「ねえ、テストで一位取って」
唐突だった。
親同士のよしみで、良いところの学校に入れてもらって暫くの出来事であった。入学して最初に行われた中間テストで、同クラスで男子の学年最高点が出て、それをキャアキャアはやし立てる女子を見てからの、命令だった。
「わ、わかった。出来るだけ頑張ってみる」
「頑張るとかじゃなくて、ちゃんと結果を出して。学年最高得点は私がいるからそこまで言わないけど、男子の中での一位を目指しなさい」
ピシッと伸ばされた人差し指が、僕の鼻先をかすめる。白くて細い指先は、まるで氷柱のように冷たい空気を発しており、逆らったら氷像にされる錯覚すら覚えた。それが嫌ならコクコクと、車に取り付ける首振り人形みたいに頭を揺らす。
「それで? 今回のコウキの順位は何位だったの?」
「……し、下から数えた方が早いかな」
「濁さずに見せなさい」
ハードルを下げてもらおうとした目論見は失敗に終わった。全教科の点数が刻み込まれたプリントを献上して、それをヒカリは流し目で見てみる。
「ふーん。コウキあんた手抜きしてるわけじゃないのよね?」
「そんなまさか!? ヒカリの顔に泥を塗るなんて恥ずかしくてできないよ」
「……まぁいいわ。次の期末試験でその発言が嘘か誠かわかるわけだから」
「学年一位の私が直々に教えてあげるんだから、感謝しなさいよ?」
そういって心底楽しそうに顔を綻ばせる彼女を見ていると、不安に押し潰されそうになるが、同時に彼女の期待に応えたいとする気持ちの方が当時は勝っていた。
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「またヒカリさんとタセツナでツートップかー……。やっぱり頭の出来が違うんだろうな〜」
テストが返却された教室での一幕。このクラスの最大派閥が、教室の隅一ヶ所にたむろする。昼休みなのも相まって皆お弁当を広げるなか、等のヒカリは何も出さずに何かを待っている。
「二人ともすごいよね。やっぱり二人で勉強会とか開いてるんですか?」
「コウキがどうしてもってお願いしてくるんだから、仕方なくね」
「てか、タセツナが勉強できること自体意外なんですけど」
「あ、わかる〜。頭のおかしな行動とってるのに、こういうのをギャップ萌え? っていうんだっけ?」
「え〜でもヒカリさんの操り人形みたいで気持ち悪いんだよね〜」
瞬間、空気が凍った。青ざめる面々の中で一際絶対零度を放つヒカリは、まるで自分自身が侮蔑されたかのような視線を失言者に送った。
「……あんまりコウキをいじめないであげて? 私が遊べなくなっちゃうから」
「は、はい。ヒカリさん、ごめんなさい……」
「もーそんな必死に謝らないでよー。まるで私が悪者みたいじゃーん」
「……」
ケラケラと笑うヒカリに言葉を失う面々。それに気がついているのかいないのか、本人は溢れ出る不快感を周囲に振りまいていた。
「ヒカリ、ジュース買ってきたよ」
そこにグループに不釣り合いな男子の声。両手に自販機の戦利品を手にし、その片方をヒカリへと差し出す。
「ん、ありがとう」
受け取った当人は、手早くストローを紙パックに差し込んで、味見をする。新発売のライチandオレンジ。好みの別れそうな表題に、果たして彼女の舌に合うのだろうか。
「味の方は?」
「……ライチとオレンジがまったりしてて、不味い。ん」
一周期だけ飲んだ紙パックを、コウキへ差し出す。それになんの疑問も抱かないまま、コウキは自分が飲んでいたお茶を差し出した。間接キスだなんて興奮していた時の気持ちなんて、もうとっくに忘れている。
「……」
その光景を沈黙で見守る取り巻きは、仲良く二人して離れていく背中に何も言えないでいた。
「味はどう?」
「うん、よく食べ慣れた味だ。美味しいよ」
「……あのさぁ、もっと情報ないの? いつもそればっかりだと、段々料理に自信がなくなってくるから……」
「そんなこといわれても……」
一つの机を共有して、額を近づけるように会話する二人はヒカリが作った弁当を広げ、小さな会食を催す。
どこにでもあるような平凡な、卵・唐揚げ・金平ゴボウ・プチトマト・茹でたブロッコリー。そして混ぜご飯が入ったメニューの顔ぶれに対し、味はもう絶品で、それを食べ慣れた味で表すのは別に手抜きをしているわけでは決してない。
けれども、別の感想を彼女が望んでいるのなら、もっとうまい言葉を捻り出さないといけない。箸先の唐揚げをじっと見つめて、何か言おうと口を開きかけた動きを、ヒカリの言葉が遮った。
「あ、今日頼んでた本の入荷日だから、放課後変わりに受け取ってきて?」
「……わかった」
出掛かった言葉とともに、この唐揚げを咀嚼した。
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「コカゲさん、予約しておいた本ってあります?」
「うん、バックヤードにあるから。ちょっと席外すね?」
学校の図書館は、その需要に似合わずに沢山の書物を蓄えていた。
若者の活字離れが加速していると呼ばれているが、ただ単に紙の本を見るのが減っただけで、学生はスマホなどを通して画面上の活字に触れ合っている。
そんな流れの中、コウキの主人は大の本マニアで、よく図書室に"お使い"に行かされる。デバイスで本を読まずに紙の本を読むのは彼女なりのこだわりのようで、購入しないでわざわざ図書館で借りるのも、「本に部屋を占拠されたくないから」といった理由のようだ。
「はい。名義はイットキさんでいいかな?」
「お願いします」
「またお使い?」
「うん、お昼休みに言われたから……コカゲさんは今日当番だったんだ」
「担当の子が体調崩しちゃったみたいで、それで私が代わりに……」
「テストの結果はどうだった?」
「あ! 聞いてよタセツナくん。わたし数学の順位あがったんだよ!」
「それはすごいや、今度お祝いしなくちゃね?」
「気持ちは嬉しいけど、タセツナくん忙しいでしょ? 無理しないでいいよ?」
メガネをズレを直して、パソコンにデータを打ち込むコカゲさん。日々の緊張を涼ませてくれるような、そんな不思議な魅力に思わず頬が綻ぶ。気遣いの言葉に慣れていないせいか、彼女のありきたりな言葉が妙に嬉しい。
「はい。一週間後の来週の金曜日に返却してください」
「じゃ、また今度」
そうやって名残惜しげに手を振ると、にっこり笑って手を振り返してくれる。今日は久々に運がいいなとカウンターを離れ、図書室を退出しようと扉を開けると……。
「へーずいぶん楽しそうに話してたね」
……つい先日指摘されたばかりなのに、楽しげに会話しているところをヒカリに見られた。彼女の表情は笑っているはずなのに、目の奥はなんだかドス黒い感情で、着色しているみたいに真っ黒だった。
思わず手に持った本を抱き寄せてしまう。その姿をクスクスと笑ったヒカリは、おもむろに肩を掴んで耳元に顔を近づける。
「コウキ……あんたテスト期間中、一人で集中したいってどっかに消えてたけど、まさかあの子の面倒見てたわけじゃないよね?」
沈黙は肯定とみなす。決定的現場を抑えられているせいで、黙っていては不味いと理解しているはずなのに、息を呑まずにはいられなかった。
「呆れた。そんな余裕あるんだったら学年一位とってみなさいよ」
まだまだ余力があったことを悟ったヒカリは、自分が騙されていたのだと腹を立てる。それもどことも知らない馬の骨に、自分の所有物をいじくりまわされていたことが不快で仕方がない。彼女が次の鎖を繋ぐ。
「次のテストでは私を負かす気で来なさい。いいわね?」
実質、コカゲとの絶縁宣言に等しい命令だった。