いつかの季節に 作:桃猫
あらゆる感情が混濁した瞳というものは見たことがなかった。恐らくはサクラが内包する負の側面の全て──否、サクラの全てがその深紅の瞳にこもっているのだろう。
だからそれを見たときの感情は怖いだとか気持ちが悪いだとかそういったものではなかった。
ただただ美しかった。
それ以上言葉として表せないほどにサクラの瞳は魅力的であったのだ。
「提督じゃないか。こんなところで何してるんだ?」
突如かけられた声に驚き、肩が跳ねる。少し情けない仕草に恥ずかしくなりながらもそちらへと振り向くと、今まさに演習場から出てきたという様子の長門がそこにいた。
長門は一度視線を僕の隣へと移し、すぐに戻す。
それがどういう意味なのか問い詰めようとは思わない。サクラをどう思うのかは個人の自由だ。ただ、思うのが自由なだけであってこうして現在、僕の補佐役として置いているからには長門にサクラをどうにかする権利はない。
……そんな暗い想像をしたところで意味は無いか。
「ああ、ちょっと息抜きに散歩をな」
「そうか、最近は何かと物騒だ。鎮守府の中とはいえ油断はするなよ」
それは何を意図した言葉なのか。
近頃、深海棲艦の動きが活発化しているのは確かだが、この鎮守府まで攻めてくるとは思えない。単に身を案じての台詞、なのだろうか。
いつから、いつから僕は人の言うことを素直に受け取れなくなったのか。
複数の考えが頭を過り、思考を邪魔する。頭が痛くなっていく。
──俺は……
「司令官? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ、大丈夫だ」
「体調が優れないのなら自室に戻ったらどうだ。顔色が悪いぞ」
「心配いらない。この程度、何とかできるさ」
差し伸べてくれた長門の手を振り払い、立ち上がる。
視界が歪み、目の前が何も見えなくなる。咄嗟に頭を押え、なんとか倒れるまいと奮起するが、次第に足に力が入りにくくなる。「大丈夫か!」と必死そうな声が聞こえ、体が支えられる。
「やはり……」
「いや、いい。大丈夫だ」
「しかしだな──」
「司令官が大丈夫だと言っています。それ以上、何も言わないでください」
自分よりも体躯の小さい少女に睨まれ言い淀む姿は少しだけおかしかった。今まで何も発さなかったサクラの言葉に不意を突かれたのもあるのだろうが、長門はそれ以上何も言わなかった。
すぐにサクラは僕の腕を肩へ回し共に歩こうとする。
身長差故にバランスが取りにくいらしく、歩くと言うよりは寄りかかり引っ張られるような形だ。少しして歩きやすくなったのは、サクラの頭に例の帽子が出現したからだろう。
黒く、大きな帽子。笑っているような馬鹿にしているかのような顔を浮かべそれはゆっくりと口を開く。
「ォオ、ァ、ェァア」
サクラは気づいているのか。いや、そんな様子は一切ない。ということはコイツはサクラの意識とは無関係の何かだ。
「ァァアィ」
耳障りな気色の悪い音の羅列。人間の──この世のものとは思えない音だ。
「ィ、エエェ──ゥ」
──違う。
「司令官? どうか、しましたか?」
サクラの声により意識が戻される。いつの間にか場所は移動しており、演習場のベンチから執務室裏の日陰まで来ていた。
風が強く、潮の匂いがここまで届く。嗅ぎなれた匂いはやはり心を落ち着かせる。幻覚はもう、消えていた。
サクラが僕の顔を覗き込む。長い白髪が僕の頬をくすぐり、少しだけむず痒い。
「えへへ」と声を漏らすサクラの笑顔は少女の笑顔そのものだ。年頃の、戦いも孤独も知らぬ少女と同じ。
「きもちーですか?」
「そうだな、たまにはこうしてみるのも悪くない」
具合の悪い俺を気遣い、サクラは膝を貸してくれた。
柔らかい。不思議と海の香りがする。
彼女が艦娘だから、そう感じるのか。
サクラは遠く、海を見つめ寂しそうに目を細めた。怖いのだろうか、嫌いなのだろうか。それが聞ければどれだけ楽か。
海風が強く頬を撫で、潮の匂いが目に染みる。そのまま目を閉じれば眠ってしまいそうなほど、心地がいい。今このときだけは嫌なことを考えずにいられる。こんな時間がずっと続けばいいのに。
──俺は、どウしたい?
知らない。
どうしたいかなんて僕にわかるはずがないだろう。
考えるだけ無駄だ。僕にその選択権はない。
そして静かに目を閉じた。
◇
「提督、もうすぐであの人たちがこちらへ戻られるそうです」
「……そうか」
「それで、その……サクラさんのことですけど」
大淀の言いたいことはわかる。
サクラは元々この鎮守府には登録されていない艦娘だ。建造した、と言い張れば普通通じるだろうが、それで済めばどれだけ楽なことか。
サクラは完全なイレギュラーだ。
記憶を失い、元いた鎮守府のことを知らず漂流してきた艦娘など聞いたことがない。そんなことを告げればあの人たちは父の元へ連れていくか、それよりも上の施設へ連れてこうとするだろう。
いや、それ以上に厄介なことは彼女の正体だ。
今現在、彼女は艦娘だと言える程度には人間らしさを保っている。が、あの夜一度だけ見せた深海棲艦としての一面がある限り、完全な艦娘だとは言いきれないのではないか。
「正直に話せば研究施設にでも連れてかれるのだろう」
そしてそんな彼女を提供した僕はきっと人類側に最も貢献できるのかもしれない。そうすれば父にも認めてもらえるだろう。
それは──
──それハなんて魅力的な話なのだろウ。
「違う!」
「! どうかしましたか……?」
そんな考えは僕のものじゃない。僕はサクラを売ってまで父に認めてもらいたいなど、そんなこと考えているはずが無い。
「い、いや、なんでもないんだ。すまない」
サクラは既に部屋へ戻り眠っているのだろう。今この部屋にいるのは僕と大淀の二人だけだ。
そう思って油断した。
その油断が、僕の判断を狂わせる結果になる。