社長室では霊剣を構えた社長と、鈴宗が向かい合っていた。
社長は霊剣を八相に構えるが、鈴宗はまだ霊剣を出してすらいない。
だらりと無造作に両手を下げたまま、ただ立っているだけである。
それがいっそう不気味であった。
「…何故、霊剣を抜かないのですか?」
「できれば殺さずに済ませたい。」
「人斬り鹿角と呼ばれるわりにお優しいのですね。」
社長の顔に歪んだ笑みが浮かぶ。
社長は明らかに鈴宗を殺す気であった、これは大きなアドバンテージになる。
もし社長が無手の鈴宗を殺す気でないならば、鈴宗が無手であることが有利に働く場合もある。
だが、本気で殺意を抱いた相手が凶器を手にしているならば、無手であることは不利にしかならない。
故に社長の顔には余裕がある。
鈴宗はそんな社長の表情を見てつまらなさそうに小さな溜息を吐いた。
「さっきツツジに──あの女に言われたことを忘れたのか?」
「なに…?」
「そんな顔していると、俺を甘く見ていると言っているようなものだぞ、表情に出すぎだ。」
無造作にその場に立ったまま、鈴宗が言う。
「俺は無手だがその分手加減はする必要はない、それに、素手でも人は殺せる。」
「…そんな忠告をわざわざする貴方こそ、甘く見すぎではないですかこの状況を?」
「かもな、ただ、せめて本気で来てもらわんとお前程度ではつまらん。」
鈴宗の言葉に微かに社長のこめかみが動き、顔がひきつる。
しかしここで挑発に乗って動いてしまえば鈴宗の思うつぼだと、社長は呼吸を整えながらどうにか怒りを抑える。
相手は無手だ、しかし無手の相手に対し何一つ自分から行動することができない。
鈴宗は涼しい顔で立っているというのに社長は心をかき回されている。
格の差がはっきりと両者の間にあらわれていた。
少しでも心を落ち着けるために社長が息を吸い、胸が膨らむ。
それとほぼ同時に鈴宗が一歩前に足を踏み出した。
「──ぬッ!?」
動き出した鈴宗を社長が袈裟懸けに斬りつけたのは、すでに鈴宗が三歩目を踏み出そうとしている時だった。
人間は息を吸っている時は隙ができる。
それでまず動きが遅れた。
さらに鈴宗は一切構えないままに歩みを進めていた。
首でも、胸でも、腹でも、腕でも、足でも、どこでも斬ることができた。
そのせいで生じた迷いが、鈴宗に二歩目の歩みを許してしまった。
そうしてようやく社長が袈裟懸けに鈴宗の肩口を狙って霊剣を振るったのだ。
だが、鈴宗は正面からその一刀を迎え撃つ。
向ってくる社長の霊剣、それを握る右の拳に自分の右拳を放ち、動きを遮った。
「ぐぬ!?」
ぴきっ、と社長の指から骨の軋む音がするが、指をたたき折るまではいかなかった。
社長は弾かれた腕を戻しつつ首に向って真横から霊剣を振るう。
鈴宗は膝を落として身体を縮め、ボクシングのダッキングの様に身体を振り、霊剣の下を潜り抜ける。
さらに社長は返す刀を振るおうとするが、鈴宗が前へと踏み込み、左手で社長の腕を抑えて制しつつ右裏拳を放つ。
鞭の様にしなる裏拳が社長の顔面目掛けて襲い掛かるが、社長は寸でのところで頭を反らせて回避。
そのまま飛び退って距離を取ろうとするが、鈴宗がそれを許さない。
ぴったりと張り付くように飛び退る社長の動きに合わせて前に踏み込む。
前に踏み込みながら左の拳を鈴宗が放った。
社長が再度首を反らして避けようとするが、顔に当たる直前、急に拳の先が伸びた。
途中までは拳であった左手が解かれ、指が伸び、槍の穂先の様に鋭く形を作る。
その指先がまず社長の眉間に当たり、そのまま撫でる様に顔の表面を滑り、左目を擦りながら突き抜けた。
「ぎゃッ…!!?」
目をえぐるような一撃ではない。
だが隙を作るには軽くこする様に目に触れる、それだけで十分だった。
社長は目を指先で触れられ、反射的に身を縮めて動きを止めてしまった。
動きを止めた社長の頬に、鈴宗の拳が飛ぶ。
回り込むように横にステップしながら右拳をアッパー気味に叩き込んだ。
さらに追撃の左フックを鳩尾目掛けて突き入れる。
二撃とも、まともに入った。
社長は身体をくの字に曲げ、必死に堪えようとしたが、腹の中で何かが巨大なものがのたうち回っているような不快感と痛みに負け、膝を着く。
胃の中身を吐き出すことこそなかったが、その場からみっともなく転がって必死に鈴宗から距離をとり、片膝を着いて霊剣を構えた。
そして口から僅かな胃液と白い欠片を吹き出した。
鈴宗の拳によって奥歯を一本折られたのだ。
その欠片を吹き出したのである。
しかしその様子に鈴宗は不満げに表情を曇らせる。
「まだ元気そうだな。」
「ごふッ…ぅ…皮肉を言っているのですか…!?」
「あの女が相手なら今のでお前は寝ていただろうからな、やはり掌の方が顎を狙うには効果的かもしれん。」
先ほど社長の顎を狙った拳の軌道で掌底を振りながら、鈴宗が言う。
今は殺し合いをしているはずである。
少なくとも社長はその認識でいる。
だが鈴宗はまるでちょっとした稽古かの様に今の状況を思っているように見えた。
「ぐっ…おぉああああああああ!!!」
その態度が社長を激昂させる。
膝に渇を入れて立ち上がり、怒りの声をあげながら霊剣を脇に構え、突進した。
鈴宗の顎に向って脇から霊剣を斬り上げ、返す刀で逆袈裟に斬り下ろし、下ろした切っ先で喉を突きにかかる。
鈴宗は顎を引き、斜めに回り込み、後退することで全て回避。
どれも数センチ単位で見切って見せた。
突きなど切っ先が喉元に触れる寸前である。
社長の突きの伸びを完全に見切っていた。
なればと社長が咄嗟に両手で握っていた霊剣から右手を離し、左手一本で柄の先──柄頭を握りながら半身になって突きをさらに伸ばした。
激昂して必死に剣を振るう中、考えたわけでなく自然に身体が動いて出た動きだった。
社長の霊剣の切っ先が鈴宗の喉元に触れる。
やったか!?
社長は思った。
しかしその手に肉を穿ち刃が沈む感触を味わうことはなかった。
鈴宗が刃を受け流すように首を捻りながら横に身体を傾け、最小限の動きで避けたのだ。
浅く鈴宗の首に切り傷をつけることはできたが、頸動脈や気管のような命にかかわる急所には程遠い。
しかも、浅くとはいえ首を斬られたはずの鈴宗は、微笑んでいた。
その笑みをどう例えると良いだろうか。
朝、通学路で見かけたツバメの巣にある日雛鳥が孵ったことに気づいたとき。
飼い犬が今までできなかったお手を覚えたとき。
ふと立ち寄った旅先の食事処が思った以上に美味しかったとき。
鈴宗の笑みは、そんなときに浮かべる微笑みに似ていた。
社長はその笑みを目の当たりにし、ほんの一瞬だけ意識を奪われた。
戦いの最中にこんな笑みを浮かべる人間がいるのかと。
鈴宗との間に実力差があることは分かっていた。
だが殺意がない、甘い相手であれば勝てると思っていた。
しかしその微笑みを見て、ようやく社長が考えが甘かったのは自分だと悟った。
本物の殺意を前にしてこんなに優しく笑える人間がいるのか。
そんなの最早ヒトじゃない。
鬼だ。
こいつは鬼だ。
そんな思考が脳裏を駆け巡り、身体が恐怖で硬直する。
その時には鈴宗は社長の背中側に回り込んで左手首を捕り、社長の脇の下から右手を通して襟を掴んだ。
そして手首を捻りながら背を向ける様に身体を回転させ、右足を後ろに向って蹴り上げて社長の足を払い、背負い投げの様に投げた。
通常の背負い投げと大きく違う点は懐に潜り込んで投げるのではなく、身体の外側から腕を捻り、関節を極めながら投げているところだ。
綺麗に形に入ってしまえば相手が堪えてもそのまま腕を折る、腕を折られたくなければ相手はわざと投げられるしかない。
固い床の上に背中からまともに投げ落とされ、社長の意識が一瞬ブラックアウトした。
視界が一瞬で白に染まり、意識が黒く溶け、耳は針でも刺したかのように痛みが走るのみで何も聞こえない。
やがて視界がおぼろげながら形を作り出すと溶けた意識が固まりだし、耳鳴りと共に空気の流れる音が耳に入りだす。
ただ社長は反射的に腕を極められながら飛んだ。
そのおかげで幸いにも頭から地面に落下せずに背中から落ち、意識を完全に失うことはなかった。
しかし半ば意識を失っている間に、鈴宗は社長の霊剣を握っている左手を両手で掴む。
掴んだまま両足で腕を挟み、地面に背から倒れながら一気に引き延ばした。
ぶつん。
音が響いた。
固い布を無理やり引き延ばしてぶち切った時のような、鈍く強い音。
社長の腕が、本来曲がるべき方向とは真逆の方向に曲がっていた。
腕十字逆固め。
有名な関節技である。
ほぼ同じ形で肩の関節を壊すものと肘を壊すものがあるが、鈴宗が用いたのは後者だ。
完全に折れていた。
靭帯を破壊されていた。
常人なら後遺症が残るほど完璧に破壊されていた。
さらに鈴宗は社長の左手の指を握ると力づくで霊剣から引きはがし、手放させる。
霊剣が手から離れ、持ち主の意思で形造られていた霊力が霧散し、消え失せる。
しかも鈴宗は引きはがした指をそのまま握り、一気に手の甲側に折り曲げた。
ぶつぶつぶつぶつ!
鶏の手羽先をねじ切ったような音が連続で響く。
そこまで念入りに左腕を破壊したところで、鈴宗はようやく社長の腕から離れ、立ち上がった。
社長はもう痛みすら感じないほど意識が朦朧としているのか声を上げることもできずに地面に寝転がる。
しかし視界が元に戻り、立ち上がった鈴宗が自分を見下げていることを理解すると恐怖に表情をゆがめ、折れている左腕まで使おうとしながら立って逃げようとする。
上手く動かない左腕に困惑しながら地面を這い、どうにか立ち上がるがすぐに足をもつれさせ、壁に向って倒れこんだ。
壁に置かれた書類棚によりかかるが、そのまま棚の上に置かれた装飾品をなぎ倒すように身体を滑らせ、落下する装飾品と共に床に倒れる。
息を荒くしながら懸命に逃げようとする社長に対し、静かに鈴宗が歩み寄る。
「実力のほどが分かったか?」
静かに鈴宗が問う。
その声に社長が振り向き、鈴宗を見ると顎をがちがちと震えさせ、今にも白目をむきそうなほどに目を見開いていた。
もう社長には鈴宗が人間の退魔師には見えてない。
強大な力を持つ妖怪である鬼。
自身を罰しに来た鬼が、人間の姿をして来た。
そうとしか見えなかった。
「これに懲りたら二度と──」
「ひっ、ひッッ…」
その時、社長の右手にこつんと何かが触れた。
狐を象った置物である。
狐と言えば伝承の上でもっとも強大な力をもつ妖怪だという。
そんな狐を象った置物を社長はすがるように右手で掴んだ。
「ひぃあああああああああああ!!!!!!」
社長が悲鳴を上げながら立ち上がり、狂いながら鈴宗に向って駆け出し、右手に掴んだ置物を突き出した。
その置物に、一気に霊力が流れ込まれていく。
社長は置物の中に霊力を籠めた札を多重に貼り、隠していた。
いざというときに起爆しようと考えていたが機会がなく、無駄にあるかと思われていたが土壇場でそれを利用し、自爆覚悟で突進していた
霊力を注ぎ込まれた置物が淡く光りだす。
もう今の置物は破裂する寸前の風船に空気を流し込み続けているような状態だ。
数秒後には許容量を超えて霊力を注がれた置物は手榴弾の様に破片をまき散らしながら爆発してしまう。
それを至近距離で浴びせられてしまえば──
そう理解した時、すでに鈴宗は霊剣を抜いて社長の身体を断ち切っていた。
柔らかい臓腑が詰まった肋骨と腰骨の間。
その間をすり抜ける様に、霊剣の光が奔る。
弾みであった。
反射的に身体が動いていた。
霊力の供給が途切れた狐の置物は静かに光を収めながら、持ち主の上半身と共に地面に落下した。
その様を、鈴宗は静かに眺めていた。
自分の犯した所業を認めるかのようにもう二度と動くことのない、二つに分かたれた肉の塊を目に焼き付け、血を払うように霊剣を振って本物の刀と同じように納刀動作を行い、身体に収める。
戦いの中で顔に現れた笑みは完全に消え失せ、憮然とした表情で立ち尽くす。
ただほんの微かにその口元は、固く結ばれ、震えていた。