Fate/Grand Order Moon Hunter Edition 作:結城希亜
「すべて、長い夜の夢だったよ……」
また、飽きもせずに夢を見る。
病と血、死の匂いに満ちた古い西洋の都で、明けない夜の中で、ただひたすらに獣を狩り続ける。赤子の頃から毎日続く悪夢だ。今はもう何も感じない。慣れたのだろうか、最初は随分と怖かった気がする。もう、ずっと昔の話だけれど。
頬に飛んだ血を拭い、遺志となって消えていく老人から視線を切って空を見上げた。秘匿は既になく、宇宙の深淵を宿したような青い夜空には血の色をした赤い月が浮かんでいた。不気味な月だがもう見慣れてしまった、この後の展開も同じように。
突然体が硬直し、後ろから得体の知れない触手が這い寄り四肢を絡めとっていく。
触手の主の姿は見れない。後ろを向けないのだから当然だ。毎夜のこととはいえ、これだけどうにも気持ちが悪い。
触手を通して自分の中から何かが吸われていくのがはっきりとわかる。腹立たしいことだ、腕さえ動けば臓物を引っこ抜いて天日干ししてやるのに。
段々と意識が薄れていき、まぶたが重くなっていく。逆らっても、脳が拒否するように目が霞んで意識が遠のく。
溶けて消えるようにすべてが虚になり、そして夜が明ける。
今回もまた、狩りの成就には程遠い。
『塩基配列 ヒトゲノムと確認。
霊器属性 中庸・中立と確認。
ようこそ、人類の未来を語る資料館へ。
ここは人理継続保障機関カルデア。
指紋認証、声帯認証、遺伝子認証、クリア。
魔術回路の測定、確認。
登録名と一致します。
貴方を霊長類の一員と認めます。
はじめまして、貴方は本日最後の来館者です。
どうぞ、善き時間をお過ごしください』
泥沼に浸かっているみたいに身体が重い。上体を起こそうとするけれど、なんとも動けない。まるで自分の身体じゃないみたいだ。ただ目蓋の隙間からすり抜ける蛍光灯の光がやけに眩しい。
「起きてください、狩人様」
「あの、どうかされましたか?」
モヤのかかる意識が二つの声と四つの気配を拾う。一つは聞き覚えがある声だけれど、もう一つは聞き覚えのない声だ。
身体が揺すられて頭がグラグラと揺れる。
「いえ、狩人様が急にお眠りになってしまい……。よくあることなので気にしないでください」
「え、それ定期的に気絶するってことかい!?
ヤバいんじゃ……」
「医務室に運んだほうが…」
「フォウ! キャウー!」
「ああ、おやめください。狩人様のお顔がよだれまみれに…」
焦りをともなった声が聞こえる。何かに頬を舐められ、テシテシと柔らかい何かでこめかみを殴打される。そろそろ起きたほうがいいだろう。
やたら重い目蓋を開けようとすると、強烈な光が襲ってきて思わず閉じてしまう。けれど数回それを繰り返すと、段々と光に慣れるように和らぎ、焦点が合う。視界には、こちらの顔を覗き込む三つの顔があった。無表情だったり、心配そうだったり、焦りを浮かべていたりとまさに三者三様とはこのことだろうか。
「……おはよ、人形ちゃん」
「おはようございます、狩人様。お気分はいかがですか?」
「あんまり良くないな、頭痛いし肩凝った。……ここは?」
「覚えていらっしゃらないのですか? マリスビリー・アニムスフィアという方からぜひここで働いてほしい、とお願いされたでしょう?」
そう言われて、人形ちゃんから封の解かれた手紙を渡される。差出人の名前はマリスビリー・アニムスフィアと書かれていた。
ああ、段々と意識がはっきりしてきた。久しぶりに日本に帰ったら、このマリスビリー何某という人物から推薦状がポストに突っ込んであって、中身を見たら給金の桁がとんでもなかったから即断でこのカルデアに来たんだった。空港から目隠しされて、飛行機を乗り継ぎに乗り継ぎを重ねてまるで輸送されるかのように運ばれたときは、流石に金に釣られた自分を呪った。しかし何時間も身動きが取れず、やることもなかったから必然眠くなるのも仕方ないというものだ。下りる場所へ着いたのに寝ていて起きないのだから、無理やり引きづり下ろして放り込んだということだろうか。なんて野蛮人だ、文明人の風上にも置けんやつらめ。
しかしここはどこだ? 飛行機を降りてからヘリに乗せられて運ばれていた時の気圧の変化に加えて、若干の頭痛。窓の外の猛吹雪から推理するとどこかの氷山の上だろうか?
「前所長の紹介かい? Aチーム以外に彼がスカウトした人員がいたなんて聞いたことないけど…」
髪を後頭部でまとめた、人当たりが良さそうな顔をした細身の男性が手紙を覗き込んでくる。事情がよくわかっておらず首を傾げるオレたちと目が合うと、申し訳なさそうに頬をかいた。
「自己紹介が遅れてごめん。僕はロマニ・アーキマン。一応このカルデアで医療部門の責任者をやらせてもらってる。みんなからはDr.ロマンって呼ばれるから、ぜひ君も気軽にロマンと呼んでほしい。そして、横の彼女は…」
「私はマシュ・キリエライト、カルデアではマスター候補生という身分になっています。よろしくお願いします、先輩」
マシュと名乗った少女がそう名乗って丁寧にお辞儀をする。薄紫の髪と眼鏡をかけたいかにも真面目といった第一印象だ。なんで先輩って呼ばれたか分からんが。
「ご丁寧にどうも、オレは藤丸立香。こっちは色々身の回りの世話してくれてる人形ちゃん。一応言っておくけど人間じゃないぞ」
頭を申し訳程度しか下げないオレの代わりに人形ちゃんがその分頭を下げる、120度くらい。“礼節を重んじろ”と母から教わったけどあんまり人に頭下げるの好きじゃないんだよな、と考えてたら横からジト目がとんでくる。
人形ちゃんが人間じゃないと聞かされたからか、マシュとドクターは非常に驚いている様子だった。無理もないだろう。昔は関節部分が剥き出しだったが、連れ歩くには少々まずいということで曽祖父の代で改修したという話を聞いたことがある。今では外見的にほぼ人間と変わらないように見えるだろう。
「フォウフォーウ、キャーウッ!」
「………それで? そろそろコイツに関しても説明してもらえるか」
図々しく右肩に乗って舐めるパンチキック頭突きと暴虐の限りを尽くす猫だかリスだかよくわからない白い小動物をつまみ上げる。お陰で右頬と首筋がよだれ塗れだよ、狩るぞ。
だが、オレが人形ちゃんからハンカチを受け取る一瞬の隙をついて、小動物は拘束から逃れてそのまま廊下の先に走っていってしまった。
「あれはフォウさんといってカルデア内を自由に散歩する特権生物です。ああやって人を気に入られるのは珍しいのですが……」
「そうだね、フォウは基本人には懐かない。嫌いな人の前には姿すら見せないほどだ、僕も初めてみたし。懐かれるのはとてもレアなことなんだよ」
「そうかい、それなら解体は勘弁しといてやるか」
「「えっ」」
「すみません、狩人様の分かりづらい狩人ジョークです」
うむ、別名ヤーナムジョークとも言うな。
頬を拭き終わったハンカチを人形ちゃんに返す。くそ、まだ微妙にベタベタするな。シャワー浴びたくなってきたぞ。
「それでオレはこのカルデアってところで何をすればいいんだ? 悪いが手紙にはコッチに来て手伝ってほしいってことだけしか書いてなくて後は何も知れされてないからサッパリなんだ」
「うーん、マリスビリーの紹介か。参ったなぁ」
「どうかしたのか?」
「………マリスビリーは諸事情で所長の席を辞任してるんだ、今は娘のオルガマリー所長が継いでいる。僕も藤丸くんの名前は彼から聞いたことはなかったから少しね」
そういってドクターは頬をかいた。その表情をみると、困惑半分疑問半分といったところだ。
もしかしてこの手紙が偽物だと疑われているのだろうか。別にそれはそれで今から帰るだけだから構わないのだが、顔も知らない奴に呼び出されて時間を無駄にしたということになると少し癪だが仕方ないだろう。
しかしオレの雰囲気を察したのか、ドクターは慌てたように引き止めた。
「べ、別に疑ってるわけじゃないんだ! 今調べてみたけどちゃんと君用の部屋は用意されてるから間違いじゃないと思う!」
「お、おう、そうか。それならいいんだが」
必死すぎて逆に怖い、やっぱり帰った方がいいかもしれない。だがわざわざ無駄足にするのも勿体無いだろう、こんなところこの機会を逃せば2度と来られないかもしれない。別に急ぐ用事もないし構わないか。
結局好奇心に負けてひとまずカルデアでお世話になることにした。ドクターは今からやることがあるから、ということで、それなら私がとマシュがカルデアを軽く案内するついでに部屋まで連れていってくれるとかって出てくれた。
ビニル系の長い廊下を三人で歩きながら、軽く施設の紹介をしてくれる。中央管制室、医務室、食堂、トレーニングルーム、レクリエーションルーム、シミュレーションルーム、などと様々なものがある。設備一つとっても外では見たことがない非常に高性能のものが多い。外見は見れていないが、とても大きな施設のようだ。よくもまあ、氷山の上にこんな立派なモノを建てたものだと感心する。階段がいくつもあることから山の頂上から地下に掘り下げて建造してるらしい。
だが、建物の大きさに反して設備を利用する人間の数は少ないように感じた。管制室にはそこそこ人がいたが、他はあまり利用されてないように見受けられる。まぁいつの時代でも偉い奴と金持ちはでかい建物を建てたがるということか、見栄も重要だから否定するつもりはないがここまで広いと移動に時間がかかりそうではあるが。
「アンタはオレみたいにスカウトされてここに来てどれくらいになるんだ?」
「いえ、私は先輩のように所長にスカウトされてここに来たというわけではないんです。でもカルデア設立の少し後からここで訓練を受けていますから、ずっと長い間ここにいますね」
「へえ、いわゆる初期メンバーってか。あと聞きたかったんだが、なんでオレのことを先輩って呼ぶんだ? 普通逆だろ」
「理由、ですか? ………先輩が、私の知ってる誰よりも人間らしいから、でしょうか?」
その言葉を聞いて思わず顔をしかめた。不快だったわけじゃない、ただ表情を変えてしまうほどあまりに皮肉が効いていたからだ。もちろん意識してのことではないだろうが。
「オレが人間らしい?」
「はい、カルデアにいる人たちはどれも一癖や二癖がある人なので、先輩がとても普通、と言いますか。私の中の先輩像に近いと言いますか」
「……………そうか、初めて言われたな。人間らしい、なんて」
「お嫌だったでしょうか?」
「いや、別にいい。どれくらいの付き合いになるか知らないけどよろしく頼むぞ、マシュ」
「は、はい、よろしくお願いしますね先輩!」
本当にどれくらいの付き合いになるかわからない、戦いと殺ししか能がないオレがこんな場所でどれほど役に立つかは分からないし、何をやらされるのかも聞かされてないが。
「まぁ、退屈しなければそれでいいさ」
● ● ●
カルデア所長室。午前0時を回ったその場所では、今でも明かりが灯っていて二人の男女が顔写真が添付された書類を手に頭を悩ませていた。
銀髪の気難しそうな女性は、左に積まれた書類を手にとっては目を通して、数秒眺めてから右のバスケットへ無造作に投げ入れる。その作業を繰り返して、時計の長針が一周する頃には高く積み上げられていた書類は全てバスケットの中に移動していた。
「ハァ、やっぱりいい人材なんてみんなどこかのお手つきね。Bチーム以降の人材なんて全然集まらない、Aチームだけでもう充分じゃないかしら」
女性は不満を露わにして机に突っ伏した。共に作業していた男性は、仕方ないなと言わんばかりに肩を竦める。
「オルガ、そう腐るモノではないさ。数人は見つかったし繰り返していけばそれなりの数にはなる。ニホンのことわざであったな、チリも積もれば……」
「チリも積もれば山となる?」
「そう、それだ」
「チリが積もって山になっても吹けば飛ぶわ。Aチームはお父様が直々にスカウトした逸材揃い、全員戦闘不能なんて状況になったらそれこそ終わりよ」
オルガと呼ばれた女性が鬱屈した様子で背もたれに上体を預けた。
カルデア所長、本名オルガマリー・アースミレイト・アニムスフィア。魔術師の総本山である時計塔、その中に存在する12の派閥の一つ【天文学科】を統べるロードの一人だ。彼女は疲れの溜まった目を労るように揉みほぐすとまた一つため息を漏らした。その表情はとてもではないが良いと言えるモノではなく、溜まった心労を色濃く表している。
「お父様さえ生きていてくれれば……」
心労の原因は多くあるが、その多くは父親の急死に起因していた。
先代天文学科ロードであった、マリスビリー・アニムスフィア。藤丸立香をカルデアにスカウトした張本人である。先程ロマニは言葉を濁して辞任したと言ったが、事実は病死によって交代せざるを得なかったという事情だった。元々病気で体が弱かった父親でありこういった事態も覚悟していたが、やはりその負担は彼女の肩に重くのしかかっていた。
「それを言っても仕方ない。確かに彼の死は君の大きな負担になっている、けれど君はよくやっているよ。大丈夫、君の頑張りは私がちゃんと見ているよ、オルガ」
そういって、モスグリーンのスーツに身を包んだシルクハットの男は入れたてのココアを机に置く。
レフ・ライノール。カルデアの技術顧問であり、オルガマリーとは旧知の仲である魔術師だ。付け加えるなら、カルデアの要の一つでもある近未来観測レンズ【シバ】を作り上げた一流の技師でもある。
オルガマリーは湯気のたつそれに手を伸ばして一口飲むとホッと一息ついた。
「甘い……」
「疲れた時には甘いモノさ、それともお気に召さなかったかい?」
「ううん。いつもはコーヒーだけど、こういうのも悪くないわ」
ココアに口をつけるオルガマリーの表情は、とても時計塔のロードとは思えないくらい穏やかな、年相応の少女といえるくらい柔らいでいた。オルガマリーが普段張り詰めている精神の糸を緩めれるのは、幼い頃から面識があって、多忙の父親の代わりに面倒を見てくれたレフの前だけだ。それは友愛を超えて親愛といっても差し支えはないだろう。もちろん誰よりも信頼して素を見せられる人というのは大事な要素だ。
精神的に大きな過負荷がかかって責任感で雁字搦めになっているオルガマリーには、特に。
「レフ…………」
静寂に満ちた部屋に甘い声音が響く。瑞々しい唇から漏れ出る吐息は熱く、美しい琥珀色の瞳は光を反射して宝石のように潤んでいる。
レフは困ったように眉をひそめる。そしてテーブルに腰かけるとジッとオルガマリーを見つめた。普段薄くしか開いていない眼が開かれ、その中の黒い瞳が妖しく光る。
オルガマリーは縋るようにレフに手を伸ばそうとしてーーー。
「所長、こんな時間にすみません。少し話したいことがあるんですけど」
無粋なノックによって室内の雰囲気が霧散する。オルガマリーは慌てて手を引っ込めて、レフは何事もなかったように距離をとって自分の席に戻った。
声からして恐らくロマニだろうがいつもながらタイミングが悪い。狙っているのかと勘違いするほどだ。
「………入りなさい」
「失礼しまーす。………所長、なんか機嫌悪いですか?」
「なんでもないわよッ! それでこんな夜中になんの用!?」
「えぇ……怖い。ちょっとレフ、なにかあったの?」
「いつものことさ」
君の間の悪さもね、とレフはため息をついた。オルガマリーの八つ当たりはいつものことだが、何故怒っているのかよくわかっていないこの男も大概なモノだ。よく解雇されないなと不思議に思うほどに。
首を傾げて困惑した表情を浮かべたが、尋ねてきた用件が急ぎだったのか手元のデバイスを操作して画面を見せてきた。そこには20代になったばかりだろうか、それくらいの年齢をした少年の顔写真と情報がびっしりと記載されていた。
「これは?」
「先ほどこのカルデアに訪れた魔術師です。なんでも前所長、マリスビリーの紹介だとか」
証拠はここに、と言って懐から手紙を出した。そこには確かにマリスビリー前所長のサインと、偽装ができないように魔術的な細工が施されている。
宛名は藤丸立香と書かれていた。
「個室も藤丸くん名義で一部屋押さえれていました。恐らくは前所長が生きている間にスカウトした人物だと思いますが、所長は何か聞いてますか?」
「初耳よ、お父様がAチーム以外にスカウトしたマスター候補がいたなんて」
不機嫌そうに眉を寄せてロマニが渡してきた藤丸立香のプロフィールを閲覧する。
父母姉四人構成の家族。しかし数年前の事故で立香以外の家族は他界、以降は世界を転々としながらフリーランスの傭兵をして生計を立てる。魔術師としての家系や能力は二流止まりだが、戦闘能力は著しく高い。隣に戦闘補助自立稼働人形を連れている、とほか細々とした情報が記載されていた。しかし、一個人の情報としてはあまりに少なすぎるそれに違和感を覚えて眉をしかめた。そもそも顔写真すらないなんて異常だ。
「……これだけ?」
「そうですね、さっき急いで調べたものですがそれ以外特筆すべきことはなにも」
「………いいわ、マスター候補として許可します。明日、精密な検査を行なったあと配属を決めましょう」
「よろしいんですか?」
「構わないわ。貴方も知ってると思うけど本当に人手が足りないの、それこそ猫の手も借りたいくらいに。お父様が連れてきたっていうのなら役立たずってわけでもないでしょう」
そういって脱力するように椅子にもたれかかった。
このカルデアは父が作り上げたもの。当然、人員も父が連れてきた者たちばかりだ。その中には脛に傷があったり腹に一物抱えた者たちもいる、その筆頭がAチームのメンバーだ。選り好みしている場合ではない。手垢のついていない、どこにも属していない戦力というのは貴重なのだ。
「わかりました、では明日検査を行います。一応彼にも声を?」
「ええ、かけておいて頂戴。応じるかどうかわからないけれど。その時はレフにお願いするわ、いいわよね?」
「……………」
「レフ?」
「……ん? ああ、すまない、ボーッとしていたようだ。疲れているのかな」
そう言いながらもその眼はジッとオルガマリーの手元、藤丸立香の個人情報の映った資料に向けられていた。
オルガマリーは、レフのその様子に違和感を覚えた。彼が疲れて人の話を聞き流すということも驚いたが、なによりその表情があまりに珍しいものだったから。
彼は稀にこういう表情をする。マシュに初めて会ったとき、ロマニに初めて会ったとき、そして私に初めて会ったとき。それが良いものなのかはわからない。私では彼の表情から読み取れず、彼もそれを顔に出すのは少しの間だけだからだ。
しばらく資料を見つめていたが、やがて視線をきって椅子から立ち上がると「先に休ませてもらうよ」と一言残して去っていった。
流石におかしいと思ったのか、ロマニも首を傾げてオルガマリーと目を合わせた。
「どうしたんですかね?」
「……さぁ? それよりロマニ、まだ仕事残ってるんじゃないの?」
「あーそうでした! まだ健康診断の紙回収してないんだった、芥ちゃん渡してくれるかなぁ……」
「あの子の検査嫌いも筋金入りね、ほら行きなさいよ」
ウンウンと頭の悩ませながらロマニも部屋を出た。急に静かになった所長室を少し寂しいと思いながら立ち上がると、思ったより疲れが溜まっていたのか眠気が襲ってきた。
早く寝よう。書類仕事で凝り固まった肩をほぐしながら、隣にある寝室へと向かう。
すでにレフに抱いた違和感など眠気と疲れに押し流されてしまってカケラほども残っていなかった。
このとき、もう少しレフ・ライノールに対して強い違和感を覚えていて、信頼と依存以外の感情を抱いていたら、オルガマリー・アニムスフィアの運命は変わっていたのかもしれない。
けれど、そんなことは現実には起きず、ただ定められたまま運命は流れる。
運命とは、紛れもなく悲劇なのだから。