レンブラント・ファン・レイン。
という画家がいる。
バロック期を代表する画家の一人だ。『光と影の魔術師』とも呼ばれた彼は、その異名の通り、明瞭な明暗対比を用いた絵画を好んで描いた。
光の多いところ、強い影がある。
そう謳ったのは、かの有名な劇作家、ゲーテだ。
まばゆい光の隣には、いつだって、暗い影が存在する。
プロデューサーという職業は、光か影で言うなら、影に当たる職業だ。
アイドルという光の裏に佇む影。夜警の灯に照らされるまでもなく、その表裏関係によってこの業界は成り立っている。
あるいはそれは、斜陽差し込む宿泊業界においてもまた、同じことが言える。
バスに揺られ更に数km。中禅寺湖湖畔に建つ小さな旅館だった。
絶好の立地に居を構えたこの宿泊施設は、しかし、あまりにも年季が入り過ぎている。
二階建ての木造日本家屋だった。フロントでは旅館の経営者と思しき老婆が、従業員の一人を雇う余裕もないのか、自ら記帳を記している。経営を存続できているのが不思議なほどの旅館だ。
――宿泊業という業界は、アイドルと同じく、生存競争の世界だ。
客という名のリソースは限られている。安かろう悪かろうの精神の個人経営旅館など、時代の刷新に淘汰されゆくものだ。
「宿泊費をケチったことが裏目に出たな……」
朝夕二食無料に好アクセスの好条件で、この安さなのを怪しむべきだった。いや元を言うなら、経費から支払われることに遠慮をして、安めの宿を探してしまったのが良くなかった。
「これはこれで味わいがあって、私は好きですよ」
流し目に、円香は言う。
「屋根があって、雨風を凌げて、寝泊まりできる場がある。それだけあれば十分でしょう?」
「それはそうだけれど、いやでも……」
「気に病むのなら、次の機会はもっと良い宿を取ってください。……出来れば経費じゃなくて、あなたの奢りで」
「俺の懐具合を知っての言葉か?! 頼む、経費で落とさせてくれ……!」
「ああもう、そういう意味じゃなくて……はぁ、もういいです」
「? よく分からないが、どうあれ予約した以上、今日はこの宿に泊まることになる。俺の部屋は円香の隣だから、何か用があれば呼んでくれ」
「はいはい、分かりました。……まだ夕食までは時間がありますけど、これからどうしますか?」
「そうだな……チェックインも済ませたし、先に風呂に行っても良いかもしれない。すぐ近くに温泉施設もあるんだが、円香もどうだ?」
「それ、聞き様によってはセクハラですからね。……まぁ、構いませんが」
「はは……じゃ、行くか」
*
荘厳なシャンデリアがロビーを照らす。
趣味の良い調度品に彩られたエントランスが、調和的な歓迎を臨んでいた。
中禅寺湖湖畔に建てられた温泉施設。奥日光の景色が一望できる露天風呂が売りらしい。
紅葉を肴に浸かる湯船は、さぞかし心地の良い物だろう。
「ところで、思ったのですけれど」
控えめに、円香が口を開く。
「大の大人と女子高生の連れ歩きって、絵面的にまずくないですか?」
嗚呼、そこに気付いてしまわれましたか。出来ることなら俺は一生気付きたくはなかったけれど。
「さすがに大丈夫だろ…………多分」
語気を落として、俺は言う。
ところで俺はいつもの通り濃紺のスーツを着ていて、円香は普段着の私服姿なのだけれど、つまりこれではまるで同業者のようには見えないということだ。これは確かに良からぬ連想を結ばれてもおかしくはない。円香と俺の年齢差も、親子と言うには近過ぎるし、兄妹と言うには遠すぎる。神はなぜこんな試練を与えたのか……。
「はぁ、そこは断言してください……」
頭を押さえながら円香が呟く。なんだか俺も頭痛が痛いな?
「……いやだって、めっちゃ視線感じるし。めっちゃ胡乱な目で見られてるし。ああこうやって社会の秩序は守られているのだなぁ……」
「何をしみじみと語っているんですか……」
素晴らしきは相互監視社会の目かな、日本の風紀は明るいな、などと迷走する瞑想に耽っていると、ふとこちらへ大股で歩み寄る影があった。こんにちは野生のポリスマン。
「申し訳ありませんが、あなた方は……」
恰幅の良い男性が怪訝な目で俺達に話しかける。待って?
「違うんです誤解です、責任者を呼びましょうプロデューサーはどこだ!」
「は?」
いやこんな話をした後だからテンパちゃったのであって、円香はその視線をやめて?
「ええっとつまり、俺は彼女の保護者代わりみたいなもので、決してやましい関係では……」
なんて説明を重ねていると、『保護者代わり』の言葉の辺りで、円香がむすっと俺の脛を蹴る。そうだよな一緒に頑張るって言ったもんな、対等な関係性の相手に保護者代わりなんて言われたくないよな、それはそうとして今は堪えてくれマジで頼む……!
などと姦しく騒いでいると、「ああいや、安心してください。そういうつもりで話しかけたわけではありませんよ」と彼は人の良い笑みを作る。
「アイドルの、樋口円香さんですよね? そしてあなたは、そのプロデューサーさんだ」
ズバリ、と。
斬り込むように、彼は言った。
「……えっと、はい。その通りですが、どこかでお会いしたことが……?」
「いやなに、誘致した人の顔と名前を覚えるのは、経営者として当然でしょう?」
こともなげに言い切った彼は、懐から、一枚の名刺を取り出す。
「ようこそ日光へ、キャンペーンガール。あなた方の旅路を、どうか歓迎させてください」
手渡されたその紙片には。
日光観光協会・会長の黒文字が印字されていた。
*
奥日光という土地は、一般的には、日光連山の西麓から金精峠の東麓までの地域を指す。
日光市街地から比して更に標高600m高。歓楽的な色合いはすっかりと失せ、のどかで平和的な光景が広がっている。保養地としては申し分ない地域だ。
俺は露天風呂へと浸かり、中禅寺湖の湖水を眺めた。
火照った顔に、土の香りを孕んだ冷涼な風が吹き抜ける。
透き通った水面には彩り鮮やかな木々が反射し、幻想的な風景を醸し出している。
極楽とはまさにこのことだろうと、俺は目の端を緩めた。
なんというか、静かだ。都会の喧騒を忘れ、大自然の静寂に身を任せていると、ひょっとして今この世界には俺一人しか存在していないんじゃないか? みたいな錯覚すら覚えてしまう。
「――盛者必衰、なんて言葉もありますがね。こうも見事な色彩を見せられると、いやはや圧巻としか言えませんな」
……もちろん、錯覚は所詮錯覚なのだけれど。
檜の素材からなる露天風呂。何の因果か、俺は、その浴槽に観光協会の会長と共に浸かっていた。
「……ええ、まぁ、そうですね」
会長の言葉に合わせ、俺は曖昧な相槌を打つ。
時刻は既に、午後五時を回っていた。
昏くなりつつある山際には斜陽が落ち始め、橙色の輝きを作っている。
直視し続けるには、いささか眩し過ぎる光だ。
「……こういうの、やっぱりまずくないですかね」
燃えるような落陽の眩しさに耐えかね、俺はそう口火を開く。
果たしてその意図は――どうやら、会長にも伝わったようだった。
キャンペーンガールの公募という企画。その選考には企画の性質上、ある種のクリーンさが求められる。
何しろブランドの顔になる存在だ。清廉潔白の身であることは、審査以前の前提となる条件だ。
だから――有り体に言えば、こういう状況はまずいのだ。
選考する側と、される側が、プライベートの場で顔を合わせるなんてのは。
「――ふむ。確かにあなたの弁にも一理はありますね」
会長は鷹揚に肯くと、しかしそれからゆっくりと首を振る。
「ですが今はこうして、お互い裸の身だ。余計な役職や柵のない一個人として、私は君と話がしたい。どうか受け入れてはくれませんか?」
「……明日の審査が終わった後であれば、喜んで引き受けたんですけどもね……」
困惑交じりに、俺は言う。
正直に言って、意味が分からなかった。
ブランドイメージが損なわれれば傷付くのは向こうなのだ。余計なリスクを抱えてまで俺や円香に接触する意味が、まるでない。見て見ぬふりをして距離を取るのが自然な流れだ。
なんてことを考えていると、会長は口元に笑みを携えながら、「ファンがアイドルに近付きたいと思うのが、そんなにも理解できませんか?」などと俺に話しかける。え? 今なんて?
「ですから私が、樋口円香さんのファンだということです。W.I.N.G決勝のあの日、私も会場にいたのですよ?」
「――――」
一瞬、言葉を失った。
取引相手への体の良いリップサービス――ではないのだろう。目を瞑り慎重に言葉を選ぶさまは、とても演技には見えない。
「惜しくも優勝は逃しましたがね。私の目には、彼女が一番輝いて見えた。あなたもそう思うでしょう、プロデューサーさん?」
貴重な骨董品を指でなぞるかの如く、どこか郷愁を孕んだ声で会長は言う。
ああ、それはまさしく。
――この上なく、喜ばしい言葉だった。
立場という垣根を忘れて、うっかり相好を崩してしまう程度には。
「……ええ、もちろん。俺も彼女が一番だって、そう信じています」
プロデューサーにとって、アイドルが認められる以上の誉れなどあるはずもない。
水面に揺れ緩んだ太陽を、俺はしばしそれ以上に緩んだ目で眺めた。
*
ロビーのチェアに腰掛け、俺は吐息を付いた。
勝ったばかりの温泉饅頭を机に並べ、ゆっくりと口に運ぶ。後を引くような甘味が舌いっぱいに広がった。
円香はまだ、湯に浸かっているのだろう。まばらな人影の中に、彼女の姿は見られない。
「同席しても構いませんか?」
と話しかけられる。
その会長の言葉に俺が頷いてしまったのは、辺りの人影が薄くなっていたのもあるが、何より先の言葉ですっかり気を良くしてしまったのだろう。我ながら単純な話だ。
厳かな所作で腰掛けながら、会長は口を開く。
「……その饅頭ですがね。元はしがない和菓子屋のもので、売上も芳しくはありませんでした。しかし日光土産の名を冠した途端、大売れするようになったのですよ。細かな味の改良や長い伝統よりも、宣伝戦略の一つが勝る。パッケージが大衆に与える影響というものは、それほどまでに大きいものなのです」
「だから、キャンペーンガールなんて企画を?」
「ええ。実をいえば、その企画は私が主導したものなのです。審査に関しても私が強い決定権を持っていましてね、書類選考にも一枚噛ませて頂きました」
「……なるほど」
おかげで、疑問の一つが解けた。
言いたくはないことではあるが、他に書類選考を抜けた者と比べ、円香の知名度は明らかに一つ劣っていた。……もちろん、だから円香が周りに負けているなんて思ってはいないが、それでも不思議ではあった。でも彼が選考の決定権を握っていたのだとすると、円香が選ばれたことにも説明が付く。
「その説はどうもお世話になりました。明日の選考も、ぜひ公正な審査を――」
現状の実績じゃまだ見劣りするが、円香だって内包する輝きじゃ負けちゃいない。
……そんな意図で放った言葉は、しかし――
「ああ、そう堅苦しく構えないでください――既に彼女の抜擢は、決まったようなものなのですから」
鉄面皮の笑顔によって、遮られた。