ツツジと相対している社員は構えながらも動けない状態であった。
ツツジが吹き飛ばしたドアの下敷きになっている眼鏡の社員は受けた衝撃で意識が揺らいでいるのか、動きが緩慢でまだドアの下から這い出ていない。
立って構えている男女二人も豪快に室内から出てきたうえ、荒事に慣れ切った様子のツツジに気圧され、攻撃に機会を見計らいながら動けない。
霊剣と拳で攻撃を加えるにしても、少し間合いが遠い。
そんな二人を前にツツジは何やら考える様に顎に手を当て、そして倒れたドアの下から這い出そうとしている男を指さして言った。
「あれはメガネで、お前らは──」
眼鏡の社員をそのままメガネと呼ぶことに決める、そして残る二人をそれぞれ指さすと。
「ブタ男と骨子!!!」
にやにやと厭らしい笑みを浮かべながら恰幅の良い男性とスレンダーな女性をそう呼ぶことに決めたようだった。
その言葉を聞いて二人は少し頭にきた。
やや開いていた間合いを詰め、同時に攻撃に移ろうと一瞬目配せを交わし、動こうとする。
だがそれよりも先にツツジが一歩前に踏み出していた。
その一歩で、踏み込んで攻撃を加えようとしていた二人の間合いが殺される。
迷いに一拍子、間合いの調整に一拍子。
合計二拍子、動きが遅れた。
スレンダーな女性──骨子が霊剣を発現させ、峰を向けながらツツジの首筋へ抜刀術のように一撃を、恰幅のいい男──ブタ男が地面を薙ぐ様な足払いを放った。
上段と下段を同時に狙う息の合ったコンビネーションであった。
だが、遅れた二拍の間を含め、ツツジに誘われたタイミングの攻撃であった。
なんとツツジはその場から吊るされた輪をくぐるサーカスの猫の様に前方に向って飛び込んだ。
上段と下段のその隙間をくぐり、ツツジが二人の間をくぐりぬけ、背後に降り立つ、そしてさらに前に向って踏み込んだ。
その先にいるのはメガネの男。
まだ体勢が整っていないメガネの男を最初からツツジは狙っていたのである。
「く、くそっ!」
メガネは咄嗟に背広の懐からお札を取り出し、目の前にかざした。
同時にメガネの前に霊力で作られた膜のようなものが広がり、ツツジの攻撃を阻もうとする。
印や文言を唱えるような時間はなかったため簡易的なものだが時間稼ぎになる。
メガネはそう思ったらしいがそれは浅はかな考えであった。
「よいしょお!!」
「なっ──」
地面に降り立ったツツジが縮めた身体をバネの様に弾けさせ、弾丸の様に霊力の膜に向って突っ込む。
さながらそれは猫というより獅子を連想させる力強さがあった。
獅子が獲物に食らいつくように、ツツジの右正拳突きが膜に炸裂する。
風船が割れる様に呆気なく膜は破壊され、無防備な状態のメガネが一人、悲壮な表情を浮かべながら立ち尽くす。
「オラオラオラオラァッ!!」
右中段回し蹴り。
肋骨九番完全骨折、八番十番不完全骨折。
左中段貫手。
肋骨八番完全骨折、九番不完全骨折、軽度肝損傷。
右中段正拳突き。
胸骨不完全骨折、三番四番肋軟骨完全骨折。
左上段掌底。
顎関節脱臼、三十番三十一番臼歯欠損、二十九番三十二番臼歯破折。
メガネが唯一幸運だったこと。
それは肋骨が折れた信号が脳に達し、痛みを発するまでの間に意識を失えたことだった。
メガネが地面に伏すよりも早く、ツツジは残る二人、ブタ男と骨子に向き直る。
仲間が一人やられたことには怯まず、まずブタ男がツツジに向って踏み込んでくる。
様子を間合いを見計らっていては、ちょっとした動きの機微でツツジにコントロールされてしまうことを理解し、半ば玉砕覚悟で突進した。
ツツジにとっては嬉しくない展開であった。
複数戦の場合先手を取って一人を倒し、包囲を崩して位置を巧みに変えながら一気に攻撃されることを防ぐ必要がある。
いくら優位に戦いを進めていても、少し戦いの流れを掴まれただけで劣勢へと覆ってしまうのが複数戦だ。
そしてブタ男はその流れを玉砕覚悟で今掴もうとしている。
さらにその恰幅の良い体に隠れて骨子の動きが見えづらい。
なにかしらの奇襲を受けてしまう可能性が高かった。
「チぃッ!ブタが!!」
恰幅の良さに不利を受けたツツジが思わず悪態をつくが、ブタ男は言葉を無視し、体格に似合わない機敏さで両拳を振るう。
「アタタタォゥ!!」
拳を縦に回すように突きの連打を放ちながら前蹴りを放つ。
ツツジは連打を左右の掌でいなしつつ後退、前蹴りを横に回り込むようにして避けるが、避けたところにブタ男の横蹴りが顔面に向って飛んでくる。
首を反らしながらどうにか回避するがまたしてツツジが後退させられる。
ツツジはこのまま後退すれば壁際に追い詰められてしまうことに危機感を感じながら、姿の見えない骨子を探そうとするが、見つからない。
ブタ男の陰に隠れているのか、それともツツジが目を離した隙にどこかに潜伏したか。
このブタ男と真っ向から勝負しても打ち勝つ自信がツツジにはあるが、その隙に背後から刺されない自信はない。
「ホォアゥ!!」
勢いづいたブタ男が追撃を放つ。
蹴りと突きをひたすらに繰り返すブタ男の攻撃を捌きつつ、ツツジは覚悟を決めて後ろに下がった。
壁を背にすれば少なくとも背後から刺される心配はないはずだと考え、思いっきり後ろに飛んで壁際まで下がる。
壁に並んでいた書庫に背を預けながら、鳩尾と正中線を庇うように拳を置き、構える。
その時だった。
不意にツツジの背中で爆発のような霊力の波動が巻き起こり、ツツジの全身を強烈な衝撃が襲い掛かる。
「ぐぬぁッ!?」
霊力は妖怪にとっては毒となりえるが人間にとってはそうではない、しかし無害であろうとも強烈な力の波を受けてしまったことには変わりがない。
ぐらぐらと視界は揺れ、内臓が痙攣する腹は異常事態に中身を吐きだそうと蠢き、耳鳴りが音を奪い去る。
思わず膝を突きそうになるがツツジは必死にこらえた、何故ならば──
「チャァァァッ!!!!」
ブタ男がふらつくツツジに容赦なく右の前蹴りを放ってきたからだ。
咄嗟に蹴りを捌こうとするが、その手が空を切る。
蹴り足が軌道を変化させ、右の前蹴りから内回し蹴り──通常の回し蹴りとは違い、身体の外からではなく内側から回す蹴りを放った。
浅くブタ男の靴底がツツジの頬をこすったが、ツツジは身体を引き首を捻ってどうにか回避。
しかしもう背後に道はなく、壁しかない。
ツツジの背中が壁に触れる。
追い詰められたところにブタ男が姿勢を低くして身体を撓め、力を溜める。
ツツジの肉体が正常であれば力を溜めた隙を利用してその場から逃げて体勢を整えるか、あるいはカウンターを狙えただろう。
しかし今、ツツジの肉体はまだ正常な感覚が戻っていなかった。
「墳破ッッッ!!!!」
ブタ男が肘を突き立てたまま、強烈な体当たりをツツジの腹目掛けて放つ。
「がっ──ふぁ…ッ!」
巨大な杭打機さながらの圧力をもって放たれた肘がまともにツツジの腹に命中。
ブタ男はそのまま身体を押し付け、ツツジを壁に磔にした。
そしてブタ男の背後から飛び出す影が一つ。
骨子だ。
ツツジが骨子と呼んだ女が、ブタ男の陰から躍り出る。
やはり骨子は細い体格を利用してブタ男の陰に隠れ続けていた。
骨子はブタ男の身体を飛び越える様に跳躍、霊剣の峰を振りかざし、ツツジの頭部へ叩きつけて完全に意識を刈り取ろうとした。
「あぁ…くっそ…こんなの。」
微かな声で、ツツジが一人呟く。
それは言葉だけ聞けば諦観の言葉にも、負けを認めたようにも聞こえる言葉だった。
しかし、その声が一人聞こえていたブタ男の肌が粟立ち、きゅっと心臓が冷え切ったかのような感覚を覚える。
あまりにも、あまりにもその声は、今にも笑いだしそうで、愉しそうであったからだ。
「武器、使うしかないじゃん。」
骨子の霊剣の峰が、ツツジの額に届く数センチのところで静止する。
ツツジが、霊剣を抜いて額の前にかざし、止めたのだ。
骨子は飛び込んだ勢いそのままブタ男の広い背に着地し、ツツジを上から圧して制しようとするが、乗っているのは人の背だ。
平らな床と違い不安定な足場により、骨子が身体をぐらつかせた途端にツツジが霊剣を斜めに傾けて骨子の霊剣を受け流す。
骨子はこのままブタ男の背には立ってられないと剣を受け流されたところで無理をせずに背から飛び退く。
ブタ男も背から骨子が退くと同時に、このままツツジを磔にしていると背に霊剣を突き立てられてしまうことを察して飛び退った。
二人が距離をとったところでようやく磔から解放されたツツジはげほげほとせき込みながらも、その顔には愉悦交じりの笑みが浮かんでいた。
「やるじぇねえかブタと骨、これは敵の本拠地だってのに油断したあたしが悪ぃし、お前らが上手かった、卑怯じゃねえか、卑怯なことできるんだ、妖怪殺して、正義の味方面して、最高だねえ、大好きだ、股がじんじんしてくるよ。」
不意に饒舌になったツツジが笑いながら語る。
そう、社長があの部屋に罠を仕掛けていたのと同じようにオフィスにも罠が仕掛けられていた。
これは完全にツツジが油断していた。
社長室の罠が偽物の中に本物を混ぜる隠し方をしていたため、見えないように隠すという当たり前の手段が頭の中から抜け落ちていた。
ツツジが壁際まで逃げた際に触れた書庫、そこに霊力を籠めた札が隠されていたのだろう。
それを起爆したのはおそらく巧みにブタ男の陰に隠れていた骨子だ。
骨子が姿を消したことに対する相手の動揺を利用し、ブタ男が圧をかけながら壁際まで誘導する。
相手も背後から襲われる可能性を消すためにその誘導に乗ってしまう。
そこで罠を起爆させて仕留める。
なんという連携か。
こうなると無造作に置かれた書類の束、段ボールの中にも仕込まれているように思えてしまう。
本来ならばツツジが半ば不意打ち気味に倒したメガネの符術も利用するのだろうか。
そうだとすれば万全ではない組み合わせでよくも自分を追い込んだものだと、ツツジは相手に賞賛と感謝の想いを抱かずにはおけなかった。
あまりにも楽しそうに話すツツジの言葉を聞きながら、戦いの主導権を間違いなく掴んでいたはずの二人の動きは止まっていた。
暴れている獣の相手をして上手く立ち回り、ようやく取り押さえたと思ったら、実は獣は暴れていたわけではなくただじゃれていただけだった。
そのことに気づいた時にはもう遅く、獣が白い牙を覗かせた後であった。
そんな気分であった。
ツツジが霊剣を構える。
実戦の中で霊剣を握ったのは、久方ぶりであった。
両手に握った霊剣を一度、青岸に構える。
真っすぐではなく斜めに剣先を向ける、新陰流独特の正眼の構え。
新陰流では正眼の構えを青岸と呼ぶ。
その状態からゆっくりと切っ先を降ろし、下腹部──俗に丹田と呼ばれる部分に手が来るくらいの位置でぴたりと止めた。
新陰流、水月の位。
水面に揺れる月のように、姿は見えども掴むことができない。
笑みを浮かべたままのツツジの佇まいはここが実戦の場だということを忘れてしまいそうになるほど穏やかで、手を出すことができない。
二人の身体が固まった。
その硬直を察知したかのようにふわりと羽毛が舞うように、ツツジの身体が動く。
まるで床そのものが動いてツツジを運んだかのようにその動きには力みがなく、穏やかな動きだった。
見ていたはずなのに、動きを捉えられない。
ツツジがまず霊剣を持つ骨子の間合いに入った。
間合いに入った途端、骨子は弾みのように霊剣をツツジの左手首に向って振るっていた。
灯に吸い寄せられる虫の様に、本能の様に。
手首に霊剣の刃が触れる──そう思った時、水面の月は骨子の手をすり抜けていった。
消えた。
骨子はそう思った。
そう思った時には手から力が抜け、霊剣を取り落としていた。
ツツジの霊剣の刃が、骨子の左手首の中ほどまで潜り込んでいた。
新陰流、くねり打ち。
対手の手首への打ちに対し、手を上げつつ斜めに足を遣うことで打ちを外し、そのまま膝を落とす力で剣先を相手の手首へと落とし、斬る。
後の先、今風に言うならカウンターの技術に秀でた新陰流において多く用いられる技術だ。
熟練者のくねり打ちは相手からすると透かされたように腕が消え、同時に手首が打たれたように感じるほどに洗練される。
「えっ…?」
骨子はあまりにも呆気なく自分が一本を取られ、剣を握る力を失ったことに微かに声をあげただけで、呆然と鮮血が流れ出した手首を見つめる。
そのままツツジは前進。
落とした膝を滑らかに戻しながら霊剣をゆっくりと上段に構え、ブタ男に向って歩く。
ブタ男は咄嗟に印が刻まれた布が巻かれた腕で上げ、防御に備えた。
布には霊力が込められており、もとは妖怪に効果的な打撃を与えるためであったが、霊力の刃である霊剣を弾くことも可能なはずだ。
ツツジが前に踏み込む。
ブタ男はツツジが踏み込むと同時に霊剣が振り下ろす、そう思い両腕を交差させて面の前に掲げて備えた。
しかし、ブタ男の視界からツツジが消えた。
陽炎が揺らめくように、景色が宙に溶ける様に、視界から消えた。
消えると同時にブタ男の視界が斜めに傾いた。
そして足元が見えるくらい視界が傾いた時、ブタ男は知る。
消えたと思ったツツジは姿勢をただ低くしただけであった。
ツツジは正中線を崩さぬまま膝を折って腰を落とすだけで、宙から落下するように姿勢を低くした。
そのせいで消えてしまったように見えただけだったのだろう。
ブタ男はそう考えた。
そう考えた時には地面に倒れていた。
ツツジの霊剣がブタ男の左足の脛を前から半分ほど、脛骨をほぼ断ち切るくらいまで深く斬っていた。
その時になって、骨子の高い絶叫が響いた。
一拍間をおいて、ブタ男の悲鳴が喉からあふれだした。
ツツジはその声に対しやかましそうに顔をしかめると霊剣を収め、強烈な肘を受けた腹廻りをさすりながら呼吸し、さらに顔をしかめる。
「あー…肋骨もしかしてヒビいった?息するといってぇんだけど…。」
ぼやきながら近くにあった机に腰掛け、ライダースのポケットからタバコを取り出し、くわえて灯をともす。
大きく煙を吸ったところで肋骨の痛みからか大きくせき込み、それがさらに痛みを倍加させたのくわえていたタバコをいったん口から離して脇腹をさすった。
そして呼吸を整えた後、改めてタバコをくわえて今度はゆっくりと煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら味わう。
そうしてタバコを半ばまで吸い終えた頃になって、ブタ音と骨子はスーツやシャツを利用し、足の根元や脇の下を圧迫して簡易的な止血を終えたところであった。
もう二人に戦意はない。
二人ともツツジがその気であれば手首を落とし、足首を断つことができたと分かっている。
そこから命を取られるというのなら二人は文字通り死に物狂いで戦ったかもしれない。
殺されるならばと一人が盾になり、一人が相打ち覚悟で向かうことができたかもしれない。
だがツツジは二人を殺す気ではなかった。
それ故に二人は戦意を失い、懸命に生きるための道を選んだ。
「かわいそうになぁ、強かったせいでそんな目に遭って。」
ツツジは根元近くまで灰になったタバコを地面に落とし、もう一本新しいタバコを取り出し灯をともす。
大きく煙を吸い込み、またしてもせき込みながらツツジが呟いた。
「良かったなぁ、弱かったから死ななくて。」