない。

 恐怖と混乱でぐしゃぐしゃになった頭は、兎に角知っている人を探して、此処に足を運んだという訳だ。

 

「成程……教祖の方には、連絡したのですか?」

 

 香は一点、疑問をぶつける。調査をするにしても、助けを求めるにしても、教祖である明人が現状を把握しているかどうかは知っておきたいところ。

 尤も、昨日の態度からして捜索に協力してくれるとは思えないが。邪魔さえしてこなければ良い程度の認識だ。

 

「ううん……それどころか、教祖さんまで、行方知れずらしくて……」

 

 だとしても、美絵の答えは少々予想外だったが。

 教祖までもが行方不明。

 『警察官』としての意見を述べるなら、逃げたのだと思う。やはり明人は悪事に手を染めていて、潮時とばかりに逃走したのだ。今頃海外か、はたまた何処かの田舎か。いずれにせよのうのうと自由を満喫していると考えるのが自然である。

 だが、香自身は知っている。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……成程。相良さんが何処に行ったか、心当たりはありませんか?」

 

 一呼吸挟み、自分の心臓の鼓動を押さえてから、香は美絵に問う。

 美絵はすぐ、真剣に考え込んだ。大好きな彼を探すための手掛かりを、なんとか見付けようとしているのが分かる。無論、そう簡単に思い付いたら彼女自身がとうに向かっているだろうが。

 出てくる考えは、ヒントと呼ぶには頼りないもの以外にあり得ない。

 

「……夢を、見た、とか」

 

 あくまでも美絵にとっては、であるが。

 されど香りにとってその言葉は、どんな『ヒント』よりも心を揺さぶった。

 

「夢……ですか……?」

 

「うん……どんな夢かは、あまり話してくれなかったけど……なんか、目玉に見つめられている夢だって」

 

「それは、何時頃から?」

 

「一昨日だったと思う……」

 

 美絵の話に、香は顔を背けながら、小さく息を吐いた。小さく俯き、思考を巡らせる。

 目玉の夢。

 心当たりがあるか? 勿論ある。今朝方見たばかりなのだから。

 同じ夢を見る事はあるか? 確率的には低いだろうが、ないとは言えない。それに夢というのは記憶の整理らしいので、同じ生活をしていれば同じ夢を見る確率も高くなる筈だ。何より美絵の又聞きの説明では、細かな背景が分からない。本当に同じとは限らないだろう。

 総合的に考えれば……自分の考え過ぎだと、香も思う。

 しかし頭の奥底、直感や本能とでも呼ぶべき部分が訴える。これは夢や勘違いなどではない。そもそもただの行方不明なんかじゃないと。

 故に、幸司の『行き先』も香の脳裏を過ぎる。

 その予感が正しいという確証はないが、確信は抱いている。何処に向かえば、どうやって向かえば彼と出会えるのかも、なんの証拠もないのに、それを香は()()()()()。そして警察にその直感を話し、奇跡的に信じてもらえたとしても、警察には見付けられない事も。

 幸司を探し出せるのは、きっと、自分だけ。

 

「うぅ……ぐすっ……私、ダーリンが、いなかったら……生きて、いけない……ひぐっ」

 

 美絵はぼろぼろと涙を零し、再び嗚咽を漏らし始める。話しているうちに、また悲しみが限界を超えたのだろう。

 美絵と幸司は、実に仲の良いカップルだったと香も思う。

 美絵は見た通りべったりだったし、幸司も纏わり付く美絵を邪険にはしていなかった。そうした想いが一時のものか、永遠のものかは分からないが、『今』の美絵には関係ない。

 会いたくて、会いたくて、胸が張り裂けそうで。だけどどうにも出来なくて、いっそ死にたくなってしまう。

 香は、そんな想いに囚われている人達を何人も見てきた。想像しか出来ないが、少なからず共感は出来る。

 

「大丈夫です」

 

 香はそう言いながら、美絵の身体をそっと抱いた。

 美絵はびくりと身体を震わせる。しかし香が優しく頭を撫で、もう片方の手で背中を擦れば、段々とその身から力が抜けていく。

 落ち着きを取り戻した美絵は、香の抱擁から抜け出すように顔を上げた。香はそんな美絵と目を合わせ、にこりと微笑む。

 そして香は美絵に告げた。

 ――――本能のまま、思うがまま。

 

「もうすぐ、あなたも彼に会えますから」

 

 考える事もなく、この言葉を……

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