お姉ちゃんは何でもできる【完結】   作:難民180301

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第25話

 胡桃まなかは参京区の町並みを一直線に駆ける。神浜市の上空に散開するおびただしい使い魔たちや、ちょっとドン引きするほど強力な穢れが近づいてくるのは見ないふりをして、一心不乱に目的地へ。

 

 やがて足を止めたのは、赤いのれんの小さなお店。実家の洋食屋ウォールナッツと関係の深い、中華飯店万々歳の店先だった。息を整えて勝手口の方へ回ろうとしたところで店内から話し声が聞こえ、正面の引き戸を開ける。

 

「アイヤー! 鶴乃、早く逃げるアル! スーパーセルがそこまで来てるアルよ、このままじゃ一家もろとも万々歳が吹っ飛ぶネ!」

「……」

「せめて何か言うネ!」

 

 そこにはカウンターに腰掛けてうなだれる鶴乃と、その周囲で大騒ぎする店主の姿があった。店主は大時代な風呂敷を抱えており、しきりにどこかへ逃げるよう促している。入り口に立つまなかに程なく気がついた。

 

「まなかちゃん、どうしたネこの非常事態に!?」

「い、いえちょっと」

 

 言葉を濁す。もうすぐ蛾みたいな怪獣が参京区を縦断するので、念のため避難してくださいとは言えなかった。

 

 まなかは避難を促すためにやってきた。先程まで北養区の実家にいたところ、一つ隣の通りを巨大な魔力が通過したので様子を見に行くと、怪獣めいたサイズの魔女が町を蹂躙していた。その進行先に万々歳があることに思い至り、取るものもとりあえず走り出して今に至る。

 

「それより非常事態って、どうしたんですか?」

「季節外れのスーパーセルネ! 参京も北養も避難指示が出てるアルヨ!」

「避難指示!? それはちょうど良かっ……おほん」

 

 空の向こうにいるとても大きな穢れが関係しているのかもと推測したものの、避難するならそれでよし。口を滑らせる前に咳払いして、まなかは鶴乃へ目を向ける。

 

「で、鶴乃さんはどうしたんです? 魂が抜けたようになってますが」

「さっき帰ってきたと思ったらずっとこの調子アル。早く逃げないとここも危ないのに……」

「……じゃん」

「アイヤ?」

 

 ぼそぼそと鶴乃の口元が動く。店主が聞き返すと、鶴乃はテーブルを突いて立ち上がり、叩きつけるように言い直した。

 

「逃げたいなら逃げればいいじゃんっ! 一人でどこへでも行けば!? ひいじいちゃんとおじいちゃんが作って、お姉ちゃんがすっごくすっごく頑張って守ってくれたここを捨ててさ、大陸でも南極でも行けばいいじゃない!」

 

 まなかは身がすくんで動けなかった。ここまで気を立てている鶴乃は見たことがなかった。店主も初めてのことなのか、おろおろとして後ずさりながら口ごもっている。

 

「み、店は大事アル。しかしアルよ鶴乃、この世で一番取り返しのつかないモノは命ネ。生きてさえいればどうとでもなるアル。たとえ店が吹っ飛んだとしても──」

「うるさいうるさいっ! 出てけコテコテチャイナかぶれっ!」

「あ、アイヤー……」

 

 力づくで店の外へ押し出されていく店主。まなかは涙目の店主と視線を交わし、「任せてください」とアイコンタクト。店主は外へ追い出される直前、苦虫を噛み潰したような顔で目礼を返し、締め出された。

 

 薄暗い店内には荒い息をつく鶴乃と、まなかの二人が残される。強風が万々歳の戸を揺らし、ガラス越しの雨音が遠く響いている。

 

「たしか、みかづき荘チームでウワサを攻めに行く予定でしたよね。一体何があったんですか?」

「まなか……」

 

 鶴乃と同様、まなかも実家の経営のために魔法少女になっていた。神浜にはびこるウワサの異変やマギウスの翼などについては、鶴乃を通して把握している。

 

 おそらくその方面で何かがあったのだろうと推測してみれば、案の定だったらしい。鶴乃はまたカウンターにうなだれて、ぽつぽつと事情を語った。

 

 記憶ミュージアムで魔法少女の真実を知ったこと。魔法少女が魂を抜き出され、いずれ魔女になる宿命を負う。だから姉は鶴乃が魔法少女になることに反対していた。しかし結局鶴乃は真実を知らないまま魔法少女になり、姉の思いやりを無駄にしてしまった。

 

『なんで、なんでうまくいかないの……』

 

 姉はそれでも鶴乃を救う力があった。その力を失ったことに絶望し、鶴乃を救うためだけに失踪した。残り少ない命を燃やしながら。

 

「お姉ちゃんはね、昔から私のためにすっごく頑張ってくれてたの。だから私もその力になりたかった。魔法少女になって一緒に戦えるようになれば、きっと役に立てると思った。だけど……魔法少女になったせいで、お姉ちゃんを追い詰めちゃったんだ」

 

 思いを踏みにじり、気遣いに気づくこともなく。姉を苦しめていたのは他ならない自分である。姉の記憶からそれを読み取った鶴乃には、もう戦う意志などなかった。ただ、何をしても姉を苦しめてしまう自分への怒り、それさえも姉を追い詰めるかもしれない恐怖感の板挟みとなって、鶴乃の心はぽっきりと折れていた。

 

 もう合わせる顔がない。かろうじて鶴乃にできたことは、姉が残してくれた万々歳でひたすらに落ち込むのみである。

 

 懺悔を終えた鶴乃は嗚咽を漏らし、カウンターに突っ伏す。普段の元気はウソのように消え去り、そこには重い真実に押し潰される力のない少女の姿がある。

 

 さて、一通り事情を聞かされたまなかはというと。

 

「……」

「ま、まなか?」

 

 無言で厨房に押し入り、魔法少女の装束へ変身。魔女退治どころか料理だってできる一挙両得な姿で、厨房へ火を入れた。

 

 中華鍋を大火力コンロに設置すると業務用冷蔵庫を押し開け、在庫を確認。ありあわせで完成するレシピを瞬時に脳内で組み上げ、調理を始めた。古びた野菜や肉を刻み、鍋に入れて、冷ご飯に油、溶き卵なんかをぶっこんで鍋を振るう。換気扇がうなりを上げて、鍋は火を噴いた。

 

「チャーハン上がりました!」

「なんでっ!?」

 

 鶴乃の前にほかほかチャーハンを提供したところで、やっとまなかに正気が戻る。すー、はーと深呼吸すれば平生の思考能力が帰ってきた。

 

 なぜ突如料理を始めたのか。端的に言えば錯乱である。

 

 魔法少女の真実に加え、まなか自身も親しくしていた鶴乃の姉が抱える余命、運命など。中学二年の女の子であるまなかがいっぺんに受け止めるにはあまりにも重すぎた。パンク寸前の頭はルーチンに従いひとまず料理を選び、その通りに体を動かして平常を取り戻したのだ。

 

 鶴乃はほかほかチャーハンを前に目を白黒させている。それを見ると、冷静なまなかの心中にじれったい思いが湧いた。

 

「傷つけるとか踏みにじるとか、ほんっとにめんどくさい姉妹ですね」

「め、めんどくさい?」

「鶴乃さんは瑞乃さんの助けになりたいんでしょう。生きていてほしいんでしょう。じゃあそうすればいいじゃないですか。あの人がどう思ってようが、あなたの思うままにしたらいいんです」

「それができたら……っ!」

「大体」

 

 まなかがカウンターに身を乗り出す。

 

「魔法少女の宿命を受け入れるかどうか。それは鶴乃さん自身が決めることであって、瑞乃さんが決めることじゃありません。あなたは後悔してますか? 魔法少女になんてならなきゃよかったって思いますか?」

 

 鶴乃の脳裏に弱った姉の泣き顔や、細い手足、小さな背丈が巡る。一人にしておけない、力になって支えたい。たとえ事前に真実を知っていたとしても、契約をためらうことはなかっただろう。

 

「……思わないよ。お姉ちゃんを助けたい気持ちは、本物だから」

「だったら──」

「でもっ!」

 

 鶴乃は息を詰まらせる。つぶらな瞳に涙がたまり、まもなくはらはらと流れ出す。

 

「その気持ちがお姉ちゃんを追い詰めちゃった! お姉ちゃんはお姉ちゃんなりに私の幸せのこと考えてたのに、私が余計なことしたせいで……そうだよ、昔から私はお姉ちゃんに迷惑かけてばかり……もうやだ……」

「こ、この姉妹はほんとにもう〜っ!」

 

 わんわん泣き出す鶴乃を前にまなかは頭を抱えて天を仰ぐ。やがて大きくため息をつくと、小さな身体を半ばカウンターに乗っけるようにして鶴乃の方へ詰め寄った。

 

「じゃあ聞きますが、鶴乃さんは今幸せですか! 瑞乃さんとすれ違ってばかりで自由に会えない今幸せなんですかっ!?」

「ひぐっ、不幸のどん底だよ……お姉ちゃんに会いたいよう……」

「それを言うんですよあの人に直接ぅ!」

 

 目と鼻の先ですさまじい剣幕のまなかに圧され、鶴乃は鼻をすすりながら身体をのけぞらせる。その反応でまなかも幾分落ち着き、こほんと咳払いを一つ。

 

「いいですか。結局はすれ違いなんです」

 

 指を一本立て、噛んで含めるようにゆっくりと切り出す。

 

「瑞乃さんが鶴乃さんを想うのと同じくらい、鶴乃さんも瑞乃さんを想ってる。お互いにそのことを知らないせいで、いえむしろ知り過ぎていたからこそ、こうなっちゃったんです」

「……そう、かも……」

 

 鶴乃はぐっと唇を噛んで、四年前のことを思い出す。高校進学を断念する姉の覚悟を前に、鶴乃は言葉を飲み込んだ。万々歳は大好きで大切な場所だけれど、それ以上にお姉ちゃんも大切なんだよと、気持ちを伝えられなかった。それまで身を粉にして店を切り盛りしてきた瑞乃の努力を思いやるあまり、水を差すようなことを言う勇気がなかった。あの日すれ違った想いが巡りに巡り、今につながってしまったのだろう。

 

 ならば今こそ想いを伝え合えばいい。すれ違ったそれらを撚り合わせ、幸せな未来へつないでいけばいい。イブもワルプルギスも姉の余命もみんなどうにかなる。どうにかしてみせる。

 

「はい、どうにかしてください」

 

 ごしごしと涙をぬぐった後の顔つきを見るに、気持ちは伝わったのだろう。ならばもはや料理人に語ることはない、と判断するまなか。

 

 鶴乃はお行儀よく手を合わせてからスプーンを引っ掴み、チャーハンをかきこんだ。程よくバラける粒の一つ一つに味がしみこみ、ごま油の風味が香ばしい。がつんと来る濃い味付けはまさに旨味の暴力で、しかし後を引かずいくらでも食べられる。

 

 懐かしい味を平らげた鶴乃は跳ねるように席を立ち、外へ向かった。

 

「ごちそうさま! ありがとね、まなかっ!」

「お粗末さまでした」

 

 気力を取り戻した鶴乃は敢然と引き戸に手をかける。まずは記憶ミュージアムに戻ってやちよたちと合流し、迫り来る脅威から神浜を守らねばならない。覚悟を決めて外へ飛び出したところ──

 

「えっ」

 

 ふわり、と体が浮いた。一拍遅れで轟音と衝撃がやってくる。

 

 万々歳のわずか百メートルほど先の路面が陥没し、もうもうと塵埃を上げている。ツバメのような使い魔たちが死体に集う鳥のごとく飛び回り、その中央に白い巨体が見えた。

 

 でっぷりと膨らんだ腹部は豊かな体毛に覆われ、無数の宝石に彩られている。蛾と巨人を混合したようなとんでもない巨体が、ゆっくりと動き出す。万々歳の方向へまっすぐと。

 

 エンブリオ・イブである。穢れを貯め込む性質を持つイブにとって、上空のワルプルギスの夜は格好のエサだ。道中の有象無象は気にもせず、ただ最短距離を徒歩と大ジャンプで突き進むのみ。

 

 しかし着地しただけで地を震わせ鶴乃を宙に浮かせたように、進路上にあるものは無事では済まない。すでに数人の魔法少女が迎撃しているのが見えるけれど、意にも介していない。

 

「い、一体何が……っ!」

 

 慌てて外へ出てきたまなかは、接近するイブの威容に絶句。

 

 その横で鶴乃は静かに、けれど決然と闘志を胸に変身し。

 

 燃え盛る一対の扇を手に、イブへ正面から突っ込んでいくのだった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 栄区、記憶ミュージアム跡。ガレキの山と化したウワサの中心で、いろはとマギウスが対峙している。ミュージアムに見せられた真実の記憶で精神を疲弊した他のメンバーは、十七夜とかなえに手を引かれて撤退しており、四人の他に居るものといえばいろはの肩に乗る小さなキュゥべえだけだった。

 

「この魔力の動き、ベテランさんたちずいぶん苦戦してるみたいだねー」

「イブの使い魔だけでなく、ワルプルギスの夜の使い魔も相当な数が動いているようだからね。いくらあの二人でも無理はない」

「ていうか、みふゆはなんで寝返ったワケ? アリナ的にベリーバッドなんですケド」

 

 目を閉じ神浜市内の魔力を感じるマギウスたちは、いろはのことを忘れているようだった。

 

 いろははそんな態度にもめげず、意を決して呼びかける。

 

「灯花ちゃん、ねむちゃん! もうやめようよ、こんなこと!」

「あ、環いろは。まだいたんだ」

「モギュゥ……」

 

 まるで無関心な様子に小さなキュゥべえが唸り声を上げる。

 

 灯花とねむは、いろはが探す妹と共に入院していた二人だった。妹の行方について聞くために探してはいたが、まさかこんな形での再会になるとは想像もできず、しかもやはりいろはのことを覚えていないようだ。

 

「ワルプルギスの夜を呼ぶなんておかしいよ。神浜市が壊れたら、ういとの約束はどうなるの!?」

「言ってる意味がわかりませーん。初対面なのに馴れ馴れしくしないでよね!」

「同感だね。支離滅裂で文脈が見当たらない」

 

 取り付く島もない塩対応だった。アリナに至っては見向きすらしていない。

 

 灯花とねむ、ういにいろはの四人はある約束をしていた。退院したら北養区にある大きな桜の木の下で再会し、神浜市の噂を共に見て回ろうと。再会の場所である桜には万年桜という専用の噂まで考えていた。

 

 そのこともまったく覚えていないのだろう。いろはも妹を起点とする様々な記憶を失っていたので、灯花とねむの状態には理解がある。二人にとっては初対面のいろはが何を言ったところで通じないだろう。ワルプルギスの夜を呼ぶに至った事情を考えればなおさらのことだ。

 

 しかしいろはは諦めない。いろははお姉ちゃんであり、しかも妹のためだけでなく同じ姉のためにも何だってできる手合いだからだ。

 

「……かすかさんのことは知ってる。あの人を助けるために、こんなことしたんだよね」

 

 灯花とねむは初めていろはへ振り向いた。モルモットを観察するような冷たい二人の視線を、いろはは真っ向から受け止める。

 

「鶴乃ちゃんややちよさんからあの人の話はたくさん聞いたの。だから分かるよ。きっとこんな方法で助かっても、悲しむだけだって。ううん、それだけじゃすまないかも」

「分かりきったことを言うね」

 

 被せ気味にねむが答えた。

 

「僕たちはかすかのために計画を加速させたんじゃない。感謝されるとも思ってない」

「じゃあどうして──」

「ワガママだよ。ただ、かすかに死んでほしくない。彼女にどう思われようとね」

 

 ねむたちマギウスはかすかの不興を買うことを割り切っていた。そのリスクに鑑みても、組織の目的である魔法少女の解放を成し遂げるだけでなく友人の命まで確保できるリターンは大きい。それにみふゆが余命の情報を開示した時点で、組織内の最大派閥であるかすか派が加速案に傾くことは確定しており、解放を求める他派閥も同様だった。マギウスは合理的判断を下したに過ぎないのだ。

 

 ねむはいろはに背を向け、灯花もぷいとそっぽを向く。アリナはやはり一片の興味すら示していない。

 

 呼びかけは失敗に終わったが、妹の親友である二人がこれ以上罪を重ねるのを見ていられない。みんなが傷つくだけの結末に突き進むのを見過ごすことはできない。

 

 そこでいろはは強硬手段を決断した。

 

「……お願い」

「モッキュ」

 

 小声でつぶやくと共に、小さなキュゥべえがするりと肩から下りる。ガレキの陰をコソコソと動いて、少しずつ灯花とねむへ接近していく。

 

 いろはの記憶は小さなキュゥべえとの遭遇、接触を経て少しずつ復元されていった。であれば二人の記憶も同じ方法で元に戻る可能性がある。妹との約束を思い出したなら、これ以上罪を犯すことはなくなるかもしれない。

 

 キュゥべえが確実に距離を詰めていくものの、マギウスたちは変わらずいろはを眼中に入れず、遠景のイブと魔力の動きを花火でも見るように楽しんでいる。密かに動き回るキュゥべえに気づく様子はない。

 

「……かすかは、怒るかにゃー」

 

 ぽつり、と灯花がつぶやいた。イブの方向へ向けられる視線は、それよりも遠くのどこかを見つめている。

 

 こだまのように、ねむが続いた。

 

「怒るに決まっているよ。あれだけ厳しく釘を刺されたのに、無視したんだから」

 

 ラインを踏み越えたマギウスは、壊れた神浜市で口うるさくお説教を受ける未来を思い、悄然と肩を落とす。かと思うと、灯花は不満げに口を尖らせた。

 

「でもかすかだって悪いよ。苦しいのも辛いのも全部一人で抱えてさよならなんて……」

「その点には同意する。この計画が成就したら、一緒に怒られよう。それから僕たちもかすかを怒るんだ。みふゆも、みかづき荘の人たちも怒ってくれるだろうね」

 

 マギウスの明瞭な頭脳には、魔法少女が解放された世界でみんなが手を取り、笑い合う姿が見えていた。

 

 油断ではない。イブが解放されワルプルギスの夜が呼ばれた段階でもう計画を止める手段はなくなっている。唯一の方法になりうる最高戦力は、みふゆが手加減なしの魔法で無力化済みだ。その魔法を破りこの土壇場に都合よく駆けつける奇跡など起きるはずもない。

 

 すでに計画をやりとげたような気分で、ねむはふとアリナを見やる。

 

「アリナ。君の考えはどうなんだい」

 

 アリナ・グレイ。生と死のテーマに取り憑かれた若き天才芸術家である。さしものねむと灯花であっても、計画の加速についてアリナの意見だけは予想がつかなかった。といっても今更翻意することはないだろう。慢心と好奇心に満ちた問である。

 

 アリナは両手の人差し指と親指を組み、かたどった四角のフレームにイブを収めている。視線は外さず、みかづき型に口を歪めながら、なにげなく答えた。

 

「命はどんなアーティストにも一つ限り、モストプレシャスな画材なワケ。あれだけ上質なのが浪費されるのは、アリナ的にナンセンスってだけだヨネ」

「相変わらず、脳の血管に絵の具が通ってる感じだよねー」

「結局最後まで理解できそうにないよ……」

 

 アーティスト特有の価値観に対し、ねむと灯花は苦笑した。

 

 と、そこでキュゥべえが灯花の足元にたどり着く。

 

 強風により三人の会話がいろはに聞こえることはなかった。ばたばたとはためくフードとケープを抑えるいろはに、キュゥべえが振り返る。お願い、と意図を込めて首肯を返した。

 

 するとキュゥべえは後ろ足で立ち上がり、前足二本で灯花とねむの足に触って──

 

「な、何!?」

 

 効果は劇的だった。

 

 マギウスを中心に、山吹色の閃光が吹き荒れる。ほとばしる魔力の波に身構えるいろはの目には、ラーメンどんぶりの模様のような何かがマギウスを取り囲んでいる様が見えた。

 

 紋様は太陽のような輝きを発しており、灯花とねむ、さらにはアリナまで呆然自失となっている。

 

「僕の中の針が逆に回る、時が刻み直されていって、網膜の景色が焼き直される……」

「やだ、これ、何が見えてるの……落ちる……わたくしの脳髄の中に、トロンって落ちていく……」

「……」

 

 物忘れとは無縁な三人の天才の脳裏に、過去の情景が閃いては流れ行く。かつて覚えておく必要のない些事だと断じたはずの記憶が、歪んだ因果と共に修正されていった。

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