最終選別、動き出す物語――
※ 藤襲山→宮城
竈門炭治郎は鼻が利く。それはもう、熊や犬のような獣にそん色ないほど、もしくはそれ以上の嗅覚を有している。時には、相手が何を考えているかもわかるほど、目や耳以上に彼の鼻は頼りになった。
(物凄い藤の香りだ。他の何も嗅ぎ分けられないぐらい強い。)
初対面のあの日から、結局二年近くも師事することとなった炎柱・煉獄杏寿郎から修行終了を宣言され、藤襲山へと送り出された時、久しぶりに帝都の家族のもとに寄ろうかと考えていた。しかし、腰に差した日輪刀に触れると、そんな気はなくなり、まっすぐに山のふもとまで来てしまっていた。
(千寿郎さんもこの山に来たんだな。この刀、大事に使わせてもらいます。)
炭治郎が煉獄家から借り受けてきた刀は、以前、杏寿郎の弟である千寿郎が手にし、色を変えることができなかったという一振りだ。煉獄家に滞在して修行した一年半で、年が近い千寿郎とはかなり親しくなった。その彼が、是非使ってほしいと渡してくれたのだ。
じっと目の前の山を見つめてみる。狂い咲きの藤が麓から中腹までおおうこの山は、中に入れられた鬼が出てこられない牢獄だ。杏寿郎から最終選別の概要を聞いてはいたが、鬼がひしめく山で七日間も過ごすのは、きっと過酷なことなのだろう。
(狛治さんは、弱い鬼しかいないと言っていたけど、弱い鬼ってどれぐらいの強さなんだろう。)
山への入り口にはまだ誰もいない。かといって近くの村まで戻るのも躊躇われ、炭治郎は道端の大きな石に腰を下ろした。
(俺が知ってる一番強い人は狛治さんと煉獄さんだ、他の柱のみなさんも、きっととても強い。鬼舞辻無惨は、彼らよりも強いんだろうか。俺も煉獄さんたちの力になれるだろうか……違う、なるんだ、俺は、日の呼吸の剣士になる!)
炭治郎の脳裏に、すました獣のような美々しい男や、獅子のような激しい眼力の男、煉獄家に滞在するうちに出会った何人かの柱達の姿がよぎる。全員とも、今の炭治郎では一瞬で倒されるであろう実力者だ。そして、その中で唯一の鬼である狛治は、きっとこの山の鬼すべてよりも強いのだ。
「鬼を倒して、家族を守る!」
むん、と一人こぶしを握る炭治郎。その様子に、街道を共をつれてやってきた少女姿の子どもたちが思わず足を止め、かなり離れた木の上から枝葉にまぎれて見守っていた護鬼が笑いを押し殺したが、気合を入れ続ける少年が知る由もなかった。
朝日が昇るころ、狛治は七日間ずっと見守ってきた少年が下山してくるのを感慨深く見つめていた。炭治郎に感づかれるわけにいかないため、100メートル以上離れた木の上からだが、大きなけがをしていないのは見て取れた。
(主が仰ったとおりだったな。)
金烏に命じられた長期任務は、竈門炭治郎をこうして見守ることだ。想定外の強敵などの絶体絶命状態でなければ、手出ししてはならない。炭治郎は戦いの中でこそ成長する。これが、金烏からの絶対の言葉だった。
藤襲山でも、狛治は一時も炭治郎から目を離さなかった。ほかの参加者にも気づかれないよう、常に潜みながら、稚拙ながらも美しい神楽の剣を見守っていた。
弱い鬼とはいえ、時には複数で襲い掛かってくる。それでも、炭治郎は冷静に立ち向かい、時には他の参加者を守ってみせた。蛮勇でも慢心でもない、確固とした戦況判断で、自らを含めたより多くが生き残ることを最優先にしていた。
炭治郎が助けた者たちは、いずれもけがを負って、そのままなら死が確定していた者だ。戦意を失い、無駄に死んだであろう命。選別が終わり、山から自力で降りられなかった時点で不合格になった彼らは、それでも炭治郎の手を握って感謝していたのだ。
(生き残ったのは半数、合格は5名。例年よりは大分マシだな。よくやったぞ、炭治郎。)
疲労しきった様子で、それでも助かった者たちと笑い合う炭治郎は、まるで地にある太陽のようで、狛治は眩し気に瞳を眇めた。
※ ※ ※
とん、とんとまな板と包丁が奏でる音が聞こえる。
屋敷の縁側から有一郎の鍛錬を見守っていた恋雪は、その音から連想した幸せな食卓に思いを寄せ、ぽっかりと穴が開いたような胸に手をあてた。狛治が長期の任務に出て、今日で七日。炭治郎が七日間の最終戦別を受ける間の護りだと聞いているので、早くとも戻りは夜だ。金烏のもとで再会の奇跡を得てから、あまり長く離れたことはなかった。狛治が遠方に赴くときは、いつだって恋雪を伴っていたからだ。
二人の父は、狛治と恋雪の祝言の後、金烏の許しをえて成仏していった。ありったけの祝福を与えてくれた彼らはもうおらず、狛治が傍にいなければ、とても寂しいのだ。
(とても長い間、あの人をただ見守るだけだったから、寂しいのは慣れてるのに。)
狛治が猗窩座として在ったころ、恋雪たちの声が彼に届くことはなかった。鮮血を浴びて喜々として戦う修羅の鬼に、どれだけやめてと懇願しただろう。猗窩座以外に生きる者がいなくなった場所で、彼が強者と褒めたたえた人間の躯を貪り食うのを見ていることしかできなかった。その時の悲しみに比べたら、帰ってくることが分かっている留守番など、大したことではないというのに。
「恋雪さん、呆けるなら奥に引っ込んでてくれる?」
「あっ、ごめんなさい」
あまり刺々しくない有一郎の言葉に、小さく謝罪をのべる。素振りの手をとめた彼は、長い髪を高く括り、もろ肌を脱いだ袴姿で、じっと恋雪を見つめていた。勝気そうな眦が睨んでいるように見せるが、ただ心配しているだけだと恋雪は知っていた。
「技の練習すると砂利が飛ぶし、死ぬほど疲れると手から刀がすっぽ抜ける。あんたは怪我しないけど、当たったりしたら、こっちが嫌だ」
「うん、気をつけます。注意してくれてありがとう、有一郎君」
「別に」
ぷいと横を向く有一郎は、十四歳になってすっかり思春期だが、人生に拗ねて尖っていた頃よりもずっと丸くなっている。恋雪の背を抜いたころから、こうして狛治がいないところでは守ろうとしてくれるのだ。
「狛治さん、今夜帰ってくるんだろ。昼ごはんの用意が終わったら、台所使わせてもらったら」
「そうね、そうする!」
恋雪はもう一度、ありがとうと微笑み、縁側にあがった。ここ数か月、狛治は恋雪が作ったものなら食べられるようになったのだ。身にはなっていないとのことだが、毎食、大層喜んでくれる。帰りが遅くなっても美味しく食べられるものを用意しよう、と内心張り切って、台所に声をかけにいく。
庭に一人残った有一郎は、少女の背中が見えなくなると、盛大に息を吐き出した。
(なんで数百歳の幽霊の世話をやいてやらないといけないんだ。いつまでたっても新婚気分で、おめでたい人たちだ。)
有一郎が鬼と幽霊の若夫婦に助けられたのは、もう三年近く前のことだ。弟と暮らしていた小屋を鬼に強襲され、有一郎は腕をもがれて死にかけた。狛治たちが超常的な力で関与しなければ失血死していたというのが、後から知らされた現実だった。わけあって弟の無一郎とは離れてしまったが、今の生活に不満はない。有一郎からすれば大層恐ろしいこの屋敷の主人さえ、一応は良くしてくれるからだ。
(ここの生活は悪くないけど、早く狛治さんみたいに外で戦いたいな。)
左手にだらりと持っていた木刀を再び正眼に構え、鋭く振り下ろす。
時透有一郎は、正統派剣術の天才だ。金烏が彼の師として手配した元抜刀隊の剣豪は、その才能に歓喜し、一年でもう教えることはないと役目を辞した。その後も、各地から高名な剣術家を招へいしては教えを受けてきたが、そろそろ呼べる相手がいないと金烏が匙を投げたのが、つい先日。いっそ鬼殺隊の育手に頼んではどうかとの狛治の意見と、それを嫌がる金烏の鶴の一声という一幕もあったのだが、有一郎の知るところではなかった。
(戦いたい! 無一郎との生活を狂わせた鬼共を、弟の敵をっ、俺だって倒したいんだ!)
びゅんと木刀が軌跡をひとつ描いた後には、緑の葉が風にあおられ、空中で綺麗に三分割されていた。
※ ※ ※
狛治は予定どおり、七日目の夜に【八咫烏の家紋の屋敷】に戻ってきた。
先に気配を感じて、報告の場に恋雪を呼んでくれた金烏は、竈門炭治郎の無事を聞くなり話を切り上げ、下がってよいぞと笑顔で二人を廊下に追いやった。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま、恋雪」
居住区として与えられた小さな離れに、手をつないで歩いていく。途中で風呂上りの有一郎とすれ違ったが、彼はあからさまに気を利かせた風に、ひらひらと手だけ振ってくれた。
「御夕飯を用意したけど、食べられる?」
「ああ、ありがとう。七日も木の上だったからな、ゆっくり恋雪の飯を食べられるなんて極楽だよ」
「離れの台所で少し温めなおしますね。先にお風呂の方がいいかしら」
「いや、待ってる。しばらく傍にいたい」
そんな会話をしながら離れに足を踏み入れる。小さいが、二人暮らしには十分すぎる二間続きのそこに入るなり、狛治は可愛らしい妻を抱き込み、猫のように頬を摺り寄せた。
「は、狛治さんっ」
「ごめん、飯は後でもらうから。寂しかったんだ、恋雪」
赤面する恋雪に顔を寄せ、狛治は花びらのような唇を食んだ。何度か、ちゅっちゅっと触れては離れ、少女の黒目がちな瞳が伏せられると、己も長い睫毛を伏せて深く口づける。小さな手が短い羽織の背に回され、逞しい腕が帯より下のやわい部分を抱き寄せて。二人は体を寄せ合いながら、戸の前から手前の部屋へともつれこんだ。
「ねぇ、あなた、私もさびしかったの。すごくさびしかったの」
「好きだ、恋雪」
「好きよ、狛治さん」
ころりと畳に仰向けにされた恋雪は、覆いかぶさる狛治の頭を抱き、短い髪をなでつけた。凛々しい顔を紅潮させて口づけてくる男が愛しくて、愛しくてたまらない。彼が鬼であっても、自らが死人(しびと)でも、二人で赤い糸に包まれるこの時間には関係なかった。
狛治の手が、宝物を開くように着物の袷に触れる。そこからは、もう言葉もなく、いとしいとしと呼ぶ心だけが花火のように燃えていた。
【登場人物紹介】
狛治/猗窩座
主人公。炭治郎の鬼殺隊の任務は、死なない程度に自力で成し遂げさせろと命じられているため、いつも遠くから見守っている。原作で禰豆子がカバーしていた部分を、さりげなくサポートする。任務のせいで恋雪成分が不足している。えっちしたい。
恋雪
ヒロイン。今後は旦那さんが炭治郎の見守りにつきっきりになるため、お留守番が多くなってさみしい。さびしんぼでもえろかわゆい。
金烏
ラスボス系巫女さん。本格的に原作が動き出したため、狛治を炭治郎に張り付けた。なお、炭治郎の安否は、日の呼吸とヒノカミ神楽を他者に伝授できる状態ならセーフと思っている。作戦名は「いのちをだいじに(ただし命以外は結構どうでもいい)」。かわゆい夫婦にそういう欲求があるだろうなと見越して離れを与えた賢者。
時透有一郎
毎日ものすごく鍛錬している。純粋な剣では超天才。某魔法燕返しもびっくり。ただし実戦経験がまだで本当の意味での苛烈さがないため、危なっかしい。左腕については後ほど触れます。
竈門炭治郎
原作主人公。この連載では最初から日の呼吸の使い手。常中を含む呼吸法と剣技を炎柱から学んだため、神楽をベースにした剣舞に加えて炎の呼吸技も使う。原作同時期に比べてずっと強いが、禰豆子のことがないため鬼気迫る執念がない。