あと二ひ〜ん
楽しかった。
コウキと過ごす日々全てが、私を形作った。
だから、いつしか主従の関係は対等になることを望み。平凡でみすぼらしいと感じていた下位層の生活も、彼となら楽しくやっていける。そんな考えの変化すらあった。
高飛車と万能感に支配されていた私が、意気揚々と料理を作り失敗すれば、それでもコウキは完食してくれた。ゴミ箱に放り込もうとしていた黒い物体を、美味しい美味しいと食べるコウキに、さすがの私でもお世辞であることがわかった。
今この現状に甘えていたら、いつかコウキが私を見限ってしまうのでは? そんなことを考え始めたら、彼が一生憧れ慕い、そして愛し続ける女になろうとの決意に至る。
我が儘の癖は心に誓って押さえ込んだ。料理は専属のシェフから直接学んだ。勉強も、スポーツも、成績に関することは極地まで突き詰めた自信がある。辛くなかったかと問われれば、もちろん辛いに決まってる。それでも、コウキが私を真に褒め称え尊重し敬愛し恋い焦がれるたったそれだけで、犬のように従順になれる。
しかし、そんな生活にもいつしか影が差すように……。
「コウキ君って素敵な人だよね〜」
彼もまた私に並び立つために努力を重ね、そんな姿を微笑ましく思いながらも、この言葉に背筋が凍った。
コウキの魅力に、果たして他の女子が放っておくのだろうか? コウキの心の内その全てを把握することはできない。悪魔の証明に近いその愛を確かめるために、気が付けば私はコウキに詰め寄っていた。
始めは互いのキモチを推し量るべく始まった行動も、次第に女子への牽制も兼ねた過激なものへと姿を変えていく。
彼の隣に収まるためと、眠っていたハズの本性は次第に解放され、そんな凶暴すぎる欲望の数々に、コウキは有無も言わずに応えてくれる。いままで積み上げてきた信頼を通貨に、表面上だけのやりとりで束の間の安堵を買う。違和感はやがて麻痺し、すっかりその行為の依存症になっていた。
キツく当たりさえするものの、それはコウキが私を決して裏切らない、そんな絶対的な自信の現れ。しかし、取り巻き達からもたらされる情報の数々が、その絶対性を欠くように端々を侵食する。
コウキの女友達を目の仇にした。ふと襲われる不安から、両親に頼んで許嫁の契約を結んでもらった。コウキの行動を制限し、拘束するようになった。コウキに悪い事をしている罪悪感は薄い。本当に私のことを愛しているのなら、むしろ喜んでよ!! と叫び出すかもしれない。
二人三脚で歩んできた道は、いつしか片方が暴走し、片方が合わせよう合わせようと努力するだけ、躓いた時には手痛い代償を払うこととなる。
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病床に伏せ、お昼はコウキが作ってくれたカレーを食べて、彼が看病のために残ってくれなかった事実を慰める。
まだコウキが帰ってくるまで四時間ほどある。とてもじゃないが、黙って待っていられるほど私は良い子じゃない。昼休みであろう時間帯を今一度確かめ、彼へ連絡を入れた。
しばらく画面を見つめていると返信が来て、頬が緩んだ。ほら、別に私に愛想を尽かしたわけじゃないんだ。そうやってまた自分を慰め、早く帰ってくるように命令口調で文字を打ち込む。それに、なんだか曖昧な語尾で返信がきて、もう一度催促しようと文字を打ち込んだが、昼休みが終わる節の連絡を最後に画面に動きは無くなった。
スマホをソファーへ向かって投げ捨てる。ポスッと私の気持ちみたいに音を発するのも見送らず、私はコウキの思い出を胸に抱き、ベットに潜り込んだ。コウキといると、スキップするように進む時の流れも、この時ばかりはイラつくほどに緩やかだ。
一眠りしようと体を丸める。けれども、結局眠りにつくことも出来ずに、玄関で彼の帰りを健気に待つのだった。
何度見てもドアに変化はない。携帯を弄る頻度は時間と比例して回数が増える。プルプルと、それは怒りか心配か禁断症状なのかわからない手の震え。返信のないメッセージは二桁を優に超え、間も無く三桁の大台を記録しそうだ。
ブルリと悪寒が体を駆け巡る。落ちついていたはずの風邪が復活したのかもしれない。けれども頑なにその場を動かず、スマホの画面を食い入るように見つめ、目を血走るのに忙しかった。
そこに一件の通知音。全ての動作が止まって、頭も呼吸おも停止する。そこにはただ一言"ごめん、電源切れてた"。こんな時間まで帰ってこないで、それでもこの下手糞な言い訳を信じる女はこの世に絶対に、絶対にいない。いたらそいつは頭がオカシイ。
怒髪天を衝く。栓を抜いたシャンパンのコルクなんて生優しいものじゃない。溜まりに溜まったドロドロが、カウントダウンも待たずに発射する。
「ごめんヒカリ! 遅く……なっちゃった」
鬼電ならぬ鬼コールで鳴り止まないスマホをバックに仕舞い込む。
ヒカリの寝室に届くように開口一番大声を出すが、靴を脱ごうと視線を下げる先にヒカリが寝っ転がってこちらを見ている。"ゴッホゴッホ"と咳き込みながらも変わらず睨みを利かせ続ける様が、お前のせいでこうなったんだぞと言いたげだった。
手を貸そうと伸ばした腕は振り払われ、ユラリとホラーのように立ち上がったヒカリは逆に怖くなる落ち着き払った声で喋り始める。
「思い出したようにさっき連絡入ったけど、何してたの?」
「先生に呼び止められちゃっ「どの先生? ……黙らないでよ、明日確認取るんだから」
「……」
「なんで何にも言わないの? 今まで何してたのか説明することができないわけ? それとも言えない事情でもあるの? ……まさかとは思うけど、私がいないからってあの芋メガネと会ってたんじゃないでしょうね?」
「いや……」
図星を突かれて言葉を見失う。こういうところばかりは女性には勝てない。さっきまで楽しかった頭を酷使して、なんとか言い訳を捻り出す。
「ほら! 数学の先生今日が離任式だったでしょ? あんまり関わりなかったけど、成績がよかったからかな……ちょっとだけ盛り上がちゃって」
「ふーん。……今から電話するから」
「ちょ、ちょっと待ってよヒカリ!」
「なに大声出してんの、白状するまで問い詰めてやるッ」
「……ごめん」
「私は別に謝って欲しいわけじゃないの。それはわかってるわよね?」
「……ごめん」
「……ねぇ、私のこと揶揄ってるわけ?」
「……ごめんってば」
「……つまりコウキは、私が寝込んでいるのをいいことに、喋れないようなことしてたんだ。私の目がなくなったら、これ幸いと私を裏切るんだ。相手が誰かなんて問題じゃない……絶ッ対に許さないから」
もはや憧れの人の面影のない表情に、怖がるのが正解のはずなのにスッと冷め切った気持ちが冷静さを取り戻す。
いまだかつてないほどの怒りように、いまだかつてない要求が突きつけられるのは明白。根掘り葉掘り洗いざらいはほんの序章。日に日に辛くなる毎日の、唯一といっていいほどの安らぎを奪われる辛さに比べたら、もう他のことなんてどうでもよくなってきた。
怒りはない。そこにあるのは長年の疲れと諦めと、呆れだった。
「もう……疲れた」
「は?」
「ヒカリの相手するの疲れたよ」
「なにいってんの?」
「もうこれ以上縛られたくない。ヒカリにも、父さんの会社にも……」
「なにを言い出すかと思ば、そんな身勝手な要求が簡単に通るわけ「さよなら」……ッ!」
「痛いよヒカリ。腕離してよ」
「うるさい、あんたは私の所有物なの。そんな勝手許さないからッ」
せっかくの獲物を逃すまいと必死になって爪を立てるヒカリは手を離してくれそうもない。後の結末が苦いことになりそうだが、ここははっきりと理由を述べ後腐れないようにしようと、ヒカリに腕を掴まれたまま口を開く。
「今日コカゲと会ってたんだ、前回のテストの成績が上がったからそのお祝いにって。一時間で戻るつもりだった、ヒカリに言い訳できなくなるから。長い付き合いで、ヒカリの限度がその時間だぞと自分に言い聞かせてた。けど、その、……楽しかったんだ。僕のことを等身大で見てくれる彼女と一緒にいると、やけに時計の進みが早かった。時計が終わりを指し示すたびに、無理くり理由付けしてその場に居座ったよ。そしたらあっという間に二時間もオーバーしてて、いつの間にかヒカリのことがスッポリと頭から抜け落ちていることに気がついて心底ビックリした。だから、このごめんはそんな意味を込めての、ごめん」
指はトントンリズムを刻み、その独白をだまって聞いていたヒカリは、理解できないと首を傾げた。
「で? なにがいいたいわけ?」
「もうヒカリのことは、とっくの昔に好きじゃないんだ。……それじゃあ」
唯一聞き取れた"ソレジャア"の意味をヒカリが考えあぐねていると、コウキはもう心残りはないと、あっさりとマンションを立ち去る。