あの夜から三日経った。
鈴音は放課後、八咫総合事務所に設置されたパソコンの画面に向き合いながら、あの日の事件に思いを馳せていた。
怪我に関しては花鈴のおかげもあって事件の翌日にはほとんど快復していたため、鈴音は周囲から休んでもと言われたが平然と登校していた。
鈴音としては日常のリズムが狂う方がいまいち調子が悪くなる気がしていた。
黒崎ユリカは八咫烏に連行されたが、妖怪用の収容施設に収容されるのか人間として刑務所に収監されるのか、いまだにハッキリ処遇は決まっていないようであった。
分類としては妖怪になるのだが、精神的にはまだまだ人間の域にある彼女を妖怪として扱うのは困難であった。
かといって彼女の力は尋常のものではない。
その力に苦しめられた鈴音だからこそそれが理解できる。
「…ふぅ。」
鈴音は画面を眺めながらため息をひとつ吐いた。
画面には大量の文章の列が並び、先日の事件についての詳細が事細かにまとめられている。
鈴音は画面に向き合って作成しているものは事件についての報告書であった。
この報告書の内容によってもしかしたら黒崎ユリカの人生が分岐するかもしれない。
そう考えると正直気が進まない事務作業にも少しは力が入る。
鈴音が軽く伸びをしていると、背後から気配がした。
「あ…蟷螂坂さん。」
「…差し入れ。」
短くそう言う蟷螂坂の手にはお盆に載せられたコーヒーとフレッシュが持たれており、それもパソコンが置かれたデスクの脇にそっと置いてくれる。
蟷螂坂は元から鈴音には気を遣ってくれている方であったが、先日の事件で鈴音が怪我を負って以来より気遣いが増えた。
本来なら見習いの鈴音を護る立場であらねばならないのに、気が昂ったあまり鈴音に対する意識が希薄になっていたことをかなり気にしているらしい。
蟷螂坂はコーヒーを置くと鈴音の邪魔をしないようにスッと後ろに下がり、キッチンに戻っていった。
その姿を少し見送ってから出されたコーヒーに口をつける。
旨い。
コーヒーの良し悪しが分かるような舌はないが旨い。
とりあえずフレッシュを入れずに飲んでみたが、なんとなくこのまま、ブラックのままで飲みたくなる魅力のある味だった。
これで案外インスタントのコーヒーなのかもしれないが、それでも丁寧に淹れられていることは分かる。
蟷螂坂のやさしさが染みた。
その一方で他の三人は…。
「にゃんとおおお!!!ここで乙女の祈りを発動!!!」
「やらせるかよ!!!誘惑の瞳だああああ!!!!」
「ごがああああ…すぴーーー!!!」
花鈴と化け猫は相変わらずゲームをしては取っ組み合いの繰り返し、狂骨は酒を飲んで爆睡中。
鈴音も珍しく見たいテレビがあったのだが、この仕事のこともあり譲っていたが、まさかここまで大騒ぎになるとは。
見たかったテレビ中継は録画でも構わないが、できれば生で見たかったため少々残念である。
内容は帝都女子ボクシングのライト級王座戦と前座試合がいくつか。
旧い顔見知りが出るため見ておきたかったのだ。
しかしいったいこんな調子で今までよく仕事ができていたなと鈴音は思った。
化け猫は細かい事務仕事が大嫌いで数分もすれば椅子から逃げ出し、狂骨は耐えきれず飲酒しながら仕事を行うため文も内容も無茶苦茶になる。
蟷螂坂は機械作業が苦手なようで、報告書を鈴音の代わりに書いてくれようとしたが、タイピングがポチポチと人差し指でゆっくりゆっくりしかできない様子であったためおとなしく引き下がってもらった。
「うがああああああ!!!てめええええ何ペネトレイトずっと隠し持ってやがったんだよおおおクソ猫!!!」
「お前が前にやったことだろうがあああああ!!!!ふしゃああああああああ!!!!」
「発動!ドラゴンスープレックス!!!!」
「にゃ!?やめろおおおおおお!!!!」
花鈴が化け猫の背後に回り込み、ゲームのまねごとのようにプロレス技をくりだした。
どんがらがっしゃーんとド派手な音と共に私物が舞い、その中にあった酒瓶が爆睡していた狂骨の額にシュート!!
ゴツンと鈍い音が響きのっそりと狂骨が目を覚ます。
その顔は露骨に不機嫌に歪んでいた。
「きーみーたーちー…覚悟は良いかなぁあああ!!」
「ゲッ…花鈴こりゃやば…おいこらにゃにしてんだ!!」
「こうなりゃ一蓮托生だぞ化け猫…!!!」
すかさず花鈴は化け猫を羽交い絞めにしていた。
そして狂骨が容赦なく二人ごと襟をひっつかみ、大外刈りの要領で思い切り地面に投げ飛ばした。
「「へぶぅ!!」」
二人の断末魔?の声が響く。
嗚呼…今日も平和だなぁ。
鈴音の飲む、放課後のコーヒーは苦かった。
翌日の早朝、鈴音は寝ぼけ眼を擦りながらもすぐさま体を起こす。
鈴音は真夜中近くまでかけようやく完成させた報告書のデータを八咫烏に送り、すぐさま眠りについた。
そして早くに起き、昨日できなかった分のトレーニングをこなすべく準備を始める。
着古したジャージにそでを通し、ランニングしつつ筋力トレーニングのために近所の公園に向かう。
朝はどのみち帰れば蟷螂坂のたんぱく質たっぷりの料理が待っている、そう考えるとトレーニングにも精が出た。
そう思いながら走っていると、時折同じようにランニングをしている人ともすれ違う。
名前も知らない顔見知りではあるが、軽く会釈を交わしながら鈴音は走った。
早朝の空気が気持ちよかった。
そうしていると見慣れない姿が走っているのが見えた。
「え…?」
小柄でやせ細った、餓えを感じさせるような身体。
ボロ衣を腰に巻いており、さらにその首には人間がランニング中にタオルをかけることを真似するようにボロ布を巻いていた。
そう、その姿は八咫烏の資料で見た餓鬼そのものであった。
餓鬼は鈴音と何も言わずにすれ違い、通り過ぎる。
それはそうだ、本来なら彼らの姿は人には見えないのだから。
「…。」
鈴音はそっと踵を返し、距離を開けて餓鬼の後を追い始めた。
ペースはそれほど早くない、鈴音なら簡単に追い越してしまいそうなペース。
おかげで尾行は楽であった。
資料で餓鬼は人間のまねをして自販機で飲み物を購入したりする事例もあると聞いたが、まさかトレーニングまでするのか?
餓鬼は人間に害をなすと聞いているため、警戒として尾行をしているがランニング自体は真面目に行っている様子だった。
餓鬼は既に顎を上げながら走っており、かなり辛そうな様子が見てとれるが、走るのをやめない。
ぜひー、ぜひーと荒い呼吸が距離を開けている鈴音にも聞こえてきそうだった。
そして餓鬼が辿り着いたのは”帝都拳闘倶楽部”と古い看板に銘打たれたボクシングジムであった。
帝都の中でも老舗に入るジムである。
何人もの帝都統一チャンピオンを世に送り出したジムだ。
鈴音も昔、短い期間ではあるが世話になったことがある。
花鈴が他流や格闘技の動きに対してどう対応するかを覚えるため、鈴音はいろんな道場やジムに短期間放り込まれた。
その中で拳闘を──ボクシングを習ったのがこのジムであった。
以前鹿角家を襲撃した鬼と戦った際、ボクシングの動きをしたのはそれが原因である。
ジムからは早朝だというのに、中から微かにきゅっきゅとボクシングシューズが擦れる音がする。
早いのに朝練をしているジム生がいるのだ。
餓鬼はそこで立ち止まると、窓から中を見るように背を伸ばし、覗き込んだ。
ぴょんぴょんと跳ねながら中を見て、そして見様見真似のシャドーボクシングを開始した。
へたくそな動きで、まともに格闘技を習っているような様子はない。
ただ真剣に真似をしている様子は伝わっていた。
餓鬼はしばらくまねごとを行い、また走り出した。
それを再度追いかけようとしたが、その時にはすでにもう帰路に入らないといけない時間になっていた。
『餓鬼だね、オッケー私の方から一報入れておくよ。』
「助かります、狂骨さん。」
放課後、鈴音は念のため狂骨に朝見た餓鬼のことを連絡していた。
そして帰路に朝に来た帝都拳闘倶楽部に立ち寄る。
「…またいるな、あいつ。」
朝と同じく餓鬼が練習を覗き見ていた。
その目線は真剣そのもので、一生懸命に手を振ってまねごとをしている。
ただどこか、その目線には残念そうな、なにか悲し気な表情があった。
そんな姿を立ち止まって眺めていると、不意に横から声がかかった。
「え…その、貴女…は?」
「ん?」
突如声をかけた主は、ガーリィな服装に身を包んでいる小柄だがしっかりとした身体つきの女性だった。
身長は160あるかないか、可愛らしい童顔の顔立ちでゆるっとした黒い髪をしている。
一見すればふわりとしたガーリィな服装が似合う様な女性だが、首や肩回りがガッチリと発達していた。
なによりその顔には擦り傷のような跡がいくつもあり、あちこちが赤らんでいた。
その表情は上機嫌かつ穏やかな様子であった。
そして鈴音はその顔に見覚えがある。
「…その様子だと、勝ったんですね、昨日。」
「なーに、見てくれなかったの鈴音ちゃん?」
「テレビ、使われてたもので…すみません
鈴音とは昔短い期間であったが一緒に汗を流した仲である。
「忘れられないわよ、あのころ私と同じくらい練習してるのなんて貴女くらいだったもの、しかも歳下で。」
「光栄です。」
その言葉に鈴音は軽く頭を下げる。
たしか一つ年上の17か18歳であったはずだ。
その年齢でありながら今ではプロボクサーとして帝都トップクラスの腕を誇る彼女に覚えてもらえていたのだ、光栄なことである。
「それで今日はどうしたの、もしかしてこっちの世界に来るとか?」
「いえ…まぁ、その…つい気になって。」
流石に妖怪を追ってここに来たとは言えず、はぐらかすようにそう答える。
その答えに小さく首をかしげながらも気にしない様子で芥が口を開く。
「まぁいいわ、顔を見せてくれるなんて嬉しいし、どうせならうちの子たちシゴいていく?」
「遠慮しておきますよ…芥さんに任せます。」
「こーら、それだとお姉さんが人をシゴきまくってるみたいじゃないの。」
「違うんですか?」
「違わない。」
芥の答えに思わず鈴音は苦笑した。
可愛らしい顔から想像もつかないストイックさである。
「まぁ今日はこれから私の祝勝会だから、さすがにほどほどにするけどね。」
「おめでとうございます…帰ったら録画、見ますよ。」
ありがとう、と芥は答える。
そして鈴音を──鈴音の全身を改めて一瞥すると、目を細めた。
「…惜しいわね、やっぱり。」
「え?」
「どんな鍛え方してるのよ、貴女…身体は大丈夫なの?」
「今のところは…。」
「どうなんだか。」
芥は肉体を一瞥し、鈴音が尋常ではない鍛錬を今でも積み重ねていることをすぐに理解していた。
さらに芥は軽く左のボディブローを鈴音に向かって放った。
軽いとはいえ、プロボクサーのパンチだ。
素人のパンチとは質が違う、奥まで響くパンチだ。
パンッ、とコーンが弾けるような音がした時には芥の手は既に元の位置に戻っている。
鈴音は平然としていた、表向きは。
表情には一切出さないが、かなりの衝撃に思わず声を出しそうになる。
が、堪えた。
その様子を見て芥は残念そうにため息を吐く。
「…昨日勝ってちょっと天狗になりそうだったけど、これじゃ鼻を高くするのは無理ね。」
「私、ウェイト60以上ありますから…。」
芥の階級はフライ級、重くてもおおまかに51キロ未満の階級である。
減量があるため自然な体重はもちろんもっと重いが、それでも10キロ以上の差があるということだ。
「こらこら、私これでもプロよ、慰めにならないわ。」
芥の目に、微かに火がともる。
芥が構えた。
ボクシングにおいて基本的な、左手足を前に、足は肩幅に、しかし前後は広く。
顎を挟むように手を構えながら脇をしっかりと締める。
鈴音が思わず身構える。
それを確認して芥は拳を振るった。
三度、鈴音と芥の間の景色が歪んだ。
こつん、と軽く芥の拳が鈴音の顎に当たり、止まる。
ジャブを二回から右のアッパー。
鈴音はジャブ一発目を身体に後ろに反らし、二発目を身体を前に捻って避けたが、捻ったところを予見するようにアッパーが飛んできた。
完全に狙われた一撃である。
思わず冷汗がたれた。
花鈴なら避けられただろうなと思わず鈴音は考えてしまった。
その結果を確認して芥は少し満足げに頷き、拳を引いた。
「…全く、趣味が悪いですよ芥さん。」
「えへへ、ちょっとくらい今の実力、分かってもらわないと。」
「分かってますよ、芥さんの強さはあの頃から。」
先ほどとは別人のように表情を変え、子供のように無邪気に笑う芥を前に鈴音は毒気を抜かれてしまう。
子供のころから変わらないなと鈴音は思った。
けれど、純粋に強くなりたいなんて感情は子供のままでなければ持てないのかもと思う。
「会えてよかったわ鈴音ちゃん、またおいでよ、鈴音ちゃんならいつでも歓迎だから。」
「こちらこそ…ありがとうございます。」
満足したように背を向ける芥に鈴音は頭を下げ、芥がジムの扉を閉めて中に入るまで見送った。
芥が扉を閉めざま、律義に頭を下げたままの鈴音に苦笑するとひらひらと手を振り、そして扉を閉じた。
そこでようやく鈴音が頭を上げる。
「さて…。」
少し目を離してしまったがあの餓鬼は、と考えて餓鬼に視線を向ける。
餓鬼はぽーっとした、惚けたような視線をジムの扉に、芥が今締めたばかりの扉に向けていた。
そして左手を前に突き出し、右手を下からぶんと振った。
先ほど、芥が鈴音に繰り出したコンビネーションの真似事のようだった。
その姿をジッと鈴音が見つめる。
何度か腕を振ったところで餓鬼が視線に気づき、驚きの表情を浮かべる。
そしてきょろきょろとあたりを見回すと、こそこそと、気づかれていないはずだと思いながらもその場から離れる動きを見せ、走り出した。
同時に鈴音も駆け出す。
餓鬼は嘘だろ!?という視線を鈴音に一度向け、全力で走り出すが鈴音との間は一切広がらない。
むしろ全力で餓鬼が走っているのに鈴音にはゆとりがあるくらいである。
本来なら餓鬼にとっては人間の女性など弄ぶための存在であるようなものなのだが、鈴音に関しては自分を感知できること、そしてただモノではない雰囲気をくみ取って逃走を選んだらしい。
しかし餓鬼は女性相手なら退魔士であろうと襲い掛かる獰猛さを持っていると聞いたが、あの個体は違うようであった。
八咫総合事務所の妖怪たちの様に、妖怪にも個体差があるのだろうかと鈴音は考える。
餓鬼が息を切らし始めながらも逃げ込んだのはビルの間を縫う様に作られた路地裏であった。
そこまで逃げ込み、餓鬼は意を決したように振り向くと息を切らしながらへたくそなボクシングの構えをして鈴音に向かい合った。
「ぜぇ、ぜぇ…へへへ、ここなら直に仲間が…ぜぇひぃ…来るんだ…逃げるなら…今だぜ。」
餓鬼が言うが、鈴音は何も言わない。
しかし餓鬼の構えに応えるようにボクシングの構えをした。
餓鬼とは違い、様になっている構え。
しかしどこか、どこかボクシングの構えとは違う、異質な構えであった。
鈴音の根底にあるのが鹿角流という古流武術だからである。
どちらが優れているということはないが、鈴音の身体に古流の動きが沁みついてしまっているのだ。
ただ蟷螂坂やいつぞやの鬼の様に深く腰を落とすような構えではなく、自然に立つような姿勢で軽く膝を曲げている程度。
「こ、こんにゃろ!!」
餓鬼が鈴音に殴りかかった。
先ほど芥がしたように、左ジャブを鈴音に向かって放つ。
しかしあまりにもお粗末なパンチであった。
「がら空き。」
「ぐぎゃッ!?」
軽く頭を右に振って鈴音がジャブとも言えないようなパンチを避けざま餓鬼に左の掌底を叩き込んだ。
餓鬼がその一撃で呆気なく後ろに吹き飛び、ダウンした。
「が、げ…ぇ…。」
「右のアッパーを打つ意識が強すぎて右半身ががら空きだ…それにジャブが弱すぎる…牽制にもならん。」
半ば昏倒している餓鬼に対して鈴音が言い、その傍らに向かって歩き出す。
「おま…えぇ…。」
「すまんが少し寝てもらう。」
鈴音は昏倒する餓鬼の喉に手をやり、人間でいう頸動脈があるあたりに指を沿わせた。
そこには人間と同じように脈があった。
妖怪にも臓器があり、同じ生き物ということを感じさせる鼓動である。
鈴音が指に力を込めた。
すると10秒もかからない時間で餓鬼は気を失い、力なくうなだれる。
締め落とされたのだ。
そして鈴音はその身体を肩に担いだ。
「さて…話を聞かせてもらおうか。」
鈴音が連れて行った先は普段トレーニングに使っている公園。
そこのベンチに鈴音は腰掛け、隣にまだ意識のない餓鬼を無理やり座らせた。
そこまでしてようやく餓鬼は意識を取り戻した。
「うっげぇ…顎がいて……うわ!女!」
鈴音は餓鬼が起きたことに気づくとスマホを取り出し、通話しているように見せかけながら餓鬼に向かって口を開いた。
鈴音なりの周囲に見えない存在に対して話しかけるための偽装である。
流石に見えない存在に平然と話しかける様なことは鈴音はしたくなかった。
「…お前、なんであのジムを覗いてた?」
「関係ないだろ!お前には!」
餓鬼がまたしても殴りかかろうとするが、腕を振りかぶったところで鈴音の裏拳が突き刺さった。
「い…いでぇ…。」
「話せ。」
有無を言わさぬ口調に餓鬼は怯えた表情を見せ、裏拳で殴られた鼻っ柱を抑えながら餓鬼が口を開いた。
「…やりたかったんだよ、拳闘。」
「何故?」
「強くなんなきゃ…いけないから。」
ぼそぼそと餓鬼が言った。
続けろ、と厳しい目線を鈴音が送り、話を続けさせる。
「…俺たちの間でよぅ、
頭、とは餓鬼の中でリーダー気取りのやつがいるということであろう。
「なんで?」
「俺はどんくさくてよ…人の女を狙うのも、金をひったくるのもできなくてさ…見世物として嬲られるんだ、役立たずはこうなるぞって。」
「それでボクシングを?」
「うん、2週間後に公開処刑されるんだ、頭は猶予をやるなんて言ってたけど、どうせ観客を集めるために時間が欲しいだけさ。」
鈴音に二度殴られた跡を痛そうにさすりながら餓鬼が答える。
「で、なんでボクシングを…いや、芥さんを見てた?」
鈴音の言葉に餓鬼がドキッとしたように体を跳ねさせ、目線を泳がせる。
なにかごまかそうと言葉を考えるが、鈴音の表情から嘘は通用しないと判断し、恥ずかしそうに目を逸らしながら話し出す。
「見たんだよ、芥って女の試合。」
「ほぅ?」
「帝都のでかい建物にあるでっかい画面あるだろ?あそこで流れてたんだ。」
その言葉に鈴音は納得する、おそらく昨日の試合が帝都の中央街にあるビルの巨大モニタに映されていたのだろう。
「しかし芥さんの試合はそんなにすごかったのか…。」
「お前見てねぇのかよ!」
鈴音に向かって身を乗り出しながら餓鬼は興奮した口調で言う、その姿はまるで少年のようであった。
「こうやって…えっと…じゃぶ?でババっと殴ってそこからズバーっとこう…あっぱーだ!さっきお前にやったみたいに!」
「ほぅ…。」
先ほど芥が鈴音に向かってだしたコンビネーションと似たような感じであった。
「なんてぇか…すっごく綺麗で…じゃなくてかっこよくてよ!一目でこう…ぐっときちまった!!」
芥は昨日の試合ではメインイベンターではなかった、しかしここまでこの餓鬼を興奮させるとはよっぽどの試合だったのであろう。
「それでよ!帝都拳闘倶楽部って名前があ出てたから昨日の夜探してよ!昨日は流石に誰もいなかったから…今日の朝に行ってみたんだ!」
その目は少年の様にきらきらと輝いていた。
鈴音はその目にどこか面白さを感じてしまった。
気づいた時には思わず口が開いていた。
「強くしてやろうか?」
「へ?」
「私が、お前を。」
鈴音自身も思ってもいなかった言葉に、餓鬼はさらに戸惑ったような目を向ける。
「姉ちゃん、退魔士だろ…どうせ…なんでそんなこと。」
「私も分からん…ただ、面白そうだと思ってな。」
鈴音は何も考えず、感情のままにそう言っていた。
「それに、お前をその頭に勝たせたら、私がお前らの頭になれる…面白くないか?」
その言葉にげげっと餓鬼が顔をしかめる。
「…姉ちゃん、今の頭より怖えよ、なんか。」
「もし私の案に乗るならコーチと呼べ。」
「…だぁぁぁ!わかったよコーチさん!!どうせならお前に乗ってやる!!!」
「お前ぇ?」
「ひぃっ…コーチぃ…。」
そうして鈴音と餓鬼の、2週間だけの修行の日々が始まった。
早朝、ほとんど誰もいない公園。
まだ陽が昇って間もない時間に鈴音と餓鬼はいた。
練習時間と場所を指定したのは鈴音、登校前と放課後、ここで餓鬼をシゴくことに決めたのだ。
鈴音は背にバッグを背負っており、そこから子供用のジャージを一着とニット帽にスニーカーを取り出すと餓鬼に向かって投げ渡した。
昨日餓鬼と別れた後に購入してきたものだ、ほかにもトレーニング用の品をいくつか用意している。
「まずこれを着ろ、帽子もな。」
「ななな、なんだよ!これ!?」
「昨日買ってきた、それで身体を隠せば姿を人にさらしても良いだろ。」
「なんでそんなこと…。」
「お前は私に透明人間と練習させるつもりか?四の五の言うな、着ろ。」
餓鬼は口答えするが鈴音の迫力に委縮し、おとなしくジャージを着始める。
適当にサイズを見繕ったため少しばかりぶかっとしていたが、袖と裾をまくり、スニーカーのひもを無理やり固めに締めさせた。
「コーチぃ…なんか落ち着かねえよ。」
「仕方ないだろう…では始めるぞ、2週間なら筋力トレーニングで成果を出すのは難しい、とにかく少しでも技術を叩き込む。」
鈴音はボクシングじみた我流の構えではなく、なるべく本来のボクシングらしい構えをしながらジャブを放った。
ジャブ。
ボクシングの前手で行うパンチ。
牽制のパンチ。
必殺のパンチを当てるための牽制に過ぎないパンチ。
否。
その認識では鈴音はいけないと考えていた。
「肘を脇から離さないイメージで、やや内角から抉りこむように…打つ!」
パンッと衣擦れの音が誰もいない公園に響いた。
だが鈴音が見せたジャブは大きく前に一歩踏み込みながら全身の体重を乗せて放つ、独特のものであった。
ボクシングというよりも、まるで剣術における片手突きのような…遠間から一気に突き込むような動きだった。
「コーチ…なんかボクシングと違うぜ…。」
「誰がボクシングを教えると言った、強くしてやると言っただろう。」
「はぁ!?」
「ボクシングの技術だけで強くさせられるほど私は強くない、が、他の技を混ぜれば別だ。」
鈴音が所謂普通の、ボクシングらしいジャブを放つ。
軽く前に踏み込みつつ肘から先を走らせるようなパンチ。
それから先ほど打った、大きく前に踏み込んで遠間から突き込むようなパンチを放つ。
間合いが大きく違っていた。
ジャブの方が動きが少なく隙も無ければ連打も効く。
だが威力と射程距離の長さという点に関しては、後者のパンチの方が大きく勝っていた。
「これは奇襲技だ、届くはずがないと思っている距離から放つ、だからこそ動きが大きくなるからそれを当てるために無駄を削ぐ。」
強い目で鈴音は納得がいかなさそうな餓鬼に言う。
この餓鬼がボクシングにこだわる気持ちは分かる。
憧れとはそういうものだ、だからこそと鈴音は続ける。
「ここからだ、まずはこれを当てろ、そこからペースをつかんで相手の間合いに入ればボクシングの技術の出番だ。」
「分かったよ、コーチ…あんた…コーチの強さは知ってるからよ、やるぜ。」
鈴音の言葉にようやく納得したように餓鬼が頷いた。
そこからは徹底した技術指導が始まった。
鈴音がジャージと共に購入しておいた”OKUBO”とブランド名が銘打たれているパンチミットを装着する。
安価ながら値段以上の質があることに定評がある大久保財閥傘下のメーカー製だ。
餓鬼のパンチを受けながら鈴音の檄が飛ぶ。
足運びが遅い!
ミットを見るな、私の顔を見て打て!
腕で打つな!肩を出して全身で打つんだ!
それが本気か!?気合を入れろ!!
何故さっきより弱いパンチを打つ!?気を抜くな!!!
殺すぞ…。
早朝の公園に物騒な声が響く。
餓鬼は怯えながら必死でパンチを打ち続けた。
同じ動作を何度も何度も繰り返した。
もう練習が終わるというころには鈴音に対する恐怖と疲労でアドレナリンがあふれ出し、狂ったようにパンチを打っていた。
時間にしては1時間程度であったが、終わることには餓鬼は倒れそうな程に消耗していた。
「ここまでだ。」
「ぜぇぜぇぜぇひぃひぃ…!」
餓鬼はぶっ倒れる寸前になりながら鈴音の言葉を聞いてその場にへたりこんだ。
新品のジャージの色が汗によってずぶぬれになったように変わっていた。
その餓鬼に向かってバッグからコンビニエンスストアの袋を取り出すと放りなげ、ミットを仕舞うと中身が軽くなったバッグを背負った。
「朝食だ、中に昼のトレーニングメニューも入れておいた、放課後までに済ませておけ。」
「は、はぁ!?」
餓鬼が袋の中をのぞくと、プロテインジュースとサラダチキンがいくつかに袋入りのカット野菜、そして縄跳びとトレーニングメニューが書かれたメモがあった。
「やっていなかったら私は分かるからな、死にたくなければやれ。」
「や、やるよ!やりますよコーチ!!!」
餓鬼は身震いしながら答える。
それからの2週間は、餓鬼にとって地獄と天国が入り混じったような、そんな日々であった。
鈴音の練習は厳しいが、厳しい分強くなっているという実感はあった。
思わぬタイミングで、疲労の底にあって動けない中、無理やり身体を動かした途端なにか歯車がかみ合ったように体が動く瞬間がある。
何度やってもできずに絶望した動きが、翌日の朝になると不思議とできてしまう瞬間がある。
徹底した反復練習と一瞬も気が抜けない極度の重圧の中行う練習は地獄にふさわしい厳しさだが、自分が強くなった実感があった瞬間の快楽は天にも昇る気持ちであった。
そんな日々はあっという間に過ぎていった。
そしてついに決戦の日が翌日に迫ったある日、鈴音は放課後の練習を軽く切り上げた。
「コーチ、今日はこれで終わりか?」
「ああ、明日のために今日は休め、もう私はこの期間に教えることは教えた。」
「け、けどよ!まだ!まだ──」
「ここで無理をしたらつぶれるぞ、本当なら朝から休んでもらいたかったくらいだ。」
不安そうに声を荒げる餓鬼に諭すように言う。
「…今日は景気づけだ…飯でも食いに行くぞ。」
「は?マジか?でもコーチ俺は…」
「その恰好ならごまかしは効く…猫耳だって隠せるんだ、お前も顔くらいごまかせ。」
「な、な、な…無茶言うぜコーチ!」
「それに顔くらい誤魔化せないと、芥さんの前に顔も出せないだろう。」
「あ、ああああ芥さんの前に俺がななななななんで!?」
「ただ、試合を見て憧れただけではないんだろ?」
「…コーチ…そいつぁ機密事項だぜ…。」
「何が機密事項だ。」
鈴音がツッコミという名の鉄拳を振るうが、なんと餓鬼はその鉄拳を難なく掌で受け止める。
「コーチ…このツッコミやめてくれよ…手がいってぇんだ…。」
「一目惚れか…芥さんも罪な女だな…。」
「話聞けよ!ああそうだよ!あんだけつええのに!すっげえ綺麗で!ビリビリっと来ちまったんだよ!」
「精々明日勝ってからも強くなるんだな…今のお前なら芥さんに触れもできないぞ。」
「いやそりゃ俺ごときがそんなことぁできねぇっていうか…する気もねぇっていうか…こう…すすす好きなんだけど…そういう気持ちじゃねえっていうか。」
頬を染めながらまごまごという姿は本当に人間の少年と遜色ないようだった。
妙に人らしいというか、人間臭いというか、どこか八咫総合事務所の三人を…いや、いつかのあの鬼を思い出すようだった。
もしかしたらあの鬼にもこんな時期があったのかもしれないな、と鈴音は今は亡き武人に想いを馳せる。
「まぁいいじゃねえかこんな話、恥ずかしいぜ…早く飯連れてってくれよ…!」
「ああ…すぐそこだからな。」
「すぐそこって…それ牛丼屋じゃねえか!?」
「文句あるか?」
「いーえ…ありましぇん…。」
「というか…牛丼食ったことあるのか。」
「コーチには言いたくねえやり方で…。」
「ほう…気になるな。」
「ひぃぃ!頼むから聞かねえでくれよお!」
「分かったよ…まぁ前祝いだ…トッピングは無制限にしてやる。」
「マジかよ!うっひょー!チーズに卵に…早く行こうぜコーチ!」
鈴音の一言で餓鬼は目を輝かせ、待ちきれないと走り出した。
その姿に苦笑し、鈴音は後を追った。
その後餓鬼は餓えた鬼という名の通り、特盛2杯にチーズと卵を2倍盛でトッピングした牛丼を平らげた。
鈴音も負けじと同じ量をたいらげ、更に並盛を追加で食い切り餓鬼の目を丸くさせた。
その日の鈴音の財布は…軽かった。
翌日、鈴音は真夜中事務所を抜け出した。
黒いブラウスにロングスカート、夜に溶け込むような服装。
その姿で事務所を出るとき、声がかかった。
「すーちゃん、何をしてるのかなぁ?」
「花鈴…。」
「みんな勘づいてるよ、最近帰りも遅いし朝も早い、昨日は蟷螂坂のごはんを断って外でなんて怪しすぎ…。」
じろりと花鈴が目線を向ける。
嘘をついても無駄かと鈴音が事情を話そうかと思った瞬間、先に花鈴が口を開いた。
「どこの女なの…。」
「へ?」
「もしくは男!?すーちゃん!!答えて!!」
「いやたしかに男?と会ってるけど──」
「はぁぁ!?殺す!絶対に殺す!」
「いやその花鈴…待って…違うから…。」
「こんな時間に男に会うってじゃあ何!?浮気者!すーちゃんの馬鹿!!」
「浮気って…分かった…話すから。」
鈴音は花鈴に全て事情を説明した。
その言葉に花鈴は唇を尖らせながらも頷いた。
「なんで隠してたの…私がそいつを殺しに行くとでも思った?」
「相手は餓鬼だ…本当なら私退治しなければいけない立場だからな…。」
「すーちゃん真面目過ぎ、てか、そういうの隠された方が私が怒るってわかるでしょ?」
「そうだな…すまなかった…。」
「いーよ、私も逆にそういうのすーちゃんが隠すの知ってるし。」
ツンとした口調で花鈴が言うが、でも、と言葉をつづけた。
「すーちゃん、でも何か抱えることがあったら言ってね、私はいつでもすーちゃんの味方になるよ。」
「花鈴、ありがとう…私も花鈴の味方だから。」
「知ってるよ!じゃあすーちゃん、いってらっしゃい!」
真夜中、帝都の闇の中。
光があれば闇ができる。
人は光に、人非ざる者は闇に。
ここは人の住む場所だと主張するように一日中光を灯す帝都だが、それでも光がある限り闇は存在する。
中央街から離れた秋奈町の町はずれになるとそれは顕著だ。
一日中光り輝く中では人は眠ることはできない。
人にもまた闇が必要なのである。
そして人ならざる妖にも、光が必要であった。
綺麗な満月の夜だった。
月明かりと、微かに町の街灯や遠くに輝く夜景の光が入り込むその場所は既に人が入り込まなくなって久しい廃工場。
天井が抜け落ち、朽ちた資材が最早廃材となって放置されたままになっているその場所に、闇が蠢いていた。
大量の餓鬼たちが廃材を椅子のようにして腰掛けたり、寝そべりながらどこかから盗んできたであろう野菜などをかじりつつ円を描くように集まっていた。
その視線の先にあるのは一匹の餓鬼。
餓鬼というには違和感がある、餓えて痩せ細っているというより絞られた肉体といった表現が似合う身体。
痩せ型ではあるのだがひ弱な印象はない。
さらに身長も他の餓鬼に比べて頭一つ大きかった。
餓鬼の集団を束ねる頭格の餓鬼である。
その餓鬼は明らかに苛立った様子であった。
「あいつ…逃げやがったか…おら!さっさと探してこいって言ってんだろうが!」
「すみません!さっきまではいたんですが…。」
「てめぇが代わりになりてぇのか…?」
「ひぃ!!!」
どうやら決めた時間を越えてもあの餓鬼が、今日嬲り殺しにするはずであった餓鬼が来ないのだ。
来ないというより本来なら無理に連れて来るところ、あの餓鬼は自分の足でここまで先に来ておきながら、直前になって逃げたのである。
もう頭格の餓鬼は他にどいつを殺すか値踏みを始める──その時であった。
「
「てんめぇ…チビ!死にてえのか!」
チビと呼ばれた餓鬼が、囲いをかき分けるように頭と呼ばれた餓鬼の前に現れた。
その餓鬼こそが今夜の贄であり、頭が待っていた相手であった。
声を荒げる頭に対してチビは冷静であった。
その身にはボクサーのガウンの様にジャージを羽織っており、袖は通していないが顔を隠す様にフードを被っていた。
表情は見えないが怯える様子を一切見せない声色が頭の怒りを加速させた。
「なんだその恰好はよ…脱ぎやがれ、相手してやる。」
「ちょっと待ってくださいよ頭ぁ、まだみんな賭け金賭けてる最中じゃあないですか。」
横に視線をやれば、一匹の餓鬼がどこからか拾ってきた大きな帽子と小さなお椀を手に周囲から金を集めていた。
大きな帽子の中には大小様々な小銭が投げ入れられており、じゃらじゃらと音を立てているが、小さなお椀には何も入っていなかった。
「馬鹿、誰がてめえに賭けるか、ありゃ建前でてめぇを殺した後にみんなで祝い飯を食うための金集めてんだよ。」
「そいつぁ面白いですね、だったら俺のために大口の賭け金出してくる人が来るんで待ってくれませんか?」
「人ぉ?てめぇ何言って──」
頭がチビの言葉に疑問符を浮かべた途端、餓鬼の集団がどよめく音が聞こえた。
「挑戦者に一万だ…忘れるなよ…わざわざ卸してきたんだからな。」
凛とした、女性の声が響く。
この場所において聞こえるはずがない声。
女は小さい何も入っていないお椀に一万円を突っ込んだ。
餓鬼の集団はいつの間に人間がここに──そしてなぜ誰も気づかなかったのかと驚き、各々何事だと声を上げた。
しかし女は臆することなく餓鬼の集団の中に入り込むと当然の様にどっかりと廃材の上に座り込み、頭とチビがいる方向に視線を向けた。
頭はそれを見てチビに向かって怒りの声を上げる。
「あいつ退魔士か!?俺たちを売りやがったな!!!」
「違いますよ!ありゃそんな可愛い代物じゃないです!中身は鬼ですよ!鬼!」
「何が鬼だ!裏切り者が!」
「はぁ?なんで俺が裏切る必要があるんです?」
「なんで…だとぉ!?」
「勝つ気だって言ってるんですよ、俺は…。」
「てめぇえええええ!」
もう頭の怒りは爆発寸前であった。
その時、またしても凛とした女の声が響いた。
餓鬼たちのがやに紛れての中であったが、チビにはその声がはっきりと聞こえた。
「誰が鬼だ…覚悟しておけよ…。」
ゾッとする様な声色にチビが震えあがる。
鬼と称された彼女こそ、チビのコーチである鈴音であった。
「ひぃ!勘弁してくれよコーチ!死にたくねえ!」
「女ぁ…なんだお前は!?」
「そいつが言っただろう、ただのコーチ…鬼コーチだ。」
「無駄なことを…こいつを殺した後はお前でたっぷり愉しんでやる、逃げるなよ…!」
「悪いが…戦う前に四の五の言う奴は好みじゃない…。」
言いながら鈴音は懐からスマホを取り出し、何やら操作するとチビと頭に視線を向けた。
その視線を感じ、チビはガウンめいたジャージを足元に脱ぎ捨てる。
同時に微かに餓鬼たちからどよめきの声が上がった。
その身体が、意外にもしっかりとした身体つきをしていたからである。
頭に比べるとかなり見劣りするが、それでもたった2週間で変わったにしては驚くほどであった。
肉体にも艶があり、まるで輝いているようであった。
そして、構える。
ボクシングの構え。
憧れた、強さ、その象徴たる構え。
後ろ足のかかとを上げ、膝で小気味良くリズムを作りながら、そのリズムに乗ることを楽しむように笑った。
「そろそろ始めましょうや、頭ぁ!」
「いいだろう、殺してやる!!!!!」
その言葉と同時にカーンと甲高い金属音が響いた。
鈴音がスマホに入れておいたゴング音のサウンドを鳴らしたのである。
「があああ!!!!」
頭がチビに向かって突っ込み右手を振り上げる。
それに対しチビは、なんと足元に先ほど脱ぎ捨てたジャージを足で掴み、頭に向かって放り投げた。
「ぬぅ!?」
頭は咄嗟に左腕でそれを弾くが一瞬視界が塞がれた。
右手は振りかぶり、左手は今ジャージを弾くために外に払われた。
顔面が、がら空きになった。
「だああああああああ!!!!!」
チビの咆哮と共に、ジャブが──いや、ジャブと言うには重過ぎる、全身で飛び込むようなパンチが頭の顔面にぶち当たった。
視界を封じ、思わぬ距離から放たれる予想外に重い一撃。
体格差を覆す、幾重にも策を巡らせた一撃だった。
「ぐぇ!?」
頭が思わず声を苦し気な声を漏らす。
しかし頭はそれでけでは倒れず、強引に右の大ぶりなパンチを放ったが、チビは難なく身体を捻りつつ身体を屈めてそれを避け、さらに捻った身体を戻す勢いを利用してわき腹に左アッパーを放った
そしてすぐさまウサギの様に跳ねてその場を離れた。
その姿を見て鈴音は微笑む。
珍しい鈴音の笑みであった。
「蝶のように舞い蜂のように刺す、とは言えないが…ウサギのように跳ねバッタみたいに飛び込む、くらいはできてるかな。」
ぴょんぴょんと跳ねるようなチビの動きを見て鈴音はそう評した。
しかし上出来である。
跳ねるチビに向かって頭が再度突っ込みまたしても右の振りかぶったパンチを放つ。
チビは前に向かって踏み込みながら難なくそれを避けつつカウンターの右ストレートを思い切り放った。
まともに当たった。
チビも自分の拳が壊れるのではないかと思うくらいの手ごたえを感じていた。
しかし頭の勢いは止まらない。
今の一撃で口の中を切ったのか、血を口の端から滴らせながらも倒れこむようにチビに向かって突っ込み、掴みかかった。
勢いのまま組み付いて押し倒そうとするが、頭はチビの身体に触れたとたん驚きの表情をかすかに浮かべる。
「てめぇ──」
頭はチビの身体を掴めなかった。
ぬるぬると滑り、上手く組み付けないのである。
チビは全身に油を薄く塗っていた。
身体が艶めいて見えたのはそれが原因である。
実際に表面が油で艶めいているのだ、見えて当たり前である。
「でやぁ!!!」
間近に迫った頭の顎にチビがアッパーを打ち込み、更に追撃に左肘を側頭部に叩き込んだ。
その一撃で距離が開いたところで勢いついたチビは逆に距離を詰め、首の後ろに手を回し頭突きをぶち込もうとする。
それを見て鈴音は思わず声を上げた。
「馬鹿!」
鈴音が声を上げた時には遅かった。
逆にチビが、カウンターの頭突きを喰らっていた。
頭突きというものはとても効果的な技だ。
しかし同時に自分がカウンターによってダメージを喰らう恐れもあるリスクのある技でもある。
チビはその一撃で、一瞬膝を崩しそうになるほどのダメージを受けた。
そこに容赦なく頭がパンチを打ち込む。
当たった。
体格差という、あまりにも非常な差。
チビはあっけなく後ろに向かってぶち飛ばされた。
「こ、この…チビがぁ!!!!」
息を荒くしながら頭が倒れたチビに対し追撃に向かおうとするが、その足元がややおぼつかない。
効いていたのだ、チビのパンチが。
頭がチビの元に辿り着くより先に、チビが顔面から血を流しながらも立ち上がった。
「へ…へへ…痛ぇ…痛ぇ…!」
「なに笑ってんだぁ!チビィ!」
チビは笑っていた。
その顔は、死線を前に笑う、鈴音とまるで瓜二つの様であった。
「痛いってのは…まだ意識があるってことだからよぉ!!!!」
叫びながらチビは頭に向かって突っ込み、同時に口から何かを頭に向かって吹き出した。
チビが血と共に吹き出したのは折れた歯であった。
だがその程度ではもう頭も怯まない。
その目はしっかりとチビを見ていた。
もうその目は、弄び嬲るための格下を見る目ではなかった。
明らかに自分と同じ格の相手を見る、敵を見る目に変わっていた。
チビに殴られながらも、強引に頭が殴り返す。
チビはとっさにまともに殴られぬよう身体を反らすが、それでも頭のパンチが当たった。
ダメージを削いではいるが、体格差がここでも出ていた。
そこからは足を止めながらの壮絶な殴り合いであった。
両者の拳が動くたびに血が舞い、汗が飛び、咆哮が上がる。
パンチを受けながらも技術でダメージを削ぎ、パンチの連打を打ち込むチビ。
連打を受けながらも一歩も引かず渾身のパンチを打ち返す頭。
熱狂が両者を包んでいた。
最早勝ち負けなど、観衆の餓鬼にも、どうでもよかった。
ただただ今の光景に見入っていた。
叫んでいた。
心の猛りを叫ぶことでしか表現できないのだ。
「がああああああ!!!」
「がああああああ!!!」
歓声の中、両者の咆哮が響く。
同時にお互いの拳が交差し、チビのパンチが頬に、頭のパンチが額にぶち当たる。
咄嗟にチビは額で受けたもののその衝撃に後退ったが、まともにパンチを受けた頭もまた同じであった。
両者の距離が開く。
チビは半分意識が飛びながらも、距離が開いた途端に前に向かって飛びこんでいた。
頭は、その動きを見て怯えた。
あの飛び込んでくる左パンチが来る、重い一撃が!
頭は反射的に身体を屈めて避けようとした。
しかし身体を屈めて逃げたその先にあったものは──
「ああああああああああ!!!!」
チビのアッパーが、軽い左ジャブからつなげた渾身のアッパーが、頭の顎をカチ上げていた。
芥が──チビの憧れの、強さの象徴である芥麗が得意とするコンビネーション。
それはジャブの威力があって、相手がそれを恐れるからこそ成立する、基本ができているからこそできる必殺コンビネーションであった。
鈴音はそれを強引に実現させるため、あえてボクシングのジャブとは違う、独特のパンチを授けたのである。
頭がその一撃で膝を折った。
折ってそのまま、膝立ちでぐらつき、最後は崩れ落ちた天井から覗く月を仰ぐように、仰向きに倒れた。
先ほどまで声を上げていた餓鬼たちが、その瞬間だけは、ぴたりと静まり返った。
目の前の光景を見て、チビは震えていた。
信じられないと、まだ焦点の定まらない目で、眺めながら、震えていた。
カンカンカーン──
静寂を割くように甲高い金属音が、鳴り響く。
鈴音が、ゴングを、試合終了のゴングを鳴らした音であった。
「あ…あ…。」
その音を聞いてチビは、震えた身体を抱きしめるように腕を抱え、そして天を見上げた。
そして天に輝く月に向かって、まるで天命に打ち勝った自分自身を称えるように拳を突き上げ──
「おおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
雄たけびを上げた。
その声に応えるように歓声が上がり、拍手が波のように広がった。
シャワーのように歓声を浴び、チビは周囲を見回した。
自分を育ててくれた、最高のコーチの姿を探した。
しかし、その姿は既になかった。
歓喜の表情から一転、まるで親とはぐれた幼い子供のように表情を歪ませ、必死に鈴音の姿を探した。
「コーチ!?コーチ!!?おい!!!出て来いよ鬼コーチ!!!おい!!!!!」
しかし鈴音の姿はどこにも無かった。
ここに音もなく現れた様に音もなく消えてしまった。
ただ、賭け金を入れていたお椀と帽子がいつの間にか消え、そこに残されたものは祝勝代と書かれた封筒が一つ。
中には1万円札が2枚入っていた。
たったそれだけが、彼女がここに存在していたという事実の、唯一の残り香だった。
「いらねぇよぉ…。」
チビは泣いた、先ほどまでの歓喜は失せていた、ただただ今は──
「いらねえよおおおおおお!!!!!」
哀しかった。
もうすでに陽が落ちてから時間が経ち、街灯の明かりが眩しく感じる夜。
その日に月明かりはなかった、新月の夜である。
芥麗が帝都拳闘倶楽部を出たのはその時間であった。
彼女はトッププロであり、遅くまで練習をこなすのは日課であり当然のことであった。
今日もぶっ倒れるような練習をこなしながらも、自分の足で歩いて帰っていた。
それは彼女なりの体調管理である。
もし帰れないレベルで身体が動かなければそれはオーバーワークだと芥は考えていた。
今日はしっかりと自分の足が地面を歩いているということに安心しつつ、街灯の元をたどるように帰路につく。
近道だからと明かりのない路地裏を抜けるような不用意な真似は芥はしなかった。
プロボクサーではあるが、不意打ちで刃物で襲われて、生き延びれるというような慢心は彼女にはなかった。
もしそんなことができるとすれば、ついひと月ほど前、不意に現れたあの懐かしき少女くらいであろう。
久々にあった彼女は身体つきもさることながら、佇まいが尋常ではなかった。
思わずじゃれあいで意地悪をしてしまったが、もし彼女と真剣勝負をしろと言われたら迷いなく辞退しようと思う。
そんな心構えが出来ていたからであろうか、芥は街灯を二つほど挟んだ道の先、街灯の隙間の暗がりになっている地点に少年が一人立っていることに気づいた。
少年はニット帽を目深く被っており顔がよく見えす、ダボっとしたジャージを袖と裾をまくって着ていた。
明らかに普通の少年ではなかった。
少年は芥の姿をニットの隙間から覗く瞳で確認すると、口を開く。
「芥麗さん、ですよね。」
「だったら…?」
芥は少し後ろに下がりながら、いつでも逃げられるように体勢を整えながらそう返す。
すぐに逃げなかったのはその少年が怪しいながらもあまりにも堂々と立っていたからか、その声が予想外に穏やかで落ち着いていたからか。
分からないが芥は少年の声に耳を傾けていた。
「ごめんなさい、俺、事情があって、こんな形で話しかけてしまって。」
「…。」
「でも一つだけ伝えたくて。」
少年は突然頭を深く下げた、帽子を頭に被ったままであったが、深く、見かけだけではない、誠意の感じるお辞儀だった。
「俺!芥さんのおかげで…強いってかっこいいと思えた!おかげで本当に強くなれた!!」
「え…?」
姿の見えない、謎の少年から突然向けられた真っ向からの好意に、芥は思わず小さく声を出した。
「それと、あの鬼コー──この前に芥さんと会ってたあの女の人に伝えてください…。」
あの女?と芥が誰のことだろうかと思い当たりを探る。
会っている女性など芥には山ほどいる、だが、芥には何故か、鈴音の顔が脳裏に浮かぶ。
その時、少年から鼻をすするような音が聞こえた。
泣いているのか?
芥が思った通り、少年は涙声で叫んだ。
「祝勝代!使ってねえから!今度は俺の奢りで牛丼だって!全部のせだって!」
そう言って震える声を抑えるように息を飲み、少年は背を向けた。
「すいません…でもお願いします…。」
少年が走り去る。
その姿に芥は精いっぱいの声を張り上げ、叫んだ。
「少年!うちのジムにとっとと来い!誰でも歓迎してやる!」
少年は振り返らない、振り返らぬまま、街灯の下を通るたび、涙のしずくを煌かせながら走る。
「待ってるからなーー!!!」
少年にとってその言葉は、最高の贈り物であった。
「…あの馬鹿。」
鹿角鈴音はその光景を物陰から見ていた。
正直なところ、鈴音は餓鬼の本能からして、芥に襲い掛かるのではと危惧していた。
力を持つということはそういうものだ。
暴力という最も恥ずべき力は、最も香しい魅力を持つ。
力は、振るいたくなるものだ。
鈴音はそう考えていた。
故にこの場所に鈴音はいる。
これ以上彼らの界隈に干渉するのも悪いと姿を消したが、それは全くの無責任であったと反省していた。
だがあれから秋奈町の周辺において餓鬼に関する事件の報告は聞いていない。
八咫烏本部に餓鬼に関する事件があれば必ず送ってくれと要請していたが、どれも秋奈町から遠く離れた場所での事件ばかりである。
それには安堵しながらも鈴音は油断していなかった。
もし鈴音なら安心したようなタイミングを狙う。
そう考えて一番危険な、チビが想いを寄せていた芥を陰から見守っていたが、結果はこれだ。
初見の印象通り、本当に子供の様な奴だった。
あのどこまでも強いものに憧れる、子供そのままの目。
今思えばその目は芥に似ていた。
だからきっと自分はあのチビを強くしたのだろうと、鈴音は今更ながら納得した。
「…教えることは、同時に教えられることって言うのは…本当なんだな。」
そう言い、鈴音は物陰に消えていく。
もう芥を鈴音が守る必要はない。
「ありがとう。」
鈴音は誇り高き、自分にとって初めての弟子と言える存在に礼の言葉をこぼした。
報告書。
秋奈町での餓鬼との戦闘について。
真夜中の秋奈町を巡回中、餓鬼数匹と遭遇。
こちらの姿を視認した途端、リーダー格の餓鬼が他の餓鬼を逃すという行動を確認。
普通の餓鬼とは違う、こちらの力量を読み取った冷静な判断であり今後は警戒が必要。
おそらく盗難品であろう運動用の服まで身に着けていた。
リーダー格の餓鬼は逃亡するそぶりを見せず、挑発するような言葉をこちらに向けて発しつつ戦闘の意思を見せた。
一対一での戦闘に突入。
その餓鬼は霊銃の銃弾を2発かいくぐるようにこちらに接敵。
3発目の霊銃が左腕に命中したが、その餓鬼は止まらずに格闘戦に突入。
こちらも手傷を負うが大通しにより胴を両断。
餓鬼の絶命を確認。
死後持ち物を確認したところ、ジャージのポケットから祝勝代と書かれた封筒を確認。
中身には1万円札が2枚。
被害者が出ている可能性が高く、秋奈町内での盗難事件および強盗事件との照合が急がれる。
以上。
猿女留美子。
「苦い…なぁ…。」
「苦くて…涙が出る…。」
鈴音が飲む、放課後のコーヒーは苦かった。