――歪んでいた空間が、更に歪むことで元の形へ戻っていく。
マイナスはマイナスで相殺され、元通りというプラスへと転じていく。それは、法則が変われば当然のことであり、根底にある概念が歪めば、そうなるのがこの世界の摂理だ。
物理法則もまた、概念の一つ。
僕の知る現実とは違う在り方は、しかしおおよそは僕の思う通りのことが適応されるため、概念と法則の違いは、こんなところで感じるのが一番大きいだろう。
ともかく、ガヴ・ヴィディアの世界は崩壊した。
異界を操る概念使い。空間を切り取り、隔離し、隔絶する。それがガヴ・ヴィディアの能力だ。本人は額縁の向こう側、と言っていたが、簡単に言えば
嫉妬する相手が大きすぎるなら、自分の手のひらに収まるまで矮小化すればいい。そのうえで弱らせて倒せば、労はほとんどないだろう。
と、そんな考えが見て取れる。
ともあれ、ギミックが解除されてしまえば、この箱庭は崩壊する。
崩壊すればどうなるか。答えは簡単だった。
「――――小さい」
天上から、世界を覆う大きさの百夜が覗き込んでいた。
現実でなら、小さいのは百夜の方だ。しかし、ここはミニチュアにまで落とし込まれたガヴ・ヴィディアの世界。僕たちは今、百夜の数十分の一のサイズしかないのだ。
「――百夜!」
「解っている……私は、飛ばせないな」
師匠が指示を飛ばす。
ここまでは予定通り、問題はここからだ。何をするかは、もはや言うまでもあるまい。百夜の転移である。しかし、それには問題があった。
まず、百夜はこちらを認識できるようになったが、まだ干渉は完全ではない。一方的に概念技を放つことは出来ても、自分と誰かを同時に対象に取ることは出来ない。
そして、懐中時計を転移させたとして、強欲龍の手元に戻るだけではないかというもの。
ならば、転移の一瞬でもあれば奪い取れるかといえば、それは難しい。ここまでのことで分かる通り、強欲龍は防衛能力がとても高い。
その隙を突くことは、正直難しいというより、不可能と言わざるを得ない。
“――――笑止。不可能と解っていることを行動に移す無意味を嗤う。愚昧ここに極まったと判断する”
「――黙ってみてなさいよ、これはルエの戦いよ。貴方はもう関係ない、負けたのよ、ルエの起源を止められなかった時点で!」
フィーが叫ぶ。
その通り、ガヴ・ヴィディアがせせら笑う権利はどこにもない。世界を崩壊させ、こちらの介入を許した時点で、ガヴ・ヴィディアの敗北だ。
“笑止変わらず。たとえ転移させたとしても、強欲龍はそれを確保する! 儀式は続行される! 瞬殺しなかった時点で結果は変わらない! 世界の崩壊よりも、儀式の成就の方が迅速!”
「口数が多くなってるわよ。焦ってるなら、もっと端的に焦ってるっていいなさいよ!」
気の利いた返しという点に関してはまだまだフィーは未熟だが、煽りに関しては一級品というか、僕らの中で一番得意ではないだろうか。
まぁ、大罪龍だからな、といえばそこまでだけど。
ともあれ、
「――うるさい。戦いに混ざれなくて不満、話し方もちょっと似てて不満。そのうえ、アレは品がない」
百夜が、概念技を起動させる。
「その不満ごと、紫電の願いを一秒先へと送り出す」
「やってくれ、百夜。飛ばすのは、懐中時計――」
師匠が、そして。
今回の作戦の、核とも言える策を口にした。
「
「――“
それは、つまり。
“な――――”
想定できなかったのか? できるだろうが、ここでのポイントは、
転移は縁の深い場所へ転移する。僕たち全員を転移させれば、最も縁の深い存在のところに転移するだろう。
どこか、
転移で、この空間から出ることが出来ない以上、そうならざるを得ない。けれど、転移から僕を外せばどうなるか。僕と強欲龍。懐中時計を伴って師匠が転移するのはどちらか。
けれど、師匠と強欲龍の懐中時計の奪い合いという、そもそも土俵に立てるかもわからない勝負よりは、
何より、
「――――師匠」
声をかける。
転移する一瞬、師匠はこちらを見て――――
――――その場からかき消えた。
“――――”
それは、そう。
“――――ク”
沈黙していた。
僕も、強欲龍も、消えた師匠の方を見たまま、停止していた。何があったと、その視線がこちらへ向く。――強欲龍の手は、握られていた懐中時計の分が、ぽっかりとあいている。
空白。
そう、表現するのがぴったりだった。
“クハハ、ハハハハハ、ハハハハハハハハ!!”
笑みは、
ガヴ・ヴィディアから漏れていた。
“笑止! 笑止! 笑止イイイイイ!! かかった! かかったかかった! 嵌った!!”
見上げる。
そこには天女がいた。
水神の如き龍がいた。
――醜い笑みで、その相貌は歪んでいた。
“何を――”
「……そいつの狙いは、ここにあったってことさ、強欲龍」
僕達は、見上げてつぶやく。そう、強欲龍は言った、ガヴ・ヴィディアには狙いがある。しかし、その狙いは強欲龍にもわからない。
故に乗るしか無い、と。
“――敗因も知らぬことだろう。理由、当方はこの力を使用したことはない”
奴の狙いは、
それは、そう。
“――――概念起源、か”
“正解だと答えよう、愚昧”
強欲龍の言葉が、全てだ。この事態を引き起こしたのはガヴ・ヴィディアの概念起源である。
“『
勝ち誇ったようにガヴ・ヴィディアがその名を口にする。見下ろす目は侮蔑と愉悦と優越に浸っている。浸かりきっている、とも言えた。
“それは心を檻とする己自身の枷。迷いあるモノを
――鎮魂。やつがそういったこの能力は、簡単に言えば
迷いのない存在など、この世界にそういるものではない。
この概念起源が凶悪なのはその使用条件と、そして
ゲームでは――本来の歴史では使われなかったそれが、この一瞬のために使われたのだ。
“紫電に迷いの可能性。故、その迷いを利用するとした。紫電が転移に己を巻き込むことは読めていた”
朗々と語る。
この戦闘は、師匠の作戦はすべてガヴ・ヴィディアの予想通り。手のひらの上だった。だからこそ、両取りを狙ったというわけだ。
“俺の懐中時計を奪って転移したタイミングで使えば、
“肯定”
――そして、それは成就した。ガヴ・ヴィディアの策は成ったのだ。
“迷い。愚か。紫電は誠に愚かである。悠長極まりない。決戦に悩みなど、迷惑きわまりない!”
「…………」
“強欲は女々しい。あのようなものに執着するなど、強者の行動ではない。強欲は小物である!”
“――てめぇ”
儀式はゆっくりと終わっていく。
生贄のない儀式に意味などなく。
懐中時計を失ってしまえば、強欲龍は概念化の道を絶たれる。
“敗因に奪われるのは認める。それはただの俺の負け。だが、てめぇがかすめ取るのは、強奪じゃねぇ。欲も、執念もありはしねぇ”
その口から、熱が漏れる。
それは、つまるところ――
“ぽっと出野郎が! しゃしゃり出てんじゃねぇぞ!!”
――ガヴ・ヴィディアに対して熱線が放たれたのだ。
“『
一閃。
それは、奴の身につける羽衣に切り裂かれた。
“笑止”
それはつまり、
“額縁の破壊は、危険。
あのギミックは、ガヴ・ヴィディアへのダメージを防ぐと同時に、ガヴ・ヴィディアにとっての枷でもあった。これまで、ガヴ・ヴィディアは攻撃のための概念技を一つとして使っていない。
先程までは
ああ、たしかにフィーはガヴ・ヴィディアを概念崩壊に追い込んだ。
師匠が消え、残る戦力は僕と、強欲龍、リリスにフィー。
ガヴ・ヴィディアはそれに勝利するつもりなのだ。いや、勝利できなくとも、
結局、四天とはマーキナーの手足であるからして、
ああ、だから。
僕たちは、ガヴ・ヴィディアに嵌められたのだ。
もちろん、
「――――よくやった強欲龍!
「珍しく、アンタに感謝してやるわよ! グリードリヒ!」
僕たちは。
“――――?”
“笑止、熱線ごときで当方は撃破能わず。故に、等しく塵、に――”
ガヴ・ヴィディアは、一瞬理解が遅れた。
僕たちが狙っているのはガヴ・ヴィディアではなく、
師匠がいた場所だということへの理解が。
“――――貴様!?”
「理解が遅いんだよ! 僕がその力を知らないと思ったか? 確かにゲームじゃ使われなかったけどな、
“――何を、言っている!”
そう、僕はガヴ・ヴィディアの概念起源の存在を知っていた。知らないわけがないのだ。僕はドメインシリーズの資料集も買い漁って、ゲームでは使われなかった奴の能力についても知っている。
使われなかったというか、使えなかった、なのだけど。
ガヴ・ヴィディアの能力は、その場に迷いのある人間が一人でもいなければ使えないからな。
そして、その特性もよく理解している。
「待ってなさいよ、ルエ。アンタの迷いは、間違いなんかじゃない! “
叩きつけられた熱線によって、
それは、小さい。けど、
よく見れば、檻の上方は、
だが、その檻をみせずに姿を消すことで、ガヴ・ヴィディアはその効果を隠したのである。檻が完成するまでの時間稼ぎが奴の狙いだった。
「ありがとう、フィー!」
「……行ってきなさい、これはアンタにしかできないことよ!」
「がんばってなの!」
僕が、即座に飛び出す。師匠の檻へは、ほんの数歩。あっという間に手が届く。しかし、それをガヴ・ヴィディアが見逃すはずもなく――
“や、めろおおおおおお! そこに入れば、この空間全てに不具合が!”
だれが――止めるかよ。
“――
そして、そこに。
背を押すやつがいた。
“強欲龍!?”
“――行けぇ、敗因! てめぇに託すのは業腹だが、もうてめぇしかいねぇ!
「――ああ!」
視線を、交わしたんだ。
師匠は僕に、自分の悩みを打ち明けてはくれなかった。悩んだまま、ここに来た。それは結果としてガヴ・ヴィディアの狙い通りだったけれど、僕らはそれを問題だとは思わなかった。
答えは、言うまでもない。
転移の一瞬。師匠が消える時、師匠の目は雄弁に語っていた。
ただ一言、そう。
――――なら、
「それに応えないわけには、いかないですよね、師匠」
この檻は、師匠の心。
あの鏡の世界と同じだと。
そう思いながら、
それでも、僕は飛び込んだ。