吉原開戦前、そしてある隊士の窮地ーー
※伊之助視点→獪岳視点
「へぇ、男もいるんだ」
遊女たちが具合が悪いらしいと噂しているまきをの部屋に向かう途中、いきなり声をかけられた伊之助は、ぴたりと足を止めた。着せられた着物のせいで気配を感じ取る力は落ちているが、だからといって常人より鈍いわけではない。それなのに、あっけらかんとした声の主は、伊之助に気取らせることなく間合いに入り込んでいたのだ。
花のかんばせを強張らせて顔を向ければ、脇の階段をほぼ昇りきったらしい同年代の少年がこちらを見つめていた。
長い髪を高く結った、伊之助ほどではないが女顔の少年だ。荻本屋の者ではないが、客だろうか。姿勢が良く隙がない様子に、うずっと襲い掛かりたくなったが、任務中だと自分に言い聞かせる。うっかり喋ってしまわないように口の中で歯をかみしめた。
「あんた、相当鍛えてるね。鬼殺隊士?」
少年は伊之助の目の前までするりと進み、珍しい薄い色の瞳で顔を覗き込む。背丈が近いため、鼻先を突き合わせるその距離は倒錯的な構図だ。大っぴらに言い当てられて伊之助が睨みつけると、少年は首を傾げた。
「その呼吸、全集中の常中だ。やっぱり隊士なんだ。ねぇ、話したいから俺の部屋に来てよ」
そういう少年の呼吸も、良く聞けば全集中の常中だ。鬼殺隊で吉原に潜入しているのは宇随と3人の妻、それに炭治郎と善逸と伊之助だけの筈。この少年は鬼殺隊士ではないようだが、とても只者にも見えない。
(こいつ、強ぇぞ。立ってるだけだってのに、凄ぇ剣気だ)
警戒してとびかかる寸前の獣のようになっている伊之助に、少年は少し面倒くさそうに言った。
「俺は時透有一郎。敵じゃないよ。宮城からの助っ人って言ったらわかる?」
「宮城だと!? お前、睫毛野郎の仲間か!」
「睫毛……狛治さんのことか。ぷっ、あはははっ」
いきなり腹を抱えて笑い出した少年ー有一郎に呆気にとられる。このまま立ち去ろうかと思う伊之助だったが、目的地のまきをの部屋はこの廊下の先だ。ままよ、と有一郎を無視して角をまがり、廊下にぽつんと置かれた食事の膳を確かめた。
(あの部屋、妙な感じだ。何の気配だ)
走り出す伊之助の後ろに、もうひとつ足音が続く。有一郎が追ってきているが、悪意はやはり感じられないため、まずは襖をあけ放つのを優先した。
荒らされた室内に風が吹く。天井から逃げたのかと視線をやれば、すぐ横からすさまじい勢いで剣圧が駆け抜けた。伊之助が睨んでいた方向の天井板がバラバラと崩れ、天井裏の暗がりが露わになる。しかし、そこに鬼の姿もまきをの痕跡もなかった。
ちん、と刀を収める音がする。有一郎は、伊之助のやや後ろから天井を睨んでいた。その両手に刀はなく、腰にも何も佩いていない。
「あんたは屋内を追いかけて。俺は外を見てくるから」
次の瞬間には、有一郎は窓を蹴破って姿を消していた。伊之助も、わき目もふらず壁の向こうの音を頼りに店内を走り抜けていく。途中で客の男を殴ってしまったが、それよりも見失ってしまったことに舌を打った。
(勇五郎はまだ気配を追ってんのか。帰ってこねぇぞ)
日が落ちても荻本屋に戻ってこない少年を気にするのは伊之助だけではなかった。楼主をはじめ、何人かが有一郎が部屋に戻らないと困り顔で探し回っている。花魁まで禿たちに行方を聞いて回っているのが、どうにも不自然だった。
(殺られたか? いや、あの野郎は強ぇ。それに、多分丸腰じゃなかった)
伊之助は夜が明けるまで警戒していたが、ついに有一郎は戻らず、釈然としないまま炭治郎との定例報告に向かうのだった。
※ ※ ※
地面に額をこすりつけ、可能な限り自分を低く見せる。共に遣わされた隊士たちは、とうに切り刻まれて絶命しており、己が目の前の鬼と最後に遭遇できたのは、なけなしの幸運だ。どうせなら見つかることがなければ良かったが、今となってはどうしようもない。
鬼の六つの目のうち、二つには上弦の壱の文字があった。鬼舞辻無惨を除けば最強の個体だ。どんな奇跡が起きようとも、獪岳では勝てない相手。今この場を生き残るために、どんなことでもしようと思った。
「お願いします、お、俺を鬼に……」
圧倒的強者に跪くことに躊躇いはない。けれど、この局面で鬼になったら、もしもなれなかったら、と考える頭が破裂しそうだ。
上弦の壱は、そんな青年を冷めた瞳で見下ろしていたが、ややあって刀を振り下ろすかわりに懐から小瓶を取り出した。顔を上げろと命じられそうすれば、恐ろしい右手に握られた瓶の中で、黒い液体が揺れていた。
「鬼となり……さらなる強さが……欲しいか……」
ゆるりとした口調で鬼が問う。ひたすらに頷けば、小瓶の蓋が目の前を落ちていった。瓶が傾けられ、差し出した両手に禍々しい色が降ってくる。
(ああ、俺は……)
獪岳の脳裏に、稲妻のように小柄な老人と金髪の少年が浮かび上がり消えていく。憎い二人だ。特別になれるかもしれない、認められるかもしれないと期待させ、手ひどく裏切った耄碌した爺。後から来たくせに、爺に可愛がられて獪岳が唯一習得できなかった壱の型を手にしたあいつ。
最初の雫が掌を汚そうとした、その刹那。
「ぬうっ」
「がっ!?」
二人の頭上から無数の衝撃が降り注いだ。一撃一撃が地面を砕き、陥没させるほどの威力だ。たちまち土埃が視界をふさぎ、初撃に後ろに吹き飛ばされた獪岳は、ついにあの液体に触れることはなかった。
ガンッ、バキッ、ザシュッ!!
何が起こっているのか、音だけを拾いながら用心深く後方へと後じさる。どうにか手に握った日輪刀をぶるぶる震える手で構えると、体中から冷汗が噴き出てきた。
「獪岳さん」
「うわあああっ!」
いきなり横からかけられた声に、恐慌状態で刀を薙ぐ。そうしてから、しまったと思ったが、すでに刃の軌跡はその人影を切り裂いていた。同時に、前方からの突風で視界が晴れ、それが少女だとわかった。
獪岳よりも少し年下に見える、小柄で愛らしい少女だ。髪を江戸時代のように結い上げ、結晶の髪飾りをつけている。仕立ての良さが見てわかる浅黄鼠色の着物に、紫檀の羽織を身に着けた、酷く場違いな娘だった。その体に傷はなく、着物もどこも切れていない。
(馬鹿なっ、今確かにぶった切った筈!)
「私は恋雪と言います。ここは危険です。安全な場所まで移動しましょう」
恋雪と名乗った少女はしっかりした可憐な声で言い募り、獪岳の返事を待たずにその手を取った。利き手ではなかったが、いきなり触れられて思わず固まる。
「私と手をつないでいれば、見つかることはありません。早く、狛治さんが闘ってくれてる間に離れます!」
花のような眼差しは、こんな時でなければ自分に気があるのかと勘違いしそうなほど真摯だった。恋雪に手を引かれ、獪岳はのろのろと走り出した。背後では、激突の音だけでなく、肉が斬られる音、地面や建物が砕ける音、あらゆる破壊の限りの音に上弦の壱ともう一人の男の声が混ざっていた。
「猗窩座、話には聞いていたが……その姿は……一体どういうことだ……」
「貴様に答える義理はない!」
肩越しに振り返った獪岳の目に映ったのは、右肩から先を失っている短い羽織姿の男と、悠然と佇む上弦の壱だった。男の方が半身の構えをとると同時に、右腕が即座に再生し、彼も鬼なのだと悟る。すでに上弦の壱は獪岳のことなど忘れたようで、恐ろしい六目は男にだけ注がれていた。
少女の遅い足取りでも、何物にも阻まれなければぐんぐん距離が空く。いつしか対峙する鬼たちは見えなくなり、壊滅状態の集落を出るころには戦いの音も聞こえなくなっていた。しかし、辺りを震わせる殺気から、まだ両者の衝突は終わっていないと感じられた。
「ぜぇ、ぜぇ、獪岳さん、ここから半日走ったところにある町はわかりますか?」
肩で息をして、ふらふらと立っている恋雪がようやく手を放す。大した距離でもなかったのに顔を真っ赤にしているのは、全く運動と無縁の生活をしている証拠だ。そんな娘がどうしてあの強そうな鬼の男と共にあの場に現れたのか、生来疑り深い獪岳でも想像がつかなかった。
「町までの道、わかりますか?」
答えない獪岳に、恋雪はさらに問いかける。必死なのか、愛らしい容姿に似合わぬ剣幕だ。
「あ、あぁ。藤の家に寄ったことがあるからな」
「よかった。私は狛治さんを待たないといけないから、貴方は先に一人で町まで走ってください。大丈夫、さっきの鬼にはけして追わせません。藤の家についたら、私たちを待っていてくださいね」
「足止めしてる奴が死んだら、次はお前だぞ。まだ夜明けまで四半刻あるのに、追わせないってどうやるつもりだ」
説明もなしに放り出そうとしている相手に、苛々と言い返す。すると、彼女はじっと獪岳を見上げ、にっこりと笑った。
「狛治さんも私も死にません。貴方は、逃げることだけ考えてください」
何の根拠もない言葉だ。けれど、集落の中ほどから轟いた地響きと白みつつある空を貫いた三日月状の斬撃に背を押され、獪岳は全力で走り出した。乱入者の男女がどうなろうと知ったことではない。それでも、この瞬間、自分が生き残る可能性が広がるのなら、足止めぐらいさせてやると、必死で先を目指す。
雷の呼吸にふさわしくあっという間に見えなくなった獪岳の背を見送り、恋雪は強く握っていた両手を解いた。そうしていなければ、金烏に命じられたとおりにあの青年に対応できなかったのだ。
(主様は、けして言い返さず、ひたすら逃げるよう促せと仰ったけど)
「嫌な人だな」
ぽつん、とつぶやいた言葉に自己嫌悪して、恋雪は壊れた村の入り口で、いまだ戦っているであろう夫を思った。
【登場人物紹介】
狛治/猗窩座
主人公。有一郎が心配なのに別任務を与えらえた。数十年ぶりに上弦の壱と対峙し、ただ今交戦中。獪岳と恋雪を二人にする作戦を金烏から聞いた時は、またデコピンしてやろうかと思った。
恋雪
ヒロイン。超強敵を夫が足止めしている間に、大役を果たした。生前はできなかった全力ダッシュに後から思い出して感激。獪岳は初対面ですでに好きじゃない。足は遅いけど一生懸命かわゆい。
金烏
ラスボス系巫女さん。デコピンのダメージから回復し、三発目は知らず回避できた。有一郎の安否は全く心配していない。獪岳をどう料理してやろうか手ぐすね引いている。
時透有一郎
足袋で飛びだしてしまったためブーツを履きに荻本屋に戻ったが、その後、吉原で迷子になった。人喰い鬼は殺す。何気に宇随や炭治郎と顔合わせする機会をスルーした。
獪岳
原作通りの困った兄弟子。上弦の壱に遭遇し、土下座で命乞いしていたところに新手がやってきた。半日後には藤の家に到着し、やった助かったと喜ぶが、実のところ全然助かっていない。