蟲師『デク』 作:老人X
第1話『蟲と再誕』
――蟲。
みどりもの、とも呼ばれる。動物でもなければ植物でもない。ましてや、人など最もかけ離れた存在。異形、そう捉えることが当たり前のモノ。だが、最も生命の根幹に近いその姿は、人々に畏敬の意を抱かせるに十分だったそうな。
蟲たちの多くは自然に棲む。それでいて
彼らは本能のみでこの世に存在している。言外に生きていると明記はしない。そもそもあれらが生きているかどうかすら定かではないのだ。さらに言えば、存在しているかどうかすらもあやふやのもの。生と死の狭間で蠢いている。我々が日常的に虫と呼んでいる存在もそれに近しい。本能と反射、彼らは思考を持たない。故に、そこに悪意が在する余地すらない。ただそこに在るもの、と俯瞰するしかないのだ。
だが、交わうことから離れたはずの人が、稀に蟲に憑かれる時がある。必然と言えば必然だ。一方的に接触を拒んだところで、蟲そのものがこちらに接触してこないわけではないのだから。いずれにしても人が蟲に魅入られる、あるいは魅入ったが最後――。
その身に起こるのは、破滅であると相場が決まっているのだから。
〇 〇 〇
「……それで、
ボリボリと頭を掻く少年がつぶやく。歳は十と若い。仰ぐように空を見つめていた。もっとも、その目に映ったのは木々の隙間から漏れ出る日の光だったが。
眩しそうに目を細める青年は、数分の後に手元の本を閉じた。そして、若者に似つかない様な足取りで立ち上がる。手入れのされていない白髪が揺れ、生気のない緑眼を震わせた。
少年には記憶がなかった。覚えている、というかそうなんだろうとなぜか理解できたのは自身の名前だけだった。気が付けば、森の中で倒れていたそうだ。その後は、彼の家族と思わしき人物が彼を引き取った。
が、その生活にガタが来るのは存外早かった。理由は少年見た目は大きく変わっていたからだ。元々緑色だった髪は白く染まり、透いた緑眼の片目は失い、消えた眼球の代わりに真っ暗な闇が覆って見せた。そして極めつけは、人には見えぬ何かが見えるようになっていたことだ。最初は記憶障害に関する症状か何か、もしくは『個性』の発現だろうと家族には言われていた。
――
中国の軽慶市での「発光する赤児」が出産された。以来世界各地で超常現象が報告され、世界総人口の約8割が超常能力を持つこととなる。現代医学でも解明することのできないそれを、人々は個性と呼んだ。
そして、その超常を以て悪を成す者が現れる。面妖にも超常を振るい、人々に害をもたらす奴らをヴィランとして怖れた。その有り様は明確な害意を持たない
だが、それを止めようとする者も当然現れた。彼らと同じく超常を振るい、弱きを害意から庇護しようとする者たち。力を持たぬ者たちは彼等の活躍に歓喜し、崇めるように社会のひとつの象徴として取り込んでいった。
彼の者たちを、ヒーローと呼んだらしい。
「まあ、個性の無い僕には縁の無い話だがね」
それは嘲笑だった。だとすれば、誰に向けたものか。ヒーローか。ヴィランか。個性か。社会か。あるいは、自分そのものに対してか。いずれにせよ、そのような擦りきれた事を齢13の少年が嘯くことの方が、今は異質に見えるに違いない。
「師匠にこの場所に行けって追い出されたけど、こりゃ正解だったな。
付け加えて、年に似合わぬニヒルな微笑を浮かべた。白髪な上に口には一本のナガモノを咥えているものだから、さながら老け込んだ中年の様。しかし彼とて、最初からこうだった訳ではない。最も近しい理由を上げるならば、彼が師と呼ぶ存在のせいと言えるだろう。
彼は、人には見えぬものが見えた。否、思い出せたと言い表すべきか。不定形で我々の想像が付かぬものの見方に。身体年齢5歳の夏の時であった。その様子を検診した医者たちは首を捻るばかりで原因など検討すらつかなかった。見えぬものが見えると言うが、多くの者はその存在自体が分からぬのだ。それは個性ではなく、ただの病気として扱われるのは自明の理だっただろう。
ただ、彼の母は違った。きっとそれは息子の個性であると信じたのだ。何故なら、それは息子の願いだったから。
この超人社会においても、個性を持たぬ者は一定数存在する。超常が日常に浸透すれば、今までの日常こそが異常。持たざる者は侮蔑の的となるのは必然だった。必要悪という言葉が有るように、社会的弱者も多数の精神性を保たせるには必要なものとも言えるが、当人たちからすれば屁理屈も良いところの慰み言だ。しかも、個性が発現する物心の着きたての頃に、その視線に晒されて生きねばならぬ事が確定するのだから、鬱や自暴自棄になるのも無理はない。
母曰く、昔の少年はヒーローに成りたがっていたという。そのためには、少なくとも優秀な個性の有無が重用しされた。持っていなければ話にならんと門前払い。事実上の最低条件というやつだった。故に、息子の事を想って個性だと信じたのだろう。
だが、酷な言い方をするようだが、それは無駄なことだった。世間が違うと手を払うのと同様に、少年自身からも個性に執着が消えていたのだ。以前は噛り付くように眺めていた液晶は埃を被り、飾られたヒーローグッズは綺麗に片付けられていた。どちらでもいいと達観しているような……もとい、全てを諦めたとも捉えられるその姿に、母は枕を濡らしたという。
けれど、そうではなかった。少年は諦めた訳ではなかったのだ。単純な話、幼子の興味が別のものに移っただけ。彼自身も、そういった認識があったし、その事を母にも伝えた。彼は、自分だけに見えるらしい"それら"に心惹かれたのだ。
そして、8歳のある日の事だった。突然、少年は音の半分を失った。片方の耳が聞こえない。そんな症状が少年を襲った。当然、母は狼狽した。唐突なこと故に致し方なかったが、少年の言伝てが母をさらに混乱させたのだ。
『かたつむりが、耳に入ってきたんだ』
方々の医者を巡り、手を尽くしたが原因が分からないという。人を癒す個性を持つ者の手も借りたが容態は良くならない。結果、精神的疾患が脳や神経に影響を及ぼしていると、全員が事実上の匙投げを呈したのだった。幸いなことに、片耳は無事なのだから多少の問題はあれど、どうにかはなる。役にも立たない言葉を無責任にも押し付けられ、母は呆然とする他なかった。
だが、唐突に不運が訪れるように、転機も突然現れた。それは医者でもヒーローでもセラピストでもない。一見はただの浮浪者とも見える男が少年の元に訪れたのだ。曰く、少年の耳を治せるのだという。普通は警戒すべきような風貌の相手だったが、相当参っていたのだろう。母は藁にもすがる思いで、その男に息子を診せた。
すると、驚いたことに、少年の耳は一瞬のうちに治ったのだ。治療といえるような行為はしていない。母も見ていたが、男は暖めた塩水を少年の耳に流し込んだだけだった。
母は泣きながら感謝の意を伝えた。報酬はいくらでも払う、と。その言葉を聞いた男は、徐に口を開くとこう言った。
『じゃあ、息子さんを……預からせてもらえるかい?』
男が言うにはどうやら、少年の見えるものが分かるらしい。それらの正しい扱い方と、距離の計り方を教えるというのだ。正直なところ、母は困惑した。信じていたとはいえ、息子が見えているものが確かに存在している上に、それについて詳しく教授してくれるというのだから無理もない。むしろ、何故そこまで良くしてくれるか不気味ですらあった。そんな訝しげな母に男は続けた。
『普通なら治療だけしてお暇するんだが……息子さんは見えるっていうじゃないか。しかも興味津々と来ればコレは見過ごせん。不用意に近付いて良いもんじゃねぇんだ、コイツらは』
『このままじゃ息子さん、呑まれちまうぜ』などと付け加えられて話を締める男の目は真剣そのもの。しばらく悩んだ後に母は息子の判断を仰いだ。お前は行きたいのか、この男の元で学びたいのかと。少年は数巡の思考の後に、コクンと頷いた。それは息子が5歳以来、初めて見せる明確な意思だったがという。
『どうか……どうか息子を、よろしくお願いします……!』
それからは、少年の生活は劇的に変わった。男は日本中を歩いているらしい。それも、都会ではなく田舎の村や山などの自然の中を歩くとのこと。少年はそれに着いていく形で、彼と放浪生活が始まったのだ。
ある日はのどかな山道を進み、ある日は切り立った崖を登り、ある日は深い谷底を震えながら歩いた。けれど、少年にとってそれは苦ではなかった。自身が見えていた存在は数え切れないほどの種類がいて、それらを何であるか教えてくれる男との生活の日々は、記憶をなくして以来モノクロに見えた世界を鮮やかに彩らせた。
それだけではなく、少年自身の過去の清算も行った。記憶を失った理由もまた蟲によるものだったのだ。『
けれど、少年はトコヤミから抜け出せた。曰く、抜け出せる方法はもうひとつあるとのこと。自身に新しい名を付ければ抜け出せるのだという。が、自分の名前や過去はさっぱり忘れてしまうそうだ。少年の症状というのは、まさにそれだと男は説明した。
これを知って蟲を嫌うかもしれないと、男は思った。だが、意外なことに少年は、不思議と蟲を恨むようなことはなかった。むしろ、少年はそれらの存在……蟲たちをより知りたいと決意すらしたのだ。暫しの驚きを見せる男であったが、少年の『周りが自分を知っているなら、それで十分じゃないですか』と年に似合わぬ物言いに大笑いすることとなる。
そして、少年は目の前の男を師と呼び、蟲と共にある存在に……『蟲師』になりたいのだとと説得をした。先の言動を聞いたこともあり、男は悩むこともなく『まあ、体質も考え方も向いてるし良いだろう』と承諾する。
ただ、条件としてあまり同じ場所に留まらないように注意した。話を聞くに、少年は蟲を寄せ付けやすい体質らしい。1ヶ所に留まると自然や人に影響を及ぼすとのこと。都会では全く見るはずの無い蟲がお前の耳に入り込んだのもそのせいだという。それを守れるのなら、蟲師として勉学に励む事を許すのだそうだ。結果、蟲に関する蔵書が保管されているという山倉に出向き、幾つかの本を寝転がりながら読み漁っていた。
「蔵書を何冊か持ち出した上で、森を歩きながら蟲を観る。そんで、それらの特徴を照らし合わせながらの勉強、か……有り難いが、1人でどうにかなるかねぇ?」
数年の生活の影響か、気だるげな口調で話す様は師にそっくりだった。記憶を失ったのが幼少の頃だった故に自己というものが形骸化。自分の有り様というものは全て師から吸収せざるを得なかったからだろう。師からは『写し鏡みたいで気持ち悪いな』と苦笑されたが、少年は気にしていないようだ。
「蟲を知るため……そうさなぁ。でも、それって蟲師としては当たり前でつまらん。他とはまた違った目的が欲しい気がする」
うーむと唸りながら頭を揺らす。自然と目を閉じ、木の幹に背を持たれる。そうした後に、いつもの流れで
途端に、少年の視界から光が消えた。あるものは静寂と闇のみ。光の一切の入る余地がないと、感覚的に理解できた。
だが、そこに
「……うん、まあアレだ。追々見つかるだろ」
師に、才はあると認めてもらえたのだ。俯瞰しきったその考え方が、蟲師として向いているとも。後は、それを高めていく内に見つかるだろうと首を降った。
「勉強もそうだが、実践も重要……とにかく動いてみるか。『
「――蟲師『デク』の物語は、始まったばかりなんだから」
――記し忘れていたが
これは、とある無個性の少年が、蟲と共に歩んでいく物語である。
原作成分不足気味なのは認める。
※6/2
一人称を「俺」から「僕」に変えました。