光輝は、名前の通り光り輝くような存在だった。
同じように生まれて、同じように育った、俺の双子の兄。
だけど、中身は、対象的だった。
光輝はみんなといるのが好きだった。
光輝は運動が好きだった。
光輝は笑顔が綺麗だった。
だけど全然違う二人が、唯一同じだったことがあった。
葵は、女の子らしい女の子だった。
可愛いものが好きで、粗暴なことは好まず、大人しくて、将来の夢はお嫁さん。
そんな彼女の隣に立ちたいと思ったことがないかと言われれば嘘になる。
だけど、自分と同じ顔をした、自分の上位互換がすぐそばにいたから。
俺と光輝なら、葵と一緒にいるのは光輝だろうって、ずっと思ってた。
実際、中学生に入るころにはお付き合いをはじめていて、光輝に色々自慢されたことを覚えている。
大きくなっても、やっぱり幼い頃に得た形質というのは変化せず、光輝は光輝、俺は俺としてしか存在できなかった。
サッカー部のエース、光輝。
クラスの地味な奴、歩。
でも光輝も葵も、おどおどとした俺に優しかった。
たったひとりの弟だろ、と。
大事な幼馴染だよ、と。
たまに惨めにもなったが、それなりに幸せだった。
幸せなひとたちを見るのは嫌いじゃなかった。
だから光輝と葵が一緒にいることに対して嫉妬はあったが、それ以上に祝福していた。
そしてひと月前、光輝は死んだ。
道路に飛び出した猫を助けようとして撥ねられた、らしい。
そしてその現場を葵が見ていた、らしい。
俺が詳しい状況を聞いたのは後になってからだった。
病院で、動かない光輝を見て、現実味を失ったことだけはよく覚えている。
そして、次に葵に会ったとき。
『コウくん!』
自分じゃない名を呼ばれたことを、俺はきっと一生忘れない。
休日の朝は、アラームをかけない。
カーテンの隙間から差し込む光で目覚めるのが、気持ちいい。
まぁ眩しくて起きるという自覚はないため、実際のところ陽光が目覚めに寄与しているかどうかもわからないのだけれど。
しかし真偽のほどにさしたる意味はない。何故なら本質というものは目に見えず、見えるのはそれを覆う表面だけだからだ。
瞳をあける。
寝起き特有の、霞んだ視界。遠い耳。
「……起きた?」
そして、意識が彼女の声によって明瞭になっていく。
「…………起きた」
「うん。おはよう、コウくん」
「おはよう……」
葵の姿を視界にいれて思ったのは、かわいいな、ということだった。
普段そのまま流している髪をハーフアップにしていて、オーバーTシャツにジーンズを着ている。
化粧のことはよくわからないが、ほんのりと施されているようにも見える。
ゆったりと微笑む彼女が、普段に増して魅力的だった。
「…………いま、何時?」
「えーとね。七時」
「……ふぁ」
「もう少し寝ててもいいよ?」
「いや、いい」
「そっか」
身を起こして、またぼーっとする。
「……」
「……」
無言が、苦ではないということはどれだけ幸福なことだろうか。
何をするでもない時間が貴くて、愛おしく、苦い。
「じゃあ、下で待ってるね」
「ん」
葵の後姿を見送って、「かわいいなぁ……」とつぶやく。
可愛い。綺麗だと思っていても、兄の恋人に面と向かって伝えていいのかもわからない。
「ご飯できてるよ~」
「……ありがとう」
本当にただの良妻だな、となる。
エプロンをつけてキッチンに立っている姿が、可愛すぎる。
「前々から聞いてみたかったんだけど、葵って何時に起きてるんだ?」
「んー……」
葵は困ったように、眉尻を下げる。
「今日は四時くらい」
「早いな……」
「でも十二時前には寝てるよ。普通普通」
「四時間かぁ」
眠りにつく時間は、俺も十二時前くらいなので、俺の睡眠時間は七時間。
なんだかちょっと、情けない。
「……別にそこまでしなくていいのに」
「それ言うと思った。でもいいの、私が好きでやってることだから、私が飽きるまではやらせてほしいな。……もちろんコウくんが本当に嫌ならやめるけど」
「いや」
葵は、心を病んだ影響で、俺への依存性がかなり高まっている、らしい。
らしいというのは、ただの現状から推測したことにすぎないからだ。
彼女は朝が苦手な子だった。
料理なんてまるでしない子だった。
それでも今こうなっているのは、
「……まぁ、飽きたらやめてもいいから」
「ふふ。がんばる」
「……」
「大丈夫だよ」
だけどそんな言動の変化があっても、彼女の優しさはそのままだった。
人の心をくみとれる精神性。
大丈夫だよ、と。俺は何も言っていないのに、『でも本当に無理だけはしないでほしい』というこちらの想いを受け取って、返事ができる。
表情・仕草などといった細かなところを見て、かつ他人に気遣いをできる人間がどれほどいるだろうか。少なくはないかもしれない。が、決して多くはない。
ただ優しいというだけの、稀少価値。
だから彼は彼女のことが好きだった。
「まぁとりあえず、食べてね。八時には出たいんだ」
「ん」
「ごめんね。いつも一緒で。もうちょっとメニュー増やせるように頑張るから……」
「作っておいてもらって言うのもなんだけど、葵と一緒で、スープだけとかでも全然いいよ?」
「えー」
トースト、目玉焼きにウィンナー、ヨーグルトに野菜ジュース、それから紅茶。
「でもコウくん結構食べるほうじゃない?」
「まぁ……」
年相応だと思う。
しいていうなら馬鹿食いするのは、スポーツマンであった光輝であって、俺ではない。……光輝ならたぶん、葵が用意した倍は平然と平らげるだろう。
「というか葵が小食なんだよ」
「自分で言うのもなんだけど、体格からしてそんな間違ってはないと思う……」
「なるほど?」
葵が小柄なのは間違いのないことで、それを言われるとなんとも言い難いものがある。
むぅ、とうなっていると複雑そうな目で葵がこちらを見ていて──はたと気付く。
食事をするのを忘れていた。
「あ、ごめん。冷めないうちに食べる」
「うん」
葵の口もとが、小さく弧を描く。
「……うん。美味しい」
「よかった」
本当に、前日の夜からずっと思っている。
距離感を、どうすべきなのか。
恋人だったのは
葵に対してどう接していいか、わからない。
移動手段は徒歩、バス、徒歩。片道約一時間。開園が午前九時であるから、そこに合わせて行こうという話だった。
俺と葵は、バスの最後列席に並んで座って、迷惑にならない程度の声量で話していた。
「えっとねえっとね。園内飲食の持ち込みオーケーなんだって」
「え、食べ物いいの? 珍しいね」
「でしょ。実は……選んだ理由の半分くらいそれなんだぁ……」
「あぁ、それでお弁当……」
「うん」
葵は胸に抱えたトートバッグを、ぽん、と撫でるように叩いて微笑む。
お弁当作るから、というのは事前に聞いていたが、なんとも照れ臭いものだった。
「お弁当作ったのはじめてだから凄く不安だなぁ」
「……」
「あのね、一応ね。……あーうん。お昼のときの楽しみってことにしようかな。コウくんの好きなもの入れたんだよ」
「あ、そうなんだ。それは楽しみだな」
ちなみに光輝と俺は、味の好みが結構違う。
「中身崩れちゃわないか不安だな……」
「んー。まぁ歩くだけなら大丈夫じゃない?」
「だといいけど……」
「投げたり落としたりしなきゃ大丈夫」
「そっか、そうだよね」
気休めの言葉でも、それで相手が安心するなら投げるべき。
「……結構、気温いい感じだよね、今日。適度に涼しいし」
「うんうん。ちゃんと晴れてくれて、私すごく嬉しかった。屋外だとやっぱり、雨だとちょっと……」
「そうだね」
「あ、そうそう。塩飴も用意してきたんだ。ちょっとは汗かくだろうし、大事だよね、塩分」
「用意周到だな……」
「えへん。これでも──」
葵は台詞の途中で笑みを消し、そっと片手で口もとを覆う。
「……大丈夫?」
「……うん」
大丈夫なようには見えなかった。
んぐ、と鳴るのどは嘔吐を我慢しているのだろう。
顔面蒼白で冷や汗をかいており、表情は険しい。
ただの想像に過ぎないが、「これでもサッカー部のマネージャーだから」と続いたのかもしれない。
それが記憶を刺激してしまった。思い出したくないこと。目をそらしていること。忘れていること。
彼女は休学をしているが、その理由がここにある。
過呼吸になることもあった。吐いたこともあった。
クラスメイトの悪気のない一言で、一気にどん底まで落ちてしまう精神の不安定さ。それに誰も何も言わないとしても、ふとしたきっかけでトラウマというものは甦るものだ。
まだ光輝が死んでから、ひと月しか経っていない。
葵が病んでから、ひと月も経っていない。食事もまともに摂れず、ずっと涙を流して、夜も眠れず──そんな状況から、今の安定した状態に入ったのが、だいたい一週間前。
そう、一週間前までは、吐いたり過呼吸になったりするのはザラにあることだったのだ。
比較的安定した状態とは言うものの、
光輝が死んで情緒不安定になっていて、歩を光輝と思い込んで、でも歩の言動は光輝とは似ても似つかない。
俺は光輝になりきることなんてできないし、真似しようと思ったってできるわけでもないし、そもそも親にもそれはやめろと言われている。
「……よしよし」
少しためらったあと、葵の頭にぽんと手を置いて、撫でる。
葵は無言で撫でられていた。
「…………」
「…………」
葵はそのまま頭をこちらにあずけてきて、目を閉じた。
「……ごめんね?」
「いいんだよ。俺が好きでやってることだから」
「……それでも、ごめん。ごめん……今日のこと、ずっと楽しみにしてたのに……私全然だめだな……」
葵が、いまどれだけ不安定なのかなんて俺にはわからない。
俺は精神科医でも心理学者でもなんでもないし、他人の心に敏感に生きてきたわけでもない。
だから、どうすれば葵がもとの健全な状態に戻るかなんて、わからない。
でも──
「今日、凄くかわいい」
「…………え?」
「髪とか。普段そのままだから凄い新鮮だなーって今朝から思ってた。ちょっと言いそびれててさ。今日凄くかわいいよ」
「……」
「爪もさ、綺麗だなって思ってた。何か塗ってるの? すっごいつやつやしてる」
「えと。これは磨いただけ。コウくんもやろうと思ったらすぐできるよ」
「え? ほんとに? なんも塗ってないの? すごいな……」
「だって、一応、校則でマニキュアとかだめだし……」
「真面目か? ていうかそれ言うなら化粧してない?」
「あ、うん。でもちょっとだよ」
「ふうん……? よくわかんないけどきれいだよ。かわいい」
「あ、ありがとう……」
少しの間、葵を笑顔にすることくらい俺にもできる。
「服も、かわいいよね。よくわかんないけどかわいい」
「あ、でしょっ。ちょっとね、迷ったんだけど、今日結構歩くだろうから動きやすいのと思ってね」
「あぁそれで。いつもスカートだもんね」
「うん。ジーンズとかのがいいかなと思って。靴もスニーカーだし」
「いいね」
頭はあずけたまま、葵は上目遣いに彼と話す。
いつの間にか葵の目は開かれており、頬は紅潮し、口もとは弧を描いている。
「お弁当もありがとう。早起きして準備してくれたんだよな」
「うん。でもあれだよ。だいたい昨日の夜やったから、今朝はそんなに」
「ふうん? いや絶対大変だったろ。弁当作るのはじめてとか言ってなかった?」
「そう……そうなんだよね……味見すっごいした……」
「真面目だな……適当でもいいのに……」
「えぇ~」
「あぁ今の適当っていうのは、葵が作ってくれたってだけで凄く嬉しいってことで……別にどうでもいいとか思ってないよ。そこまでしてくれて、本当に嬉しい」
「大丈夫だよ。わかってる」
「ならいいけど」
ふふ、と彼女は笑う。
「コウくんといると……落ち着くな……本当に好き……」
「それなら、よかった」
「……いつもありがとう」
「こっちの台詞だよな、それ。朝起こしてもらって、朝ごはん作ってもらって、弁当作ってもらって」
「ふふ。じゃあお返しに、色々してもらおうかな」
「いいよ」
「やった」
なんとなく、話していて、結論が出た。
葵と、どう接していけばいいのか、というこうなってからずっと抱えていた悩みに対する結論。
葵が俺を光輝と思ってるとか、そんなことはどうでもいい。
ただ、彼女が喜んでくれるように、居場所になろう。
葵が笑顔になれるなら、きっとどんなことでも、善いことだ。
「楽しみだね、今日」
「そうだね」
物事の本質なんて、考えても仕方がない。
大事なのは、表立って、何をするか。どう見えるか。
例えそれが偽物の関係でも、それで幸福が形作られるなら、それはきっと────。