A.「指揮官としてのドクター」を皆“無意識に”期待していて、なおかつドクター自身があまり名前を明かさないことで、「ドクター」という呼び方そのものが彼を指し示す単語になってしまっているから。
ある日、いつものように執務室で業務をこなし、良い時間になったところでお茶を作りに席を立つ。
最近はシュヴァルツに美味しいお茶の淹れ方を少しづつ教わっているので、以前より少しずつ美味しく飲めるようになってきたんじゃないかと思う。実際リズとか他のオペレーターにもなかなか好評みたいだし。
それにしても、最近はめっきり出撃とかが少なくなったな。もちろんなくなったわけではない。感染者を巡る戦火はレユニオンだけにとどまらず至る所で起きているし、それを鎮圧するために指揮を執ることはある。
けれどそれもそこまで高頻度ではなくなったため、些か代わり映えのしない日々を送っていると言えるだろう。まあ、個人的にはリズや他のオペレーターたちがいるだけで楽しいので、あまり差支えはないが。
そうこう考えているうちに湯が沸き上がったので慎重に手順を思い出しながら淹れていく。なかなか気を遣わないといけない作業なので、初めてこうすると聞いたときはそれなりに驚嘆した。
先ほどグムからもらったスイーツを冷蔵庫に入れてあるので、それも併せて執務室のテーブルへと運ぶ。
「リズ、茶が入った」
「はい……ありがとうございます」
リズが秘書になってからもう4か月ほど経つ。流石にそんなにも長く秘書を務めていれば業務にも慣れるようで、それも相まってすっかり書類整理などの作業をする姿が様になっていた。今から思い返せば、結構な重症患者には厳しいものだったなと、今更反省する。
しかし、過ぎたことはもうどうしようもない。結果的に今のリズは前とは見違えるくらいに変化したため、これでも良かったかなと感じているところもある。
「……このマドレーヌ、というものはとても食べやすくて美味しいですね」
現に、今もこうして甘味に舌鼓を打っているのだから。
そのまましばらくリズと緩やかで心穏やかな時間を過ごしていると、これまたいつものように執務室の扉が開かれる。
「おはよードクター!ナイチンゲールさん!」
「おはようアンジェリーナ」
「ごきげんよう、アンジェリーナさん」
入って来たのは、ついこの間までただの学生として過ごしていたオペレータであるアンジェリーナ。比較的ロドスの中では新顔であるが、その持ち前の気さくさと愛嬌ですっかり他の人たちと仲良くなっている快活な少女だ。
彼女の扱うアーツは重力操作という非常に珍しいタイプのもので、それを生かして故郷であるシラクーザでトランスポーターとして方々に飛び回っていた。彼女がアーツで悪さをしないような心優しい性格で良かったと思う。
そんなアンジェリーナは、年齢相応に甘いものが好きらしい。
「丁度良かった。今ちょうど軽いティータイムを取っているんだ。アンジェリーナも飲むか?コーヒーではないが」
「え、そうなの!?それじゃあ、せっかくなら貰っちゃおうかな!ありがとうドクター!」
ここまでわずか十数秒。若者故の気安さというのだろうか、そんな感じの軽快なテンションでリズの向かいに座るアンジェリーナ。特に訪れる頻度の高いプラチナとアズは両名落ち着いた性格なので、こういった元気な子が来ると執務室の空気も変わるものだな。他にはクオーラ等が該当する。
そういうわけでアンジェリーナを交え、再度緩やかにお茶会が始まった。
まだロドスに来て日が浅い彼女から、故郷の話などを聞きつつもこちらでの生活の調子を聞き返していく。どうやら最近は同じ学生の身分で
「そう言えば、アンジェリーナというコードネームは自分の名前だったな。どうしてわざわざそんなことを?」
話題にひと段落ついたところで、ふとそんな疑問を投げかけた。
本名をコードネームにする、というのは一般的には珍しい。オペレーターという立場上の名前は誰もが必要だし、公私を分けるためにも大抵は偽名を使ったりすると思う。
そういう意味を込めて素朴に尋ねてみると、彼女は頭をぽりぽりと掻きながら照れくさそうに口を開いた。
「あたしの母親が極東出身でね。それで“安心院アンジェリーナ”っていうあんまりシラクーザっぽくない名前なんだけど、響きもなんだかへんてこりんだから、コードネームを何にしようって考えたときに下の名前だけ取ったんだ」
「へぇ……名前、気に入ってるんだな」
「もちろん!お母さんもお父さんも大好きだから、自分の名前には誇りを持ってるんだ!シラクーザでもいじめとかはなかったしね」
「それはよかった。慣れないロドスでの生活は大変だろうが、是非ここをもう1つの家だと思って過ごしてほしい」
「ありがとうドクター。あたしロドスに来てよかった!」
そう微笑む彼女の顔は、ひどく年相応のものだった。
そんな年端も行かない少女でも、自らの意思で戦うことを選ばざるを得ない世界。すべて鉱石病という未知の____文字通りの“天災”が蔓延っていることに、改めて無力感を感じてしまう。もちろん、全く成果が出ていないわけではないが。
「………如何しましたか?」
「……いや、なんでもないさ」
リズ。
重度の鉱石病に加え、さまざまな身体的精神的障害を負ってしまっている
もし彼女の身に何か不都合が降りかかれば、私はきっとなんとしてもそれを打ち斃すだろう。それこそ、いかなる手段を使っても。
そうならないように、しっかりと
「こーんちはー!」
「こらカーディ!あまりみだりにドクターに押しかけちゃダメだ!」
「……おや?」
なんて
行動予備隊A4所属のカーディとスチュワードであった。
「どうした2人とも?珍しいじゃないか」
「あ、ドクター!単に遊びに来ただけだよ!」
この素直さと行動力はロドスの中でもひときわ目立つ。そこが彼女の良いところではあるのだが、いかんせん元気すぎて機械類を壊さないか心配どころではある。
それを防止するのも兼ねているのか、スチュワードはカーディのお世話係のような立ち位置に収まっていた。それだけじゃなく、A4の面々に対して非常に世話焼きな性格であるように見える。
「すみませんドクター……カーディがどうしてもと」
「いいさ。私もオペレーターたちと適度に交流を重ねたいと思っていたからな。とりあえず2人とも、茶を用意するから少し待っててくれ」
「そういうことでしたら、僕がお淹れしますよ」
「いや、スチュワードも座ってていい。最近は茶を美味しく作るのにハマっているんだ」
「そうだったんですね。そういうことでしたら仰せのままにしましょう。ほら、カーディも大人しく座るんだ」
*************
「そう言えば、スチュワードも苗字をコードネームにしていたな」
「?ええ、確かにそうですが……急にどうしました?」
「いや何、先ほどまでそういった話題をアンジェリーナと話していてな」
数分もせず2人分の茶を用意し。なんとかカーディを大人しくさせた後。ふとそんなことを思い出し、彼に訊ねてみた。
「どうして君は“スチュワード”をそのまま持ってきたんだ?」
すると彼は少しの間逡巡するようなそぶりを見せ、やがて優しい声音で言葉を発した。
「ドクター、“スチュワード”という家名がどういう意味を為しているか知ってますか?」
「……いや、あまり想像がつかない」
「“スチュワード”とは代々位の高い家に仕える一族でして、僕も長らくある主人に仕えてきました。あの方には随分と良くしていただきましたが、ある日突然『お前はよくやってくれている。ここでどうだ、私の元から離れて社会経験を積むのも悪くないだろう』と仰いました。見限られた、というわけではなく、僕のことを買っての発言だったようです。それから僕はフリーターになり、さまざまなことをしてきました____つまるところ、僕はこの“スチュワード”という家名に誇りを持っているんです」
「……なるほどな」
アンジェリーナとはまた違った誇り。自らの使命を全うし、実績を立ててきたが故の高潔な感情だ。素直に素晴らしいと感じるが、同時に私には一生持ちえないようなものだろうな、とも如実に感じているのだ。
私は、あまり自分の名前を明かさないようにしている。
何故ならあまり必要ないと思っているから。「ロドスのドクター」として、業務や戦闘指揮をこなす上でオペレーターたちがコードネームを用いるように、私も「ドクター」として為すべきことを為さねばならぬという使命感があるから。
何処まで行ってもそれを求められるのだと思っているから。
「いいんじゃないか。自分の名前に誇りを持つことはとても____それこそ、誇りをもつべきものだと私は思う」
「あたしもそう思うよ。オペレーターとしては日が浅いけど、スチュワードくんがすごく丁寧で世話焼きだってのはわかるし。なんだか皆のお母さんって感じ」
「お、お母さん?そう言われたのは初めてですよ、アンジェリーナさん……」
口では戸惑っているが、実際まんざらでもなさそうな顔をするスチュワード。まあ、普段からカーディを制御してると思えばそういう印象を抱くのも普通なのかもしれない。
「……名前……」
「…………」
リズがぽつりと呟く。どうやら隣に座っている私にしか聞こえていなかったようだが、彼女の言う名前とは、スチュワードやアンジェリーナのように誇りなどではなく、ただ唯一自分が覚えていることだ。
無論、彼女にとってどれだけの価値があるかは分からないが……少なくとも、何かしらの思うところはあるのだろう。
「あ、そういえばこの後A4の皆で訓練するのを思い出したよ!ドクター、僕たちはこのあたりで失礼します」
「え、そんなのあったっけ?スチュワードくん」
「君はもう少しスケジュールを覚えておくべきだ!ドクター、頂いた紅茶、とても美味しかったです。それでは」
「あっ、引っ張らないでよスチュワードくーん……!」
……行ってしまった。嵐のようなオペレーターだったな。
とは言え茶を美味しく飲んでもらえたのなら、多少の自信がつくというものだ。これからも精進しようか。
「ドクター、あたしも行くね。ウタゲちゃんと遊ぶんだ!」
「そうか、そういうことなら存分に楽しんできてくれ」
「うん、ありがと!それじゃ!」
次いでアンジェリーナも去っていく。こんな何もないところにいるよりも親しい人との交流を重ねた方が彼女にとってもいい時間になるだろうからね。
比較的明るい面子が立ち去って、執務室に再び静寂が訪れる。とは言ってもすっかり慣れ親しんだものではあるが。
「……ドクター」
「どうした?リズ」
飲み終わったカップや皿などを片付け仕事に戻ろうかというときに、ふとリズから呼びかけられる。その顔はやけに真剣みを帯びているが……。
「……私に、ドクターの名前を教えていただきたいのです」
「……それをしたところで、特に意味はないだろう」
「……いえ、ですが……」
彼女が食い下がるのは、珍しい。それは彼女の無機質な人格に由来するものなのだろうが……なんだ?随分と不安そうな顔をしている?
どうしてだ?
「私は、名乗る価値も意義も持ち合わせてはいないのさ」
「……ドクター…」
Pi_Pi_Pi_Pi___!
その時、デスクに置いてあった通信機からある意味聞き慣れた着信音が発せられた。これは通常時の連絡じゃない____強襲の作戦が発生したときのものだ。
「リズ!」
「……行きましょう」
執務室と作戦会議室はそれほど離れていない。リズの歩行補助を加味しても10分程度でたどり着けるだろう。通信機を手に取り、「すぐに向かう」と告げた。
*************
「現在、龍門にてレユニオンの残党と思われる集団が街を荒らしています。本来なら近衛局の仕事のはずですが、彼らは別の場所に駆り出されているそうで、我らロドスに鎮圧してほしいとフミヅキさんから要請がありました」
作戦会議室。スクリーン上に映し出された地図をバックに、アーミヤは作戦概要を語りだす。
どうやら今回の敵はなかなか手練れが集まっているらしく、こちらも練度の高いオペレーターを投入する必要がある。数も多いため、火力の高いオペレーターを集めるのが手っ取り早いか。
「ドクター、今回の編成はどうします?」
「ふむ……そうだな、シルバーアッシュ、エクシア、スペクター、スカジ、クオーラ、プラチナ、アズリウス、ニアール、ファイヤーウォッチ、ラップランド、フィリオプシスと……過剰だとは思うが、ナイチンゲールも入れよう。今言った11人に召集をかけてくれ。準備が出来次第すぐに殲滅へと向かう」
「了解しました。ロドスのオペレーターに告ぐ____」
アーミヤが通信機ではなくロドス全体の放送機で呼びかける。それを尻目に、私は少なからず心の中で安堵していた。
あのまま名前を聞かれていては、きっと私はぽろっと溢してしまっていただろう。それこそ、コップに並々と注がれた水があふれ出てしまうように。しかし、きっとこの作戦が終わった後にリズは再度訊ねて来るだろう。
「お待たせリーダー!今日は誰を撃ち抜けばいいかな?」
「貴方の呼び声により参りました……」
エクシア、スペクターが到着する。
「潰し甲斐のある奴らが表れたと聞いたら、じっとしていられないよね……?」
「ドクター!来たよ!」
ラップランド、クオーラが入ってくる。それからファイヤーウォッチ、ワルファリンなどが続々と集まってきて。
「プラチナ、只今召集により参上した……って、リズさんもいるんだ」
「あら、わたくしたちが最後みたいですわね」
プラチナとアズがやって来て、編成が整った。
さあ行こう、私は全ての障害を打ち払わねばならない。
ロドスから出ていくとき、
*************
p.m. 15:00 龍門/曇天
街を襲撃しているのは、感染者は誰でも受け入れるが非感染者は徹底的に排除することを掲げた感染者のための組織であるレユニオン___その残党である。
「しっかし、俺たちも落ちぶれたもんだな。前はあんなに人がいたのに、それもこれも全部ロドス・アイランドにぶっ潰されちまった」
「どうせ今日も来るんだろう、その前に一人でも殺しておくか」
その中に、アーツを纏った剣を操る“術剣士”と呼ばれる男と遠距離から後方射撃をする“狙撃兵”と呼ばれる男がいた。
彼らはこの龍門において、戦闘能力のない一般市民を殺害することには物足りなさを感じていた。当然だ、いくら非感染者とはいえ、力の差が歴然なのだから。手ごたえのないものを潰すほど事務めいた作業はない。
レユニオンのメンバーにとって、ロドス・アイランドのオペレーターは悪夢に等しい。ひとたび敵対した瞬間、つい数瞬まで仲間だった奴が赤に塗れた肉塊に変わり果てるのだから。
だが、それでも彼らは自らの信念を貫かずにはいられなかった。ほんのかすかな社会への抵抗とも取れる。
彼らの間にはわずかな諦めムードが漂っていた。
「緊急連絡!ロドスの奴らが現れました!」
「何、もうか?」
「……術剣士、一応この迷彩だけ纏っておけ。少しでも長く生き延びられるにこしたことはない」
そう言って狙撃兵はレユニオンに出回っている迷彩スーツを術剣士に寄越す。どうせ姿を隠そうが隠さまいが彼我の戦力差は比べるまでもないのだが、と言外に含まれているような言い方。
それを存外丁寧に受け取り、ひっかぶる術剣士。
「……さて、いつ繰り出そうか___!?」
「……どうした?」
瞬間、それまでのどこか希望をなくしたような様子をしていた術剣士の中で憎悪が沸き立っているのを狙撃兵は感じた。もうここ最近はすっかりロドスへの敵愾心も低下気味だったというのに、一体どういうことか。
「____いる。俺の、復讐対象が………サルカズが___!」
そう呻く術剣士は、遠目である一点を凝視していた。
つられて狙撃兵が見やる。その先にいたのは、緩くウェーブのかかった長い金髪に正しく“碧眼”と呼ぶであろう青い目を持った1人のサルカズ。
今はもうほとんどいないレユニオンの超古参であればその圧倒的なヒーリングアーツで幾度となく辛酸をなめさせられた
「……過去に何かされたのか?」
「……ああ、あいつらの手で、俺の生活は奪われた。だから、消すと決めたんだ。サルカズなんか、存在してはいけない」
「……そうか。なら協力しよう。あの金髪のサルカズを撃ち抜けばいいんだな」
「ああ。勿論俺の人生を狂わせた本人じゃないが、死んでもらう____」
「落ち着け。狙うなら奴らの気が緩んだときだ。それまでステルスで隠れているぞ」
術剣士は腰に佩いたアーツソードをガシャリと鳴らし、狙撃兵はギチリとボウガンの弦を引き絞り。
そのままロドスのオペレーターたちの死角へと音を立てずに移動していった。
*************
作戦は、特に大きなミスもなく順調に進んでいった。
今回の編成は私がよく用いるものであり、オペレーターの中でもひとしお信頼を置いている者たちばかり。苦戦らしい苦戦もなく一人ひとり、または複数人まとめて切り捨て焼き払っていく。もう人の死体にも慣れた。
正直オペレーターの間では、否めない作業感に対するどこか緩い雰囲気が漂っていたと感じている。もちろん実際に戦場で気を緩めていたとかそういうわけではないが、何やら「また残党か」という空気があったのは確かだ。
だが____
「………おかしい」
おかしい。観測されていた敵の数と殺した数が合わない……多すぎる。
事前にはじき出された討伐予定人数は53人。それに対し、現時点で少なくとも70は屠っている気がする。明らかに、殲滅に時間がかかっている。何処だ?何処からだ?
湧きつぶしをしているものの、想定していない数の敵にこちらの空気もだんだんと張り詰めたものになっていった。だが単に物量が増えただけでは大してやることは変わらない。敵を殲滅するまで戦い続けるだけだ。
「シルバーアッシュ、前方の敵を殲滅しろ」
冷酷に通信機で呟いた。
「……よし、なんとか全滅させたみたいだな」
それから、ものの15分ほどで敵は綺麗さっぱりいなくなった。それもこれも大体シルバーアッシュとファイヤーウォッチのおかげだが。
さて、敵も掃討し終えてロドスへと帰ろう……と、戦場に背中をむけようとしたとき。
「_______」
一瞬殺されたかと錯覚するくらいの嫌な予感が背筋を駆け抜けた。
まずい……まずい。まずい、まずい!
理屈はわからないが、確かにそのとき
リズは気付いていない。もう戦闘が終わったと認識し聖域も展開を解いている。このままではだめだ、どうする、どうする、どうする!
コンマゼロ何秒で思考を加速させはじき出したのは、「彼女を押しのける」ことだった。
「____リズ!!」
わたしが、まもらねば_____
その思いが、すぐ近くにいた彼女へと私を届かせるブースターとなったのか。それとも天に恵まれたか。
「___があああぁぁぁぁぁッ!!!」
彼女に肉薄したかと思った瞬間、背中に熱く鋭い激痛が発生し、同時に頭に強い衝撃を覚える。視界はぼやけ、思考もままならなくなる。暗闇の深海に精神が呑まれていく。
り、ず……
意識を手放す直前に、彼女のひどく呆けた顔を見た。
*************
「______ドク、ター……?」
やけに焦ったような声を聞いたナイチンゲールが振り返って見たのは、背中から夥しい量の血を流して倒れこむドクターの姿だった。
一瞬、ナイチンゲールの思考が停止する。
「チッ、庇われたか……だがまあいい、敵の指揮官を潰せたのは大きい__だが、お前も道連れだ!!」
今のいままで迷彩スーツで姿を隠していた術剣士が忌々しそうに、それでも喜色を滲ませて叫んだ。そしてその勢いのままに、茫然と突っ立っているナイチンゲールにアーツソードを振り下ろす。
「おらああァァァァァァ____?!」
「ドクター……ドクター……?」
しかしその一閃は、復讐の対象である白き悪魔には届かなかった。ナイチンゲールが聖域を発動させたのである。
だが発動させたはずの彼女は、とり憑かれたように目の前で倒れている男の名を繰り返し口にする。目には光はなく、男の前に崩れ落ちてその双眸を朧げに向けている。術剣士のことなどまるでいないかのように。
どう見ても意識して展開したアーツではないことは明らかだった。
「な、なんなんだよ……なんで剣が届かねえんだ……目の前に、やっと殺せる相手がいるのに……!!」
術剣士は諦めない。理屈も原理も不明なまま自分の刃が届かないという不条理な現実を目の当たりにしても、なおその憎悪の炎を煌々と灯し続けていた。
あくまでナイチンゲールの聖域展開は無意識のものであり、無理やり突破しようとすれば出来るもの。実際このまま邪魔が入らずに術剣士がナイチンゲールと対峙し続ければ、彼の心より出づる復讐の牙は確かに白き悪魔に噛みつき引き裂くことが出来たであろう。
「_____深淵に還りなさい……!!」
それはあくまで、このまま邪魔が入らなければの話。
「がッ……!?だれ、だ……」
「……邪魔者の排除、完了いたしました……」
突然文字通り沸いて降ってきた銀髪の美女のその呟きが、術剣士の聞いた最期の言葉になった。
スペクター。深淵よりの使者。手に血濡れた回転ノコギリを持ち、いつもの戦闘服である聖職者の恰好の代わりに何故か外出用の私服を着ている彼女。そのボロボロに切り裂かれた衣服を見れば、彼女がこの戦闘においてもかなりの無茶を通したことがわかる。
そんなスペクターは、彼女にしては非常に珍しく口元が笑っていなかった。ただ倒れ伏している男に対する心配と憐憫が、その悲しげな赤眼から見て取れる。
「……ナイチンゲールさん、すぐにドクターを連れて帰りましょう……」
「………スペクター……さん………?」
ここでようやく、ナイチンゲールの意識が戻ったのだった。あくまで、意識だけだったが。
*************
「くそっ、術剣士がやられた!ならせめて俺だけでも____」
「____瞬きせずに、自分の死を見つめなさい__」
スペクターが術剣士を切り刻んだ同時刻。物陰から様子を窺っていた狙撃兵が銀髪の美女に狙いを切り替えようとしたところで、本来なら聞こえるはずのない別の美女の声が響く。狙撃兵が何か言葉を発する前に、彼の胴と足は綺麗に切り分けられた。
「……こんなところに伏兵がいたなんて、とんだ失態だわ」
狙撃兵をたった一回の斬撃で屠ったのは、深海の狩人であるスカジ。同じ陣営であるスペクターとは違い、その戦闘服には傷1つすらついていない。
「……嫌な予感が、最悪の形で当たってしまったわ……!」
彼女は自分の不甲斐なさを嘆いていた。
つい先日に「首がひりつく」と伝えたスカジは、今日の戦闘でも戦地に出たときにはかなり気を配っていた。珍しく。そして何も異常はないと判断した。判断してしまった。
しかし、狙撃兵と術剣士はステルスを纏っていたのだ。唯一その隠ぺいを見破れるシルバーアッシュは最前線に出ていてこちらまでは見えていなかったし、ステルス看破するための近接オペレーターは近くにはいなかったのだから。そもそも彼らが死角に潜んでいたことさえ、ロドスのオペレーターは指揮官含めて誰も気が付かなかったのだから……。
「……とにかく、ドクターの元へ行かないと……!」
数瞬前まで眼前にいた敵のことなどもう忘れて、彼女はひたすらに自分の指揮官の安寧と延命を願い近くへ駆け寄った。
ほんの一瞬の出来事であったが、編成に加わっていたオペレーターには当然瞬く間に知られる。
「リーダー……リーダー!」
「しっかりしろ、盟友……!」
「ドクター……!」
「……フィリオプシスの感情の乱れを検知」
そのとき、誰もが同じ現実を捉えただろう。
ドクターが瀕死の重傷を負った、と。
ナイチンゲールは、ロドスに帰るまで一回も動かなかった。
まるで魂すら抜けてしまったように。
”皮肉な運命”
後書きは活動報告にて。