憧れの人は、過去の人   作:おおきなかぎは すぐわかりそう

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食後のコーヒーよ〜(17087字)

・・・・配分ミスりました。


コーヒー

 

「まさかコウキから部屋に行きたいなんてお願いされるとはね〜」

 

 

「……」

 

 

 ニヤニヤと、ニタニタと。ここ最近でもっとも愉快だったコウキの謝罪をリフレクトさせる。今日が『偶然にも』私の誕生日であることも合わさって、浮かれずにはいられない。彼のことを目撃した第三者は、屠畜前の肉牛のようだと感想を抱くだろう。

 

 誕生日が刻一刻と近づきつつあったので、少しばかり無理して圧をかけたのが正解だったのかも知れない。意地の悪い冗談をかけられ流石の私でも少々堪えたのだ、ここまでは"おあいこ"である。

 

 

「無様だったわよ? あなたの懇願する姿」

 

 

「……」

 

 

「フフ、本当に愉快だった。泣いて謝ってないのはちょっとだけ気に食わなかったけど」

 

 

「……」

 

 

 いつもに戻る、久方ぶりの放課後。ここまでも、そしてこれからも私が主導権を握る。矢継ぎ早に溢れ出る言葉を形にするが、なおもコウキは反応するのを拒んだ。

 

 それが、男の尊厳を踏みにじったことに対するささやかな抵抗なのだとでも主張したいのか、クマが浮かぶ不健康な顔を俯かせて不摂生を演じて見せていた。

 

 

「あ! そうそう。昨日はハンバーグだったんだよ? もう少し早く声かけてくれたら食べられたんだけどな〜」

 

 

「……」

 

 

「どうするの? 今日は泊まってく?」

 

 

「……」

 

 

「……ねぇ、なんとかいいなさいよ」

 

 

 地獄の釜が煮たったような、自分でも驚くような低音が声帯を震わせる。相変わらず反応の鈍いコウキは、ようやっと硬く閉ざされていた唇を持ち上げた。

 

 

「……早く上がらせてくれないか?」

 

 

「べ、べつに"上がるな"なんて一言もいってないでしょ? さっきっからなんで黙ってるのか聞いてるの」

 

 

「……体調が悪いんだ」

 

 

「それはコウキの振る舞いが悪いからよ」

 

 

 ストレスを意図して加えたのだもの、当然だ。これでも長く付き添っている。誰よりも自分のことを愛してほしいと願うのなら、相手の好みはもちろん、どんなことが嫌なのかも正確に把握しておかなければ立ち行かなくなる。

 

 荒んだ記憶を掘り起こしてみれば、流石の私でも顔を顰めるくらいに精神的に追い詰めていたことは認めよう。それでも、私に対する裏切り行為に対する制裁と考えれば、可愛いの範囲でまだ収まる。

 

 

「……」

 

 

「さ、ついたわよ」

 

 

「はやくいこう」

 

 

「ちょ、ちょっとなんなのさっきから急かして。なにか企んでるんじゃないでしょうねぇ?」

 

 

「そんなことないよ」

 

 

「ふ〜ん。なにもないなら……寂しいけれど

 

 

 小さい声ながらも、呆気なく漏れ出てしまった感情の吐露に"しまった"と口元をつぐんだ。聞こえないでほしいと願う傍、聞こえていてほしいと矛盾した気持ちの存在に気づき、私の意を汲んで欲しいと強請るような視線をコウキに向けてみる。

 

 しかし、当の本人は聞いているのかいないのか上の空で。ここではないどこかの風景を眺めているように、目の前にいながらマジックミラー越しに見つめているような幻覚に襲われた。それでも自分の元に戻ってきてくれたのだから、二人が離れていた時間を急いで精算するように腕を絡ませ、彼に寄り添って体重を預けるのだった。

 

 

「並んで歩くのも久しぶりね」

 

 

「……そうだね」

 

 

「それで?」

 

 

「?」

 

 

「な、何か渡すものとかないの?」

 

 

 狙っていたとはいえ、この日に謝罪を申し込んだ罪は深い。毎年必ずプレゼントを欠かさなかったコウキが、なんの考えもなしに私の前に姿を現すはずなんて有り得ない。

 

 そんな確信めいた願望が脳内で確立し、全然興味ありませんよーとコウキから顔を外して、さっさと寄越しなさいと手の平で催促する。視界から外した手の感覚に、何かしらの重さが乗るのを期待して。

 

 

「生憎と、今日は持ち合わせがないよ」

 

 

「ち、違うわよバカ! なんでわざわざ今日きたのよ!」

 

 

「……あー、ごめん。それどころじゃなかったから」

 

 

「……そう。……まぁでもいいわ。特別に、許したげる」

 

 

 そういえばと、まるでお使いのついでのように思い出された今日の日付の意味。要求していた手は、拳を握って小さく震えた。

 

 ……さっきまでの哀れな謝罪で有頂天になっていなかったら、危うく感情が爆発するところだった。せっかくいい気分で彼との時間を過ごしていたのに、感情の振り子は大きく触れ直し、最終的に中立に落ち着く。

 

 冷静になった頭で考え、それなら自分の願いを聞き入れてもらえるチャンスだとポジティブに。さてどんな願いを聞き入れてもらおうか、一生忘れられない特別な日にしてもらわないと。

 

 

「おじゃまします」

 

 

「なんなのその他人行儀」

 

 

「今日はヒカリに大事な話があってきたんだ」

 

 

「へ、へ〜そうなんだ」

 

 

 期待感を喪失し、静まり返ったいたはずの水面が大きくうねり出す。プレゼントはお預けで気落ちしていたが、コウキの放った大事な話の文言に、胸はときめかずにはいられない。許嫁で、両思いの関係でこそあるが、正式なプロポーズを面と向かって受け取ったことはいまだになかった。

 

 こ、こここれは今日がその日になるんじゃないかと妄想は膨らみ、心臓がゾクゾクと脈打ち始める。自分を落ち着かせるよう仕切に腕をさすって、次の言葉を一語一句聞き逃さんと耳を澄ませ、湧き立つ心に引っ張られそうになっている頬を表情筋で押さえ込む。

 

 

「……絶縁してくれないか」

 

 

「ダーメ♡」

 

 

「そういうと思ったよ」

 

 

 押さえ込んでいた表情は声を出すために解放され、本当なら激怒してもおかしくないはずなのに、変な笑顔と声色で否定を示す。やっぱりなと言いたげに諦めてため息をつき、伏し目になったコウキを無表情で眺める。

 

 ……一体、いつまでそんな冗談をほざいているんだろう。まだ反抗心があるのかと、まだ調教が足りなかったのかなと首を傾げた。すると、暫しのあいだ押し黙っていたはずのコウキが突如動き出す。不思議に思ってその後ろ姿に声をかけたが無視され、語気を荒げた第二波を繰り出す寸前で、止まる。

 

 いつの間にか取り出していたゴミ袋片手に、コウキはせっせと作業を始めていた。

 

 

「ちょ……なにしてるの?」

 

 

「……」

 

 

「ねぇ、ちょっと聞いてるの!」

 

 

「……」

 

 

「無視するな!!」

 

 

「……」

 

 

 淡々と作業するコウキに不気味さを感じ、背中を掴んで前後に揺らす。けれども動きは止まってくれない。ふと作業の先に目を向けると気がつく。コウキの私物が片っ端からゴミ袋の中に消えていく。その行為が、まるで私の世界から永遠に消え去るための荷物整理に見えた。

 

 

「今すぐやめて!」

 

 

「……」

 

 

「やめなさい!」

 

 

「……」

 

 

「ちょっと……」

 

 

「……」

 

 

「いい加減にしてよ!!」

 

 

 必死の叫びも彼には届かない。出家直前の最後の身支度のように、その動きは淡々と淀みなかった。このまま何も言わなければ、彼は私の目の前から煙のように何処かへ消えていってしまう。そんな悪い方向への想像を必死に吹き飛ばそうとして叫ぶ。けれども返事は帰ってこない。

 

 応答がない時間が間延びすればするだけ不安は募る。目の前に相手はいるはずなのに、二人の時間軸がねじ曲がっているような違和感が、強烈な不快感を絶えず生んだ。一連の動作が紡ぐ生活音が、私から理想の日常をねじ切っていく。もうここは用済みと振り返ったコウキの胸に一振り。叩いて、殴って、必死にこの場に止めようと凄む。

 

 ナイトに裏切られた姫君なんて、いかにも創作のネタになりそうな結末は、あまりにもつまらない直球ストレート。ただ期待して、ただ裏切られて、ただ絶望するだけのもはや陳腐。

 

 

「あんたがその気なら私にも考えがある!!」

 

 

「……」

 

 

「タセツナ社は潰す! 莫大な借金を負わせて破産させてやる!!」

 

 

「……」

 

 

 場所を移して今度はリビングへ。何事もないように淡々と作業を繰り返すコウキに叫ぶ。もはや対等な関係どうこういっている場合じゃない。自分の持っている手札を惜しげもなくぶち撒ける段階に移った。どんな手を用いたとしても、目の前の彼を繋ぎ止めないと……。

 

 

「許婚の話も白紙に戻すから! 恩赦なんて生温いものはないからね!!」

 

 

「……」

 

 

「あんたの進学先、就職先にも手を回しておくから!! 人間の暮らしができると思わないことね!!」

 

 

「……」

 

 

「ッッッ!!」

 

 

 ムキになってばら撒かれたカードを向こうは容赦無くつっぱねた。いや、コウキにとってはただ眼中に入りすらしないのか、はたまた勝負のテーブルにさえついていないのかも知れない。

 

 庇護下である親の会社はちり紙以下だと宣言し、コウキの人生はお先真っ暗だと忠告してやり、私と一緒にいられなくなる条件にもピクリとも反応を示さない。打つ手なしと、しばらく後片付けする背中を悶々と睨みつけていると、コウキはリビングでの作業を終える。次に向かう先は……。

 

 

「だ、ダメ」

 

 

 声をかけると同時に扉は開かれた。望みもしない弱々しい声が飛び出す。そこは、コウキと喧嘩別れした日からいっこうに片付けられていない、私の弱みが剥き出しになった場所だ。

 

 

「……」

 

 

「やめて、コウキ。お願いだから」

 

 

 袖を引っ張りながら視界を別の場所へ移そうと、部屋から締め出そうとするが、コウキの目線は床一面に散らかった数々の思い出に固定される。コウキの私物にプレゼントは含まれるのだろうかと高速で考えは巡り、そうは思いたくないが十分考えられると、なおのこと強く体を密着させて主張を強める。

 

 見上げれば冷たい無機物でも見つめているような視線に、最悪の未来を想像した。そこでようやく、禁府ともいえるジョーカーの存在を思い出す。

 

 

「コカゲ!!」

 

 

「ッ!?」

 

 

 あれだけ無視を決め込んでいたのに、たった一言で相手の牙城を打ち破れたことで、えも言われぬ笑みが溢れる。コウキの手元が止まった。こちらの出方を伺っているようだ。

 

 思い出がたくさん詰まった物品を危機から救えたことと、一時の勝利に緩んだ頬を引き締めて、次の一手を素早く並列計算する。一度は崩れかけた優位性を再び確保すべく、行動を起こすのだ。慎重に、私のもとで未来永劫、永久永続的に縛り上げなければ。

 

 

「さっきまで言葉は全て撤回するわ……代わりに彼女の人生で償ってもらいましょうガッ!!」

 

 

 言い終わる直前、胸ぐらを掴まれベッドへ放り込まれた。舌を噛んでしまったことと、いままで守護していたはずの剣が牙を剥いたことにショックを受けたじろぐ。

 

 抵抗する時間はなかった。"なにすんのよ!! "と訴えてやろうと沈み込んだ体を起こせば、一層のこと深く沈み込んだベッドの張り付けに。飛びかかって来たコウキは今にも飛び降り自殺してしまいそうな、崖っぷちに追い詰められたような表情を浮かべながら、襟首を掴んで顔を寄せてくる。

 

 

「お願いだから。もう、僕の人生に、干渉してこないでくれ」

 

 

「……フンッ、いやに決まってるでしょ!」

 

 

「……僕がヒカリにあげたやつ、ちゃんと取ってあるんだね」

 

 

「ッ!? ……も、物置から出て来ちゃってね? どう処分するか悩んでいたところよ」

 

 

 あと数センチでキスしてしまいそうなほど近づく顔と、見方によってはベッドに押し倒されたとも解釈できるこの状況に心臓は早鐘を打つ。それはコウキが積極的に詰め寄って来てくれた嬉しさと、このまま私に危害を加えるんじゃないかとの恐怖の感情が、危ない興奮を紡ぎ出している音だ。

 

 熱を帯びたのかと思えば寒気を走らせたり、複雑な感情は言動の一貫性すら危うくさせる。ご丁寧にコウキからのプレゼントが勢揃いしていることに、若干無理のある言い訳を絞り出し回答を返せば、事態は最悪の方向に進み始めた。

 

 

「そうなんだ。……じゃあ代わりに僕が処理してあげるよ」

 

 

「え?」

 

 

 そういって胸ぐらを寄せていた手を離し、床に開け放たれたまま放置されていたアルバムの一ページを力任せに引き裂いた。

 

 

「ぁ……」

 

 

 ハラリと舞えば、ストンと落ちる。笑顔で埋め尽くされていた唯一無二の思い出は、無残にも可燃ゴミに成り下がった。アルバムから切り離された写真をコウキは遠慮なく足蹴にする。まるで、積年の恨みをいま晴らさんと息巻いているようだった。

 

 白い亀裂が走った私だけになった写真が、いま自分の置かれている現状を克明に映し出す。

 

 

「……さい」

 

 

「?」

 

 

「やめて、ください」

 

 

 プルプルと震えながら、ユラユラとベットから立ち上がる影。丁寧な口調でプライドすら大安売り。なんてことない二人の写真も、特別な瞬間の二人の写真も、私にとって見れば変えがたい宝物だ。つい最近まで見返していたであろう根拠は、開いた状態で放置されていることからお察し。余計に思い入れが強くなっているであろうアルバムの、これ以上の欠損を防ぐため下手に出る。

 

 

 ガ、ビビリ、ビ。

 

 

 返事は次のページを破く音であった。

 

 

「やめなさいっていってるでしょ!!」

 

 

 三ページ目に手を掛けたのを見て遂に堪忍ん袋の尾が切れた。次には破かんとする腕を右手で、愛おしくも痛々しい姿になったアルバムを左手で。何かの拍子に零れ落ちてしまいそうな潤んだ瞳でコウキを睨みつけ、より力を出すためなのか、悩ましくもウンウン唸りを効かせて力を振り絞ろうとする。結果は始めから知れたこと。アルバムを引き裂くはずの手は拘束を振り払うのに一度つかわれ、再びベッドへと突き飛ばして返す手で、悠々自適と力いっぱいに破り捨る。

 

 

 ストン

 

 

 ベッドに沈み込んだ振動で、ボヤけていた視界は和らぐ。ツーと線を引く液体に手を伸ばし、ネバネバと指に絡みつく感覚にしばしの現実逃避。あれ? と首を傾げ、なんで泣いてるの? と他人事のように考えたが最後、こんな弱くて脆い虚構の存在を覆い隠そうと顔を両手で覆い、スンスンと静かに泣き出すのだった。

 

 真っ暗になった視界でも、部屋で暴れ回る何者かの姿がコンコンと心臓を突く。少しでもダメージを和らげようと硬く閉ざしていた視界に変わり、今度は耳を塞いで平静を装うが、断発的に鳴り響く音のレパートリーに苦しげに嗚咽を紛らせるのだった。

 

 

 

 

 

 永遠とも取れる地獄のような責め苦はようやく止んだ頃。音が止み、赤く腫らしたまなこをゆっくり開けたヒカリは、部屋いっぱいを満たしていた思い出が跡形もなく消え去っている惨状を見て言葉を失う。ボーとなにもない床を見つめ、疲れたように目頭を擦った。

 

 

「これで全部?」

 

 

見ればわかるでしょ……」

 

 

 空箱となった白いチェストを覗き込んで、さもありげに思い出を処分しにかかる。セキュリティーをかけずに部屋を放置していた自業自得に変わりはないが、この気迫ならばチェストを破壊してでもこじ開けに来ただろうな、と妙に客観的意見が頭に浮かんだ。

 

 コウキはここも用済みかとチェストを閉じ、振り返って次の場所に移ろうと回る背中を途中で止める。視線は、机へと向いていた。

 

 

「あの本は?」

 

 

「……ヒッ!?」

 

 

 絵本に近づくコウキを確認して、ナイフを喉元に突きつけられた気分だった。もうとっくに処理されているものと思い込んでいた物品は、辛くも残酷にもいまの今まで生き残り、その御神体をいつもの背景に溶け込ませている。しかし、気まぐれな運命イタズラはいつだって残酷で、背けられない現実をヒカリの眼前で破裂させることを望んでいるようだ。

 

 

 ワナワナと震える手で本を守ろうと手を伸ばす。そんなもの無駄だとわかっているのに、わざわざ自分の無力さを実感したいがためとも取られかねない無様な行動を取らずにはいられなかった。黒歴史を直視するように痛々しい表情で表紙を眺めるコウキ。二人の思い出を汚しかねないそんな視線を遮ろうと、叫ぶ。

 

 

「もういいでしょ!? 嫌がらせのつもりなら十分果たしたじゃん!! これ以上私をいじめて何が楽しいの!?」

 

 

「……少なくとも、ヒカリは好き放題振る舞ってて楽しそうだったよ?」

 

 

「楽しい訳ないじゃん!! 毎日毎日コウキのことで頭がいっぱいで不安だったんだよ!?」

 

 

「……一度でも僕に相談してくれたことあった?」

 

 

「だって、そんなこと……」

 

 

 いつもの尊大な態度はいずこに。ただただ体を縮こまらせて、怯えたように震えた私は、一体どんな目で見られているのだろう。

 

 強欲な女だと思われているのだろうか。意固地な奴だと思われているのだろうか。高慢ちきな自己中人間だと思われているのだろうか。気が付くキッカケさえあれば、私のことを嫌いになる要素が積み上がっていることに理解が及び、吐きそうになる。彼だけは、コウキだけは特別なんだと、終始甘えることしか考えてなかったんだ。

 

 

「これは……預かっておくよ」

 

 

「い、いや。返して」

 

 

 飛びつきたくなる衝動を堪え、その場に歯がみして止まる。力ずくではさっきと同じ結果になるだけ。だが、手をこまねいているとコウキも何もかも私という存在から引き剥がされてしまう。

 

 私が生きる人生の、ほとんどの意味を失っちゃう……。それだけは、それだけはなんとしても避けなければ。罪悪感で繋ぎ止めよう。自分にも責任があったと自覚してくれれば、きっとまた笑顔でスタートを切れるはずだから。自分のことを一旦棚に上げ、それらしい言い訳で鎖を繋ぐ。

 

 

「だったらコウキだっておかしいよ! どうして怒らなかったの!? コウキがいってくれないから、てっきり私の気持ちを察してくれているとばかり……」

 

 

「うん、そうだね。僕も悪かったんだと思う」

 

 

「そ、そうよ。どっちもいけなかったのよね!?」

 

 

「だからさ、双方に非があったってことだからさ……。もう僕たちの関係は終わりにして、また真っ新な状態からそれぞれの人生を生きようよ」

 

 

「は?」

 

 

 この流れは仲直りする流れだろうが。どうしてそんな理論がまかり通る? なんで安易にリセットボタンに手を伸ばすの? 私たちは両思いのはず。なのになんで離れないといけないわけ? 何が気にくわないの? 私が生意気だから? だからコウキが望むなら直すって言ってんじゃん。

 

 

「私もコウキのこと好きなんだよ? コウキも私のことが大好き。だったら離れるなんておかしいじゃん」

 

 

「……もう終わったんだよ、ヒカリ」

 

 

「終わってない! 終わってないの!! どうしてそんな酷いこと言えるの!? あの芋女にそう言えって命令されたんでしょ? ねぇそうなんでしょ!? そうっていってよお願いだから!!」

 

 

「何もかも手遅れなんだよ、どうしようもない」

 

 

「わかった! アイツが邪魔なんでしょ!? 大丈夫だよコウキ、変なちょっかい出してきたら私が絞めといてあげるから。コウキは何も心配しなくて良いんだよ?」

 

 

「……人の話聞いてる?」

 

 

 コウキが悲しい目で見つめる先には、過去の思い出に浸り続ける懐古主義者が一人。人の話を聞こうともしないで、譫言のように耳障りの良い言葉を吐き出して、彼女は過去の世界の囚人と成り果てていた。

 

 もう、この状態になってしまったら、自分の都合の良いところしか聞こえないし切り取らない。湧き出てきた感情は怒りだ。ただ純粋な怒りの感情が再燃し始めていた。この聞かん坊に今まで惚れていた事実に対して、このわからずやに人生の多くの期間を捧げていたことに対して。憐むような感情は波引き、顔をだした砂浜は真っ赤に燃え盛っていた。

 

 これからコウキが取る行動は、なにも過去の人と成り果てたヒカリを解放してやろうと言った親切心によるものでは断じてない。むしろその逆、忌々しい魔女を火炙りにして狂乱するような、完璧な排他的行動を指すものであった。禍々しい過去の失敗を今すぐにでも消し去りたい衝動に駆られ、寝室を後にする。

 

 

「まっ、待ちなさいコウキ! 待ちなさいって言ってんの!?」

 

 

 何も言わずに部屋を飛び出したコウキの後を追いすがる。が、その行き先は別れを告げる玄関ではなく、生活の中心となるリビングであった。不審に思いながらも、安堵で息を整えるヒカリは耳にする。

 

 

 チチチチチチッカ

 

 

 その音が何か理解するのに時間は要らなかった。

 

 

「いやぁ────────────!!」

 

 

 コウキは少し混じり楽しそうに顔を緩めながら、本の角を青い炎に突っ込む。絶叫しながら取り上げようとヒカリは飛びつく。その猪突猛進ぶりに燻り始めた本を振り上げ、取り戻そうと天高く一点に直立したヒカリの細腕を掴み上げた。

 

 表紙の端が黒ずんでいることに涙を浮かべながら、嗜虐心をくすぐる怯えた顔を眼下にして、最後の辞世の句でも引き出そうかなぁと、本を炙り出しのように表裏を炎で撫でてみた。

 

 

「イッグ、やべでぐだざい! ウッだいぜつなだがらものだんです! がえじてぐだざい」

 

 

「? 炙るのやめろって?」

 

 

 本を左右に行き来させる動きを止め、炎の温度がもっとも高い中央に本を密着させた。ヒカリの反応は薄い。ショックが大きすぎて、目の前の情報を無意識のうちにシャットアウトしているのかもしれない。

 

 紙だからといって、束になった本はすぐさま火球になることはなく。ほどなくして、十分な温度となったエネルギーを取り込んで火は勢いよく燃え上がった。半分ほどを食い、表紙が溶けて隔たっていく時間はみるみるうちに感覚を狭める。

 

 炎は有史以来、天敵から身を守るセーフゾーンの役割やエネルギー効率を上げる"焼く"調理方法の確立、また人の生存圏を劇的に広げた暖としての役割など様々な革命をもたらした。

 

 普段なら調理がメインのため意識して拝むことすら少ないが、コウキが本を完全に解読不能と判断する短い間、青とオレンジの共演はキャンプファイヤーの様相を呈し、ただ炎の魅力に引き込まれたコウキと、放心状態でただ見ているだけのヒカリという構図を作り出す。

 

 後の祭りとなり、ヒカリの領内に自分の私物が消え去ったことに満足しながら、コウキは呪縛からの解放を肌で感じているのだった。……いまだべったりひっつくヒカリといえば、現実逃避するようにコウキにすっかり体重あずけ、"の"の字を書きながらへへへと笑っていた。

 

 心ここにあらずのヒカリをソファーに放置し、これでもう自分に執着することはないだろうとホッと一息つく。

 

 

「……じゃ、元気で」

 

 

 まゆをかえして立ち去ろうとする袖口は、あらんかぎりの力を込めて引っ張り留められた。

 

 

「お、お願いします。見捨てないでくださぃ……」

 

 

「新しい彼氏さんいなかった? その人に慰めてもらったほうがいいんじゃない?」

 

 

「コ、コウキだけなんです。本当はコウキが嫉妬してくれるのを待ってたんです。後にも先にも私の恋人はコウキだけなんですぅ……」

 

 

「そんな大袈裟な……」

 

 

「大袈裟なんかじゃない!! コウキはどんな時でも優しくて、誰よりも私のことを考えてくれて、強くて勇敢でカッコよくて、好きって言われるたびに天にも登る気持ちになるし、それからそれからそれからぁ……」

 

 

「……」

 

 

「待って!! 行かないで下さい!! なんでもします! それくらいコウキのことが好きなんです!! どうか、どうか、行かないで下さい! お願いします、私を置いていかないでぇ……」

 

 

「……」

 

 

 拝むようにせがむように、太腿に抱きついて汚い体液を擦り付けながら、ひたすら独白と懺悔を続けるヒカリ。あきらめの悪いその態度にもはや感心すら抱くようになったが最後、コウキは今までの趣向返しと、永遠に解けないパズルを投げ渡す。

 

 

「あっ、ヒカリが僕の周りを貶めるような行動をとったその瞬間、永久にヒカリのこと嫌いになるから……。それじゃあ、さよなら」

 

 

 手のひらからするりと抜ける感覚は、今度こそヒカリを思考停止へと追いやった。

 

 

 ──────

 ────────────

 ──────────────────────

 

 

 コウキのいない毎日がこんなに空虚だったなんて……。

 

 もともと殺風景だった部屋は、風通しをよりよくして。ベッドに死体のように横たわるヒカリは、わずかな栄養で働く頭でそんなことを考えていた。あれから、しばらく日はたったが喉はろくに食べ物を通さず、ねじまき人形の大事なネジ部分を無くしたように致命的状況が続いているのだった。

 

 今にも死にそうな体には、早急な救いの手が伸ばされるべきだが、ヒカリが望む勇者はこの世にたった一人しかいない。

 

 

「コウキ……」

 

 

 いるはずもない守護者の名前は無意識に。唯一ヒカリに残された思い出を引っ張り出して自分を慰める。なんて惨めな行為なんだ。けれど、これをしていないとこのまま世界に溶けてしまいそうなほどの無気力感に蝕まれるのだから仕方がない。

 

 学校を体調不良を理由に休みっぱなしで、この言い訳もいつまで続くことやら……。もうすでに学校から親へ連絡が入っているかもしれない。どうしよう……転校にでもなったら。

 

 頭をよぎるのはそのことばかり。このままウジウジしていたら、もう二度とコウキとは会えないかもしれない。でもあんな明確な拒否反応を見せつけられて、どんな顔をしてコウキに近づいたらいいのかの答えが出ずに、両者の板挟みの中でなすすべなく時間を浪費を繰り返すのだった。

 

 もう、まともにコウキは相手してくれないかもしれない。それならせめて、遠くからでもコウキの姿をこの目に焼き付けたい。そんな気持ちでなんとか残されたエネルギーを駆使してユラリユラユラと起立して、闇夜に漂う蛾類のようにただただ力なく学校に引き寄せられていくのであった。

 

 

 

 

 

 キーン コーン カーン コーン

 

 合間合間を告げるチャイムに疎外感を食った。本来なら学校に幽閉されているであろう時間帯、フラフラとした所作にどことなく世間の目が突き刺さる錯覚をおぼえた。それが可愛いではなく美人の分類で、含有に顔面蒼白の記載があれば、奇異の視線はおのずと強く。

 

 息も絶え絶え、ようやくたどり着いた校門前。不幸にも、現在は長針と短針がテッペンで折り重なるフリーダム。拘束を外れた学生や社会人が機械的に人気を増すような、社会からそれた異端者を排斥するような時間帯。無用心にも、またオープンにも、親切にも開け放たれた正門の前で一巡二巡。不自然な行動は、図らずとも人々の視界に映り込んでしまう。

 

 

「キミ、大丈夫かい?」

 

 

「は、はい……お気遣いなく」

 

 

 同族を見つけた喜びなのか、青白い顔と薄気味悪い笑顔のダブルコンボで、寄れたスーツ姿の男が語りかける。客観的に見て、今の自分が回りからどう思われているのか嫌でも理解せざるおえないヒカリは、明らかに自分に向けての言葉に退路を塞がれた。誰だ、お前。

 

 

 

 慣れない作り笑いを浮かべながら、脳内に走るのは疑問の数々。なんで私が下手に出ないといけないんだ。なんで私が気を遣わないといけないんだ。なんで私がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。そして……なんでコウキは私のそばにいてくれないんだ。

 

 四肢を頬擦りして舐め回すような視線が気持ち悪い。イットキの紋所も、そもそも知識としてなければ単なるコケ脅し。いつもなら私を背に預けてくれるナイト様がいないからか、遮るもののない直線的視線は、白昼堂々と犯行が行われてしまう恐怖を与えた。

 

 やんわりとした拒絶は伝わっているはずなのに、小汚い男から伸びる腕に小さく悲鳴を上げる。自分ではどうすること出来ない無力感に蝕まれ、苛まれ、刻まれて。コウキという名のピースで埋めてはじめて完成するヒカリは、戸惑っていたはずの校門を頼りに飛び込むのだった。

 

 

 人目を避けるように影から影へ。そこには、肩で風を切って胸を張って自尊心で体を満たしていたヒカリの姿はなかった。本校の生徒なら一度は話題にあげるような注目の的。男子なら一度は彼女にするような妄想に駆られ、女子ならばその財力学力容姿振る舞いのいずれか全てか、憧れかはたまた嫉妬を抱く。学校内ならば知らない人はいないであろう誰かが、豹変したヒカリの姿を見て、二度見して、ギョッとして、口を閉ざして。

 

 もはや彼女は、彼らの知ってたるヒカリではなかった。いや、これがコウキを欠いたヒカリ本来の姿なのかもしれない。目耳にしてしまう、明らかに自分を題材にしたおしゃべりは、弱り切ったヒカリの弱い心臓を突く痛ぶる。目立ちたくなくとも、ミソッカスと成り下がっても人を引きつけ率いるカリスマ性は健在なのか、本人が望まなくとも人の目を集めてしまえば、為す術なく俯くしかなかった。

 

 それでもコウキを探して歩みを止めないのは、自分の半身とも形容しがたいコウキの姿を一眼拝みたい気持ちが強くなる一方だったから。ポッカリ開いた心の隙間を、コウキならば、コウキならきっと埋めてくれるという楽観的思考で自分を奮い立たせた。

 

 コウキの姿をほんの一瞬、ちょっとキリリとした真面目な顔を見たり、少し声を聞いたり、ちょっぴり心配されたり。ここまで相当のエネルギーを消費したから、しっかり充電して帰りも私を保っていられるようにしたかった。それだけでよかった。それ以外は高望みしなかった。だから……なんとなく一人ぼっちのコウキの姿を遠くから眺めるのが理想系で、あわよくばなんて、そんな流暢な事を考えられないくらいに追い詰められていた。

 

 そこに、ひときわ光を帯びている後ろ姿があった。見間違えるはずもない。私のよく知ってたる、いま私がもっとも待ち望んでいたナイト様の背中だ。植え込みにしゃがんで、ただただ目の前の報酬に集中する。木陰のベンチに座り、チラリと除いた横顔が、呼吸を荒く激しく頻りにさせる。

 

 表情は久々に緩み、トロリとメスの顔になり、涎が出そうになるのをすんででジュルリ。その距離10M。いつもの調子で声をかければ、決して届かない距離ではない。

 

 そんなどうしようもない久々のリアルが私の思考をかき乱して、狂乱させて、興奮させて。今すぐにでも、あぁ……コウキ、友達も出来ずに一人寂しく昼食なんて可愛そう。私が後ろから抱きしめてあげて、一緒に昼食をとってあげればコウキも喜ぶよね? またよりを戻して前よりもっと親密になれるよね?

 

 ガサガサとゆっくり小枝をかき分けながら、コウキへと伸ばした手は震えていた。近付こうとした動きは、視界に飛び込んで来てしまった忌々しい女のせいで中断される。

 

 

「ングッ」

 

 

 強力な結界が発動したように茂みに体を再び埋め、せっかくの機会を削がれたことに一方的に相手を睨みつけた。駆け寄った二人が慎ましく会話していることに内心ひどく怒りながら、それでもコウキの声を聞くチャンスだと耳をそばだてる。

 

 念力集中、二人の会話を聞き取るだけに意識を働かせ、ようやく耳にした内容はハンマーで後頭部をかち割られるようなデートの話題。コウキが主導する、放課後デートのお誘いであった。

 

 羨ましい。今まで数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどにデートを繰り返してきた私達だったが、いつしかコウキから誘われる機会はさっぱりなくなってしまった。

 

 

(私達二人だけの思い出なのに……)

 

 

 唯一の心の支え、脳内メモリーにすら汚染が広がるのに耐えかねて口元を押さえて、わずかばかりに口に含んだ朝食はドロドロの溜飲食となって口から出力された。制服へとハネて飛んで、ヒカリの現状を嘲笑うかのような不幸はトドメとばかりに心を抉る。

 

 それでもコウキから栄養を受け取りたいと、テニス審判台の主人がボールを追うように、発言者から発言者へと止めどなく目を釘付けに。視線の先に伸び伸びと、日光を精一杯浴びて栄養を独り占めするあの女に嫉妬の嵐が鳴り止まない。

 

 あいつの皮を剥いで、あいつに成り代わって存分に、余すことなくコウキに甘えたい。メガネをかけたら愛してくれるだろうか? 優しく語りかければ好きになってくれるだろうか? ちょっとイタズラっぽく接すれば笑ってくれるのだろうか? 

 

 料理がヘタになればあの髪型ならこの場所で会話すれば図書委員になれば彼女に成り代わったら、コウキは私を愛してくれるのだろうか? 

 

 そんな込み入った空想に浸っていると、胸を撃ち抜かれる。幼い頃、当たり前のように目の当たりにしていた、私に向けられていたはずの無邪気な笑顔が覗く彼の柔らかい目。チラリと横顔が、ベンチに燦然と輝いて見えた。

 

 

 いいな、いいな、いいな、いいな。もう一回。近くで、もう一回だけ見せて? 今度は私に笑いかけて? 今にも崩れ落ちてしまいそうな、こんなボロボロの私を救って? 救い出して? 私しか見ないで? 私だけ愛して? 神様、どうかお願いします。お願いです。わたしを、私を世界で一人きりにしないで……。

 

 

 

 

 

 夕日を人知れず隠せば、変わって月が夜番をこなす。小さく灯った街の光も、一斉に咲けば宇宙すら霞ませる。暑かろう寒かろか所構わず体温を通わせ、人気のない空間一つありさえすれば、たった二人の世界は出来上がる。メインステージには、長いこと会話のない両者の間。下座の舞台袖には、満身創痍の凝滞で今にも卒倒しそうなストーカーの姿。

 

 

 沈黙はステージで破られる。決心したように肩を掴んで向き合って、恐らく甘い言葉の二、三が交わされ、ハッピーエンドとばかりに唇は重なった。自分をメインヒロインだと信じて疑わないヒカリは、そのあまりに残酷な幕引きに、一刻も早く飛び出して、豚女を突き飛ばして、汚されたナイト様の唇を本当の運命で上書きしたい衝動に駆られる。

 

 でも……コウキに嫌われたくない。もうコウキに冷たい目でみられたくない。はじめてあった時のような、純粋な瞳を向けてほしい。だから、だから、だから、だから、だから……。

 

 

 狂おしいほどの愛欲の炎に身を焼かれ続ける。いま一度その欲望が爆発してしまえば、もう関係性の修復なんて一生見込めない。残酷にも好物を眼前でチラつかせながら「待て」を言いつけられている子犬のように、コウキへの信頼を示し続け和解への道を待ち続けるのか、それとも今にもむしゃぶりつきたい欲望をとるかの狭間で永遠に弄ばれる。

 

 一度口にしてしまえば、もっともっとと欲しくなる海難先の海水のように凶悪な依存性。物語の結末が気に入らない子供を、数百倍ひどく濃く仕上げたような愚図りは、ついに記憶の混濁をも許容し始める。体がこれ以上は不味いとヒカリの都合のいい世界へと改竄を図る。ヒカリ自身が見捨てられる前の、まだやり直せるはずの世界に彼女だけ帰る。

 

 何かのスイッチが入る音がした。

 

 

 ──────

 ────────────

 ──────────────────────

 

 

 ついさっきまでの出来事を思い返し、唇に軽く手を触れ、おもわずクスリと恥ずかしさを笑みに隠す。ジャケットをハンガーにかけながら、コウキは世界はこんなにも色づいていたのだろうかと幸せな気分に浸っていた。

 

 ブルリと震えたスマホを取り出し、コカゲからのメッセージに小躍りしそうな勢いで嬉しくなって画面をタップする間際、玄関の戸が叩かれた。

 

 ……こんな時間に誰だろうか。身に覚えのない来客にしばし考えをめぐらせていると、ドンドンと短い間隔のノックに混じって、誰かの声が混じって聞こえる。

 

 

「ねーコウキーいるんでしょー、ここ開けてよー」

 

 

 ……聞き違えるなんてあり得ない。つい先日に縁を切ったはずの彼女が、この扉を挟んだ先で待ち構えていた。帰宅して直後の現状とその口ぶりから、確実に後をつけられていたという恐ろしい事実が浮かび上がってくる。

 

 なんで? どうしてまた? 一体何がしたい? 恐怖心で体は動かず、変わって脳みそばかりが回転を早くして。扉が絶えず震え続けていることに、思わず鍵が掛かっているかの確認をするほどであった。

 

 黙したまま、ただ時間ばかりが過ぎていく。居留守を使ったところで帰ってくれるわけもないのに、こんな時どんな行動をとったらいいのか分からず、だんだん大きくなってくる彼女の独り言とノック激しさに玄関から一歩身を引いた。

 

 

「私のことを見捨てるなこのクズ人間!! いままで散々尽くしてあげたのに!! 人の気持ちを踏み躙っておいて!! お前に人の心はないのか!! 聞いてるの!? おい、コウキ!! ここを開けろ!!」

 

 

 近所迷惑も厭わないヒステリックな叫び声が。

 

 体当たりする音が。

 

 ひたすら動くレバーが。

 

 僕の思考判断を鈍らしていく。

 

 何を思ったのだろう、気がつけば玄関のロックを外している自分がいた。近所の目が恥ずかしかったとか、親に連絡が行くのが怖かったのだとか、自分がなんとかしなきゃと思ったのか。とにかく、その時の自分は玄関を開け放つことが何よりの最善策に見えてしまった。

 

 

「コウキ♡」

 

 

 酷く沈んだ目をしながら、興奮したように頬を赤く染める顔の近くには、包丁が掲げられていた。咄嗟に扉を閉めようとする動きは、凶器が突きつけられて血を見てしまったことで反射的に手を引っ込め、彼女の侵入を許してしまう。もはや警察沙汰なのは明らかだ。

 

 当てられる普通じゃない形相を前にして、反撃する気は失せただ恐怖が後退を指示する。こんな狭いアパートの逃げ場など、あっという間に姿を消し去る。背後を壁に阻まれるまで後退りして、ようやく次の指示を下せるようになる。

 

 一瞬、助けを呼ぼうと叫ぶ選択肢が覗く。が、興奮した加害者に血塗れにされる未来しか想像できず、選択肢は消滅。フッと包丁が首筋を撫でる。身じろぎすら許さず息を呑む。

 

 

「あぁ、すごくすごく寂しかった」

 

 

 挨拶のように接吻をかまされた。相手のことを微塵も考えていないような欲に塗れたその行為は、勢いのあまり彼女の歯と唇が衝突する。鉄の味が口内に滲み出た。構わず滲んだ血を堪能するかのように二度、三度。数えるのもあやふやになるように酸素を奪われる。凶暴な肉食獣が獲物を貪るような荒々しさ。視線は変わらず刃物を映す。

 

 酸素不足で鈍くなりゆく思考のさなか、考えることはいかにしてこの場を収めるか。気の触れた彼女をこれ以上刺激せず、穏便にすませるような未熟な知恵を絞りに絞った。首筋に冷たい感触が生まれる。

 

 

「私のこと好きっていって」

 

 

「???」

 

 

「早く言えよ」

 

 

 鋭い衝撃が走った。たとえ頭がおかしくなってしまったとしても、どこか彼女のことを信頼していた自分がいた。それゆえに、脇腹に突き刺さった異物を見て、本当の意味で恐怖が始まった。

 

 

「へへ、すごく痛そう。でもコウキが全部悪いんだよ?」

 

 

「かぁ、あかぁ」

 

 

 法律だとか倫理だとかの枠を超えてやってきた。テレビ上の、遠い世界の出来事が、ただ目の前で起きただけなんだ。スーツを着こなした穏健派が次の瞬間にはひっくり返って玄関口を目指す。

 

 しかし、致命傷を受けた重荷の身には途方もない道。夢に見たあの日のように出口が伸びて、歪んで、失速して。目覚めるまで終わらない悪夢のよう。脇腹を抑え、血を滴らせながら、背後からは優雅な気配が迫る。トイレに駆け込む以外、打開策はなかった。

 

 今のご時世に洋式便所、完全な個室だ。暗闇へ降っていく下水道は、どうしようもなく救いのような出口と錯覚してしまう。脇腹を差す鋭い痛みが、止めどなく滴る血を鮮明に意識させた。

 

 僕は……ここで、死ぬのだろうか。ようやく、まともな日常を送れると安堵していたのに。せっかく、クラスのみんなと仲良くなれたのに。やっと、コカゲと恋仲になれたのに。こんなに、呆気なく、終わっちゃうんだ。なんだか、悲しいな……。

 

 まだなにも成し遂げられていない自分がいることに気が付き啜り泣く。減りつづけている血でなんとか酸素を届けようと、汚物の匂いを忙しなく口に取り込みながら、過去の呪縛に未だ縛られている意識を……意識が……。

 

 

 ──────

 ────────────

 ──────────────────────

 

 

 電子音で目を覚ます。見覚えのない天井、点滴が腕まで伸び、リネンの肌触りでようやくここが病院だと理解した。

 

 広い。九、十人ほどがベッドに横たわれるほどのスペースに、出口から離れる中心に豪勢にドカンとベットが居座り、そこに心電図に繋がれた僕がいた。

 

 ホテルのスイートルームのようだが、流石に院内だけあってか広さの割に寛げるスペースは少ない。みなまでいわなくても、ここが値の張る病院であることは想像に難しくなく。また両親に迷惑をかけてしまったんだなと誹謗中傷気味に冷笑する。それだけ自分が重体の身であったのだろうと予測が立てば……そうだ、早くみんなを安心させなきゃ。

 

 点滴スタンドに手を伸ばし、立ち上がろうと下半身に力を込めた瞬間、思い出したかのように痛みが走った。腹の奥底が燃えるような鈍痛に、たまらずに脇腹を押さえ込みながら床に落下する、妙な違和感を実感する。あれ……この傷……。その後すぐに、入室してきた看護師に助け起こされることで事無きを得た。

 

 

 

 

 

 ベッドに戻りしばらくして出迎えてくれたのは、白衣を慌ただしく着こなした先生と、先程の看護師の二人だった。体の様子を尋ねられ、座っていいかね? と尋ねたのはおそらく僕の担当医でいいのだろうか。

 

 看護師が小脇に抱えていたカルテを受け取って、どっこいしょっと緩慢に腰掛けると、問診が始まる。繰り出される質問に時折考え込みながらも答えていくと、先生の顔がだんだんとクシャついてくる。

 

 

「えーと、タセツナさん。すでに気がついているかもしれませんが一応ご説明しておきます。外傷の手術は無事成功しました、ただ。……単刀直入に、記憶障害です。ケガによるショックで、関連性のある情報に体がロックをかけているかもしれません。今の段階ですとどの程度か把握しかねますが、これは人間が手にしている正当な防衛手段ですので、何も心配は要りませんよ?」

 

 

「はぁ、はい……」

 

 

 薄々と、病院に来る前の記憶がないことからある程度の予想はしていた。けれど先生が気を遣っていてくれている割に、僕にショックの四文字は、いや一文字たりとも浮かんではこなかった。これは単純に、なくなったことを悲しむ記憶がなくなってしまったからだろう。

 

 自分の預かりしらぬところで騒ぎが起き、そのことで後日謝罪を申し込まれて困ってしまう状況と似ている気がする。そんな当事者意識のカケラも備わっていない僕は、二人の笑顔と同情が合わさった器用な表情に、ただただ黙りこくるしかなかった。

 

 

 コンコン

 

 

「……お知り合いかな? 私達はお邪魔だろうから、ここで失礼させて貰おうかな」

 

 

「はい。ありがとうございました」

 

 

 腕時計をチラリと眺める先生に、お礼と会釈で感謝を伝えると、二人は逃げるように僕に背を向けた。出る直前、扉の向こうの人物へと深々とお辞儀。影がだんだんと伸び姿が窺えるようになる。

 

 口を閉じるのを忘れるほどに整った顔立ち。白雪が降りしきったような一点の曇りのない肌。もの虚げな吊り目に、主張の小さい鼻。溶け込むような黒の長髪は、川が流れるように艶やかだ。

 

 強烈な既視感を覚えながら、その正体がはっきりしない。消えた記憶の中に、彼女に関する記憶が混じっていたのだろうか。初めて失った記憶の重大さを知った。

 

 

「は、はじめましてになるのかな? ごめんなさい。廊下でちょっとだけ聞こえてきちゃって……。でも、元気そうで安心しちゃった」

 

 

 傷がひときわ疼き出した。

 

 




やっと捻り出した着陸先がどこか見覚えがあった。

んで、ちょっくら調べてみる。

はい、イチゴオーレ。

これが本当のビターエンドってな。



今作の振り返り
https://www.ookinakagi.com/longing-for-the-past/
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総合評価:3127/評価:8.48/連載:55話/更新日時:2026年05月07日(木) 22:00 小説情報


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