恋人が自殺した。
半年前、高校一年の朝。
鐘の音がした。
上を見上げると学校の時計が八時ぎりぎりを指している。
遅刻だ。あと数十秒、もしくは数秒で遅刻が決定してしまう。
そう思って足を走らせた。校門までは残り数メートル、僕の足ならきっと間に合う。
「門を閉めろ!」
体育教師の島畑の声が響いた。
あの黒い毛が大量に生えた腕や脛から連想される、ドス黒い声だ。あれに遅刻届けなんて出そうものなら数時間に渡って嫌味を言わされる。
半ば苛立ちながら走った。門が閉まるギリギリ手前、僕はコンマ数秒の猶予と共に学校の扉をくぐり抜けた。
「いつになったら遅刻をやめるんだ、なぁ
後ろの方から嫌味たらしい声が聞こえる。
振り返れば、遅刻届けを握り潰した島畑が眉間に皺を寄せて立っていた。
「遅刻なんてしたことないですよ」
「毎回ギリギリだろうがッ!」
こちらが噎せ返るほどの剣幕で、島畑は息を吐く。
それを半ば鬱陶しく思いながら、軽くお辞儀をして謝意を示し教室へと走った。学校の遅刻はもちろんだが、授業の遅刻だけはしていられない。こんなところで油は売っていられないのだ。
靴箱に入ると、閑散とした冷たい風が僕の方へと流れ込む。当然人は誰一人としていない。
忙しなく靴を靴箱の中に仕舞い、ついさっき酷使した足をもう一度こき使う羽目となった。
遅刻はしていないとは言え、僕は半分遅刻のようなものだ。授業こそ始まってはいないが、生徒は全員着席して教科書類を机の上に出している。
そういった厳格な空気の中走って教室に入るのは少し気まずい。
ドアを開けて、教室の中に入る。
生徒からの冷たい目線が背中に刺さる。
これが、僕──樫村
高校生活が始まって早二ヶ月が経ったが、未だに友達の一人もできていない。生活指導の教師からは顔と名前を覚えられ、おまけに半遅刻常習犯とくれば誰も近寄りたくはないのだろう。
けれど、これはこれで、部活に打ち込める環境ができていて僕は満足していた。
部活は陸上部に所属している。僕の高校は周りより偏差値が少し高いようで、本来の僕の成績では入れるようなところではないのだが、陸上の推薦で僕はここに入らせてもらった。そのくらいには、自分の足に自信があった。
六限が終わるや否や、すぐさま教室を出て陸上部の部室へと向かう。
このしがらみから解き放たれたような瞬間が、学校生活で一番好きな時だ。
部室には当然誰も来てはいなかった。二、三年は一年が部活の準備が終わる頃合を見計らって遅く来る。一年は、まだ打ち解けていない周りの生徒達と談笑をするために遅く来る。
それがだいたい、十分程度。その十分だけは、ここの空間は僕だけの世界だった。
僕だけの部室、僕だけの空気──ドアを開ければ、僕だけのグラウンド。
一人で準備を整えて、周りの部員より早く部活を始める。
耳元では風を切る音が聞こえる。目を瞑って、その風をゆっくりと全身で感じた。
走れ。
「あっ……あの!」
「はっ?」
脚が動き始めたそのコンマ数秒、唐突に後ろから声をかけられた。
この時間は僕だけしかいないと思っていた。
振り返ると、制服を着た女生徒が立っていた。スポーツウェアでないあたり彼女は部員ではないのだろう。
「すみません、何か」
「あ、いえ……」
おどおどとした態度を見せる彼女に、自分の走りを邪魔されたことを半ば苛立ちながら尋ねた。
「樫村凛さん、ですよね?」
「そうですが」
「私、
「……それで、その谷原さんが僕に何の用で」
「少し、話ができないかなって」
あまり人に話しかけることが得意では無さそうだった。
そのせいか、妙に顔が紅潮していて身体がもじもじと僕の前で揺れている。
あと数分で、二年と遅れた一年はグラウンドにやってくるだろう。
ここで固まっていては他の部員に迷惑がかかる。かといって、断って自分を優先する程の人嫌いな性格ではない。
「いいよ、教室に戻ろうか」
一年生の仕事のうち、僕一人に割り当てられるであろうものは十二分に成し遂げた。僕が今日部活に参加しなかったからと言って、一年を足としか思っていない二、三年や僕よりタイムが遅い一年は気にしないだろう。
友人がいないことを嫌だと思ってはいなかったが、友人が欲しくないと思っていた訳ではない。この子が一体どんな人なのかはわからないけれど、それでも僕と友人になってくれるのならば万々歳だ。
僕の言葉を聞いて、谷原さんは華が咲いたように笑い僕の手を取る。
グラウンドから校舎までの道は、ずっと狭いものだと思っていた。
けれど、谷原さんに手を取られ眺める風景は、思いの他色付いて広く見えた。
「それで、話って何かな」
「……私の友達が樫村くんのことが好きだって言ってて、それで仲を取り持ってくれないかって言われたんだ」
歯切れの悪い言い方で、僕に目を合わせることなく彼女は言った。
よく見かけるパターンだ。バレンタインデーの日に代わりにチョコレートを渡してくれだとか、このラブレターを代わりに渡してくれだとか、そういった類の得をしない役回り。
〝狡兎死して走狗烹らる〟という言葉がある。狙っていた兎を狩ってしまうと、その狩りをした狗は用済みとなり煮られて食われてしまうという意味だ。
「損な役だと思わないの?」
それは意識することなく、自然と口から零れてしまった言葉だった。
僕の世界を拡げてくれた彼女への、一種の恩返しのようなものをしたかったのかもしれない。
「……いいや。多分、それが私のするべきことだから」
少し詰まって、彼女はそう答えた。
妙な言い方だと思った。友人の恋路を応援したい、という気持ちから及んだ行為ならばそんな答えは出てこない筈だ。少なくとも、「するべきこと」などと言う筈が無い。
彼女は人と話すのが得意ではなさそうだった。まるで何年間も人と話したことの無いような、そんな印象を受けた。
だから、敢えて追及はしないようにと心に留めた。おそらくこれからも彼女と話す機会はあるだろう。一回一回で心の距離を縮められたらと考えた。
「ちなみに、その子ってどんな人?」
「私の親友。たった一人のかけがえのない友達なんだ。あの子のためにしてあげられるなら、何だってやりたい」
「……そうなのか」
気の弱そうに見えた彼女の様子からは一転した、強い言い回しだった。
教室はもう誰もおらず、皆各々部活などに励んでいて、僕らの座るスペースは十分に確保できた。
自然と、足が自分の席に向かう。いじめなどは受けていないが、若干雑に置かれている机の乱れが目立っていた。
窓を開けると、下方に吹奏楽部の集団が見える。各々楽器を持って、好きなように散らばってやりたいように練習をしている。そこに上下関係は無く、ただ自分の赴くままに演奏をしているように見えた。
陸上だってそれが正しい姿の筈だ。どこの世でも、実力社会を正しいと思う人間が多数いるのは当然の話だ。
けれど、一年先に生まれたからといって、ただ割り当てられただけで顧問を務めるようになったからといって、我が物顔で下級生を奴隷か何かと勘違いしている人間が多い。
机の中に入っていたタイム表を取り出した。二年全員のタイムより、僕の方が短いものが記録されていた。
「樫村くん?」
後ろから、恐る恐るというように谷原さんに声をかけられた。
その一声でふと我に返る。彼女は少し怯えた顔をしていた。
「……ごめん、少し怖い顔してたから。その紙は?」
「いいや。何でもない、ただのゴミ」
そう言って、タイム表をくしゃくしゃに丸めポケットに押し込む。
吹奏楽部の演奏が耳障りだった。
「で、谷原さんの話って?」
「さっきも言ったけど、私の友達が樫村くんのことが好きだって。……まあ、それだけなんだけど」
これ以上言うことはない、というニュアンスを含めた言い方だった。
そのまま彼女は、僕の机の前に座る。
吹奏楽の演奏が綺麗だね、と僕に笑いかけた。ひどく眩しい笑顔だった。
そのまま三十分ほど、誰も来ない僕の教室で僕らはただ黙りこくったまま向かい合っていた。抜け出すにはあまりに会話の量が乏しかったからだ。
気まずくはなかった。彼女の柔和な雰囲気が物言わぬ場を和ませてくれているような気がした。
「谷原さんって何部?」
「美術部だよ。絵、少し得意なんだ」
「へえ、凄いな。僕は芸術面はからっきしだから」
彼女の目が丸く開いた。少し驚いているように見えた。
「本当? 本当に、絵凄いと思う?」
「……ああ。僕は全然描けないから。小さい時からやってたとか?」
「……いいや。小中は陸上だった。樫村くんのことはそこで聞いたよ」
陸上。彼女は確かにそう言った。
彼女は運動が得意なタイプには見えなかった。どちらかと言うと、それこそ美術を好んでいるようなイメージが強かった。
何かしらの接点を彼女と持てそうな気がした。僕のことを好きな誰かより、僕は目の前の彼女の方にずっと興味を持っていた。
「競技は何をやってたの?」
「100m。良い成績が残ったよ、確か県で三番だった」
「え、すごい」
「……うん、そうだね」
素直な賞賛だった。人は見かけによらないものだと感心した。
けれど、彼女の反応は思うようなものではなかった。
どこか気まずそうな、まるで自分の手柄では無いと言いたげな様子に見えた。
外はもう暗闇に覆われていて、いつの間にか吹奏楽部の演奏も聞こえなくなっている。もうすぐ見回りの先生が僕らを教室から追い出しに来るだろう。
「そろそろ帰ろう」
「……美術のことは聞かないの?」
「えっ?」
べっとりとした視線が僕を襲った。
瞳が、まるで夜の闇と同化しているように暗い。
「……そう。絵、見せて欲しい」
絞り出すような声で言った。
彼女の顔はそれを聞くとぱっと明るくなり、美術室に行こう、と僕の手を強く引いた。
魂まで引っ張られているような、何やら気味の悪い力を感じた。
そこから美術室までの廊下は、終始彼女の絵の話で埋められた。好きな技法、色、作品。彼女の芸術分野に至るまでのルーツを、これでもかと言うほどに語ってくれた。
今日は月が出ていない。僕の前で絵を嬉嬉として話す彼女のシルエットだけが、瞳孔の開いた目に色濃く映っていた。
陸上の話はしなかった。彼女が努めて避けているようだった。彼女との接点が欲しかった僕にとっては、それは些細な問題だった。
けれど一度だけ、100m走の話を持ちかけた。
僕も100mを専門としていて、と言った。その時、握られている僕の手に少し痛みが走った。
彼女が強く握ったとわかったのはその数秒後だった。親愛が込められているわけでもなく、ただ僕は手を握り潰された。
それからは僕も努めて話さないようにした。どういう訳かわからないが、谷原さんにとって陸上の話題はタブーのようだった。
僕が彼女の深淵を見るのは、まだ先のことになる。