「はい、お手」
当時仲良くしていた女友達と喋っていると、ヒカリはまるで挨拶するかのようにその口火を切る。目が笑っていない。慌てるように利き腕を差し出した。
「ワン」
「?」
「鳴け、ほら。ワン」
「わ、ワン」
一連のやり取りが終わると、さっきまでの表情が嘘みたいに破顔して、両手で頭を撫で回してくる。
「グッボーイ! グッボーイ!」
しっかりと目線を合わせて、それはもう恥ずかしいほどに褒めてくれる。顔を赤く染めて、髪をわしゃわしゃされるのを、女友達は苦笑いで見つめていた。横目でその事実を確認しながら、けれども振り切ることも出来ずに手をこまねく。
後で知ったことだが、気まぐれのように繰り返されることとなるこの行動は、軍隊でいうところの返事みたいなものだ。ヨーソローとか、サーイエッサーとか、レンジャーみたいな。ちゃんと話を理解しているか? 私の命令に従えるのか? その確認のために、僕はこうやって意思表示をさせられる。
「どうぞ? つづけて?」
さっきまでのことをなかったことにするように、黙って見ていた女友達にヒカリはそういう。その表情は、コウキのとなりには誰が相応しいかの、強欲を誇示するような汚い感情が見え隠れしていた。
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「はい、お手」
「……ワン」
図書室の前で、奇妙な返事をする。利き手には本を抱えていたため、反対の手でヒカリの希望に応える。図書室の中にいるコカゲに聞こえないように、いつもより気持ち小さな声で返事した。一瞬、不味いことをしたのではと冷や汗が滲んできたが、ヒカリは返事をしたことに満足して、頭につかみかかってくる。
「グッボーイ、グッボーイ」
落ち着いた声色で、胸まで抱き寄せて、内心はコカゲがいつ図書室から出てこないかとおっかなびっくり扉を窺う。
「さ、帰りましょうか」
抱えていた本を鞄に詰めて、はい。と差し出された僕の鞄。もしかして、今日コカゲさんが当番であることを知っていたのか? とヒカリに問い詰めたかったが、新しい本を借りてご機嫌に鼻歌を口ずさむその背後に、何も語りかけずにいた。
いつものように買い出しを手伝わされる折り、荷物を持つ手を突如引っ張られ、バランスを崩しそうになる。
「これ、コウキに似合いそう……」
ウィンドウショッピングでもするかのように、ショーケースを見つめるヒカリの視線の先には、一体のマネキンが服を着ていた。
生憎、僕はファッションに疎くて、それならばとヒカリが選んだ服のセンスに頼りっぱなしだ。まるで、母親に服を選んでもらう成人男性みたいに情けなくなる。
よく分からない用語を羅列され、同じ色にしか見えない服に首を傾げ。一度始まってしまえば、あっちらこっちら店に引っ張り回されるんだから荷物持ちとしてはいただけない。
チラチラとショーケースのモデルと僕を交互に見て、ムムムと眉間にシワを寄せて。また引っ張られることが予測できたので、今度は転びそうにはならなかった。
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「んん! いい買い物した」
夕暮れに染まる街で、伸びやかに横曲げの運動をするヒカリ。
その背後から、ガサゴソと紙袋とビニール袋を上下させる荷物持ちが遅れて登場。
今回だけでかなりの出費となってしまった。別に服を買ってくれることに苦言をていしているのではなくて、自分にお金を使われれば使われるだけ、釘を打ち付けるみたいに恩を売られている気がして素直に喜べない。
けれども、許嫁と呼ばれるカードを手にするタセツナ社にとっては、相手をしてくれるだけまだマシなのだ。イットキ家が、いやヒカリが一声かけるだけで、僕らの関係なんて灰へ帰るのだから。
だから、こうまでしてヒカリが僕をそばに置くのかがいまだに理解できていない。ただの気まぐれ、暇つぶし、ペット……。どれもいい印象を持つことはないだろう。
「お肉が痛むから早く帰らないと」
「そうね……私も早く本が読みたいし……」
ゼエゼエと、限界を口にしないものの辛そうな顔をするコウキに、ヒカリは近寄って一言告げる。
「もうちょっと頑張って? 最後まで運んでくれたら、今日はコウキの大好物のハンバーグにするから」
「……」
それだけ告げると、用は済んだと先行して、時折ちゃんとついてきているか確認する親みたいに振り返る。
持ってくれと情けなくいってみることも出来たが、唯一の安らぎであったコカゲとの時間を奪われた反骨心で耐え忍ぶ。
ようやく高層マンションのエントランスに辿り着き、ヒカリが鍵を差し込んで一言。
「流石に辛そうね、玄関まで半分持つよ?」
「いいよ、ヒカリに重いもの持たせるわけにはいかないから」
「あ、ありがとう」
"ふんぬ"と掛け声を出して、ヒカリが片っぽの荷物を受け持つ。が、ここまで来たのなら最後までやり切ってやると、ちょっとだけぶっきらぼうに触れた手を払った。
怖くて表情の確認はしなかったが、立ちすくむヒカリを置きっぱなしにして、エレベーターホールへと向かう。
荷物を下ろすと、早速夕飯の支度に移る。
手際よく慣れた手つきで食材を捌いていくヒカリの背後で、本日酷使した拳を広げる。一文字の色が抜けた部分が、手を開閉するたびに正常になるのを感じた。
「コウキお肉こねてー」
「わかった」
手の感覚もおかしいままに、極寒のひき肉に手を沈める。その後の食事はまでは特に問題なく終わり、気になった点をあげるとするならば、今日のハンバーグは一回り大きかったことだろうか。
洗い物は僕の仕事だ。ヒカリは今、さっそく貸し出した恋愛小説をよみふけっている。カチャカチャと食器同士が触れ合う音と、止めどなく流れる水の音。そして一定の感覚で紙をめくり上げる音だけで世界が成り立っていた。
ここだけ切り取れば、まさに主人と奴隷の構図。
「ねえコウキー」
「ん?」
「余命僅かの幼なじみにかける言葉は?」
「………………ごめん、わからないや」
「……フーン」
問題を出すみたいに課せられた言葉は、一見するとただの無意味。小説に刻まれた答えを教えてくれるわけではなく、また不回答でもおとがめなし。これは自分の体感だが、真面目に応えることが前よりも少なくなっていると思う。
最後の食器を乾燥棚にかけ、タオルで手を拭いて、筆記用具を取り出す。ヒカリが小説に夢中になっている今ならば、ちゃちゃを最小限に抑えて勉強ができる。紙をめくる音と、今度はシャープペンシルのカリカリとした音が重なり合う。