「今回の企画は通常の市場とは違い、スポンサーである私が強い決定権を持っています。選考の場で私が彼女を強く推せば、その決定が覆ることはまずないでしょう」
いつか、どこかで。
誰かに話したようなことを、彼は言う。
「大きな仕事です。任命されれば、彼女が多大な躍進を果たすことは間違いない。プロデューサーさん、それはあなたも望むことでしょう?」
確かに、その通りだ。
その通りではあるが、しかし。
「……出来レースってことですか。明日のパフォーマンスには関係なく、既に円香の席は空いていると」
趣味の良いクラシックの音が鳴り響いていた。
La Fiera di Venezia――アントニオ・サリエリの遺した楽曲の一つだ。
天才、モーツァルトの影に埋もれた作曲家。生前は高い評価を受けていたようだが、死後はその名を忘れられ、埋没してしまう。悲しい話だ。
生存競争はどこにでもある。華々しい宮廷音楽家から、世俗離れた宿泊業界、果ては選考争いを勝ち抜いたアイドルにまで。
光ある所には、強い影がある。
詰まるところ、これは、そういう話なのだろう。
「いやなに、悪いようには扱いませんよ。対価も報酬も要りません。私がしたいようにしているだけです。あなた方にリスクが及ぶ可能性は、決してありませんとも」
快活に、しかし感情を見せない笑顔で、彼は言う。
酷く粘っこく、耳の裏に残響する声だ。雑多な音が混じった不協和音にも似ている。
「……今の言葉は、聞かなかったことにします。明日はぜひ、公正な選考を」
どうにかそれだけ言い残して、俺はソファから立ち上がろうとする。
その姿を見ながら、会長は更に言葉を続けた。
「真面目なのですね。実直と言っても良い。仕事に手を抜くことなんて考えられない、といったような。部下にするなら好ましい人物だ」
「……お褒めに預かり光栄です。それだけが取り柄なもので」
「いやはや、別に褒めたつもりはありませんよ」
乾いた瞳が、俺を見つめている。蛙の前に舌なめずりをする蛇のように。
「あなたは自らの責務に忠実で、全力だった。そうでしょう? つまりはあなたは、全力を尽くしても彼女を優勝させられなかった」
……それは。
紛うことなき、断罪の言葉だった。
「彼女が一番なのだと、あなたは言いましたね。ええ、私もそう思います。ならばこれは、一体どういうことなのでしょう? 一番輝いていたはずの彼女が、W.I.N.Gの決勝では、一番に選ばれなかった。彼女自身に問題がないのであれば、その責任は、一体誰にあるのでしょうか?」
「……」
そんなもの、決まっている。
俺だ。俺が悪い。円香の敗退に理由があるのだとすれば、その原因は、彼女の輝きを伝えきれなかった俺にある。
「あなたの人間性を好ましく思っているのは、本当ですよ。しかし、それとプロデューサーとしての能力は、また別の話です。あなたの下で彼女は、本当に羽ばたけるのですか? ……その点今回の話は、渡りに船だと思うのですがね」
「…………」
ふと、眩しさを感じ、天を仰いだ。
天蓋に吊るされた豪華なシャンデリアはしかし、手入れが行き届いていなかったのだろう、灯の一つがチカチカと明滅を繰り返していた。
窓の外では、赤く色付いた紅葉の葉が、風に吹かれ地に舞い降りている。
十二月にもなれば、全ての葉は枯れ落ち、土へ還ってしまうのだろう。
アイドルという職業は、消費の激しい職業だ。運よく華々しいデビューを飾れたとしても、その栄光がどれだけ続くかも分からない。
それは円香も同じことだ。限りある余生の中、一体どれだけ輝けるのだろうか。
なら――この話は。
違法な裏取引が行われるわけではない。ただ彼が円香を贔屓にしてくれるというだけの話だ。
円香自身に累が及ぶことは、万に一つもない。俺が矜持を曲げさえすれば、それだけで円香の将来が約束される。
万物は流転する。水のように、星のように、運命のように。
草木はいずれ枯れゆくものだ。だが枯れ落ちた葉は、土を肥しまた新たな命を芽吹かせる。
だから、俺が彼を見過ごしさえすれば。
俺のちっぽけなプライドと引き換えに、円香という命を、輝かせられるのであれば。
そんな想いが、俺の全身を焦がしていく。
視界が歪む。眩暈がする。舌の根が乾く。
そして――。
「何の話をしているのですか? ミスター・意気地なし」
円香の声が、響き渡った。
*
髪を乾かしていたら長くなって、と円香は言った。
「もう夕餉の時間です。宿に戻りましょう」
円香は強引に俺のスーツの袖を掴むと、そのまま、フロントの方へ歩を進める。
「……長居し過ぎたようですね。ではまた明日、会場で」
そう言った彼はまた、以前のような人当たりの良い笑みを作っていた。
こうしてあっけないくらいに、俺と会長の話は終わりを告げる。
饅頭の甘みは、もう舌には残っていなかった。
清算を終え外に出る頃には、既に日は沈みかけていた。
ふと吐いた息が、白みを帯び揺蕩う。
十一月にもなれば、もう日の入りは早い。眩し過ぎる太陽から目を背け、俺は円香の後ろを歩く。
「……どこから聞いていたんだ」
意気地なし、と言い切ったあの時の声音を覚えている。
会話を途中から聞いていたのでなければ、出てこない単語だ。
「私の抜擢が、既に決まったようなものだという辺りから」
「……ほぼ全部ってことか……」
それだけの話を聞いていながら、でも、最後まで円香は姿を現そうとしなかった。
その事実の意味することは、明白だった。
「……怒っているのか」
「別に。怒ってない。焼け付くような瞋恚を腹の底に抱えているだけ」
「それを怒ってるって言うんだ……」
……だが、まぁ。
無理なからぬ話だ。円香の怒りも、失望も、それらは正当に抱く権利のあるものだ。
「……なんで、否定しなかったんですか」
「……その方が、円香にメリットがあると踏んだ。俺の小さな矜持より、そっちの方が大事だと思った」
「……何ですか、それ」
円香は、驚くほどに冷めた声を出す。
いつものじゃれあいとは違う、心から底冷えするような声だ。
「つまりあなたは、私を信じてくれなかったんですか? 私の実力では、選考を勝ち抜けないと」
「違う。そうじゃないんだ。円香のことは信じてるよ。でも――」
でも――なんだ? この期に及んで、みっともない言い訳を重ねてどうする。
俺は一度口を噤み、代わりに、別のことを言う。
「……なぁ円香、さっきのことは本当に申し訳なかったと思ってる。それでも俺にはさ、プロデューサーとして果たすべき責任が――」
「責任? 責任って何ですか? ……W.I.N.Gに勝てなかったのも、あなたの責任って。本気でそんなことを思っているんですか?」
――W.I.N.G決勝の、あの日。
確かに俺の目には、円香が一番輝いて見えたんだ。それだけは誓って嘘じゃない。
だからあの時、誰かに落ち度があったのだとすれば、それは。
「……新人アイドルってのはさ。歌唱力や表現力に、そこまで大きな差はないんだ。違いがあるとすれば、それでも人を魅せられるだけの『何か』があるかどうかだ。円香は確かにその『何か』を持っていて、でも、W.I.N.Gの優勝は叶わなかった。だとすればそれは、円香の魅力を引き出し切れなかった俺の責任だろう?」
だって円香は、あんなにも輝いていたのだから。
その綺麗な宝石箱に蓋をして鍵を掛けられていたのだとすれば、それを開けなかった責任は、プロデューサーである俺にある。
「……私は、あなたの癇に障る所を沢山知っているけれど」
一語一語、言葉を選ぶような様子で、円香は言う。
「そういう所は、本当に、嫌いです」
『嫌い』、と。
直接そう言われたのは、そういえば初めてだった気がする。
「だってそれは、私の力では勝ち抜けないということが前提になっています。誰よりも私を信じてくれているはずのあなたが、どうして、私の才能を否定するんですか?」
違うんだと、そうじゃないんだと、否定したかった。でもそんな言葉が何の意味も持たないことを知っている。
期待なんか背負いたくない、と円香は言っていた。その円香が、俺の期待に応えようとしてくれた。それは何よりも尊ばれるべきことだったのに。
その信頼を裏切ったのは俺だ。糾弾されるべき咎は俺にある。
「……円香は、人に信じられるのが苦手みたいだけどさ」
「……ええ」
「でも本当に苦手なのは、自分自身を信じることなんじゃないかって、俺はそう思ってたよ」
「……そうかも、しれませんね」
「ああ、でも。円香も自分の才能を、信じられるようになったんだな」
「……違いますよ。そんな高尚なものではありません。これは、ただの意地です」
意地、か。
誇りと言い換えても良いかもしれない。俺が最後に捨て去ろうとしてしまったそれを、円香は今も抱え続けている。なんだかそれが、酷く眩しい。
子供の成長なんて一瞬だ。蛹が蝶へ羽化するように、雛鳥が巣から飛び立つように、瞬く間に空へ羽ばたいていく。その姿を俺は何度も見てきたはずなのに。
ずっと前から、分かっていたことだった。変わらぬものなんて何もない。俺が子供だと思っていた少女は、しかし、俺よりもずっと前を歩いている。
「結局、俺が間違えていたんだろうな……」
一緒に頑張ろうって、誓ったのに。
プロデューサーなんだから、俺が頑張らないとって。
円香を庇護すべき存在として、下に見ていた。
でもそんなの、一緒に頑張るってことじゃないだろ。
「……悪かった。本当に。俺が、阿呆だった」
自分でも情けなるくらいに震える声を出しながら、俺は言う。
どれだけ言葉を尽くしても、赦されることではないけれど。
それでもこの過ちだけは、声に出して謝りたかった。
標高1200mの風は冷たい。頬を撫で過ぎ去っていくそれは、どこまでも俺の背中をすり抜けていく。そしてきっともう戻ることはない。
「……時々、嫌になることがあるんだ。俺が大人になるまでに取りこぼしてきたいろんな何かを、見せつけられている気分になる。夢だとか、希望だとか、理想だとか、いつまでも泥臭く縋っていたい何かを、俺は求めていたはずなのにな。現実を知っていくうちに、いつの間に擦れて、縒れてしまう。それはきっと、悲しいことだ」
こんなことを言ってもどうにもならないなんて、分かってはいても。
それでもなんだか、無性に叫び出したい気分だった。
円香は遠く沈む夕日を見て、それから、目を細めるようにして言う。
「……だとすれば、それはきっと。取りこぼしたのではなく、置き忘れて来たのでしょう? 白い石を道に撒いた、グリム童話のヘンゼルみたいに」
「それは、どう違うんだ」
「置き忘れただけの理想なら、また拾い集めることが出来ます。地に落ちたそれを道標に、誰かを導くことだってあるかもしれません」
「はは……だとすれば、プロデューサー冥利に尽きる話だ」
見上げた職業病ですね、と円香が冷たい視線を向ける。
聞き飽きた悪態も、今ばかりは心地よくすら感じる。
「……あなたはさっき、責任と言っていたけれど」
吐き出された白い息が、夕陽に反射して輝く。丁寧に磨かれたダイヤモンドの宝石みたいに。
「今回の一件で、とうとう私はあなたを嫌いになりました。その責任を取ってください」
「……ああ、分かってるよ」
それだけのことを、俺はしたのだ。担当替えだろうが何だろうが、甘んじて受け入れる。
その想いで放った言葉に、しかし円香は、膨れたような声を出す。
「……分かってない」
「分かってないって……何がだ?」
一歩、振り向き、円香は太陽に背を向ける。その姿はまるで、切り取られた一枚の宗教画のようにも見えた。
「……私がどれだけ、あなたを嫌いかということです」
微笑みながら、円香が、俺の頬に手を伸ばす。
吐息の向こうに映る円香の姿が、どうしようもなくぼやけて見えた。