帝京歴784年9月上旬。
夏休みも終わりを告げ、鈴音と花鈴は再び高校へと通う日々が始まっていた。
昼より幾分かマシとはいえまだまだ気温が高い朝の登校路。
横を元気に走り抜けて行く小学生の背中を見送り、のんびりと歩く老齢のサラリーマンの背を追い越しながら、鈴音は登校路を歩く。
鈴音の生活は以前からあまり変わらない。
前と同じく早朝に起きて鍛錬をし、シャワーを浴びて朝食を食べ学校に向かう。
変わった点は二つ。
昼食を自分で詰める必要が無くなったこと、そして一人で登校しなくなったことだ。
「ふあぁ~…眠い!」
鈴音の隣で花鈴が伸びをしながら声を上げ、危うく閉じてしまいそうな目を擦る。
「花鈴…昨日も夜更かししてたのか?」
「だってぇ…化け猫のやつが負け認めなかったのが悪いんだもん!」
「もう夏休みは終わったんだから…控えめにしなさい。」
「やだ!」
「やだじゃない。」
「やだぁ~!」
花鈴が鈴音の左腕にしがみつき、頬を擦らせながら駄々をこねる。
鈴音はその頭を仕方なさそうに撫でながら宥める。
これが今の二人にとって当たり前の日常になっていた。
そのまま花鈴がべったりと身体を密着させたまま同じ制服を身に着ける生徒の間を通り、校門をくぐって、教室の前で別れる。
数か月前、事件の後に二人で登校し始めた頃は、互いに無関心な様子だった二人が急に仲睦まじそうに登校したことで大いに騒ぎになった。
しかしそれも今ではすっかり皆慣れ親しんでおり、いつも通りだと言った風に二人の様子眺めている。
その視線はあまりのべたつき様に呆れていたり、花鈴のファンから鈴音に対する嫉妬の目であったり、よく分からないが尊い?と言われていたり様々だ。
今日もいつも通り校門をくぐる。
鈴音が余裕のある時間を守って家を出るため、急ぐ必要なく教室へと向かう。
だが今日はそこで不意に二人に声がかかった。
「お、おはようございますお二人とも!」
「えっ……あ、おはようございます、会長。」
「おはよ~先輩。」
生徒会長──キャバクラで偶然に出会ってしまった先輩、ヒナが二人に挨拶をしたのだった。
どうやら校門近くで二人を待っていたらしく、ヒナはぱたぱたと小走りで二人の隣にやってくる。
鈴音は化粧をしていないヒナの顔をしっかり見るのは初めてであったため、気づくのに遅れてしまった。
素のヒナの顔は、素直に可愛いと言える愛嬌のある顔であった。
おっとりとしたたれ目に柔らかそうな肌と、素のままでもウェーブのかかったロングヘア。
背は化け猫ほどではないが低めで、メイクでよくあそこまで大人っぽく演出できるものだと不思議になるほどだった。
「改めて二人には挨拶しておこうと思って…驚かせてごめんね、あの時は。」
「私こそ生徒会長だと知らずに…すみませんでした。」
「いいですよそんな気にしなくても!花鈴さんの方がよっぽど会長らしいことしてますから!」
「まぁそれほどでも…あるね!」
「こら…花鈴。」
「だって本当のことだもーん!」
褒めて褒めてと言わんばかりにアピールする花鈴の頭を鈴音は黙って撫でる。
たしかに花鈴は普通は雑用や行事のまとめ役が主な生徒会でありながら、校則の改定や購買の充実化などで結果を出し、積極的に活動をしていた。
あくまで優等生の仮面を被っていた故の行動だったが、今でも自分の欲望のままにではあるが積極的に活動しているらしい。
「う~ん、もうちょい私が権力握れば”式神伝 校内最強トーナメント”出来そうなんだけどなぁ。」
「そんなこと考えてたのか花鈴…。」
「開催できれば校内のオタク共を私の前に跪かせることができるのに。」
「そういう考えはやめなさい…!」
流石の鈴音も花鈴の言葉に顔をしかめ、撫でていた手を止め軽く頭を叩く。
「…花鈴はこういう子なので、会長になったらむしろ心配です。」
「ははは…でもやっぱり活動的な方が目立ちますし、良いですよ…私はそんな勇気ありませんから。」
「でも、生徒会長をされてるじゃないですか…それだけでも勇気はあると思いますよ。」
「それもちょっと理由があるというか…。」
鈴音の言葉にヒナは少し気恥しそうに言う。
ひなの反応を見て、花鈴がにたりと笑みを浮かべる。
そして小指を一本伸ばしてヒナの前に差し出した。
「あー、会長のコレ?」
「か、花鈴さん言わないでくださいよ!」
「…コレ?」
顔を真っ赤にするヒナを見て、鈴音は不思議そうにヒナの小指に目をやり、首をかしげる。
特に何の変哲もない指だ。
細くて凹凸の少ないかわいらしい指である。
そんな鈴音の様子を見て花鈴がそっと耳打ちした。
「すーちゃん、小指は彼女さん…恋人の暗喩…!」
「彼女さん…ああ、そういうことか。」
ようやく理解した鈴音が頷く。
どうやら彼女が生徒会長を務めた理由としてその彼女のことがあるらしい。
「…いや、それがどう関係あるんだ?」
不思議そうに首を傾げる鈴音を見て花鈴が何故か小さく肩を落とし、溜息をつく。
「相手が問題なんだよ、この学校の風紀委員長でケッコー有名な人だけど、すーちゃんは知らないよね。」
「知らないな。」
「じゃあ分かりやすく説明すると昔の私を気に入ってたけど今の私と仲が悪い人、だいたい分かる?」
「…ま、おおよそは。」
花鈴の言葉に微かに眉をひそめながら頷く。
優等生の仮面を被っていた花鈴を気に入っていたが、今の自由奔放な花鈴が嫌いとなればおおよその性格の検討はつく。
「それでも会長の恋人ってことは悪い人ではないんだろう、あまり変なこと言わない方がいい。」
「いやだね!あの高慢ちきで人を見下さないと気が済まない感じ、クッソむかつくんだよ!」
「花鈴…すみません会長。」
「だ、大丈夫ですよ、花鈴さんがあの人と馬が合わないのは知ってますから…。」
そう言いながらも困ったように眉を八の字に下げながらヒナが笑う。
どうしたものかと鈴音が顎に手をやると、後ろから人が此方に向かってくる気配を感じた。
誰だろうかと鈴音が振り向くと、女生徒が一人歩いてくる。
鈴音はすぐさまに相手の背丈や歩き方、目線から女生徒がどのような人物か分析した。
意識してやっていることではない、無意識にしてしまう癖のようなものだ。
背は百七十五センチ前後、女性にしてはかなり高い。
歩き方にぶれがなく体幹がしっかりしており、なにかしらの競技──いや、格闘技をやっているようであった。
目線はまっすぐと前に向けており、振り向いた鈴音と目が合ってもぶれることがない。
髪は長く艶やかで烏の濡れ羽色という表現が当てはまる美麗な黒。
顔立ちも整っており、人形のような美しさがある。
しかしどこか愛嬌がない。
愛嬌に満ちてかわいらしい顔立ちをしているヒナとは対照的に感じる。
女生徒はまっすぐに鈴音たちのもとに歩いてくるとゆっくりと口を開いた。
「おや、珍しい組み合わせだが、一体何事かな?」
挨拶もなしに鈴音たちに声をかける。
花鈴が女生徒の顔を見るとみるからに嫌そうに顔をしかめ、ヒナは微かに表情を和らげた。
鈍い鈴音にも二人の表情を見れば察しは着く。
彼女が話していた風紀委員長なのだろう。
「何?あたしが会長と話すのにもわざわざあんたの許可がいるわけ?
花鈴がトゲのある口調で風紀委員長──久保寺につっかかる。
久保寺は花鈴に返事することなく鈴音と花鈴を一瞥すると、ヒナに目を向ける。
「ヒナ、この二人はどうしたんだ?何かあったなら私が話をしよう。」
久保寺は会長をヒナと呼んだ。
ヒナという名前は会長の源氏名というだけではなく、名前にも含まれている言葉らしい。
「大丈夫です久保寺さん、少し前に仲良くなったので話していただけですよ。」
「この二人とヒナが?」
じろり、と鋭い目線が鈴音と花鈴に向けられる。
二人ともその程度でひるむことはないが、鈴音はどうしたものかと考える。
なにやら悪い虫がついたと誤解されているようだが、素直にヒナとキャバクラで会いましたとは言えない。
その様子を見た花鈴が面倒くさそうに眉をひそめ、話し出す。
「会長が自転車が壊れて困ってる時にすーちゃんが通りがかって家まで運んだんだよ、今はそのお礼を言われてただけ、OK?」
花鈴が適当に出会った経緯をでっちあげる。
「そうか、私に言ってくれれば良かったのに、ヒナ。」
「お、お忙しいかと思って。」
「何を言うんだ、他ならない恋人の君のためなら私は駆けつけるよ。」
久保寺の言葉に思わず鈴音は目線をそらし、花鈴は辟易した様子で顔をしかめる。
映画のように芝居がかったセリフに二人は苦い表情を浮かべるが、ヒナはその言葉が嬉しかったのか顔を赤らめている。
鈴音には理解できない感情だった。
「君たち、ヒナが世話になったようだね、感謝するよ。」
「それが感謝してる態度かっての…。」
「やめなさい花鈴…体力には自信はありますから、勝手にお節介を焼かせてもらっただけです。」
ヒナの横に立ち一応の感謝を述べる久保寺に花鈴が毒を吐き、それを鈴音が諫めながら返事を返す。
花鈴の態度に対し久保寺はニヒルな笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「恋人が問題児二人に絡まれているんだ、心配するのも当然だろう?」
「待った!すーちゃんはともかく私は別に問題児じゃないっしょ?」
「かーりーん…!」
鈴音が鋭い視線を向けるが、花鈴はわざとらしく目を合わさない。
その様子にあきれたように久保寺が苦笑した。
「期末で追試になった赤点番長と、人が変わったみたいに傍若無人になった花鈴くん、変わらず問題児だと思うが?」
「あ…赤点…番長…。」
初めて耳にする屈辱の言葉に鈴音は思わず頭がくらくらしてしまった、まさかそんな風に噂されていたとは思わなかった。
肩を落とす鈴音に対し花鈴は小さく笑いを堪えている。
そんな様子を見かねてかヒナが割って入り助け船を出した。
「久保寺さん、その…私を助けてくれたんですからあまり…。」
「そうだね、悪かったよヒナ。姉の方は鈴音くんでよかったかな?君が悪い人間じゃないことは覚えておくよ。」
「…ついでに赤点番長という呼び名は忘れてもらえれば幸いです。」
「ははは、では忘れてあげよう。じゃあ行こうか、ヒナ。」
「はい、ではお二人とも、失礼させていただきます。」
久保寺がそう促すとヒナは軽く一礼し、二人で並んで校舎に入っていく。
鈴音は半ば呆然としたまま二人を見送っていたが、花鈴はまだ笑いを堪えていた。
「赤点番長って…ひっど…くくく。」
「…もういい、次は絶対に赤点はとらんからな!」
「ちょっ、待ってよすーちゃん!笑ってごめんって!!」
花鈴の腕を振り払いながら鈴音は拗ねたように唇を尖らせて校舎に向かい、その後を慌てて花鈴が追いかける。
平和な朝だった。
同日深夜。
少女が独り、住宅街の夜道を歩く。
身を隠すようにサマーコートを纏い、盛るように巻かれた髪を夜風になびかせていた。
顔立ちは幼いが、濃い化粧が施されている。
少女の名前は
生徒会長のヒナ、その人である。
街灯に沿った道ではあるが、もう深夜だ。
ほとんどの家の窓からは明かりが消え、数えられる程度しか明かりのついた部屋は見つからない。
時折響く車の音に対し、ふらつく足で道路の端に身体を寄せながら歩く。
軽く酒に酔っているようだった。
千鳥足とまではいかないが、足取りがおぼつかない。
そうしてたどり着いたのはマンションだった。
マンションといってもアパートとそう変わらない、大衆向けのものだ。
部屋はどうにか1LDKの体裁を守っているような小さなものである。
「ただいま。」
ヒナは玄関をくぐり、静かにそう言う。
同居している母がいるはずだが、返事はなかった。
ヒナがリビングに足を踏み入れると母は何かに怯える様に布団を深くかぶり、眠っていた。
テーブルの上には飲み散らかされたチューハイの空き缶とまだ中身が残ったスナック菓子がいくつか。
それに出前をとったのだろう、チェーン店の名前が入った空き箱が放置されていた。
「母さん…高いから出前はやめてって言ってるのに…。」
ヒナは眠っている母を見てそう呟きながらテーブルの上をサッと片付ける。
ゴミを袋にまとめて台所に向かうと、そこにはほとんど手の付けられていないヒナが作った料理があった。
安い鶏むね肉ともやし、ピーマン、人参を合わせた炒め物だ。
それを見てもヒナはもう何も思わない。
いつも通りの光景だ。
近ごろの母は娘の料理を口にせず、何かしらの出来合いものやジャンクフードを買って食べている。
前までの母ならこんなことはなかった、全ては父の会社が倒産し、失踪してしまったあの日から狂ってしまった。
手つかずの料理は明日のお弁当に多めに詰めよう、ヒナはそう決め、一応自分用にあてがわれた一室に向かう。
狭い部屋の中、どうにか置かれた衣装タンスにサマーコートをかける。
コートの下には煽情的で体のラインが浮き出る、派手な光沢に彩られた丈の短いドレスを身に着けていた。
俗にキャバクラと呼ばれる店のキャストが身に着けているものである。
ドレスを脱ぎ、洗濯用のネットに入れて洗濯機の横に置くと洗面所に行き化粧を落とす。
化粧を落とした顔が洗面所の鏡に映ると、ヒナの顔が歪んだ。
化粧に覆い隠されていたが顔は青白く、酒を飲んだせいで頬の周りだけが微かに赤みがかっている。
ヒナは未成年だ、しかし酒を飲んだのはもう初めてではない。
キャバクラでの仕事中、雰囲気をしらけさせないためにどうしても飲まなければいけない状況に陥ったのだ。
店も、他のキャストも、気を遣ってくれはした。
しかし一晩で結構な金額を使う上客が相手になると店としても強く出ることは無理だ。
目の前で数十万という金が泡の様に消えていく前で、ヒナはただただ流れに従うしかなかった。
罪悪感や嫌悪感、どうしようもない怒りが胸の中で混ざり、逃げ場がない感情は泥の様に溜まっていく。
開き直れれば楽になれるかもしれない。
だがヒナにはそれができなかった。
この仕事も入学費と新生活のためにお金が溜まれば終わりだ、そう思って耐えている。
問題はそのお金が予想より溜まっていないことだ。
母親は一切働いておらず、急に生活環境が変わったショックのせいか家では堕落しきっており、口座から数万づつ知らぬ間にお金を引き落とされていることも度々だ。
そもそもヒナに今の仕事を紹介したのも母である。
どうしても目指していた大学に行きたいと、そこだけは譲らないヒナに対し、ならばここで稼いで来いと母が言ったのだ。
今のヒナの心の支えは恋人である久保寺
彼女はヒナにとっては憧れだ。
人によっては傲慢ともとれるかもしれないが常に自信にあふれ、堂々としている姿はヒナが持ちえないものだ。
まるで演劇の様に芝居がかった言葉を臆面もなくヒナに向けて発し、愛してくれている。
化粧を落とした顔を洗い、改めて鏡を見て気を引き締める。
久保寺のことを想って少しは元気が出た。
シャワーを浴び、気分を入れ替えてパジャマに着替える。
そしてゴミが溜まっていたことを思い出し、今のうちに出しておこうと台所に向かう。
最近は出前の空き箱でゴミが溜まりがちなので、翌朝出し忘れてしまうと狭い台所がさらに狭くなってしまう。
膨らんだゴミ袋を手に玄関を出てマンションのゴミ捨て場に向かい、カラス避けのネットをどけてゴミを捨てる。
その時、不意に何かが足に触れる感触がした。
「痛ッ…!」
急に足に痛みが走る。
反射的にその場から飛びのき、足元を見ればそこに一匹の蜘蛛がいた。
「な…なに…大き…い!」
ヒナが驚いたのはそのサイズだ。
手のひらほどの大きさをしており、普段道端でみかける蜘蛛よりかなり大きい。
蜘蛛はヒナが視線を向けるとすぐにその場から動き、積もったゴミの影に隠れるように逃げ出した。
「大丈夫かな、毒とかない…よね。」
少なくともこの地域に毒蜘蛛がいるだなんてヒナは聞いたことがない。
逆に噂ではゴキブリなんかを食べる大きな蜘蛛がいると聞いたことはあるため、もしかしたらその種類かもしれなかった。
きっとそうなのだろうとヒナは自分に言い聞かせる。
街灯の下で噛まれたであろうくるぶしの当たりを見るが、腫れたり赤くなっている様子はない。
そのことに安堵しつつ、ヒナはマンションの自宅へと帰っていった。
街灯の光を避ける様に、蜘蛛は物陰を走る。
影と影を繋ぐように動き人知れず走る。
動きは素早い。
先ほど食事をしたばかりで元気がある。
小さな体には十分な量の生気を吸い取った蜘蛛はどこか楽し気に見える動きで壁を登り、やがて繁華街の中で放置された空き部屋たどり着いた。
みすぼらしいビルの中にあり、扉には賃貸募集中と張り紙がされているがもう色あせており、長く誰も借りていないことがわかる。
蜘蛛は動くことがない換気扇の隙間を身をよじるようにくぐり抜け、室内へと入る。
中にはテーブルや椅子のようなものは一切なく、全て持ち出されていた。
床にはほこりが積もり、ところどころに小動物のフンが転がっている。
ここまでは普通の空き部屋にある光景だが、異質な存在があった。
ネズミや蝙蝠──フンの主であろう小動物たちの死体があちこちに転がっていた。
全てに目に見える外傷はなく、干からびたように乾いた状態で力尽きている。
蜘蛛はそれらを避ける様に床を走り、壁を登り、天井を這う。
そして目的地へとたどり着いた。
『おかえりなさい…。』
誰もいないはずの部屋に、か細い声が響く。
天井に、ソレはいた。
巨大な蜘蛛だ。
腹だけで1メートルを越える巨大な──いや、蜘蛛、そして腹の先には蜘蛛の頭ではなく、人間の女性の上半身に見えるモノが生えていた。
妖怪である。
女郎蜘蛛と呼ばれる妖怪の一種であろう。
だがその肌はひび割れ、生気がなく、弱弱しい。
発せられる妖力も微かなもので、どうにか死なずに済んでいるといった雰囲気だ。
彼女は天井の隅に繭の様な巣を作って潜んでおり、帰ってきた蜘蛛──自ら産んだ子蜘蛛を迎え入れる。
『ああ…良い獲物を見つけてきてくれたのね…ありがとう…。』
我が子の生気に満ちた身体を撫で、愛しく抱きしめ、そして──
『さようなら。』
牙を、突き立てた。
我が子が小さな身体に蓄えた人間の生気を、喰らう。
子蜘蛛はパニックになり脚をばたつかせて暴れるが、逃れられない。
蜘蛛は突き立てた牙で獲物の内臓を溶かし、吸い取ることで食事をする。
この女郎蜘蛛も同じように牙で生気を吸い取って糧としていた。
やがて子蜘蛛は力尽きて動きを止め、しばらく脚を痙攣させていたがそれもなくなった。
残ったものは生気を吸い取られ、乾ききった死体のみ。
女郎蜘蛛は食べつくした死体をしばらく愛おしそうに撫で、舐め、涙を流し、捨てた。
他に喰らわれた小動物と同じように、ゴミの様に床に転がる。
『ごめんねえ…ごめんねえ…ごめんねえ…。』
呪詛の様に、声が響く。
『ごめんねえ…ごめんねえ…ごめんねえ…。』
呪詛の様に、声が響く。
『ごめんねえ…ごめんねえ…ごめんねえ…。』
呪詛の様に、声が響く。
幾度も、幾度も呪詛が響く。
呪詛が響くたびに、女郎蜘蛛のひび割れた肌が微かに塞がり、微かな赤みが生まれて生気が増していく。
『貴女の代わりにたーくさん、食べてあげるからねぇ。』