炎の目覚め、刀の愛し子出陣すーー
※無限列車から四ヶ月後→遊郭編開始
ぱち、と瞳を開くと、辺りは思いのほか明るくはなかった。急激に覚醒した意識にかえって混乱しかけたが、杏寿郎はひとつずつ意識を失う前の事柄を思い浮かべ、続いて布団の中から左手を出して自分の顔に触れた。少し柔らかくなった気がする指先で、そろりと左目の縁をなぞる。掌が目を覆ったことで視界が半分になり、手を下ろせば、また天井が広がった。
「よもや」
布団の中で右手を動かし、今度は腹を触ってみる。こちらも少し柔らかくなっている気がしたが、布越しに確かめた鳩尾に穴など空いてはいなかった。少し強めに押してみても痛みも違和感もない。感触からして、傷跡もないのではないかと思った。
慎重に体に力をいれて上半身を起こす。着せられている夜着も、見慣れた部屋も、間違いなく生家の私室であった。煉獄家は代々炎柱を輩出している家系であるため、嫡男が柱になった場合、就任時に用意される屋敷は辞退するのが常だ。つまり、こうして自宅で寝ていること自体は、おかしくはなかった。
(死んだと思ったのだが、あの状態で一命をとりとめたというのか。いや、つぶれていた眼球が戻っているし、腹からあふれ出た臓物も元通りだ。これは一体)
誰かが梳いてくれていたらしい、あまり乱れていない髪を撫でつけ、改めて体を見下ろす。襟元をはだけて覗いた腹は、やはり傷など跡形もなかった。
ふと廊下に気配を感じて顔をむけると、近づく聞きなれた足音がする。相手が障子に手をかけるのと同時に千寿郎と呼びかければ、スパンと恐ろしい勢いで障子が横に流れていった。
「兄上!! 目を覚まされたのですね、ああ、よかった、よかったぁ!!」
杏寿郎に瓜二つの、しかし二回りはちいさい少年が涙目で転がり込んでくる。いつも大人しく静かな弟のその様子に、杏寿郎はどれだけ自分は寝ていたのだろうかと考えを巡らせた。布団際まで膝で走ってきて兄に抱き着いた千寿郎は、背を抱き返されて小さく鼻をすすっていた。
「おはよう、千寿郎。俺はだいぶ寝ていたか?」
「おはようございます、兄上。今日で110日目です」
「……そんなに寝ていたか」
どうりで体が柔くなっているはずだ。否、それだけ眠っていた割には体の動きも血の巡りも良好すぎた。不可思議なことだが、都合が良いことは気しないことにした杏寿郎の頭は、すでに鍛えなおしの鍛錬内容が浮かんでいた。しかし、体をはなして正座した千寿郎が難しい顔をしているのに、ことりと首を傾げた。
「どうした、他にも何かあっただろうか」
「……一月ほど前に、護鬼ご夫妻がたくさんお見舞いの品を持ってこられて、父上が、その」
「まさか、追い返したのか」
「いえ、【八咫烏の家紋の御方】からのお見舞いでしたので、ありがたくいただきました。ただ、狛治さんにとても怖い顔で何やら話していて、父上とあの方は面識があったのでしょうか」
弟の疑問に、杏寿郎はありったけの記憶を巡らせる。宮城直属の護鬼―狛治のことは、鬼殺隊の末端まで通知されており、元炎柱である煉獄槇寿郎の耳に入っていても不思議ではない。けれど面識はないはずだ。
「あと、炭治郎さんなのですが」
「炭治郎も何かあったのか」
「……任務の合間によく見舞ってくださるのですが、その度に父上と、その」
「……わかった」
竈門炭治郎は、半年ほど前まで煉獄家で預かり、杏寿郎から呼吸法と剣術を学んだ。千寿郎にとっては、二年近く同じ食卓を囲んだ仲であり、年が近い友人と言ってもいい。明るく優しく、概ね人の美点としてあげられる性格の良さを兼ねそろえた素晴らしい少年であるが、杏寿郎の父とは非常に折り合いが悪かった。
(いや、あれは父上が一方的に嫌っているのだ)
炭治郎が煉獄家で寝起きするようになってからというもの、何年も酒浸りで自室に引きこもっていた槇寿郎は一時期底辺まで悪化し、ことあるごとに炭治郎をなじった。どうやら竈門家に伝わる日の呼吸法とヒノカミ神楽は、煉獄家と因縁があるようだった。しかし、あれだけ罵られても冷静に対応していた少年が、千寿郎が困るようなことをするとは思えなかった。
「この間は狛治さんと一緒に来てくださったのですが、日の呼吸の記録の話になった際、父上が日輪刀を持ち出して、それに炭治郎さんが頭突きを返して」
「なんと!」
「父上は倒れてしまいました」
「大丈夫なのか、それは」
「はい。あの、兄上が起きてくださって本当に良かった。今日は炭治郎さんがいらっしゃる予定で、どうにか穏便にお迎えしたいんです」
目を覚まされたばかりなのにごめんなさい、と肩を落とす弟に、杏寿郎は内心ぐるぐるしながら頭を撫でてやった。起き掛けには多すぎる情報だったが、とりあえず、先決なのは。
「よし、兄に任せておくといい。それよりも千寿郎」
「はい」
「腹が減った。何か食事をもらえるか!」
「はいっ」
※ ※ ※
無限列車の激闘から約四か月。
狛治が恋雪をともなって煉獄家を訪れるのは、これで二度目だ。一人だけの訪問と炭治郎に同行した前回を含めれば両手足の指では足りないほど。毎回、杏寿郎の弟である千寿郎は快く迎えてくれるのだが、前回鉢合わせた彼らの父―槇寿郎は、真逆の様相をしていた。
(あれは悪鬼を見る目だった。猗窩座と対峙した鬼狩り達と同じ目だ)
すました獣のような顔の下で、友人に瓜二つの男の目を思い浮かべる。煉獄槇寿郎は前炎柱であり、しかし猗窩座は彼と会ったことがなかった。そも出会っていたなら、槇寿郎は今頃生きていないだろう。
けれども、鬼の情報というのは共有されるものだ。
「貴様、上弦の鬼だろう! 知っているぞ、鎹鴉からの訃報で聞いた、俺の友……岩柱も、風柱も、最後に交戦したのは拳法使いの上弦の参、猗窩座と名乗る男鬼であったと!!」
槇寿郎に捕まれた胸倉は、さして気にもならない。友人よりもずっと疲れ果てた顔立ちが憤怒に染まっていようとも、殺気まみれの怒声を浴びせられようとも、そんなことはどうでもよかった。ただ気になるのは、父親が部屋に乱入してきたのを制しようと伸ばした手を止めた杏寿郎と、お茶を運んできた恰好で固まっている彼の弟。そして、自分の隣で静かに正座している妻。
「槇寿郎殿」
「どの面を下げて我が家に踏み込んでいる!! 悪鬼め、貴様に俺の家族を喰わせてなるものか!!」
狛治の首元をつかんで部屋の外へと放り出そうとしている力は、槇寿郎が死ぬ気で膂力を込めたものだろう。それは胡坐をかいた鬼を少しだけ揺らしたが、狛治が緩く手首を掴んだだけで双方は拮抗した。
「槇寿郎殿、勝手に上がり込んでしまい申し訳ありません」
長い睫毛にふちどられた瞳で見つめれば、槇寿郎の酒気を帯びた顔色がどんどん白くなる。狛治は震えるほど全身に力をこめる男を、柔術の応用で畳に座らせ、杏寿郎と千寿郎へと声をかけた。
「杏寿郎、少し時間をもらえるか。今更かもしれないが、俺のことを話したい」
産屋敷殿に報告しても構わない、と告げて杏寿郎と目を合わせる。数か月前の大怪我など伺わせず堂々と座した炎柱は、いつもと変わらない明朗さで頷いた。
「構わんぞ! ずっとお前の口から聞きたいと思っていたのだ」
杏寿郎は千寿郎を隣に手招き、穏やかに父上、と槇寿郎を呼んだ。長男が死にかけて眠り続けている間に、槇寿郎は随分と老け込み、目を覚ましてからは息子たちを避けるようにますます自室にひきこもるようになった。それでも、鬼の気配を察するなり、わき目も降らずに駆けつけてきたのだ。蔵から日輪刀を出すことさえ忘れて、上弦の鬼かもしれない相手に身一つで。
「父上、狛治の話を聞きましょう。彼は今生陛下に侍る護鬼です。何の見返りも求めることなく人々のために戦う姿を、俺は何度も見ている」
「こいつは人喰い鬼だぞ、杏寿郎!!」
「今は違います。狛治は、俺の友です」
はっきりと言い返した杏寿郎に、槇寿郎の前でずっと黙っていた恋雪が息をのむ。狛治は右手だけ畳に滑らせ、彼女の膝のうえで握られた手に触れた。掴んだままでいた槇寿郎の手首を放せば、男は殺気をそのままに千寿郎の斜め前に壁のように座る。
(ありがとう、杏寿郎。お前に恥じない友でありたいと思うよ)
己に向けられる三対の宝石のような燃える瞳と、柔らかい花の眼差しを、恐れることなく受けいれる。
「十二年前に【八咫烏の家紋の御方】に拾われる前の俺の名は、猗窩座。鬼舞辻無惨によって鬼となった十二鬼月が一、上弦の参。数百年にわたり人を喰い、鬼殺隊と戦ってきた悪鬼だった」
狛治の長い告白は、かくして始まり、夕刻には炎柱の鎹鴉を介して産屋敷耀哉に共有されることとなる。猗窩座の影が遠ざかることはなく、煉獄家から帰る道、狛治と恋雪は黙って手をつないで歩いた。
※ ※ ※
吉原・遊郭ーー
夜になれば欲望が人の形をとって跋扈する、日ノ本でもっとも華やかな場末の街。昼間は遊郭に出入りする商人や男衆、外を出歩くことを許された遊女達ぐらいしか出歩いていない通りに、いささか場違いな少年が一人歩いていた。
年の頃は十代半ば、まだ頼りなさが残る中背の、透き通った顔立ちの少年だ。背の中ほどまで伸ばした黒髪を高くひとつに結い、黒い着物の上下という普通の出で立ちだが、大きな薄浅黄の瞳と成長期特有の美しさが雑踏に紛れることを許さない。近くで見れば、彼が身に着けている和装も、足元の珍しいショートブーツも仕立てが良い一級品だった。
(変な街。そこらじゅう嫌な臭いがするし、よくこんなところに住めるな)
形良い鼻をきゅっと摘み、少年ー時透有一郎はひとり毒づく。山育ちで、やんごとなき一族の屋敷に保護されてからは宮城から出たことがなかった彼は、帝都の中さえろくに知らず、そも吉原が何のための場所かもわかっていなかった。
(えっと、確か荻本屋だったな)
今朝、手ずから切り火をして送り出してくれた金烏は、有一郎に地図を手渡し、荻本屋という宿屋に渡りをつけたからそこを拠点にしろと言った。何でも、鬼を倒すまでの滞在中、寝床も食事も世話してくれるとのことだ。ありがたいと思いつつ、腰にさがる重みにそっと左手を添わせる。
有一郎の佩刀ー粟田口吉光は今、誰の目にも映らない術が施されている。鞘から引き抜いてしまえば解ける術だが、戻せば再び姿消えるという便利なものだ。この術も含め、有一郎が身に着けている物すべてに金烏による護りが施されていた。
(鬼殺隊の柱と一緒に、鬼を殺す。頸を落とす。大丈夫、爺様に教えてもらった鬼の狩り方を忘れるな)
少女めいた顔に冷ややかな殺気が浮かぶが、鬼が見ているかもしれないとすぐさまかき消し、宿を探すべく地図を開いた。
「御坊ちゃん、良い店をお探しかい?」
商人風の羽織姿の中年男がにこにこと声をかけてくる。有一郎はなんとなく嫌だなと思い、柳眉をよせて男を一瞥した。
「地図があるから大丈夫。話しかけないでよ」
「おお、そんなに邪険にしないでおくれ。その様子なら、吉原は初めてだろう?」
最初から引き気味の有一郎に、男は気にせずぐいぐいと体を寄せてきた。宮城では嗅いだことがない不快な香の臭いに、ますます顔をしかめて後ずさる。少年の美貌を間近で観察しながら、男はにたりとした顔で声を潜めた。
「筆おろしなら、優しい姐さんを紹介してやれるぞ。うひひ、御坊ちゃんはどんな女子(おなご)が好きだい?」
パチン。
逃がすまいと袖をつかもうとした男の手は、一瞬で弾かれ、その喉元に有一郎の右手の指先が迫っていた。あまりに軽い動作のため、それが攻撃だとは誰も思わなかっただろう。事実、行きかう人々は誰も固まる男のことなど気にしなかった。
「触らないで。女なんて用はない。お前なんなの? 邪魔するな」
小声で言い捨て、有一郎はさっさと通りを進んでいく。指を当てられただけで頸が飛んだと錯覚した男は、少年の後ろ姿が見えなくなって腰を抜かしていた。
(筆とか、俺には必要ないし。変な押し売り男、時間の無駄だった)
すたすたと地図をたどって荻本屋にたどり着き、店先のものに名乗ると、狐のような顔をした女がすぐに奥からやってきた。先ほどの男と同じ胡散臭い笑顔だが、悪意は感じないため、刀には触れないでおく。女は、有一郎の容姿を舐めるように確かめた後で、妙に丁寧に二階の一室へと通した。
(女だらけだ。小さい子もいるし、丁稚かな。凄く綺麗な女の人もいたな。おいらんって呼ばれてた。金烏様とは月とスッポン。恋雪さんの方が可愛いけど、なんか雰囲気が違った)
部屋に一人になって、壁際に座り込む。太刀を抱えて取り留めもないことを考えていると、襖の外から控えめに声がかけられた。
「旦那様、楼主と女将がご挨拶をさせていただきたいと申しております。開けさせていただいてもよろしいでしょうか」
楼主と女将ということは、この宿の主人だ。挨拶ぐらいいいか、と部屋の中ほどまで移動して、是と答える。静かに開けられた襖の外では、年かさの男女が三つ指ついて控えていた。その脇には、先ほど見かけた美しい女も同じように首を垂れている。
「ようこそおいでくださいました。宮城にお住いの御方からのご紹介、私共の身に余る光栄でございます。どうぞ何なりとお申し付けください」
男の挨拶に、三人の紹介が続き、その間ずっと彼らは畏まったままだった。美しい女は、やはり花魁というらしく、宿泊客の世話をする女中のような者の中で最も優れているとのこと。彼女に身の回りの世話をさせると言われ、どうでもいいため適当に頷いた。
「ねぇ」
「はい、旦那様」
挨拶が終わり、花魁とふたりで残されるが、彼女は置物のように行儀よく控えるだけだ。その様子が金烏の屋敷の女官や下働きたちが命じられるのを待つ姿と重なり、仕方なく声をかけてやる。
「俺は時透有一郎。名前で呼んで。なんかそれ気持ち悪い」
「はい、有一郎様」
「花魁はこの街で起きることは知ってる方? そうじゃなかったら詳しい人を紹介してほしいんだけど」
「お客様や店の子達が噂していることは耳に入ってきます。花街で起こることなら、それなりに存じていると思います」
「そう。丁度いいね」
無邪気に笑う少年に、花魁は何を聞かれるのかと内心首をかしげる。やんごとなき方の紹介でやってきた年端もいかない客の相手をするため、向こう何日もこの部屋専属を申しつけられたのだ。何を聞かれても、最大限に答えるつもりだ。しかしー
「吉原に強い鬼がいるって聞いたんだけど、何か知ってる?」
淡い唇が発した問いは、予想だにしないものだった。
【登場人物紹介】
狛治/猗窩座
主人公。遂に過去が追いついてきた。色々話しすぎた後に宮城に帰ると、可愛がっている子供が初陣していて愕然。有一郎の出陣先を聞いて、思わず金烏にデコピンした。おまけに別の任務を申しつけられ、もう一発デコピンした。
恋雪
ヒロイン。何があろうとも狛治の傍にいると、とうの昔に覚悟完了していた嫁の鑑。猗窩座が許されないことはわかりきっている。狛治と一緒にデコピン攻撃した。威力がかわゆい。
金烏
ラスボス系巫女さん。煉獄さんに施した術は内緒。猗窩座バレは予定調和。音柱の吉原潜入を耳に挟み、色々ガン積みにした有一郎を派遣した。素流式デコピンに悶絶。おでこいたい。
煉獄杏寿郎
死んだと思ったら四か月近く経ってた。よもやよもやだ! 猗窩座は悪鬼、狛治のことは心から信じている。ずっと寝ていたのに体は絶好調。むしろ日向だと三倍パワーアップしてる気がする人。
時透有一郎
この度、吉原へと出陣した。早く無一郎に会いたい。人喰い鬼は殺す。なお、金烏が三日三晩かけてお呪(まじな)いした装備は以下のとおり。
頭:加護付きの髪紐、運気向上
首:金烏特製お守り袋、ガッツ付与(三回)、毒無効
右手・左手:粟田口吉光、認識障害・陽光属性付与済
体:加護付きの着物と袴、物理防御超向上
足:加護付きのショートレザーブーツ、絶対に躓かない