ガレキの山と化した水徳商店街。市全域に発された避難指示が奏功し、すでに人の気配はない。暗雲立ち込めるそこで、エンブリオ・イブの巨体が黄色いリボンと紅い鎖に拘束されている。
「みんな、今よっ!」
「ぶちかませ!」
見滝原の魔法少女、巴マミと佐倉杏子のリボンと鎖だった。幾重ものリボンと鎖がイブをその場に縫い付けて一時的に動きを止め、そのスキを逃さず二人の魔法少女が躍りかかる。
「えーい!」
「怪獣映画かってーの!」
同じく見滝原の魔法少女、鹿目まどかと美樹さやかである。桃色の矢雨と双剣の鋭い剣戟がイブの巨体に直撃し、さらにどこからともなく湧いて出た爆弾によりイブの頭部が爆破される。時を止めた暁美ほむらが急所になりうる場所に爆弾を設置していたのだ。続いてほむらが再び時間を止め、無数のマスケット銃と多節槍による連撃が瞬きのうちにイブへ見舞われる。
拘束により進行を遅らせた上での、現時点での最高火力だ。しかしその爆炎が晴れると、無傷のイブが姿を見せる。
「さすがに計画の要、伊達じゃないわね……!」
マミが苦々しくつぶやくと、隣に杏子が降り立った。槍を肩に担ぎ、火とガレキに塗れたイブの進行後を見やり、小さく舌打ちする。
「ったく、こうも後手に回るとはな。アイツの思うツボじゃねーか」
二人が同時に思い浮かべるは7日前、黒羽根のリーダーとの戦いだ。
『一週間です』
魔女の結界が消滅した暗い路地裏で、血と土ぼこりに塗れたリーダーはぽつりとそうつぶやいた。
『私がズタズタにした縁が復縁するまでの時間ですよ。それまでは大人しくしといてくださいね』
リーダーの捨て身の攻勢は実を結び、戦闘中にマミだけでなくまどか、さやか、ほむらの三人の縁も離縁させることに成功していた。経験の長い杏子さえ魔女とドッペルの連携によりかろうじて刃が届き、離縁が成立。情報漏えいの回避のみならず、不穏分子の隔離まで成し遂げてみせた。
その代償にリーダーは満身創痍、壁に寄りかかって指一本動かせない状態だった。
『お前の身体に聞くって手もあるんだぞ。……なんだよ、マミ』
杏子は血に塗れたリーダーの胸ぐらを掴み上げるが、やんわりとマミに制止された。しばし強い視線を交わしあったのち、むっつり口を尖らせてリーダーを解放する。
最初の不意打ちの時点でリーダーはマミの首を落とすことができた。錆びたハサミであってもマミの弾を切り裂く程度の切れ味はあるのだ。わざわざ縁だけに狙いを絞らず、なんならソウルジェムを直接切ることもできただろう。その事実を分かっていて強硬な手に出るのはフェアではない。
見滝原の五人はマギウスの翼への手がかりを完全に失い、ただ何かを阻止すべき心地悪い焦燥感だけが心にくすぶっていた。
『私は、変われました』
出し抜けにリーダーが言った。
『絶望さえできなかった。生きたまま死んでいた。背中押されても、優しく支えられても、お尻叩かれても……一生立ち直れない、戦えないと思ってた。本当に折れてしまったから……』
言葉の途中で咳き込むと、たまらずまどかが駆け寄った。さやかもまた同じくして、癒やしの固有魔法を発動しようとするが、かがみこむ彼女たちの手をリーダーが振り払う。
『あなたも、きっと……』
『リーダーっ!』
直後、黒いローブが路地裏にひらめく。リーダーと同じ格好の少女たちが壁を作り、マミたちと相対した。
『ったく、持ち場はどうしたのよ……』
リーダーがかすれ声で苦笑する一方、マミは倍以上の頭数とメンバーの消耗を見てとり、速やかに撤退を指示。この日以降リーダーの思惑通り、マミたちはマギウスの翼との縁が復活するまで雌伏を強いられるのだった。
そうして復縁したのが本日の朝方であり、いざ全員で神浜市に来てみれば、イブとワルプルギスによる大惨事が始まっていたのである。
このままイブが進行を続ければワルプルギスの夜と接触し、大惨事に拍車がかかってしまう。囚われたあの人が望まない未来が実現してしまう。
マミが再びマスケット銃を生成し、指揮の声を張り上げようとしたその時──
「炎扇斬舞っ!」
「刺激的な味付けをどうぞ!」
イブの巨体が炎に包まれた。
ーーー
イブとはすでに五人の魔法少女たちが交戦中だった。そのうち四人はみかづき荘経由でよく知った顔だったが、指揮をとっていると思しきツインテールの魔法少女とは鶴乃もまなかも面識がない。
が、通りすがりでもなんでも関係なかった。大切なものを守るため力を貸してくれるなら、誰だってありがたい。
鶴乃が一対の扇をひとふりすると炎の弾雨が降り注ぐ。火の海で焼かれるイブに詰め寄ったかと思うと、舞うような連撃で巨体を焼き尽くさんとする。その後にはまなかのフライパンから発射された火球が直撃し、爆炎でイブの姿が隠される。
「ちっ、全然手応えがねーぞ!」
しかし爆炎が晴れたそこには、やはり無傷のイブがたたずんでいる。
マミが表情を険しくすると、イブが体をゆすり始める。ぶちぶちと嫌な音がしたかと思うと、見る間に拘束が引き千切られイブが進行を再開した。
進む先には伝説の魔女のものと思われる大きな穢れ。そして進路上には、絶対に鶴乃が譲れない大切な場所──中華飯店、万々歳が位置している。
穢れを貯め込む性質上、イブはただ極上の穢れに向かっているだけなのだろう。しかしただ動くだけで次々に町が破壊され、鶴乃の大切なものまで壊そうとしている。
「まだまだ! ちゃーらーっ!」
なりふり構わずもう一度正面から突っ込む鶴乃。炎上する周囲と鶴乃の連撃を煩わしく思ってか、イブは体をひねる。蛾を思わせる長大な羽が一辺をなぎ払った。範囲内から逃げられなかった鶴乃は、交差させた扇でどうにか受け止める。
「っく、まだ、まだっ!」
真横へ砲弾のように吹っ飛びながら態勢を立て直し、建物の壁面に足から接地。骨が軋み、壁面に幾筋もの亀裂が走る。
歯を食いしばって気炎を上げ、壁面を思い切り蹴った。吹っ飛んだのをそのまま巻き戻したかのように、再びイブへ突っ込んでいく。中空で扇を振り、火の海と連撃を再び繰り出すものの、やはり効果はなかった。
「そこのあなた! 無茶しすぎよ、下がりなさい!」
「うるさい! 来て、もう一人の私っ!」
親切に手伝ってくれている通りすがりの魔法少女、マミにきつく言い返し、鶴乃は強い感情に身を任せた。全力攻撃の繰り返しによってソウルジェムは穢れきり、もう一人の鶴乃たるドッペルが姿を現す。
背中から生えたそれは傍目にはゴージャスな豚のバルーンのようだ。鶴乃を吊り上げ宙へ浮かんだところで、鶴乃の扇が振るわれる。ドッペルの鼻先から粘性の液体が振りまかれ、耳の先に着いた火打石が火花を散らすと、爆発的な熱風が吹き荒れた。大火力、広範囲の火炎放射だ。
爆炎の晴れたそこはガレキの山から焦土へと姿を変えていた。しかしその中央にいるイブは煙を上げているもののまだ健在で、鶴乃はまたも正面から突っ込む。
「鶴乃さん、待ってください!」
一切消耗を気にしない鶴乃の猛攻にまなかが悲鳴のような制止をかけるが、鶴乃は聞いていない。というより、聞こえない。
万々歳は鶴乃にとって大好きな場所だった。曽祖父が作り、祖父が大きくしたそこはかけがえのない宝物だった。そして、その宝物を全身全霊で守ってくれた姉の、努力の結晶でもある。
病的に白い部屋の中、力なく横たわる姉の姿を思う。暗い部屋で一人涙を流す姉の記憶が脳裏によぎる。
あんなに頑張って、あんなに苦しんでまで守ってくれた万々歳を壊すなんて──
「ぜーったい、許さないんだからっ!」
灼熱の怒りと闘志がソウルジェムを黒く染めていく。軋む体の悲鳴を無視してがむしゃらに扇を振り回せば、ほどなくドッペルが現れた。中空からまたも爆発的な火炎放射を発射。見滝原の魔法少女たちは巻き込まれることを恐れ、一時的に退避していた。
二度目のドッペルによってイブはようやく鶴乃の存在を認めたらしく、足を止めて向き直った。山のような巨体がゆっくりと迫る中、鶴乃は三度目のドッペルを出そうと一歩踏み出し──
「あれ?」
気の抜けた声が出た。世界が九十度傾いて、体に力が入らない。
「鶴乃さんっ!」
まなかの悲鳴が遠くで聞こえたとき、鶴乃はやっと倒れたのだと自覚した。イブの巨体がすぐそこまで迫っているというのに、身じろぎもできない。
ドッペルを発動すれば穢れが浄化され、魔力が全回復する。魔力は魔法少女の命の源であり、ドッペルさえ発動すればいくらでも戦えると鶴乃は考えていた。
しかし魔力と体力は別物である。かつて無尽蔵の魔力を持つ瑞乃が過労で倒れたように、体力が尽きれば魔法少女は動けない。ドッペルは穢れのエネルギーと体力を激しく消耗するのである。
蛾のような腹部から伸びた二本の足がすぐそこまで迫っていた。まなかと通りすがりの魔法少女たちは距離をとっていたので、間に入ってかばうのは間に合わない。
(これでいいんだ)
鶴乃の思考は冷静だった。イブは鶴乃を敵としてみなしている。倒せはせずとも時間は稼いだ。きっとやちよたち頼れるみかづき荘チームが駆けつける時間稼ぎにはなっただろう。
イブの足が鶴乃のはるか頭上に掲げられている。ハンマーのように鶴乃の体を踏み潰し、ソウルジェムごと粉々にするつもりだ。それでも鶴乃の頭に恐怖はなく、すがすがしい気持ちだけがあった。譲れないもののために力を尽くしたことを、後悔はしない。
けれど一つだけ心残りがあるとすれば。
「お姉ちゃん──」
「なーに?」
姉ともう一度会いたかった──
「えっ」
ほとんど悔いなく目を閉じた鶴乃だったが、当たり前のように返されて間の抜けた声があがる。
見上げる視界には、小さいけれど誰よりも大きく、頼れる背中。ラーメンどんぶりのような雷紋が輝き、色素の薄い茶髪が風になびいている。
連なる雷紋の鎖がイブの足を絡め取り、拘束していた。
その鎖を手繰る彼女は首をひねって鶴乃を振り返る。
「大きくなったね、鶴乃」
まぶしいものを見るように目を細め──由比瑞乃は、笑った。
ーーー
瑞乃が右腕を振るうと、雷紋の鎖が生きているように蠢いてイブの足を引く。仰向けに転倒したところで、瑞乃と鶴乃の元へマミたちが駆けつけた。
「かすかさん、どうしてここに!?」
「瑞乃さん、今までどこに行ってたんですかっ!」
マミとまなかが同時に呼びかけ顔を見合わせたので、瑞乃は気まずげに頭へ手をやって苦笑い。どっちでも呼びやすい方で、ということで落ち着く。まどか、さやか、ほむらに杏子の四人はちらちらと瑞乃たちを見やりつつ、倒れたイブを警戒していた。
「どうしてと聞かれると、ご都合主義って答えるしかないかなぁ。一年の間で今日だけは、寝てる訳にはいかないの」
「今日だけは?」
首を傾げるマミ。一方、まなかは「あっ」と声をあげる。
「もしかして……鶴乃さんの誕生日ですか?」
「そうそう」
なぜみふゆの幻術がなんの理由もなく今日解けたのか。なぜ鶴乃の前に現れたのか。すべては今日、鶴乃の誕生日のためである。
「ぶっちゃけ色々といっぱいいっぱいで、忘れかけてたけど……当日思い出したからセーフってことで」
いたずらっぽく笑う瑞乃にまなかは呆れた。半年以上失踪していたくせに、妹の誕生日だけを理由に帰ってくる思考回路にだ。マミもまた同じく、それだけのためにみふゆの強力な幻術を無効化したのに驚愕と呆れ半々である。
『天地開闢の記念日を忘れても、鶴乃の誕生日を忘れるわけないじゃんね』
瑞乃はいついかなるときでもお姉ちゃんだ。妹のためならどんな理屈や魔法もご都合主義で捻じ曲げてみせる。かつて鶴乃が魔女の結界に巻き込まれた折、感知できるはずもない鶴乃の存在を知った時のように、無理を通して道理へ変える。
「お姉ちゃん」
だから鶴乃もまた、姉と同じように無理を通す。
大技とドッペルの乱用で意識が暗く沈んでいく中、何が何でも言わなければならない気持ちを絞り出す。
「私、後悔してない。お姉ちゃんの隣にいたいから、支えたいから……お姉ちゃんと一緒にいられない方が、魔女になるよりずっとずっと辛いよ……お願いだから……大好きだから……そばにいて……」
伸ばされた鶴乃の手がぱたりと落ちる。疲労困憊で眠りに落ちたのだろう、深い呼吸音が瑞乃の耳に届く。ただ、妹の表情だけは、魔力の波では分からなかった。
「ふー……」
鶴乃の気持ちは正しく伝わった。真実を知っても折れるどころか悔みもせず、受け入れている。そんなことより姉を支えたいと言ってくれたことが、瑞乃はただただうれしい。
同時に、虚無感を覚える。妹の幸せを決めつけ独りよがりに走った。妹のためと言い張る姉の行動はすべて、自分勝手な空回りに過ぎなかった。分かっていたはずの事実を直接指摘された瑞乃は、姉として甚だ情けない。
そんな自分をお姉ちゃんとまだ呼んでくれた妹が愛しくて、恋しくて。思わず伸ばした手を引っ込めて、眼前の脅威に向き直った。
「ごめんまなてぃー、気を付けてね」
「み、瑞乃さん……?」
気絶した鶴乃をまなかに託し、ゆらりと立ち上がる。それとともに装束の雷紋が帯電を始めた。バチバチと迸るスパークに照らされながら、瑞乃はただ手をかざす。
「ちょっと、ガチる」
力強い宣言。空気が張り詰め、一段重くなった。
「……! 鹿目さんたち、離れてっ!」
イブの周囲で構えていたまどかたちに、マミが鋭い声をかける。それと同時に周囲が白く染まった。
「『神様の手違い』」
太陽の一部がそのまま落ちてきたような山吹色の光条が、イブの巨体を打ち据える。雷鳴というより爆発音に近い轟きが市内を駆け巡り、遠方のビルの壁面ガラスが残らず砕け散った。
破滅的な落雷に打たれたイブは眩く帯電しながら、体を硬直させている。羽はボロ切れのように破れて萎れ、二本足でヒザを突いていた。
動き出す前にまたも雷光が閃く。瑞乃が腕を振るうと鎖がぐんと伸び、イブの体をがんじがらめにした。落雷のダメージもあるイブは完全に動きを止められる。
瑞乃は鎖から手を離し、半身になって右手を構える。現実離れした落雷で呆然としていたまなかは「ビームだ」と直感的に悟ったものの、
「お願い、キリンさん」
「ええ……」
右手から発射されたのは大型貨物トラックだった。藍色を基調とした車体に山吹色の雷紋のペイントがなされ、カーゴの側面には『中華飯店瑞鶴庵・フェントホープ支店』の文字が踊る。セキトバくんよりも二回りは大きいそれはもはや人の使用を想定していない。
イブの体高と同等の車体が太陽の輝きを放ち、彗星のごとく宙を直進していく。動けないイブに正面衝突すると、数十メートル押し返してから拮抗状態に。すると一際強い輝きを発し、やがて爆発的な光が市内を照らし出した。自爆である。
光の柱が天を衝き、暗雲の一部を払う。巻き込まれたイブの使い魔たちは塵すら残さず消滅。光の収まった跡には、全身が焼け焦げ満身創痍のイブの姿があった。
切り札を受けまだ倒れていないのは瑞乃にも慮外のことだったが、ダメージは大きい。妹を気絶するまで追い込んだイブにかける情けはない。このまま消滅まで押し切る。
最後のとどめを刺すために接近していくと──
「待って!」
「っと」
瑞乃の足元を桃色の矢が穿つ。
反射的に飛び退いて飛んできた方を見ると、どこかで見覚えのある魔法少女の姿が。
ガレキの山を越えてよほど急いでやってきたのだろう、ぜえはあとヒザに手をついている。
さらにその後ろからもう三人、灯花、ねむ、アリナがやってくる。アリナは無表情で、灯花とねむは冷や汗を流していた。
灯花とねむは瑞乃と目が合うやいなや、ずんずん詰め寄ってきて文句をたれた。
「かすか、自分が何してるのか分かってる!?」
「魔力を使えば死期が早まる。それに、イブを倒してしまえば君を救う手立てがなくなるんだよ」
「あー、うん。知ってる。それはもういいのよ」
「よくないっ!」
「いいって。それより、そっちの子は? なんで一緒にいるの?」
先程矢を放ってきた少女に目を向けると、少女は息も整わないまま、イブの足元に立った。まるでイブをかばうような位置取りで、瑞乃は眉をひそめる。
「はあ、はあ……イブの中には、ういが……私の妹がいるんですっ! ひどいことしないでください!」
「分かった、もうしない! ごめんね!」
「え、ええっ!?」
物分りが良すぎる瑞乃に少女は目を丸くし、灯花たちも正気を疑うような目を向ける。
しかし瑞乃はお姉ちゃんだ。妹の身を案じる同じお姉ちゃんの思いを見誤ることはありえない。少女の妹がどういった経緯でエンブリオ・イブの中に囚われ、それを少女がどうやって知るに至ったのか、疑う必要はない。同じお姉ちゃんが困っているなら、助ける。イブを倒すのはそれからでいい。
「で、どうやって助けるの、みとっち!?」
「えっ、あ、コアになってる宝石に囚われてると思うから、そこに穴を開ければいいけど……」
「よしきた」
「待ってよ!」
さっそくイブの胸元に輝く大きな宝石に狙いをつける瑞乃だが、灯花はその腕を強くつかむ。ねむも同じように、すその部分をつかんでいる。
「コアになってるういを助けたら、イブが崩壊する。かすかの助かる方法がなくなっちゃうんだよ!?」
「……ほんと、優しい世界じゃんねぇ」
中腰で視線を合わせ、灯花とねむの頭を順番に撫でつける瑞乃。二人の顔に困惑の色が広がる。
構わず、瑞乃は言った。何の後悔もない晴れた笑顔で。
「私は生まれたときに死んでる。なのに妹と会えた。親友にも会えた。みとっちやねむりんみたいな、年の離れた友達もできた」
現実とは思えない都合の良すぎる奇跡が連続し、たくさんの幸せを掴むことができた。生まれるはずのなかった由比瑞乃は多くの奇跡に恵まれており、これ以上は望むべくもない。なぜなら彼女はすでに疑いようもなく──
「──救われたから」
突如、瑞乃の足元が裂ける。
裂け目へ落ちるかに思われた瑞乃は機敏に飛び退き、アリナヘ苦笑いを向けた。
不意打ちで結界への幽閉を試みたらしい。視線が集まる中、アリナは舌打ちを漏らして腕をひとふり。結界の裂け目が閉じ、アリナはそっぽを向く。
「……生きたマネキンにでもしてやろうかと思ったケド。結局ソレは、アナタの画材だカラ」
好きに描けばいいヨネ、と。拗ねたようにそう吐き捨てると、今度はアリナの足元が裂け、結界の中へ姿を消す。
灯花、ねむ、それからまなかとマミは、黙り込む瑞乃に何かを呼びかけようとした。
しかし雲間から降りてくる濃密な穢れの気配に、そろって口を噤んでしまう。
空を見上げてみると、逆三角形のシルエットが見えた。少しずつ高度を下げてくるそれは、歯車とドレス姿の女性を組み合わせような異形で、シルエットの正体はふわりとしたスカートと歯車だった。
実物を見るのは初めてでもその場の全員が理解できた。この威容こそ伝説の魔女、ワルプルギスの夜であると。
ワルプルギスの夜は逆さになった女体部分から不気味な高笑いを発しつつ、イブの方へ近づいてくる。並行して口腔に途方もなく濃密な穢れの光が凝縮し──
「セキトバくんっ!」
穢れの奔流がイブに向かう。
同時にどこからともなく飛来する赤い貨物トラック。サイズにそぐわぬ俊馬めいた動きで射線に割り込み、穢れの波動を荷台で受ける。
目の眩む輝きと共に荷台が大きく凹むが、見事に攻撃を相殺してみせた。
「な……!?」
信じられないというように暁美ほむらは口元を手で覆う。
瑞乃は表情を険しくして、鋭く言い放つ。
「足止めしとく! みとっちたちは妹さんを助けてあげて!」
「で、でも……!」
「やちよ!」
なおも食い下がる灯花を無視し、瑞乃はあらぬ方向を向いた。
ガレキの山の麓から、やちよとみふゆが駆けてくる。二人共擦り傷やほこりに塗れ、少なからず消耗している。
それでも瑞乃は心配の言葉をぐっとこらえて、まなかに寄り添われぐったりしている鶴乃を視線で指し示す。
「鶴乃のこと、頼んだ!」
「……まったく、ようやく会えたと思ったら」
やちよは憤懣やる方ないというように大きくため息をついた。意識のない鶴乃と、間近に迫った伝説に、ダメージから復活しつつある蛾のような怪物。まともに問答のできる状況ではない。
もしも。
もしも二人があとほんの少しだけ早く合流していれば。灯花たちとのやり取りが風に散らされることなく、二人の耳に届いていたなら。状況なんて関係なく、掴みかかってでも瑞乃を止めていたかもしれない。
けれど、そんなもしもは叶わない。
やちよはただ信じることを選んだ。昔から誰よりも強く、頼りがいがあって、手の届く範囲全てを守り通してきた最強の魔法少女を。
「この戦いが終わったら覚悟してなさいよ!」
「……ふふっ、上等!」
ごく自然に、くしゃっと笑ってみせる瑞乃。
その笑顔に既視感を覚えたのはみふゆだった。思えばあの時から、得体のしれない何かが始まっていたのかもしれない。虚しくて救いようのない何かが。
「みっちゃん──」
たまらず口を挟むが、瑞乃にむっつりと睨まれたとたん、叱られた子供のように口を噤んでしまう。
悠長にしている時間はなく、瑞乃に引き下がるつもりはない。みふゆはその意志を見て取ったことと、無理やり魔法で昏睡させた負い目もあったのだろう。泣きそうな顔で口を開いては閉じを繰り返し、かける言葉が出てこない。
その間に瑞乃は言いたいことだけを伝えた。
「みふゆは他の魔法少女たちを南凪に集めて。海浜公園のとこ。分かった?」
「分かり……ました……」
そうして瑞乃は鎖を伸ばす。
右腕から射出された鎖はビルの屋上に達し、壁面に食い込むと、装束の表面にスルスルと巻き取られ瑞乃の体を引き上げていく。屋上のあたりでタイミングよく鎖の連結を解除すると瑞乃の体は宙に投げ出され、ワルプルギスの夜へと真正面から飛び込んでいくのだった。
ーーー
ワルプルギスの夜本体から分離した使い魔の群れが四方八方から迫る。瑞乃はそのうちの一体を足場にして空を駆け、ときに鎖を引っ掛けて勢いをつけ、三次元機動で群れをくぐり抜けていく。
鎖を全力で振るえば弾幕に等しい制圧力を発揮できるため、能力的には使い魔を相手することもできた。しかし瑞乃には残された時間も魔力も足りない。ことがすべて済んだ後の予定を考えれば、ある程度節約せねばならない。
『伝説は伊達じゃない。君といえど、勝てる見込みは六割を切るだろうね』
キュゥべえの声が頭に過る。かつてワルプルギスの夜について講義を受けていたときのことだ。どういった流れかは瑞乃の記憶にはないが、そこそこどうにかなりそうな数字だったので、
『えっ、意外と勝てるくない?』
と、拍子抜けしたことだけは覚えている。
しかしこのやり取りは全盛期の頃の話だ。すべての感覚器官が十全に機能し、利き腕が自在に動き、膨大な魔力を好きなだけ使えた瑞乃でやっと六割弱勝てる。調整屋の恩恵があるとはいえ、満身創痍の現状では討伐はおろかひっぱたいてお帰り願うなどもってのほかだろう。
とはいえ、由比瑞乃はお姉ちゃんである。お姉ちゃんとは妹と妹の大切なものを守るため、どんな無理だって通す生き物だ。
使い魔の群れをくぐり抜けて本体の真上へ飛び出し、歯車の部分に着地。ワルプルギスの夜から威嚇するような高笑いが聞こえた。
「あははっ」
それにつられたのだろうか。虚しく乾いた笑いが漏れ出る。
「もう笑うしかないや」
なおも追随してくる使い魔たちに追われ、瑞乃は歯車の縁から身を投げ出す。本体の凹凸に鎖を引っ掛け、羽虫みたいにぐるぐると飛び回りながら、伝説の魔女に心中で謝罪した。突然得体のしれない手段で招待されたと思ったら、町の魔法少女たち総出の攻撃で歓迎されるのだから、魔女の立場から考えると気の毒極まる。
といっても呼んでしまったものは仕方がないので、瑞乃は作業を淡々と進める。
使い魔たちは壁のような密度で迫るが、瑞乃はその包囲のことごとくを紙一重ですり抜け、ワルプルギスの夜へ鎖を巻き付けていく。魔力の波による擬似的な視界は、こと魔力や穢れの動きを探知するのにうってつけの鋭敏感覚だった。受け取った情報は瞬時に体へフィードバックされ、二十年近く積み上げてきた経験値が動きを補助し、意のままの機動を実現する。
ものの一分とたたず、ワルプルギスの夜のあらゆる箇所が山吹色の鎖で覆われていた。
歯車の上に舞い戻ってきた瑞乃は、装束から鎖を切り離して、接地と共に急制動をかけ数メートル滑りゆく。減速が完了すると、後を追ってきた使い魔の大群に向き直った。
もちろんワルプルギスの夜本体も黙っておらず、穢れの炎を放出し鎖を弾き飛ばそうとする。本体と使い魔の群れの双方が瑞乃に迫る。
「そぉー──」
瑞乃は高く足を振り上げて、
「れっ」
絡みつく雷紋を踏み抜いた。
それを合図に山吹色の雷光がワルプルギスの夜を包み込む。雷紋の一つ一つが放電し、ワルプルギスの夜を殺戮的な希望で灼いていく。迫りくる使い魔のみならず周囲に跳梁していた相当数も巻き込まれ、消滅していった。
鎖の魔力が切れた頃になっても本体は健在だった。しかし高笑いの声はどこか勢いにかけ、動きも乏しい。一時的に動きを止める瑞乃の目論見は成功したようだ。
瑞乃は鎖の一端を軽く蹴りつける。すると枝分かれした雷紋がすさまじい速度で伸長していき、先端部分は海浜公園のあたりへ狙い通り突き刺さって、するすると縮み始めた。一時的に力の弱まったワルプルギスの夜が、海へ向かって引きずられていく。
瑞乃の鋭敏感覚には、海浜公園に多数集まった魔法少女たちの魔力を捉えていた。みふゆが戦力を集めてきたのだろう。海浜公園の近くには巻き添えになる建造物も少なく、決戦に向いている。後は数の暴力と、魔法少女特有の理不尽な固有魔法でどうにか──
「……っ!」
そこが、限界だった。
胸の奥が張り裂けるように痛む。たまらずその場に膝を突くと熱いものがこみ上げ、鉄臭い味が口腔を満たした。心臓が脈打つたび血の塊を吐き出し、呼吸さえままならない。
瑞乃は伝説と半魔女の二体を相手に、魔力の節約や感情の制御を度外視した本気の魔法を使い、瀕死の身で立ち回った。その代償に残り僅かな余命が充てられることは必然である。
「がっ、は……ははっ、げ、現実厳しいじゃん、ね……」
ご都合主義で誤魔化していた現実を、ソウルジェムが思い出した。すでに魂が死んでいる事実がリンクした肉体に反映され、動脈や肺など生存に必要な重要臓器の壊死が始まっているのだ。絶えず耳朶を打つ軋み砕ける音は、身体と魂のどちらから発せられているのか、当人にすら判別がつかない。
血反吐に咽せ返る瑞乃はワルプルギスの夜から身を投げ、高層ビルの谷間に落ちていく。適当な高度で雷紋の鎖を閃かせ、もっとも高い場所へ向かう。
すでに戦う力はない。生きる力さえない。けれどお姉ちゃんには後一つだけ、やるべきことが残っていた。
ハッピーエンドの秘策である。
ーーー
晴れ渡る空。散り散りになった暗雲は、幕が引くように神浜の空から遠ざかり、どこまでも抜けるような青空が広がっている。
そんな空の下、海浜公園の一部に集まった少女たち。場違いに赤い大型トラックが駐車している横で、中高生ほどの彼女たちは全身に生傷を作って、けれど晴れ晴れした笑顔で空を望んでいる。
「終わりましたね……」
「ええ……」
その中の二人、環いろはと七海やちよは夢見心地でつぶやいた。いろはのそばには顔立ちの似通った少女が寄り添い、ぎゅっといろはの手を握っている。環うい、イブの内部に囚われていた魔法少女であり、いろはが長らく探していた行方不明の妹だ。ういのすぐ横には灯花とねむが立ち、暗い表情でうつむいていた。
イブは穢れを浄化するシステムとして神浜市に散らばり、ワルプルギスの夜は倒された。しかしこの結末に達するためにマギウスが犯した罪は消えない。事故に近い経緯があったとしても。
うい、灯花、ねむは同じ病院に入院していた親友同士だった。三人はいろはを宿命から解放するため魔法少女となり、その過程でトラブルが発生。魔女になりかけたういはねむの機転によって半魔女、エンブリオ・イブに変じることで命をつないだ。
しかしその代償にういの存在自体が世界に忘れられ、また灯花とねむの目的もういの存在と同じく因果を歪められて、マギウスの翼が発足するに至った。
その歪んだ因果が修正されたのが、記憶ミュージアムでのことだった。
マギウスのそばに居たある人物の固有魔法は、あらゆる事象の因果に絶えず干渉する。この力により鶴乃の記憶は守られ、マギウスの因果は半年以上の時間をかけて修正された。魔力不足で復旧は遅れたが、ういの魂が保存された小さなキュゥべえの接触が最後のひと押しとなった。灯花とねむは本来の目的と、姉と呼び慕っていたいろはのことを思い出し、イブの元へ向かい、力を合わせて囚われたういを助け出し、ワルプルギスの夜も討伐して──
「お姉ちゃんっ!」
大団円、ではない。
焦燥と恐怖に満ちた叫び。海浜公園の入り口に、魔法少女たちがいっせいに目を向ける。肩で息をしながらきょろきょろ周囲を見回しているのは由比鶴乃だ。やちよとまなかによって調整屋に運び込まれ、治療を受けていた。
いろはたちはハッと我に返る。
一瞬でも気を抜けば死人が出る伝説の魔女との死闘。ようやく土壇場から解放され夢見心地だった少女たちがいっせいに現実感を取り戻す。
「やっちゃん、これは……!」
それに伴い、異変が起きる。公園の片隅に停まっていた赤いトラックが、霧の晴れるように薄くなっていくのだ。
瑞乃が時間稼ぎに飛び出してからというもの、どこからか駆けつけたその車両は宙を自在に駆け回り、主にワルプルギスの夜の使い魔を跳ね飛ばし、ときにその身を挺して神浜の魔法少女たちを守った。
事情を知らない魔法少女たちは謎のトラックに目を点にしていたが、やちよたちは知っている。
それが瑞乃の力の象徴であることを。同時に、その消失が意味するところも。
「そん、な……」
求める姿は公園にない。あったのは消えていく魔力だけだった。
「……!」
鶴乃は声にならない悲鳴と共に踵を返した。
「つ、鶴乃ちゃん!」
いろはも慌ててその後を追いかける。やちよ、みふゆ、マミ、灯花とねむ。無数の黒羽根たち。鶴乃の姉、瑞乃と関わりのある多くの魔法少女たちが弾かれるように走り出し、海浜公園を飛び出した。
事情を知っている魔法少女たちは、感覚が麻痺していた。どんな魔女よりも頑強かつ凶悪なエンブリオ・イブだけでなく、伝説の魔女にさえ一人で相対し時間を稼いだ瑞乃の戦いぶりに、現実感を失っていたのである。余命なんて本当は間違いではないか。時間稼ぎと言いながら、倒してしまうのでは。誰もがそう考えていた。
が、瑞乃は誰も気づかないうちに姿を消している。その現実を受け止めることに時間がかかってしまった。
いろはも含め、言葉を交わすものはいなかった。ただ名前を呼んでいた。お姉ちゃん、瑞乃、由比さん、六野さん、かすか、むのかす。それぞれが知っている名前を叫びながら、魔力の残滓をたどって走り回った。
沸き起こる悪寒を、振り払うように。
ーーー
使い終えた四つのグリーフシードをそっと手元に置く。装束の袖と懐に仕込んでおいた、非常時の備えだ。半分以上が欠損したいびつなソウルジェムは淡く輝いて、秘策の実行に足るだけの魔力を取り戻した。
神浜市中央区、セントラルタワーのヘリポート。鶴乃が爆発炎上させたそこはすでに再建され、瑞乃は中央にぺたりと座り込んでいる。
晴れ渡る神浜市の空は吸い込まれるような青に染まり、嵐の過ぎ去った空気は澄み渡って一片の穢れもない。戦いを見守るような余裕はかすかにはなかったが、おそらく万事解決したのだろう。ただ、鶴乃の安否を直接確認に行けなかったことだけは心残りだった。
「鶴乃は……」
あの時、どんな顔をしていたのだろう。久しぶりに瑞乃として姿を現した先ほど、鶴乃は笑っていたのだろうか、驚いていたのだろうか。
できれば笑っていてほしかった。妹には笑顔で幸せになってほしかった。だからお姉ちゃんは、たった一つのハッピーエンドを実現させる。誰も悲しまず、不幸にならない最高の方法を実行する。
ソウルジェムを目前に掲げる。魂にまとわりつく因果がほつれ、光輪となって周囲を漂う。概念を人の認識の範疇へ引きずり下ろした代償に、回復した魔力がごっそりと減る。ソウルジェムがさらに欠け、激痛と共にふらりと身体が傾いた。
背中と後頭部を打ち付け、鈍い痛みに目が回る。しかしそれはほんの瞬きほどの間のことで、次の瞬間には何も感じなかった。
何もだ。接地する背中の感覚、吹き付ける風の感覚、なびく髪が肌を撫でる感覚。雨が上がった直後の湿った匂いも、初秋の物寂しい空気も、何も感じない。耳も、舌も死んでいる。ただ一つ分かることは、きっと魂の砕ける音が鳴っていることのみ。
次に、装束に絡みつく雷紋が帯電を始める。手違いを発動するための予備動作である。
『お前さえいなければ』
魂まで刻まれた前世の傷痕が、頭の中に反響している。
「私は、いなくてもよかった」
六野かすかは由比瑞乃として生まれ変わった。しかし死んで生まれ変わっても、変われないままだった。
『今まで何かうまくいった試しなんて一つもない。何をしても、何を言っても空回り。周りに迷惑かけてばかりでしまいにはこの始末……』
大切な妹ができた。かけがえのない親友ができた。みんなを傷つけたくないから、瑞乃は一生懸命になることができた。しかし結局妹は傷つき、親友の心は追い詰められ、お互い傷つけ合ってこの始末である。
どんなに恵まれた才能があっても、力があっても変わらない。良かれと思った行動はみんな裏目になり、散々な結果を呼び寄せる。少女が抱える宿業は、奇跡や魔法さえ凌駕している。
だからこそ、ハッピーエンドの秘策だけは失敗するわけにはいかない。
妹の笑顔を守り通す。不幸や苦難はすべてご都合主義で乗り越えて、みんな笑顔の大団円。そのための秘策──転生した事実を、なかったことにする。
かろうじて動く右腕でソウルジェムを拾い上げる。装束の帯電が完了し、手を天へ向けた。後は意志の引き金一つで手違いの落雷が降り注ぎ、物質化した因果を跡形もなく吹き飛ばすだろう。由比瑞乃は最初から存在しなかったことになる。
瑞乃はこの腹案の実行についてずっと決めかねていた。自身の消失がどれほどの因果に影響を及ぼすか分からないからだ。たとえば仮に魔法少女の解放を遂げたとしても、解放の事実と瑞乃の間に強い因果関係があれば、マギウスの計画ごと水泡に帰す恐れがあった。秘策ではなく、乱暴でリスクの高い愚策かもしれない。
が、一つだけ絶対的な利点がある。
誰も傷付かないことだ。瑞乃の空回りに巻き込まれ、みふゆのように思い詰めたり傷付け合ったりすることはなくなる。大切な誰かが救いようのない命に気を病むこともない。大好きな妹を傷つけるばかりの最低な女が一人消えるだけで、すべて丸く収まる。
つまり、鶴乃の笑顔は曇らない。
これこそ愚策を最善たらしめる由縁であり、瑞乃なりに考え抜いた幸せな結末。お姉ちゃんの、
「ああ……」
声が漏れる。
感覚はないものの、魂が少しずつ削れていくのがなんとなく分かる。
間もなく命が尽きる。ここで尽きずとも、遠からず果てることは決まっている。今すぐ始末をつけなければ、妹の笑顔が曇ってしまう。姉としてやるべきことは一秒でも早く意志を決めることだと分かっていた。
分かっていても、分かっているはずなのに。何も見えない真っ暗な視界に、幸せな思い出が万華鏡のように煌めく。思い出たちは瑞乃とかすかの名前を呼び、満ち足りた笑顔を見せる。
瑞乃は開きかけた口をぐっと噤んで、一言。
「ありがとう」
山吹色の閃光が、セントラルタワーを飲み込んだ。
ーーー
お姉ちゃんは何でもできた。
妹の笑顔を守るためなら、幸せな思い出も、大切な友達も、すべて諦めることができた。
名前のない彼女が必死に生き抜いたキセキを、空回りと失敗に満ちた虚しい喜劇に変えることもできてしまった。
主演を気取ることさえ、もう叶わないけれど。