月。この都市では薄曇りの向こうにぼんやりと光る物体という程度の価値を持つそれが浮かぶ頃。ゆかりは地下へと潜る準備をしていた。
この都市の地下空間は複雑怪奇で無秩序な発展をしているが、その実、入ることだけならそこまで難しいものではない。地上は排他的な空気が強いため馴染めない者や、雨風凌げる場所を確保するに足る最低限度の地位や実力を持っていない者も数多くいる。そのような者がこの都市に流れ着いた果てとして、おおよそ常に雨風を凌げ、他人の視線を避けることのできる場所が地下であるからだ。
しかし当然ながらそのような場所にはより後ろ暗い人物が溜まりやすく、また地上以上に排他的、いや攻撃的であるとさえ言える。少ない食い扶持や安全圏をみすみす他人に明け渡すよりは、今入ってきた存在を肉にする方が財布に留まらず全てを資源にすることができ、ずいぶんと経済的であるからだ。
つまるところ、この都市において行き着く先がこの地下であり、死神の目もあまり届かない場所だと認識されていた。
そのような場所へと立ち入るためには、個人での戦闘能力は最上位といえる死神、ゆかりであったとしても十分な用意や手続きが必要となる。普段ゆかりや他のボイスロイド、ひいては一般市民が地上に作成しているセーフハウスはそれが地上にしか繋がらない小さな地下部屋や、浅層に位置する下水路の脇であったりするものだが、地下へ向かう一般的な通路には人がいることが多いのだ。もちろん敵対的な。
この悪質な初心者狩りは効率が良く、その為だけに場所を争うほどである。無策で入ればその魔の手に掛かるとゆかりは知っているからこそ、下水路や通気口など、分かりやすく待ち伏せしやすい経路ではなく奥まった道を探しているのだ。
「……ふぅ」
ゆかりは口から紫煙をゆらゆらと立ち上らせながら路地を歩く。相変わらず鼻の曲がるような匂いがするがそれを煙草で中和しつつ、ある目的があってゆかりは煙草を吹かしていた。
それはもちろん精神安定も理由だが、もう一つは空気の流れを見ることである。本来なら地下特有の匂いなどが分かれば良いものの生憎とこの酷い有様のため気づけない可能性がある。故により安定する方法として、空気に煙を乗せることで風の流れを目視し道を探すのだ。
煙草や葉巻を使うのは実にもったいない面もあるが、ゆかりは資産を持っている側であり、この重要な場所に取り出せるぐらいには備蓄があった。通貨としても機能するため浪費は避けたいところだが、適度に使えば体の臭い、特にボイスロイド特有のそれを誤魔化すことができる。やりすぎると煙の匂いが染みつくことによって逆に相手に察知されやすくなるが、幸いゆかりは依存しているわけではない。上手に付き合っているのであった。
ゆかりが機狂いマキから貰った情報を元に路地をくまなく探していると、ようやく煙に反応が見られた。へばりつく汚泥が靴や手にあまりつかないよう慎重に歩を進めながら、狭く陥没した路地から剥き出しになった土や鉄骨の上を器用に下っていく。ゆかりの頭が路面より下に消えて少しした頃、ようやく最下部へと到達した。
廃液の沼地から飛び出す鉄骨の先には、人がしゃがめば通れるほどの小さな横穴が廃材によって塞がれていた。ゆかりはそれに手を掛け、慎重に抜き取っていく。天然のジェンガを解除したゆかりは穴へと身を潜らせ、丁寧に入口の廃材を戻して偽装すると、いつも通り明かりを付けずに穴を探索し始めた。
この穴は幸い太さがそこまで変わらずに続いているようで、緩やかな下り調子の一本道となっている。人が掘ったもの、ではあるのだろうがそうとは思えない程に壁面はボロボロと乱雑になっており、下に足跡があるような気配もない。既に使用されていない通路であろうと当たりを付けたゆかりは慎重に歩を進めていた。
地上の喧噪から離れ、どこかからしたたり落ちる水音だけが穴に反響する。
地下に辿り着くまで、あとすこし。
◇
ところ変わって地上では、東北家がゆかりが帰還して地下に向かっているという情報を仕入れていた。気づいた理由は簡単で、きりたんが管理している人間の視界に映り込んでおり、路地へと向かっている所だったからである。何か物が入っているかのような不自然なパーカーの揺れと合わせて考えた結果の考察であったが、それは真実を見抜いていたのだった。
「きりちゃん、そういえば、ピコピコは地下では使えないんですの?」
「ええ、まず電波の通りが悪いのはそうなんですけど、あまり地下の人が地上に出てこない上に、出てくるような人は有名人であることが多いですから。地上と異なり情報も少ないので違和感ができるだけないように細工を施したりロールプレイをしたりするにも難しいんですよ」
「ちゅわ。それでもある程度は情報網を張っているんですわよね?」
「もちろんです。浅い層での人狩りによって追跡していた人が殺されることもまああるんですが、その情報が集まればなりすますことだってできますから。そこから丁寧に網を伸ばして情報を中継すれば、地上からでもある程度は手を伸ばせます」
東北家の情報網は大部分が東北きりたんに依存している。他の家族もそれぞれの方法で情報収集を行うことはできるのだが、人の思考を誘導したり、考えたことや見たことをデータとして手元に寄せるようなことは、ゲームに精通するというイメージから情報処理に特化させられたきりたんの独壇場であった。
そこで得られた情報を、次の工程として今回の協力者へと流す。今回東北家が担当するミッションを斡旋した存在であり、自身もこちらとは別ルートで侵攻すると宣った相手、紲星あかりであった。
「はーい、分かりましたー。情報提供に感謝する。しかし先輩、相変わらず一人で潜っているんですよね。機狂いの機械経由の情報探知能力はこの私も舌を巻くほどですけど、それにしても無鉄砲と言うしかあるまいて。技術は認める他なくこの通信もまた機狂いの整備した専用網であるから便利に活用させて頂いているとはいえ、なにも一人で潜らずとも。だから貴方は責任感を感じすぎなんですよ」
「まあまあ。こと地下は群れて行動する存在は非常に目立つじゃないですか。個人の独力で行動できるのであればそれが適切だと思います」
話す中で口調が二転三転し声の高さもころころ変わるあかりに対して、きりたんは平常通りに応対している。人見知りが激しいきりたんは、更にボイスロイドの中でも得意な相手と苦手な相手がはっきりしがちな傾向にあるが、あかりはその中では希少な友好的対応を取る相手であった。
「それで、そちらの首尾はどう?」
「ええ、現在、緑鬼が指定のポイントへと到着しました」
「ならこちらは正面から堂々と。誰かになりすまさなければな。東北の協力にも感謝する」
あかりはそう返事を返すと、自身の居る場所、廃棄都市の中央部にほど近い企業ビルのドアを無警戒に潜っていく。そのまま持ち合わせた社員証を受付へと提示し、中層階にある研究施設へと身を躍らせた。
地上と地下ではどちらでも特別な任務が遂行されている。地下に計画の所在を見いだしたゆかりは単身地下へと向かい、地上に新しい理論が存在する可能性をつかんだあかりは東北家に協力を打診し今に至る。各々が求める物の終着点は同じ、しかしこの道が例の計画に行き着くかは未だ未知の霧の中にあった。
Tips:きりたんの1日の平均歩数は200歩程度である