※原作第1話の10年前
新月の夜。
わずかな街灯の光から逃れた屋根の上に立ち、猗窩座は前方に広がる街並みに目を細めた。この麹町区には、日ノ本で最も尊ばれる人間の住まい―宮城(きゅうじょう)―がある。明治以降、再び政の中心となった一族は、鬼の始祖である鬼舞辻無惨よりも古い歴史を持ち、彼らが所有する稀少な品や資料には、青い彼岸花の情報があるのではないかと期待が大きい。しかし、無惨が暗躍してきたこの千年の間、ただの一度も鬼がかの一族に近づけたことはなかった。
「今夜も駄目か」
暗がりに伸ばした右腕が【いつもの距離】で弾かれ、猗窩座は何度目かわからない舌打ちをした。無惨に青い彼岸花の探索を命じられ、早数百年。その間、何度も京の御所への侵入を試み、御所が東京に移ってからも、東京に寄る度に試しているが、上弦の参を持ってしても、この不可視の壁を超えることはできないでいる。他にも夢を渡ったり人間を操ったり、様々な血鬼術を使う鬼が無惨の命を受け、突破を試みてきたが、あらゆる術は弾かれ、操った人間も境界線を越えた瞬間に術が解けてしまうのだ。
不可視の壁は円形にぐるりと麹町区を囲んでおり、おおよその半径は200メートル。上空へも半球型に広がっていると推測され、猗窩座自身も過去に飛び越えようとして悲惨な目に合っている。腕を伸ばして弾かれるぐらいなら傷もつかないが、空中で壁に接触しようものなら、体制を整えることもできずに地面に転がり落ちる羽目になる。猗窩座からすれば、心底忌々しい怨敵なのだ。
どうやら今宵も宮城に近づくことはできないらしい。念のため、最強威力の一撃をぶつけるまでが様式美と化しているのが、更に機嫌を降下させた。
「……破壊殺・砕式 万葉閃柳!」
逞しい踵が屋根を砕き、暗がりに氷雪の文様が浮き上がる。淡い光に猗窩座の姿が一瞬照らされるも、その凛々しく禍々しい容貌は続く一撃に塗り替えられた。
凄まじい速度で打ち出された右こぶしが宙に突き刺さり、轟音のかわりに空気が揺れた。大岩を余裕で粉砕するであろう一撃は、しかし境界線を破ることは叶わず、衝突の瞬間に悟っていた結果に、猗窩座は小さくため息をついた。
「全く、どういう仕組みだ。我らのような異能か、それとも別の何かか」
いずれにせよ、物理攻撃しか行えない自分では分が悪い。
何よりも強さを望み、愚直なまでに強者との戦いを求めている猗窩座には、姿が見えず、そも戦う対象であるかも不明な相手は、敵対者として成り立たないのだ。それでも無惨の命令は絶対であり、この先の地区の調査が何十年も行えていないことは、上弦として恥ずべき体たらくだろう。
「本当に忌々しい……っ!?」
最後に一撃、と振るった右腕。それが思わぬ空振りをしたことで、わずかに体幹が揺らいだ。強靭な体は右足を半歩ずらすだけで持ち直したが、そんなことよりも、文字が刻まれた双眸は驚愕に見開かれ、ゆるゆるとかざした腕は、今度こそ何物にもさえぎられることがなかった。
宮城に続く夜空が開かれたのだ。
己の目を通して様子を見ていた無惨の高揚を感じる。早く行け、と体内をめぐる血に急かされ、猗窩座は風のように飛び出した。
未踏の地は、ただの真夜中の街並みであるのに、酷く落ち着かない。生物的な勘が、恐ろしい場所に向かっている、踏み込んだら二度と戻ることはできないと伝えてくるが、鬼舞辻無惨の端末としても、上弦の参としても足を止めることはできなかった。
目的地を目前としても、阻むものは何もなく、猗窩座はこれまで遠目に観察してきた蔵の方向へと高く飛ぶ。宮城の堀を一足に越え、夜警の気配をいくつか感じ取りながら、彼らの視界に入らない物陰に着地した。
現人神がおわす城にしては拍子抜けするほど楽な潜入だったが、むしろ仕事は始まったばかりだ。
「蔵が三つに書院が一つだったか。書の類はどうするか」
鬼として二百年以上在る猗窩座だが、学には全く興味がなく、青い彼岸花のことが記されているかもしれない薬学書等は、内容を覚えるどころか理解さえおぼつかない。となると、持ち帰るしかないのだが、宮城の書院は民家以上の大きさがあり、どれだけの資料が保管されているか想像もつかないのだ。
気乗りがせずとも、やることは決まっている。とりあえず一番近い蔵へ足を向けた瞬間。
ドサッ。
「は……?」
猗窩座の体は、糸が切れたように前のめりに倒れていた。鬼の祖を除けば随一ともいえる膂力を誇る手足がぴくりとも動かない。けぶる睫毛に縁どられた瞳は瞳孔が開ききり、上弦の参の文字がビクビクと揺れていた。間抜けな声がこぼれた唇も半開きのまま、その後は声も続かず、僅かに舌先が震えるだけだ。
(一体何が、どうして動けない、俺の手足はどこにいった?)
日の下なら見事であろう敷地の隅に転がった、死にかけの虫のような男。建物から離れた場所とはいえ、誰かの目につけば警備の者が集まるだろう。
「ぁ、ぅ……」
僅かに首をかしげた体制で倒れたため、右目だけが辺りを映し、砂利にふせた左耳が音を拾う。最早、血を介しての無惨の気配も感じることができなくなった猗窩座は、襲い来る恐怖にか細く息をすることしかできなかった。
(これが人間の仕業であるはずがない!動け、動けっ!!)
体を起こそうにも、そもそも指先が感じられないのだ。全ての力が吸い取られ、このまま夜明けがやってくると思うと心臓の音が激しくなった。
じゃり、じゃり。
倒れてから四半刻も経たない時分に聞こえてきた足音に、上弦と刻まれた目がきょろりと揺らぐ。内裏から大分離れたこの場所に最も近い、つつましやかな作りの建物。その縁側のようになった板縁から降りてきたのだろう。鬼の夜目には、小さな人影がはっきりと見えていた。
木々の下の闇が深いとはいえ、二十歩とない距離なら相手にも猗窩座が見えている。怪しい、明らかに招かれざる男が倒れているというのに、真っすぐ近づいてくる足取りに迷いはなかった。
それは女児だった。深夜であるというのに夜着姿ではなく、きっちりと白い単に赤い袴を身に着け、顎までのつややかな黒髪をおろしていた。数えで4、5歳ぐらいだろうか。大人し気な平凡で個性に乏しい顔立ちの子供は、しかしその黒い眼差しだけは煌々としていた。
「よもや、代替わりのわずかな合間に、ここまで入り込むとは。そなた、強いあやかしなのだなぁ」
見た目通りの高い声でそう言った子供は、猗窩座の顔のすぐ横にしゃがみ、その顔を覗き込んだ。
「ふふっ、なかなかの男前ではないか。体も逞しくて、良いなぁ」
好奇心からか、きらきらした瞳で見つめてくる子供。あやかし、と猗窩座を称したからには、状況が全くわかっていない筈はないというのに、顔やむき出しの腕を走る模様をなぞる指先に遠慮はなかった。
「金烏様、危のうございます!」
「心配いらぬ。結界は元通り、閉じ込められた鬼なぞ、このとおりよ」
金烏(きんう)と子供を呼んだのは、後ろに続いて小走りで追ってきた巫女姿の女だ。女のさらに後ろには、数名の夜警―皇宮警察官が物々しい様子で迫っている。
(ここまでか……)
異様な子供は短い髪の触れ心地が気に入ったのか、犬にでもするように頭を撫でまわしている。なされるがままの猗窩座は、透明な壁と同じ強力な力が自分にも作用していることを受け入れざるを得なかった。このまま朝日が出るまで放置されるにせよ、無惨によって破却されるにせよ、たとえこの窮地から逃れたとしても、宮城の人間たちに目撃された己は許されはしないだろう。
(あの御方の力がまるで感じられない。俺は切り離されたのか。それとも)
「皆、持ち場にもどれ。どうせ、あやかしを相手取れるのは私だけだ」
猗窩座を撫でるのをやめ、立ち上がった子供が大人たちを見上げた。背を向けてしまった子供の顔はわからなかったが、すぐさま逆らう者がいないほどに、その声は命じ慣れたものだった。
人外の侵入者を目にして動揺していた男たちは、子供に意見する立場でさえないのか、一礼して去っていく。年かさの巫女だけは顔色を悪くして子供を見つめていたが、二人の従属関係は火を見るよりも明らかだった。
「金烏様……」
「そなたも中に戻れ。お婆様との別れも済んでおらぬだろう。明日の用意もあるのだから、お別れをしたら、もう休むことだ」
「……承知いたしました。御身の大切さと御役目をくれぐれもお忘れなきようお願い申し上げます」
「わかっておる」
そうして女も踵を返し、夜の庭には猗窩座と子供―金烏だけが残された。依然、瞬きさえできない猗窩座は、再び近くにしゃがみこんだ子供が目の文字を覗き込むのを見つめるだけだ。
「そなた、鬼舞辻の鬼だな」
平然と言い当てられ、背筋が冷たくなる。金烏は子供らしく見える笑みを浮かべ、とん、と人差し指で猗窩座の首を叩いた。途端、固まっていた唇や舌が自由になり、溜め込まれていた怒声が堰を切った。
「か、ひゅっ……、貴様、何者だ!?俺に何をした!?」
猗窩座の殺気は、大の男であっても卒倒するであろう激しさだ。しかし、至近距離で睨まれた子供は、楽しげな表情を変えずに答えた。
「私は金烏という。代々主上がおわす御所の護りを担っている一族の末で、今宵、新たに当主となった四歳の女だ」
よろしくなぁ、と無邪気にも聞こえる言葉。
「そなたは運悪く、当主代替わりの空白にここに来たわけだが、宮城内はあらゆる呪いが無力化される。この意味がわかるか?」
「呪い、だと。まさか、あのお方の……」
「鬼舞辻が鬼どもにかける呪いは徹底しておるからなぁ。血を介して身体中巡っておるのよ。そなたのような強い鬼は、指一本動かせまいて」
くすくすと笑う金烏に、奥歯が砕けるほど噛みしめる猗窩座。目の前の子供の異質さは、年寄りめいた喋りもそうだが、のっぺりとした幼い顔立ちを歪ませる賢しい表情が何より得体が知れない。無惨が子供の姿を取る時と同様の、ちぐはぐな恐ろしさがあった。
「といっても、このまま転がしておくつもりはない。丁度、私個人の戦力が入り用でなぁ。そなた、私のものになるがいい」
「誰が、人間のガキなぞにッ!」
「そなたにとっても悪い話ではないぞ? 家族を悲しませるのはやめて、来世に向け徳を積めというのだ。かように愛らしい女子を泣かせて、情けないぞ、狛治」
狛治。
そう呼ばれた瞬間、鬼の力が抑制されて無防備な脳裏にバラバラと痩せこけた男や道着を着た男、可憐な少女の姿が巡っていった。凍りついた猗窩座を嘲笑うでもなく、金烏は続ける。
「どれ、毒抜きしてやるから、ゆっくり考えるがいい。夜明けまでは長いしなぁ」
「や、めろ……ッ」
やわい人差し指に今度は心臓の裏を突かれる。途端、絶叫を迸らせた喉は、しかし再び塞がれたらしく、呻き声一つ漏れることはなかった。代わりに噴き出てきたのは、粘り気を帯びた赤黒い液体。口だけでなく、両目両耳、鼻腔からも大量に出血した猗窩座の顔面は、瞬く間に真っ赤に染まる。禍々しい臭いが充満するが、不自由な体で悶絶する鬼を見下ろす子供は、平然としていた。
ボトボトと重たい水音と共に無惨の血が抜けていく。猗窩座はそれを惜しむこともできず、全身を劈く激痛にただ蹂躙されていた。上弦の鬼として、数多の強者と戦い打ち破ってきた中でも、一度も経験したことがない想像を絶する痛みだった。
(が、ぁッ、アアアアアアァッ、死ぬッ、死んでしまうッ!)
血涙を流しながら、音のない悲鳴を上げ続ける。
「そう心配せずとも、こやつは負けんよ、恋雪。そなたが惚れた男は強いのだろう? 私は少し外すが、夜明けまでには戻る。それまでは、そなたが着いて声でもかけてやれ」
金烏が誰に話しているのか、関心を向ける余裕もなく、ただ遠ざかる小さな背中を睨みつける。喘ぐ息に押し出されて溢れる血液に噎せ、意識が朦朧としてくるが、ふいに肩に触れたひんやりとした感触は鮮明だった。
『狛治さん、頑張って!』
血まみれの耳にも、あまりにも明瞭な声だった。遠ざかっていた感覚が、その鈴のような声を焦点にひとつに繋がり、ブツンと縄が切れるような開放感が広がる。地べたに縫い付けられていた頬が浮き、恐る恐る声の主を見上げる。
『狛治さん、私が見えるの?』
それは、夜空が透けて見えるほどに儚い幻影―頼りない体つきの、年頃の少女だ。結い上げられた髪に氷結を象った髪飾り。薄紅の、少し着古した着物。花のかんばせは乙女らしい薄化粧に彩られ、くりくりとした瞳に涙の膜が張っている。
(お前は、誰だ?あぁ、違う、知ってる、知ってるんだ。この声を、俺は……)
猗窩座の瞬きにこぼれた血が、また一滴、顎まで伝う。その赤黒い軌跡に続いたのは、とめどない透明な滴だった。
少女の幻影が、瞬く間に意味があるものに彩られていく。どうして忘れていたのか信じられない、自分自身より大切な人だった。
「あ、あぁ、こゆき、恋雪!」
ぼろぼろと涙に崩されるように、双眸に刻まれていた文字が流れていく。いつしか動くようになった四肢は力など入らなかったけれど、傍らにひざまずく少女に縋りつくには十分だった。藍色が剥がれ落ちていく爪先で、薄い背中を抱き寄せ、胸元に頭を摺り寄せる。柔らかい手に頭を抱かれれば、もう他の何もどうでもよくなった。
「ごめん、ごめん、覚えていなくてごめん!約束を守れなかった、許してくれっ」
「いいの、いいのよ。思い出してくれたもの。おかえりなさい、あなた」
「あぁああっ、うわああぁああ!」
あふれだす慟哭を夜が包んで抱きしめる。少しの灯りに浮かび上がるふたつの影は、夜明け間直まで離れることはなかった。
※ ※ ※
宮城にあっても内裏から離れた場所に、ひっそりとその館は在った。古くは奈良に都があった時代より、代々御上の護りだけを担ってきた一族。度重なる戦乱にも途切れることなく、時にはその力がないに等しい程弱まっても、その役目を放棄することがなかった彼らは、その重要性と類まれな異能から、決して存在が明かされることはなかった。
それは長く続いた徳川の時代でも、政権の波乱であった明治への過渡期でも、今の明治の世でも変わらない。何も特別ではない新月の夜に、当主が代替わりしても、宮城内の限られた者しかそれを知ることがなかった。
金烏は、今宵、四歳にして当主の座に就いた。彼女の母は体が弱く、お産で命を落としたため、母方の祖母の後を継いだ形となる。金烏の祖母は、御上が京都におわした頃から結界を担っていた日の本一の異能の巫女であった。祖母の母も、そのまた母も、一族の娘で強い異能をもった者たちは、例外なく、その力でもって悪しきモノらを締め出してきたのだ。
一族が護るのは、御所に住まう御方ただ一人であるからして、結界の要たる当主が御所の外に出ることはない。金烏も、彼女の母も祖母も、そうして生きてきた。その役割から、非常に尊ばれる血筋であり、衣食住、教養、身の回りの世話とすべてにおいてことかかない。しかし、一族の麒麟児たる金烏は、それでは満足できなかった。
顔に布をかけられた物言わぬ祖母の枕元に座し、幼児らしからぬ思案顔を浮かべていた子供は、己が地面に転がしてきた鬼が、少女の亡霊にすがって泣きじゃくる姿を【視】て、うっそりと唇を吊り上げる。
「よきかな、よきかな」
能面にも似た顔立ちの中で、黒い瞳が爛々と輝く。
(あと十年もすれば大正時代、正史どおりなら第一次世界大戦が起こる。大日本帝国は世界の列強の仲間入りを果たし、そうなれば無惨ごときをのさばらせておくのは国家の汚点。なれば、必ずや私の代で鬼を殲滅し、時代遅れな刀を振り回す輩どもも解散させよう。そのためには、外で手足となって動ける駒は必須。私の権限で人を動かすことは難しいが、あやかしを使役するならその限りではない。そう、できるだけ強く、従順なあやかしだ。あの鬼……猗窩座といったか、あやつが丁度よい。【原作】でも終盤まで強敵であった筈だ。柱を何人も葬ってきたと言っていたし、確か中盤で炎柱を殺害していた。)
小さく正座したまま、頭の奥底にある知識を引っ張り出す。生まれたときから備わっていた不思議な未来の知識は、物ごころついた今、自由に取り出して閲覧することができた。その中でも、鬼舞辻無惨という鬼の祖と、無惨によって鬼となった者たちの物語は、金烏の一族に伝わる鬼の情報に完全一致しており、最も興味深いと感じていた。
(全ては御上のため。千年以上にわたりこの国に巣くう化物を根絶やしにすることが、我が使命。全ては私の胸の内に、未来は誰にもわからぬまま書き変わるのだ。)
閉ざされた障子の向こうで闇が薄れ始めた頃、金烏は静かに立ち上がり、祖母が眠る部屋を辞した。向かう先は、これから長い付き合いとなるであろう鬼が待つ場所だ。
始まりの分岐は、ある新月の夜。宿命を待たずして救われた修羅と不完全な転生を果たした子供の出会いから全ては書き変わっていく――
【登場人物紹介】
猗窩座/狛治
主人公。本作における超勝ち組。今回は弱弱しい描写しかないが、ホントは滅茶苦茶強い。
恋雪
ヒロイン。狛治さんに思い出してもらえてとても幸せ。ものすごくかわゆい。
金烏(きんう)
黒幕。令和から転生してきた人。転生先のボディが天才すぎて、前世の人格が完全に食われて消えてしまった。超愛国者にして、国=御上な思考の持ち主。代々女系で異能を継いできた家系の新当主。呪いの類を一切通さない結界を張ったり、呪いを体から追い出したり、幽霊を疑似受肉させたり色々なことができる。歴代当主の中でも指折りの術者。四歳詐欺の見た目は平凡、頭脳はラスボスな人。