篠ノ之束を恨む少年が篠ノ之束に救われたけど素直に感謝しきれない話 作:細胞レベルでミジンコ
「やった! 同調率
斯くして、少年の精神を削った束の介護によって生体同期型ISは完成した。
束の言う失敗も、少年がISを通して対話した限りではありえないだろう。
「いつ頃起きる?」
「八時間前後かな。自然に起きると思うよ。念の為に束さんはそばに居るけど、君も殆ど寝てないんだから休んでいいよ」
「いや、今寝たら確実に半日以上眠りっぱなしだ。この子が起きる時に寝てるのは避けたい」
「そっか。……何だか妬けちゃうね」
「は?」
束の唐突な嫉妬発言に少年は驚くしか無かった。
「束さんは一年経っても君の心を開くことが出来なかったのに、この子は一晩の対話でそれを成し遂げたみたいだし」
「それは……」
悲しそうに呟く束に、少年は何も言うことは出来ない。何故ならば、心の距離が数値化できる機械があったならば、恩人であり、そして一年間の世話をしてくれた束より、一晩話しただけの少女の方が良い数値を示すことが分かり切っていたからだ。
少年は当時五歳にして全てを悟り、施設の人間に媚びることが出来る異常性を持っていたが、それ以外はマトモな人間。マトモな感覚を持っているだけあり、自身の行いが不誠実であることを理解している。
それでも、思考と感情は折り合わない。束との生活を悪くないと考えつつも、まだ束を許せていないのは、本来情緒を育むはずだった時間を研究施設で過ごしたからだろう。
利口で大人っぽく見える少年も、根っこは五歳の子供のままなのだ。
「メシ、作ってくる」
「うん」
居た堪れなくなった少年は、その空気から脱するために食事を用意するとして移動した。
「落ち着いて。今君が動けないのは他人の専用機を纏っているから。でも、直ぐに解除しちゃダメだよ。まずはもう一つ、展開済みじゃないISが自分の中にあるのを理解して」
少女が目を覚ますと、束はそう語りかけた。現在少女が見に纏っているISは一から十まで少年のために調整された専用機。
動かそうとしても鉄の塊が手足に括りつけられているように重く感じられ、四肢を動かすことすらままならないだろう。
それでも、直ぐに除装する訳には行かない。ISコアの移植には成功したものの、それはまだ休眠中。
少女の意思によって起動し、そして同期しなくてはならないのだ。
しばらくすると、少女が纏っていたISの装甲が光となって消え、待機形態となった少年のISが弾かられるように少年の手元に届いた。
少年がそれをキャッチするのとほぼ同時に、治療用のジェルから少女が抜け出し、立ち上がる。
「あ!」
しかし、ISとナノマシンによる強引な延命措置によって体力を消耗していた彼女はそのまま崩れ落ちるかのように体勢を崩した。
少年はすかさず少女を受け止めると、そのままソファまで運んだ。
「――――!」
「え?」
「ドイツ語みたいだね」
IS業界の公用語は日本語であるためか、少年がいた施設で使われる言語も日本語だった。
そのため、少年は日本語なら話すことが出来るが、母国語も、日本語以外の外国語もさっぱりだった。
『もう一回お願い』
少年はISを最小限に展開し、IS同士の通信では全ての言語が翻訳されることを利用して少女に語りかけた。
これならば、言語が違う彼女とも話すことが出来る。
以前少女と何もなしに話せたのはISのコア人格が住む空間での対話だったからだろう。
『えっと、ありがとうございました。貴方のおかげで私はこうして生きることができます。貴方のISのおかげで私は生きようと思えました』
『…………。君が生きているのは向こうの女の人のおかげだし、ISのコア人格と話して生きようと思えたならそれは俺の手柄じゃなくてコア人格の手柄だよ』
『それでも、ありがとうございます』
少年は『ありがとう』を噛み締める。この言葉はここまで嬉しいものだったのかと。しかし、それと同時にひとつの疑問が浮かび上がる。
はたして、自分は命の恩人である篠ノ之束に感謝の言葉を贈ったことがあっただろうか?
束に救われて、初めて目が覚めた時の記憶から少年が振り返っても、内心で僅かに感謝したことこそあれど、面と向かって感謝の言葉を伝えた事は無かったように思えた。
「そういえば、君の名前は?」
束が少女に現状を説明したあと、思い出したように問いかけた。それに対し、少女は僅かに表情を曇らせて返答する。
「ありません。今までは検体番号でしか呼ばれませんでしたので。宜しければ、束様が名付けて頂けませんか? 新しく生まれ変わった私に」
「本当! ちょっとまってね……」
少年は二人の会話を見ていられなくなった。この会話は、本来既視感があって然るべきものだ。
にも関わらず、少年はそれを感じなかった。何故ならば、少年が束を拒絶したからだ。
胸が締め付けられるように少年が感じていると、束が少女に名前を贈った。
「クロエ・クロニクル。君は今日からくーちゃんだ!」
「クロエ・クロニクル……。ありがとうございます。番号でなくなった私は、これから楽しく生きていけそうです」
「そうだね……」
クロエが花開くように笑い、束もそれに返すように微笑んだ。二人ともが幸せそうである。
「あの、貴方のお名前をお聞きしてもいいですか?」
クロエが少年に問いかけた。
自分はなんなのか。少年は途端に自分のことがわからなくなった。
記憶から零れた名前が自分なのか? 施設でつけられた番号が自分なのか?
いいや、名前とは個人を表すものだ。忘れ去られ、誰も使うことがなくなったものは名前ではなく、そして番号も名前ではない。
ならば、少年には名前というものがない。名前が無い人間は本当に存在しているのか?
ならば――。
少年の思考が自己の存在否定にまで届きかけた時、月の光が少年を包み込んだ。
「アストラだよ。アストラ・クロニクル。この子もくーちゃんと一緒で研究施設の被検体だったんだ。それで、一年前に束さんが誘拐してきたの」
「「アストラ……」」
クロエと少年が同時に呟いた。少年がそうしたことは、どうやらクロエの声にかき消されてクロエ自身には届いていなかったようだが。
「あの、束様、クロニクルと言うことは……」
「そうだね。くーちゃんのお兄さんかな?」
「
俯く少年の頬に手を寄せたクロエがその顔を上げさせ、二人が見つめ合う。
少年の視線は右へ左へと忙しそうである。
「
もう一度名前を呼ばれた少年にクロエが微笑むと、少年の視線が定まり、そしてぎこちなく笑みを返した。
それは、少年が名前を受け取り、アストラ・クロニクルとなった瞬間だった。
自己が定まり、嬉しいはずなのに、何故か涙があふれる。アストラは何かに縋りたくなって目の前のクロエを抱きしめ、静かに泣き続けた。
クロエは何が起こっているのか分からなかったが、突然泣き出してしまったアストラの背中に手を回し、そして、アストラが泣き止むまで頭を撫で続けた。
「これが青春なのかなあ?」
束の疑問に返事はない。しかし、束の記憶の通りならば少年が個人的な感情を発露させたことは今まで無かった。
精々が最初に束を殴りつけた時に見せた怒りだけだ。
今回の号泣は、少年がアストラ・クロニクルとなったことを示すこれ以上ないイベントだろう。
名無しの実験兵器から、アストラ・クロニクルという一人の人間へと。
ならば、アストラの春はまだ始まったばかり。青春と呼ぶには青すぎるかもしれないが、これも確かに青春だった。
「
「うん」
泣き腫らしたアストラが、初めて束の名前を呼び、そしてお礼を述べた。
「これからも、よろしくお願いします」
「うん! これからもずっとよろしくね!」