6:00 p.m. ロドス/晴天
『…………』
多種多様な人間が集まるロドスアイランド。彼らの交流が行われる最たる場所である公共食堂は、現在かつてないほどの重苦しい空気が漂っていた。
原因はただ一つ。彼らの指揮官であるドクターが、瀕死の重傷を負ってしまったこと。
件の作戦の後すぐにロドスへと運ばれたドクターは、現在ケルシーを筆頭とする多数の医療オペレーターによって集中治療を施されている。ロドスの医療技術は有数で、そこに集うオペレーターたちも当然高い技量を持っているので大丈夫だろう、という認識は共通のものであっても、なお誰も口を開けないでいた。
どれくらい時間が経ったのか。食堂に一人の少女が足を踏み入れる。我らがCEO、ロドスの公的代表であるアーミヤだ。彼女は食堂に集っているオペレーター__いない者もいるが、ドクターの指揮下にいる大体の人数である120強__を一人ひとり見まわし、たっぷり時間を置いてから先に結果を告げた。
「_____手術は成功です。ドクターは一命を取り留めました」
『………はぁ……』
ほぼ全員が、安堵のため息をこぼした。通夜のような雰囲気が一気に弛緩する。
「ひとまず安心したよ、アーミヤさん。もちろん、俺は信じていたけどね」
「おっと、その良い方はずるいよミッドナイト。あたしだって信じてたさ」
「……鉱石病すらコントロールすることが出来るロドスの技術だ、ただ斬られただけの傷で死なせるほどやわな所ではないだろう?」
「そうね、ケルシー先生だっているわけだし」
「オーキッドお姉さん……ドクター、元気になれる?」
「ええ、きっとね」
A6のメンバーが口を開いたのを皮切りに、食堂の至る所で幾分明るめな会話の火が灯るようになった。それを見たアーミヤも、いくらか緊張の取れた顔をする。
「……良かった」
そしてすぐにまた顔を曇らせた。
確かに一命を取り留めた、とは言った。事実なのだから。しかし
しかもその懸念材料とは、医療チームですらどうも出来ないような天運によるもの。今は下手に落胆させない方がいいだろうと、アーミヤは口をつぐんだままでいることを密やかに決めた。
「皆さん、ドクターの意識が戻る期間は2週間とされています。それまでは全ての作戦がPRTSによって代行指揮されますので留意してください。それに伴い業務も一部滞ってしまいますが、その期間は低空飛行で行きます。ドクターのお見舞いにも行ってあげてくださいね」
仕方のないことだ。
今までドクターの担ってきた業務はとても多い。それこそドクターが源石を摂取しないといけなかったり、錯乱してオリジムシや砂虫を食べようとしたりするくらいには。その業務の進行が明らかに遅くなってしまうということは、ロドスの全体的な基地運営も滞るということだ。最も、もはやオペレーターにとってなくてはならない存在となったドクターの回復が最優先事項なのだが。
「……ねえ、アーミヤ」
とここで、不意にアーミヤに質問を投げかけようとするオペレーターがいた。
「どうかしましたか、メテオリーテさん」
「さっきからナ……秘書さんの姿が見えないけど、彼女はどこにいるの?」
「ナイチンゲールさんも医療チームに所属しているんだ、一緒にドクターの治療に携わっていたんじゃないか?」
そのときメテオリーテの発言に答えたミッドナイトは、彼女の疑問を少々的外れだと感じただろう。
「………」
「え、と……アーミヤ?」
しかしその素朴な質問にアーミヤは答えにくそうに、あるいは
「……ナイチンゲールさんは、ドクターの治療には参加していません。それどころか、どこにいらっしゃるか私もあまり分かっていません」
『………?』
アーミヤの口から告げられたのは、この場にいるオペレーターたちに様々な憶測を抱かせるには十分な内容だった。
「それってさ、部屋に籠ってるってこと?」
「ハハッ、もしそうだとしたら随分と意外だね。あのナイチンゲールさんがそんなことをするなんて、ちょっとボクには想像が付かないや!」
「……彼女のことは、シャイニングさんや他の方に任せましょう。皆さんは特段気にする必要はありません」
エクシア、ラップランド両名の発言に半ば突き放すような形で諫める(とも取れる回答をする)アーミヤ。やはり、その顔は曇ったまま。
「皆さん、それぞれ持ち場や宿舎に戻って良いですよ」
表情と真逆の、いつも通りの声音でアーミヤはオペレーターの解散を促した。
誰もそれ以上追及することはなかった。
*************
「……アーミヤよ、何故皆の前であのような嘘を吐いたのだ?」
「……私、ドクターが斬られたと聞いた時に、あの人の無事と同時に____いえ、それよりも先にロドスのこれからの業務進行の遅れをどうするかを考えてしまったんです……代表としては確かに正しいかもしれません。ですが、1人の人間としては失格もいいところですね……」
「………ナイチンゲールの居場所は知っているのだろう?」
「はい。ですが、今は彼女に近づくべきではないのは本当です」
「……そうか。それで、貴様はどうするのだ」
「……どうする、とは?」
「このままナイチンゲールに対して負けを認めるのか、ということだ。貴様がどう思おうが、盟友の感情を聞かねば話にならないだろう」
「……」
「本当に大切なものが何なのか、よく考えるといい。貴様はまだ幼子にも等しいのだから」
「……ご忠告、痛み入ります」
*************
9:00 p.m.
私たちの尽力により、無事にドクターの命を繋ぐことが出来たのは、ひとえにロドスの高い技術水準のおかげでしょう。ケルシー先生らと共同で診たところ、
……ただ、そう。ドクターは胴体に大きく袈裟掛けの傷を負っただけはなく、頭にも大きな衝撃が加えられていました。その結果、脳震盪も発生していることが診断されたのです。
脳震盪は外傷による一時的な記憶喪失が伴うことが多い症状ですが、大抵は傷を負った直後に現れる症状です。ドクターの意識が覚醒するとされている2週間後であれば通常は記憶障害も起こりえないとは思いますが……物事に絶対はありませんから。
「J.Aさん、シャイニングさん、一応ドクターの病室へと向かってくれませんか?治療したばかりですが、経過観察ということで」
「……わかりました、アンセルさん」
「了解です」
アンセルさんからの命を受け、ドクターのいらっしゃる病室へと向かうこととなりました。同じ医療チームに属しているJ.Aさんと一緒に廊下を歩いていきます。
「それにしても、ドクターの命を繋ぐことが出来て本当に良かったです……」
「……そうですね。ケルシー先生やワルファリン医師の技量は本当に素晴らしい」
今回の治療にあたって最も力添えになったのは、間違いなくこのお2人でしょう。我々医療チームの中でも飛びぬけて実力の高い両名がいなければ、もっと難航していたはずですから。普段から奇怪な噂の絶えないワルファリン医師もれっきとしたロドスの古株、ということでしょう。
「着きましたね。開けますよ」
「……ありがとうございます」
治療室から病室はほど近いもので、比較的ゆっくりと歩いても5分ほどで簡単にたどり着けます。つい先ほどグムさんから頂いた軽食を落とさないように、隣の彼女に扉を開けていただきました。
「_____」
「___ひっ」
病室に入った瞬間に感じたのは、膨大なアーツの気配。
同時に、私の心の内側から、思わず両の目から涙が零れそうなほどの強烈なナニカがあふれ出てしまいそうになりました____。
部屋の中央にある、ドクターが眠っていらっしゃるベッド。
そこには、本来あるはずのないもの……大きな、大きな天蓋と思しきものが聳え立っていたのです。余計な装飾が全くない、ただ骨組みと半透明の布が被さっているだけのもの。
_____いえ、違います。これは、天蓋なんて華美なものではありません。
「……………リズ」
部屋の中央にあるベッド、眠っているドクター。
その傍らに、簡素なパイプ椅子に座って虚ろな目でドクターを凝視し続けているのは、他でもない彼の秘書にして私の仲間。私の遠くからの呼びかけにも、今は答える素振りも見せません………ただ、彼の動かない右手を握ったままで。
……彼女の空虚な様子からは読み取れませんが、この大きな大きな
不安。
寂寥。
恐怖。
後悔。
自責。
____ありとあらゆる負の感情、紛れもない彼女の感情の具現化が、私たちを狂わせようとしていたのです。
「あっ……ああっ……ハァ…ハァ……っあああ……!!」
隣を見やれば、J.Aさんは既に過呼吸気味で発狂寸前でした。膝もがくがくと震えていて、瞳孔も開ききって……この負の感情は、普通の人では到底耐えうるものではないでしょう………こんなの、悲しいです。
私は彼女を早急に病室から追いやり、扉を閉めました。そして改めて彼女の方へ体を向けます。
「……リズ、リズ」
「…………シャイニング、さん……?」
「……ようやくこちらに気が付きましたね、リズ」
そう言いながら、手に持っていた軽食をトレーごとベッドの近くに置いてあるテーブルに置きました。グムさん謹製のサンドイッチです。
「まだ何も食べていないでしょう。こちらを」
「………ありがとう、ございます……」
サンドイッチを手に取ったリズは、そのまま最小限の動作で食べ始めました。目にわずかに光が戻ったような気がしますが……未だに部屋を支配する悪感情は消えないままです____相変わらず、気を抜けば鳥籠から溢れるそれに当てられて
この「ドクターに縋りそうになる」感情こそがリズの本心、本質だと気が付くのは、そう難しいことではありませんでした。
………状況が状況でなければ、リズに確固たる感情が芽生えたのはとても喜ばしいことなのですが。
「……リズ。ドクターは必ず快復します。私を含めて、医療チームが総力を挙げて治療したのですから」
「………心得ています」
と一旦言葉を切った後、リズはサンドイッチをトレーに置き直し、自身の近くにあった
「……ですが____私が、お守りすると決めたはずなのです……私は、これ以上ドクターが傷つき身を削る様を見たくはないのです……それなのに、
「…………」
リズの目から流れる一筋の涙。
……そういうことだったのですね。貴方は、そう。そんなにもドクターのことを……いえ、これはそのような低俗なものではないでしょう。以前からおおよそ分かってはいましたが、こうして直に感情を発露する様子を見てしっかりと確信を持てます。
「リズ。私から多くは言いません。ですが、ドクターが必ず戻ってくることは断言できます……あの方は、たくさんの人に支えられています。その最たる支えはきっと、他でもないリズであるはずです……ですから、このような鳥籠がなくとも、きっと大丈夫ですよ……ええ、私が保証いたします……」
鳥籠に添えられた手に自分のそれを重ねて、しっかりと言い聞かせます。
「………シャイニングさん……」
少しの間をおいて、アーツの気配がきれいさっぱり消えていく感覚がしました。見れば、既にベッドを囲っていた天蓋はなくなっています。私の中に沸き上がる悪感情も、もうありません………これで、大丈夫でしょう。
「……ドクターの容体は安定していますね……これなら予定より早く意識が戻りそうです……リズも、体には気を付けてください」
「……行ってしまわれるのですか……?」
「……アンセルさんに報告をしないといけませんので……リズは、まだここに居るつもりですか……?」
「………はい」
「……そうですか。では、主に食堂に勤務しているオペレーターを中心に、ここに何か持ってくるようにお願いしておきますね……それでは、また」
それだけ言って、私は病室を出ました。
*************
ドクターへのお見舞いは、比較的すぐに解禁された。とは言えまだドクターの目は覚めないらしく、様子を見に行くくらいしかやれないのだけどね。
俺は誰を連れるわけでもなく1人で目当ての病室へと向かう。丁度宿舎からほど近い場所にあるみたいだ。
「失礼……っと、先客がいたんだね」
「………?」
気軽に病室の扉を開けて入ると、俺よりも先に見舞いに来ている女性がいた。ある意味当然とも言うべきか、そこには彼の秘書を務めているナイチンゲールさんが。
「こんにちは、ナイチンゲールさん。貴方も見舞いかな」
「……ごきげんよう、ミッドナイトさん。私は……ずっと、ここにいます……」
「……それは、ドクターの治療が終わってここに寝かされてからずっと、ということかな?」
こくん、と少しだけ首を縦に振り首肯の意を見せたナイチンゲールさん。それから少し話を聞いたところ、どうやら文字通り
正直、とても驚いた。そんなことをするような人だとは全く聞いたことがなかったから。
「……随分とドクターのことを気にかけてくれていたんだね。俺も嬉しくなってくるよ」
「……いえ、大したことはしていません」
例えばここで、普通の表情や声音(言うなれば自分を謙遜しているような表情や、遠慮がちな声音と言ったところ)をしていたのなら、俺も重ねて言葉を続けた___いや、続けられていたのかもしれない。
けれど、目の前に座っているナイチンゲールさん、表情はまるで人の死体を目撃した時のように暗く、美しいソプラノボイスも今にも消え入りそうなほどか細いものだった。
女性がそんな様子だとどうしても見過ごすことが出来ないのがホストというものだ。
「何かあったのかい、ナイチンゲールさん____良ければこのミッドナイトに話していただけませんか」
「………貴方に、ですか?」
「同じサルカズのよしみ、とでも思っていただければ。何か力になれるかもしれません」
一旦女性を相手にしてしまえば、職業病とも呼ぶべきかしっかりと敬語モードになる。何か飲み物があれば良かったんだけど、生憎と今から自販機に何か買いに行くのは少しばかり間が悪い気がしてね。
迷っているのかしばらく逡巡する素振りを見せるナイチンゲールさん。
「……ドクターから、ミッドナイトさんは他人の相談事を聞くのがお上手だと聞いています。ですので、どうかお力を貸してください」
少し時間を空けて、彼女はおもむろに口を開いたのだった。
「……私は、元々ドクターに対していかなる感情も抱きませんでした……重要なのは小鳥さんとするお話だけで、昇進にも全く喜びの感情が沸かないままでした」
「秘書に任命されてからしばらく経ったある日……ドクターに致命的な問題があることを知りました。それは……“ドクターが様々なものに囚われている”……丁度、私のような状況になっていたことです」
「……他にも、ドクターは自身の記憶を失っています。まさに、私と同じような境遇だったのです……そのとき、確かに存在しなかったはずの私の心がひどく痛みました」
「それから、私はドクターのお傍にいることにしました。この心の痛みが何なのか、それを知るためにも……」
「……プラチナさんやアズさんを始めとして、多くの人と関わるようになりました……シエスタに赴き、お茶を飲み交わし、映画という物を鑑賞して……少しづつ、ドクターのお傍にいることを大切に感じるようになったのです」
「……その過程で、私が嫉妬という感情を持っていた、という客観的事実をスペクターさんに指摘されました。私は、未だにそれがどのようなものであるかはあまり知り得ませんが……それでも、ドクターと過ごす夜はとても心地の良いものでした」
「……ええ、そこまでは……そこまでは、良かったのです。いつかの日、私はドクターをお守りすると決めました。私には、その力がありますから……ですが、それが叶うことはありませんでした」
「…………ドクターは、私の目の前で斬られました……あの方を、お守りすることが出来なかったのです」
「……もし…もし、ドクターがこのまま目覚めなかったらと思うと、不安で仕方がありません…ドクターがお傍にいないことで、これ程近くに居たいと思ったことはありません…意識が覚醒してから、言った通りに出来なかったことを責められ、見限られてしまうのではないかと思うと、体が震えて仕方がありません…力を持ちながら、それを他でもないドクターに振るえなかったと思うと、後悔を抱かずにはいられません____ドクターをお守りすることが出来なかった事実を認識すると、私に……杖を握ることは出来ません………」
「………1つ、聞いてもいいかい」
元ホストとしてではなく、ドクターを尊敬し敬愛する人の1人として、聞かずにはいられなかった。
「貴方は、ドクターのことをどう思っているのかな」
「………ドクターは」
綺麗な群青の目を細める彼女。その様子はまるで、ずっとなくしていた大切なものを見つけたときのような____
「………ドクターは、私に人としての生を与えていただいた、とても大切な人です……私は、あの人のお傍に…可能な限り、置いていただきたいと思っています」
………ああ、眩しいなあ。職業上多くの人を相手にする俺と違って、ただ1人のために向けている感情は。
「……それなら、そのままの感情をドクターに伝えてみるといいですよ。自分の気持ちは言葉にしないと伝わりませんから。意識が戻り次第、ハグでもしながら思い切っていけばいいと思います」
「……ハグ、ですか……ご意見、ありがとうございます」
あ、ちょっとした冗談のつもりだったのに、もしかして真に受けてしまったのかな。思ったよりも純粋な人みたいだ。この数十分で、ナイチンゲールさんへの印象がころころ変わっている__今は、ただ想い人を持つ童女のようで、今までで一番
「お役に立てたかな」
「……はい、ありがとうございます」
「それは良かった……そうだ、今度ドクターと貴方に一杯奢らせてくれないかな。貴方たちは、とても美しい。ドクターにもそう言っておいてくれ」
「……分かりました」
「それじゃあ、俺は行くよ。また近いうちに」
「……さようなら、ミッドナイトさん」
俺は十分に役目を果たした。じゃあ、後は当人同士の問題だ。
ナイチンゲールさん、ドクター。あなた方の未来が明るいものであらんことを。
そんなことを思いながら、病室を後にした。
*************
____ここは、何処だ?
気が付けば、家具や装飾物が何もない真っ白な部屋に立っていた。いや、何も無いというのは間違いだ。部屋の中央には、これまた真っ白な椅子が1つだけ存在している。でも、そこに堂々と腰を下ろす気にはなれなかった。
なぜ、私はあのときリズを庇おうと無茶を通したのだろうか。私には知りえない。
そもそもあれからどうなったのか。リズは無傷でいられたのか。ちゃんと私を斬った奴は殲滅出来たのか。何もかもがわからない。
なぜ?
『随分と頭を悩ませているようだな』
「____!」
いつの間にか、部屋の突き当りに大きな鏡が現れていた。私の体よりも大きく広いそれの中心に、こちらを見る1人の男____紛れもなく、私だ。だというのにその鏡に映った私が、あろうことか話しかけてきている。
どういうことだ?
『はっ。全くどういう状況か分かってない、という面だな。我ながら情けない』
「……貴方は、誰だ?」
『……
そんな馬鹿な、と一蹴してしまうことは出来なかった。彼奴の言うことは正しいと直感で分かってしまったから。
恐らく……というより十中八九、ここは私の意識の中だ。こんな場所は見たことがないし、肉体があれば残っていたであろう斬られた感触が、全く感じられない____待て、じゃあ此奴はもしかして____
『そんな無意味な憶測は必要ない。お前には聞かねばならぬことがある』
「………なんだ」
『お前は“ドクター”か?』
…………は?
「何を……言っているんだ?
『………はぁ。呆れた。まだ分からないのか。もっと良く考えろ。お前が本当にドクター足り得るのか』
「な……何なんだ、それは………っておい、どこに行く!」
意味深な言葉を憮然と告げたと思ったら、鏡の向こうの私は瞬きする間に姿を消してしまった。
一面の白を見せる鏡には、誰も映っていなかった。
*************
私はドクター。そのはずだ。
この間チェルノボーグで目を覚まし、そのとき最初にアーミヤに出会った。
それから本当にいろんなことがあった。スカルシュレッダー、フロストノヴァ、メフィストやファウストと戦い、信念を貫き、そして敵を打ち破っていった。今でもあの手に汗握る激戦はしっかりと目に焼き付いている____フロストノヴァの、ひどく軽くなった手の暖かさも、当然覚えている。
そして、それより少し前にリズ____秘書とよく交流するようになった。最初こそ「白紙のようなオペレーターだ」と思っていたが、徐々に彼女は人間性を養っていったように思える。最近では随分変わり、
___でも、そうだ。その過程で、私は何度も何度もこの世界の不条理さや理不尽さを目の当たりにし、そのたびに考え、悩み、どうにか手立てはないかと道を探し続けていた。何も覚えていなかった私にとって、唯一の原動力となり得た「わずかな使命感や義務感」。それは
そうだ!
____あれ?
そういえば、
そもそも、どうして
なぜ
この使命感や義務感は、前の私のものだ。前の私が持ち合わせていたものだ。
そして、先ほどまで鏡の向こうに居た彼奴___前の私は、控えめに言って
そうだ、
ここで思い返すのは、やはり
……今の状態で冷静に考えれば、すぐにわかることだった。あの時、私が
それに、よりによってあのタイミングで今までと違った「一撃でこちらを瀕死・殺害する」攻撃を持つ敵など現れるはずがない。こちらの練度も考慮すれば、リズの命が狩られる可能性は限りなく0に近かかったはず。それを直感が勘違いし、こちらが無用な傷を負ってしまった___きっと今頃は、少なくないオペレーターたちに心配をかけているだろう。
……今の状況こそが「
では、どうして?
どうして、私は
『……そこにたどり着いたのなら上々だ。ようやっと気が付いたか、間抜け』
また、いつの間にか彼奴が立っていた。今度は壁に背中を預け腕を組んだ状態で。
「……あ、ああ。私は……ドクターではなかった。自分の行動に矛盾が存在していたことに、たった今気が付いた……だが……」
『そうだ____まあ、つまるところお前はあの場所で覚醒してから、ロドスアイランドではずっと「ドクター」として振る舞ってしかいなかった……逆に言えば、ただの一度も「 」としての意思を持たないままだった、ということだ。ある1人との関わりを除いてな』
「………」
____そうか。ああ、そういうことか。
てっきり大切な
『……自覚したのなら、それでいい。後は自分の中で整理を付けることだな』
「……迷惑をかけたな、前の私」
『はっ、それも自覚しているのなら世話ない。今のお前は____いや、なんでもないさ。さあ、そこの扉から出ると良い。お前にここは必要ない』
「………貴方はどうするんだ?」
『もうしばらくはここに居るさ』
「……そうか。それじゃあ、またいつか会えるといいな」
『もうその必要もないだろうがな』
真っ白な部屋から出る直前、彼奴のマスクの奥に見える双眸は確かに笑っていたような気がした。
……さあ、行こうか。
*************
「…………ん」
重い瞼を開くと、まずは良く見慣れた意匠の天井が目に入る。それから、自身の右手が何か柔らかいものに包まれている……いや、これは握られている?ことに気が付いた。
とりあえず体を起こそう。起こせるか?
「…………よ、っと…」
長い期間眠っていたのか、自分のものであるはずの体が思うように動かない。体を持ち上げるのにも力がいるし、口からは聞き慣れない掠れた声が発せられた。
握られている(であろう)右手の方へ顔を向けると。
「………」
「………すぅ……すぅ……」
規則正しい寝息を立てて、リズが椅子に座ったまま眠っていた。私の右手を、わざわざその小さく滑らかな両手で包み込みながら。
部屋の蛍光灯は点いているが、窓の外の暗闇を見るに随分と夜も更けているようだ。ベッドのすぐ横にあるテーブルに置かれた時計は23時を指していた。
「………寝顔、随分と…かわいらしいのだな……」
意識がなく力が緩んでいるため、自身の右手をなるべく起こさずに引き抜くのは容易だった。そのまま何とか頑張って彼女の頭まで持っていき、その艶やかな白金色の絹糸をサラリと撫でていく。自身の手つきが、これまでと違うような気がした。
「ん………んぅ……一体、誰が……」
「……おはよう、リズ……」
「____っ」
どうやら彼女を起こしてしまったようだ。起き抜けで頭の回らないまま目をこすり、こちらを見やってくる____?
「……ドクター…ドクター……!」
「うぉっ……」
………と思ったら、彼女にしてはとても機敏な動作で抱き着かれた。非力ゆえそこまで痛くはないが、その力の入りようから彼女の感情が容易に推し量れる。
「……すまない、リズ……心配…かけたな……」
「……どうして、どうして貴方が謝るのですか……それは、こちらの台詞ですのに……」
「……あのとき…君の力を、信用せずに……飛び込んでしまったのは……私の、落ち度だから……」
「……それは、違います。私が、私がお守り出来なかった所為です……」
リズは泣いていた。ああ、やっぱり相当に心配をかけてしまっていたんだな……ひどく申し訳ない。
呼吸するにもなかなか疲れるものがあるが、言葉を重ねる。彼女に言わなければいけないことが……伝えなければならないことがあるから。
慰めるように髪を撫でる。
「……この話は……お互いに謝罪し続けることに、なるから…止めよう……それより、あれから何日経ったんだ……?」
「……10日ほどです。ケルシー先生の見立てでは、2週間ほどで目覚めるはずだったそうですが、少し早めになりましたね……」
「……そうか、10日か……意外と、そんなに経って…いないんだな……」
良かった。これで月単位や年単位で寝込んでいたら、誰にも顔向け出来なかっただろう。
「……結局、あれから…どうなったんだ……?ちゃんと、敵は斃せたか……?」
「……スペクターさんが、しっかりと」
「……そう、か……彼女には、後で…お礼をしないとな……」
「………私も行きますよ……それにしても、ドクターがお目覚めになって…本当に良かったです……」
椅子を寄せ、更に甘えるように体を預けてくるリズ。今までにも何回かされたことはあるが、今となっては感覚が違う……いつまでも慣れることのない彼女特有のミルクめいた甘やかな匂いと相まって、とても心地の良い、胸の奥がじんわりと暖まるような多幸感が、胸の内に湧いてくる。
ああ……紛れもない。
私だ。私がいる。
そう感じさせてくれる目の前の存在が、心に染みこんでいく。その心地よさのまま、先ほどよりも動くようになった両手で彼女を抱きしめ返した。
「……
「……?」
「クラヴィス。私の……私自身の、名前だ……おおよそ、誰にも言ったことがない……」
言葉を切り、タイミングを整える。深呼吸をひとつする。
彼女の顔が、こんなにも近い。改めてじっくりと見ると、やはりとても整った顔立ちをしていることがわかる。宝石のような青い瞳、少しあどけなさが残る鼻筋。瑞々しい桃色の唇。
綺麗だ。
一旦顔を外し、闇を彩る窓に視線を向けると、私の顔が___なんだかやつれていて、それでいてどこか晴れやかな顔が
やがて、徐に口を開く。
「……私はずっと、“ドクター”として振る舞ってきた……チェルノボーグで目覚めてから…ずっと……自分の空の心にぽつんと存在していた、使命感や義務感だけが……私の、原動力だった……」
1つ1つ、噛みしめるように。途切れ途切れになろうと言葉を紡いでいく。
「……君のことは……大切だと思っていた…思うようになった……けれど、あくまで秘書として……そう、認識していた…はずだったんだ……しかし、違った……」
視線をリズに戻す。未だに困惑している様子だ。
「……違ったんだ……私は…秘書としてじゃない……1人の他人として、リズのことを……他の誰より、大事に思っていたんだ……自分に問いかけて、ようやく気が付いた……」
瞬間、確かに彼女の目が見開かれたのを認知した。
「それまで、ドクターとして…求められるままに生きていた……だから、自分の名前など…意味がないと思っていた……けれど、それは…君が変えてくれたんだ……“クラヴィス”として…個人として、君は私を作ってくれていた……それが…とても、嬉しくて仕方がない……私だけの、感情だから……」
「……ドクター……それは、私も同じです……」
私の言葉に続けるリズ。
「……ドクターは、私に人の生を与えてくださいました……記憶も人格も失った私を、もう一度まっとうな人間にしてくださったのは、他でもない貴方なのです。私は……私は、そんな貴方のことを、強く……」
「……ありがとう……そうだったな…君も、同じだ……私たちは、似た者同士らしい……」
「……そうですね。私は、一番初めのあの日から薄々分かってはいましたが……」
「……ああ、そういえば…そんな話をしていたな……もう、随分と昔のように感じる……」
1つ1つの記憶……私にとってもリズにとっても、新鮮で真新しい記憶が思い起こされる。今の状況が、運命の導きのように思えた。
「……リズ、名前を……私の真名を、呼んでくれ……」
「………クラヴィスさん……」
ああ____なんと心地の良い響きだろうか。何度でも呼んでほしいと思ってしまう。
「……もう一度、呼んでくれるか…?」
「……クラヴィスさん……」
「……もう一度」
「……クラヴィスさん……いつでも、お呼びいたしますよ……」
「…………やっぱり…2人きりの時だけに、してくれないか……少し、恥ずかしい……」
「……貴方から、お願いなさったのに、ですか……?」
「……慣れて、いなくて………」
「……ふふっ」
「………はは」
____いつの間にか、私もリズも笑っていた。名前を呼ぶという当たり前の行為が、やけにくすぐったくて。いや、リズにとっては、私の名前を呼ぶのはこれで初めてか。
「……とりあえず…ナースコールで、ケルシーを呼ぼうか……あまり、他の人には見られたくないから……少し、離れてくれるか……?」
「……心得ていますが…もう少し、このままで宜しいですか…?」
「………奇遇だな…自分で言っておきながら、私も少し…名残惜しい……
「………!……っ、はい……」
*************
ナースコールでケルシーを呼んだまでは良かったが、どこから聞きつけたのかそのあとすぐに、プラチナやアズを初めとした数十名が一斉に病室に押し寄せたのは少々驚いた。皆、私の覚醒した姿を見て分かりやすいほどに安堵していたな。思ったより多くのオペレーターに心配をかけてしまっていたらしい。
とりあえず初弾で訪れたオペレーターたちに無事を告げ、また後日ということで数十分喋ってから帰ってもらった……ケルシーは、「お前が無事ならそれでいい。私はともかく、ロドスには必要だからだ」と言っていたが、それほど刺々しい口調ではなかったように思う。
そして現在。特別に許可をもらって、ロドスの甲板に出ていた。もちろんリズと一緒に。
「……暦と移動場所のせいか、もう外は肌寒いな」
「そうですね……」
「……リズ、これを羽織るといい」
肩にロドスの制服をかけてやる。そんな両肩と足を丸出しにした服では寒いだろうから。案の定、リズは受け取ってすぐに着込むように制服の前を閉めた。
もう自分の声は戻っている。
「……リズ、空を見てごらん。星々の輝きが眩しい」
「……本当ですね……とても、綺麗です」
甲板に座り込みながら2人して見上げる。私の隣には、すっかり彼女が馴染んでしまったな。
しばらく即席の天体観測を楽しんだ後、私はふと言葉を紡いだ。
「……私たちは……同じ時間を過ごし、同じ空間を共にした、生まれたばかりの双子のような存在だ」
「ド…クラヴィスさん……?」
「だが、私たちはつい先ほど誕生したばかり。まだ何も知りやしない、幼子も同然なんだ」
横にいるリズに改めて向き直し、その顔を捉える。
「だから……リズ。この先、様々なことを共に学ぼう。これからも、たくさんの物事を、共に経験してくれるか……?」
「………はい、喜んで。貴方と共に、歩み続けましょう……」
そっと重なる手。今度はしっかりと握られていることを噛みしめながら、2人同時に顔を空に向け直す。
星屑が散りばめられた一面の闇の中で、ひと際明るい2つの星が寄り添い合うように輝いていた。
14545字。まるで最終回みたいだ……。
いちゃつくように見せかけて、実は自己が希薄な2人が相互人格形成をする話だった、ということでした。
寄り道がなければ後2話で完結です。まだ回収していない伏線がありますから。
………鳥籠はまた別の伏線です(小声)。