「ドクター。まだ仕事が残っていますから、寝ては駄目ですよ」
彼はその声で目を覚ました。どうやら、度重なる疲労で寝ていたらしい。時計を見ると深夜1時だった。普通ならベッドで気持ちよく寝れている時間だ。だが、このロドス、特にアーミヤはそれを許してくれないらしい。度重なるリユニオンとの戦闘、ロドスアイランドに所属していない、いわば協力関係にあるオペレーターの処遇やその他の事務仕事でやるべきことは大量にあった。
だが、ドクターとて一人の人間だった。そして、彼は記憶喪失だった。だから、以前の記憶はほとんどない。気づいたらここ、ロドスアイランドにいたのだ。だから最初はこの労働も全く不思議には思わなかった。だが、他の陣営の人から心配されるようになってから、自分がいかに過剰に働いているのかがわかった。だから、アーミヤには何度か労働を減らしてほしいと提言したこともあった。だが、今ロドスアイランドは大変だからドクターには頑張ってもらわないといけない、と優しく諭されて労働環境が改善されることはなかった。
ドクターは、アーミヤが意地悪などでそのような事を言っているのではないことはわかっていた。度重なるレユニオンとの戦闘で戦闘員も疲弊しており、物資やその他の調達に関する調整などで後方部隊も自分と同じような忙しさだった。だから、自分だけ弱音を吐くわけにはいかなかった。だが、体は正直だった。
適応障害、という言葉に行き着くにはかなりの時間を要した。最初は自分でもこの感情に名前をつけることができなかった。だが、日に日に自分の体が悪い方向に向かっているのはわかった。食欲がない。眠れない。などと言った精神的ストレスが続いた。だが、ドクターはロドスアイランドのトップの一人としてそれをなんとか隠そうとし、より症状は悪化していった。動機は止まらなくなり、人に当たることも多くなった。
今までドクターを慕っていた多くのオペレーターはその症状に気づき、心配していたが、ドクターは何でも無い、と頑なに言い続けた。指揮官の士気がそのまま部隊に影響するのだと、彼は気づいていた。だが、やせ我慢にも限界が来ていた。
ある日、ドクターはレユニオンとの戦闘で戦場にいた。指揮官は後方で指揮をするものだと思われていたが、ドクターは前方で指揮をするのを好んだ。特にロドスアイランドは全体としての戦力より、個々の戦力を重視していた。それを最大限に活用するためには、一分単位で変わっていく戦場をより迅速に理解し指示するために前方に出る必要があった。
だが、もちろん前方に出るということは敵からの攻撃の的になることも意味していた。特にレユニオン側でもドクターがロドスアイランドの実質的なリーダーであり、彼を叩けばロドスアイランドの戦力は大幅にダウンするということも知っていた。だから、主にドクターの周りには数人の護衛がいた。
その日は特にドクターの様子がおかしかった、と後に護衛の一人が述懐した。手足は震えており、感情の起伏も激しかったという。だが、ここは戦場だった。体調の変化を心配する余裕は誰にもなかった。そんなときだった。突然ドクターは倒れた。護衛は一斉にドクターに駆けつけた。幸い外傷はなかった。だが、返事をしても起きる様子はなかった。そこからは迅速だった。アーミヤが臨時で指揮を担当しドクターはロドスアイランドで治療を受けることになった。
原因は、誰にでも察しが付いていた。度重なる疲労とストレスで倒れたのだった。ドクターは数日間も目を覚まさなかった。そして数日が経ち、ようやく目を覚ました。ドクターは今でもあの日の光景を忘れることはなかった。誰かがドクターが目を覚ましたと喧伝すると、一斉にオペレーターがドクターの治療室に入ってきた。その数は、治療室が満杯になるほどだった。ドクターは、感無量の思いでいっぱいだった。そのオペレーターの中には、自分には比較的ドライだと思っていたチェンや、シュヴァルツもいたのには驚いた。その喧騒はケルシーが治療に専念するためといってみんなを追い出すまで収まらなかった。
だが、治療室で休みながらドクターはこのままでは自分は壊れてしまうことに気づいていた。人間は、少なくとも自分はそのような過労に耐えれるように出来てはいない。いくら精神でどうにかしようとしたところで、体は正直だ。それは心の弱さですよ、とアーミヤに言われた時のセリフが未だに忘れられずにいた。その時の自分はまだ、心の病気に関してほとんど何も知らなかったから、自分がこのような症状が出るのは心が弱いからだと自分を鼓舞していた。
しかし、医学関係の本を読めば読むほど、自分は心が弱いのではなく、指揮官として根本的に向いていない、ということに気づいた。そもそも、自分は記憶喪失前の記憶が殆どないため、体感的には、生まれてきてすぐに指揮官として現場に付いていた、ということになる。指揮官には当然重大な責務が伴う。全ての兵を指揮するということは、全ての戦の最終的な責任も当然指揮官だ。一部の例外はあるが、歴史を辿っても、指揮官は最初から指揮官ではない。いかに将校としての将来を期待された士官候補と言えども、最初は上官のもとで部隊の指揮やリーダーシップその他の上に立つものとしての知識を学んでいくものだ。
だが、ドクターはそうではなかった。記憶喪失という障害が障壁となり、生まれたときから指揮官という複雑な状況にいた。もし、ドクターが最初から、上に立つ人間であったなら、このような苦労などなかっただろう。だが、ドクターは優しすぎた。レユニオンと言えども自分と同じ血の通った人間なのだ。戦場でレユニオンが家族のロケットペンダントをつけている死体をみつけてしまってから、その気持は大きくなっていった。
だが、ドクターが指揮をしなければ逆にロドスアイランドが窮地に陥る。それに、レユニオンは非感染者に対して非情な振る舞いをしているという。自分は悪くない。悪いのはレユニオンだという気持ちを抱くことで自分に嘘をつき続けながらも、なんとかやってきた。
だが、正義の反対はまた別の正義だという言葉に出会った時、ドクターの心はまた大きく揺れた。この世界の歴史を調べる中で感染者は常に迫害の対象であり続けた。差別の度合いは場所によっては違えど、概ね人間扱いされることは無いという。だから、歴史を調べる中でレユニオンの気持ちも痛いほどよくわかってしまった。これがさらに、ドクターが矛盾に苛まれ、最終的にストレスになる遠因にもなった。
自分がこのままロドスアイランドの指揮官として、いや、傀儡として過ごし続けるのが、どれだけ楽だろうか。ドクターは何度もそう思った。アーミヤや、ケルシーはそれを願っているに違いない。自分の記憶を消したのは、ロドス側なんじゃないかと、何度も疑った。自分は記憶を消される前は天災の研究者だったという。それに目をつけたロドスアイランドが、邪魔な記憶だけ封印して、指揮としての能力だけ持たせて、傀儡にしようとした───。
でなければ、指揮の能力だけ失っておらず、他の記憶は一切失ったままというのはあまりにロドスアイランドにとって都合が良すぎるはずだ。だが、いくら疑ったところで、証拠などあるはずがない。
自分が一兵卒だったら良かったと、どれだけドクターは思ったのだろうか。『他人に銃を向けていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ。』は有名な言葉だが、自分はこの指揮で多くのレユニオンを殺め続けた。だが、自分は後方で護衛に囲まれながらのうのうと生き延びている。この罪悪感も、ドクターという人格にマイナスな傷をつける要因であった。
それと当時に、ドクターは多くのオペレーターに優しくあり続けた。最初は全員に敬語を使って話していたほどだ。ケルシーに指揮官としての自覚が足りないと言われて禁止されたが、それでも上官特有の傲慢さはなく、むしろ頼れるお兄さんといった立ち位置だった。それ故か、ドクターはその天才的な指揮も合わせて男女関係なく好かれていた。だから多くのオペレーターはドクターがレユニオンとの戦いが長引いていくとともに、ドクターが日に日に悪くなっていくのを、眺めることしか出来なかった。いくら心配して声をかけても、大丈夫、心配しないで。と優しく諭すだけだった。それがやせ我慢であることは誰にもわかっていた。だが、レユニオンとの抗争が激化する中、ドクターには休んでもらうわけにはいかなかった。この2つの矛盾した感情が、多くのオペレーターの気持ちを蝕んでいた。誰もがレユニオンとの抗争の終わりを望んだが、戦いは終わる気配を見せなかった……。
こうした中、ドクターはある決断をする。逃亡だ。だが、逃亡が容易でないことは明らかだった。自分の周りには必ず最低一人は秘書としてドクターの身辺警護にあたっていた。だが、秘書という言葉は名前だけで、実質的にはドクターの監視だった。ケルシーやアーミヤが最初からドクターが情緒不安定になるのかどうか考えていたかはわからない。だが、少なくとも、ドクターがこのロドスアイランドで働く頃にはすでに秘書という制度は出来ていた。
この秘書は休日にどこかに遊びに行くという時でも後ろに居続けていた。だから、最初はドクターは逃亡などというのは無理なことだと思っていた。ロドスアイランドの出入り口も24時間常に警備が厳重だった。更にドクター一人での外出は認められていなかった。これはドクターという最重要人物が直接戦闘に関しては非力で、必ず護衛を付けて安全面を確保するためだという意味も大きいとは思うが、監視という意味も兼ねていたのだろう。
だが、転機が訪れた。
ロドスアイランドは様々な陣営と協力体制にあった。もちろん各陣営にもそれぞれ思惑があり、単に利害が一致して協力しているところから、ロドスアイランドの理念に同調しているところまである。そんな様々な陣営だが、ドクターは指揮官として様々な陣営の人と話す機会があった。ドクターの、指揮官ながら温厚で、記憶を失いながらも読書家として知識を求め続ける姿勢に少なからず好感を持っていた者も多かった。中には、ロドスアイランドというよりは、ドクター個人に興味を抱いて協力関係にある陣営すらあった。
だから、最後には誰かの陣営に亡命を手伝ってもらうという選択肢がよぎっていた。というよりは、それ以外の選択肢がなかった。自殺という考えもよぎったが、それは考えなかった。我々の生命は神によって授けられたもので、それを自らの手で断ち切るのは神に対する冒涜だ───などといったかつて流行ったという宗教的な理由ではなく、単に、死にたくなかっただけだ。
荒唐無稽な理由だと思うかもしれない。自分だけのうのうと後方で指揮し、実際には何人ものレユニオンを殺してきた自分には持ってはいけない感情なのかもしれない。だけど、死にたくないという感情を持って、何がいけないのだろう?自殺する人間は多くの場合、今の境遇より死の方が良いと思う時、死を選ぶ。そういった意味ではドクターも今の境遇よりは死の方がマシだとさえ思う。だが、自分にはまだ足掻く猶予が残っていた。自分一人では逃亡は極めて困難だが、これまでに共に自分を信用してくれた仲間がいたらなんとかなるかもしれない。
もちろん、これは楽観的な考えだ。全ての陣営には事前にドクターが脱走を企てるような相談をされたら真っ先に報告しろと言われているかもしれない。そうなったら、終わりだ。再び記憶を消されるかもしれない。だが、他に選択肢はなかった。これが失敗するかなんて考える余地は、なかった。
だが、ここに来て究極の問題に直面しなければならなかった。どこの陣営に助けを求めるか、である。ロドスアイランド所属のオペレーターを除くとしても、いろいろな陣営がロドスアイランドと密接につながっている。なるべくロドスアイランドとは利害関係だけが一致している方が望ましいだろう。それでいて、ドクターにある程度親近感を持っているオペレーターがいる陣営が望ましい。さらに言えば、今のドクターに同情心を持っていればなお良いが、そこまではドクターには判断できなかった。
いずれにせよ、ドクターの秘書は戦闘オペレーターの中で、志願制になっていた。12時間勤務の2交代制だが、一切の睡眠は許されず、常にドクターの側にいないといけないので、勤務は過酷だった。だが、それでもドクターの秘書は人気があった。それが、ドクターがオペレーターに人気だという裏付けだろう。
休日にどこかへ外出する際に、その秘書さえ裏切れば自由に行動できるのだから、楽な仕事かもしれないが、当然犯人はその秘書ということになるから、実際の逃亡には重いリスクが付きまとう。常にロドスアイランドから逃げ惑う生活が続くだろう。たった一人の人間の逃亡を手助けするには、あまりに重い枷だった。
だから、本当は一人で逃げるべきなのだろう。だが、一人で逃げるには、ドクターはあまりに非力だった。同じ研究者としてケルシーはMon3trと呼ばれる奇妙な生物を持っているが、自分にはそのようなものはない。類まれなる指揮能力と呼ばれたこの才も、所詮指揮官としてでしか活躍できない。
さらに、仮に逃亡に成功したところで、ロドスアイランドの戦力の大幅な減少は避けられないだろう。混乱している情勢をレユニオンに狙われるかもしれない。ドクターの逃亡はロドスアイランドからしたら、自分よがりの、自己中心的な考えにしか移らないだろう。ドクターにだって、そのことぐらいわかっていた。だが、心身共に尽き果てたこの状態で、これ以上ロドスアイランドにいても自らの様態が好転することなど無いと確信していた。レユニオンとの戦闘が短期決戦で済むならまだゴールが見えるということで頑張れたかもしれないが、事態は簡単には済みそうではなかった。
色々考えた結果、ドクターは選択肢を4つまでに絞った。ドクターに親交のあるオペレーターがおり、なおかつその陣営においてある程度の地位がある陣営を選択した。何も後ろ盾がない個人と逃亡したところで、互いに不幸になる未来しか見えなかった。それに比べて、ある程度その陣営で地位があれば、匿ってもらえる可能性も高かった。それに、ロドスアイランドは常に人員を募集していることからも伺えるとおり、常に人員はかつかつだった。仮にドクターが逃亡したところで、そちらの捜索に回せるオペレーターなど限られている。それは人事や事務をアーミヤと一緒に担当してきたドクターだから確信を持って理解できた。
そしてドクターが選んだ選択したは次の4つの陣営だった。
・龍門近衛局
・ペンギン急便
・ライン生命
・イェラグ
いずれも、ロドスアイランドとはあくまで利害が一致した協力関係であり、少なくとも一人以上がドクターとある程度親交のある陣営を選択した。それ以外にも、誰よりもドクターのことを気にかけてくれたシャイニングの所属する使徒も選択にあったが、自分には医療の才がなく、入れる適正が無いだろうとは思っていた。もっとも、ドクターは戦闘はからっきしだから、戦闘員としてはどこにも所属できないだろう。だが、ドクターが持っている指揮能力、そしてロドスアイランドで学んだ事務や総務の知識は控えめに言っても役に立つだろう、と思う。
そしてついに陣営を選択する日が訪れた。もしその陣営がロドスアイランドと通じており、この相談自体が筒抜けだったら、自分は殺されることはないものの、何かしらの処罰は免れないだろう。いずれにせよ、自分の命運がかかっていると言っても過言ではなかった。それ故に人生の全てを左右するといってもおかしくない選択を、今決断する。
そしてドクターが選んだ陣営は───。