伽藍堂に佇む男のことーー
※獪岳のその後
手鏡からの光が消え失せ、宿の一室がしんと静まる。恋雪が丁寧に鏡を片づけるのを横目に、狛治は冷めてしまった湯呑の茶をぐいと空けた。
いましがたの金烏との会話は途中から目をかけている子供の話題で占められていたが、当初の任務は継続している。新たに命じられた行先は、ここから街道を二日ほど進んだ山の中だ。吉原での戦闘に間に合わせるのは難しいだろうが、なるべく急ぎたい。どうしたものか、と狛治は卓袱台上で指を組んだ。
「恋雪、早く出立しよう。桑島殿のところまでは走っても一日かかる」
「はい、あなた。荷物はもう纏まっているから、あとは獪岳さんね。すぐ起きるといいけど」
「用意ができても目覚めなければ、担いでいく。その方が面倒がなくていい」
「あんまり乱暴にしちゃ可哀相よ」
可愛らしい眉をさげる恋雪を手招き、傍に膝をついた彼女の肩を抱き寄せる。黒死牟を相手取って余裕がなかったものの、あの時、狛治は見てしまったのだ。獪岳がふるった刃は、確かに恋雪の体を袈裟懸けに切ったのだ。
「初めて、よかったと思ったんだ」
淡く花の香りがするうなじに顔を寄せ、ぽつりと零す。狛治の手に力がこもるのを感じた少女は、何がと囁き返した。
「お前が、生きた体でなくて良かったと思った。酷い夫だろう」
「いいえ。いいえ、狛治さん、私も思ったの。この体で良かったって。少しでも役に立てて、とても嬉しいの」
恋雪がそう言えば、狛治は恐る恐るといった風に細い項から顔をあげた。鼻先が触れそうな距離で、お互いにぱちりと瞬き、泣き笑いで口づけた。もっと深く、と体を寄せた狛治だったが、室内のもう一人が目を覚ますのを感じて諦める。恋雪も頬を染め、かちゃかちゃと卓袱台の上を意味もなく整理しはじめていた。
「う……」
畳に転がされた格好の獪岳がゆらりと身を起こす。長い横髪で表情はうかがえないが、頭に右手をあてる動作に支障はないようだ。金烏の術が利かない筈はないが、彼女の説明からその効果が理解できなかったため、狛治はあえてゆっくりと、相手の正面に移動してから身をかがめた。
「気分はどうだ」
「あ、あぁ、気分は悪くない」
狛治の膝が視界に入ったからか、獪岳が顔をあげる。ついさっきまで険があった顔つきが、おぼつかない子供のように緩んでいた。もとが男らしく整った顔立ちであるため、悪意がない表情はまるで別人のようだ。
「俺のことはわかるか? これまでのことやお前自身のことは?」
「あんたは宮城の護鬼で、名前は狛治。そっちの女は恋雪。俺は獪岳、雷の呼吸の一門で前鳴柱・桑島慈悟郎の弟子だ。さっき、あんたの上司と鏡越しに会話した。その前、その前は……上弦の壱と遭遇して、死にたくなくて命乞いをした」
力なく座り込んだ格好で口だけを動かす姿は、どこか異様だ。あれだけ悪い意味で自己主張に溢れていたくせに、剣士の恥を告白する獪岳は顔色一つ変えていない。ついには、生き残るために鬼舞辻無惨の血を乞うたと語った青年に、もういいと告げれば、途端に口を閉ざした。
「【八咫烏の家紋の御方】との話は覚えているか?」
「色々と図星を刺された。それで、何故か怒りがわいて、鏡を叩き割ろうとした」
「……怒りがわいた理由は?」
「わからない。どうでもいい」
狛治がぴたりと視線を合わせても、獪岳の目は逃げない。無気力な様子は、どこか霞柱・時透無一郎を思わせたが、根本的に異なっていた。金烏は、この男を真っ新空っぽにしたと言ったのだ。忘れさせたのでも、封じたのでもなく、真っ新にしたと。
「今からお前を桑島殿のところに連れていく。しばらく養生して、鍛えなおしてもらえ。きっと、それがお前のためになる」
「わかった」
「大分距離があるが、急ぐため走るぞ。全集中の常中に支障はないか」
「ない」
狛治が立ち上がれば、獪岳もしっかりした足取りで畳を踏み、脇に転がっていた日輪刀を拾って腰に佩いた。何を考えているのかわからない無表情は、実際に何も考えていないのかもしれない。黒い眼差しは、ぞっとするような伽藍洞だった。
少ない荷物を鞄にまとめた恋雪が夫に寄り添う。差し出された手に荷物を預け、ちらりと獪岳を見つめた少女は、しかし何も言わず狛治の後をついて部屋を後にした。二人に続く獪岳はまっすぐ前だけ見つめ、ただ視界に入るすべてを受け入れていた。
※ ※ ※
吉原での激闘から二か月弱。やっと蝶屋敷から退院できた善逸は、入院中に伝えられたことの真偽を確かめるために、治ったばかりの足で街道を駆けていた。雷の呼吸の一門でも飛びぬけて脚力に恵まれた善逸は、通常の隊士なら一日以上かかる距離を半日で稼ぎ、夕刻前に懐かしい師の家に転がり込んでいた。
「爺ちゃん、獪岳はっ!?」
ごろごろと土間を二回転してから、台所で野菜を切っていた慈悟郎の足元に這いつくばった善逸は、開口一番にそう叫んだ。
「おかえり、善逸。慌ただしいのう」
「ただいま、爺ちゃん! 獪岳は!?」
慈悟郎の呆れた声に挨拶だけ返し、もう一度たずねる。両足が折れ、全身怪我だらけで動けなかった善逸に見舞に来た護鬼夫妻が教えてくれた、兄弟子を襲った不幸な出来事。それはとても信じられなくて、善逸は一日でも早く退院するべく必死に機能回復に励んだのだ。
じっと見上げた善逸は、師の立派なひげの口元を、どんな言葉も聞き逃すまいと凝視する。そうして固まっているうちに、開けっ放しの戸口から黒い頭の青年が顔を見せた。
「なんだ、お前、来てたのか。先生、ヨモギがあったので少し取ってきました」
「おお、ありがとうな、獪岳。善逸はお前のことが心配で来たようじゃぞ」
緑の葉の束をまないたの横に置く獪岳は、隊服ではなく修業時代と同じ軽装だ。ただ、その上に慈悟郎が贈った三角模様の羽織をまとっており、善逸は初めて兄弟子も同じ羽織を持っていたのだと知った。
「そうですか」
慈悟郎の言葉にそれだけ返し、獪岳は何もないように調理に加わる。そこに、いつも善逸に向けられていた嫌悪はなく、良すぎる耳で確かめてみても、健康そうな生命活動の音しか聞こえてこなかった。
(え……?)
慈悟郎の足元からのろのろと立ち上がり、師と兄弟子の背中を見つめた善逸は、必死に聴覚を研ぎ澄ませて獪岳の音を拾おうとした。あの大きな背中からは、いつだってぽろぽろと何かが零れ落ちる音と、苛々とした世界を嫌う音がしていたのだ。獪岳は、善逸に怒鳴りつけていない時でも、とても激しい嫌悪の音を立てる男だった。それなのにーー
「獪岳、どうして音がしないの」
思わずそう口にしてしまうほど、獪岳からは心の音がしなかった。
「善逸、久しぶりに三人揃ったのじゃ。まずは飯にしよう。手を洗ってくるといい」
とんとん、と包丁の音に混ざって慈悟郎の声が聞こえる。そこに少しの迷いと大きな悲しみを聞き取った善逸は、鼻の奥がつきんとして涙がせり上がってくるのを感じながら、外の水場へと踵を返した。
(どうしよう、不満の音が聞こえない。穴が空いた音も聞こえない。俺を嫌ってない、全然意識してもない)
晩飯は、よく三人でいたころに食べた一汁三菜だった。ヨモギの天ぷらは獪岳が作ったらしい。姿勢よく座って箸を口にはこぶ兄弟子を盗み見ながら、善逸はひたすら耳をすませていた。聞けば聞くほど、また涙が出てきそうだ。
「ご馳走様でした」
表情を変えずに食事を終えた獪岳は、全員が食べ終わってから当たり前のように膳を引いた。善逸にやれとは言わず、そも目を向けることもせずに。
「爺ちゃん」
「うむ、あれでも大分良くなったのじゃよ。護鬼殿が連れてきてくださった時は、まるで抜け殻だったからなぁ」
「抜け殻……それじゃあ、遭遇したっていう上弦の鬼の血鬼術で」
「護鬼殿はそこまで言わなんだが、間違いなかろう。獪岳は心を空にされてしまったのじゃよ。記憶も能力も変わっとらん。じゃが、胸の内にあったものはすべて無くしてしもうた」
今の獪岳には、覇気も生気もない。ただあるがままに、生命活動を維持しているだけなのだ。この二か月、慈悟郎が丁寧に日々の過ごし方を、生き方を教えてきたから、それをなぞって暮らしているだけだった。
洗い場で片づけをする兄弟子を見つめ、善逸は両手をきつく握りしめた。そうしなければ叫びだしてしまいそうだった。獪岳には嫌われていて、自分も嫌いだった。それでも、心底尊敬していたのだ。ひたむきに努力を続けるその背中を、ずっと追っていたのだ。
「治るよね? 血鬼術なら、太陽をよく浴びたり、しのぶさんの薬を飲んだりすれば良くなるよね?」
小声で慈悟郎に確かめるが、返されたのは悲し気な否定だった。
「胡蝶殿とは文を交わして相談したが、今は打つ手なしとのことじゃ。陽の光は毎日浴びさせているが、効果は見られん」
「そんなっ、そんなのってないよ。獪岳は、兄貴はあんなに頑張ってたのに! からっぽだ、伽藍洞だよ……うわあああああぁん!」
ついに我慢していた涙が決壊し、善逸は身も世もなく泣いた。悔しかった。努力家の兄弟子を彼たらしめていたものを、一瞬で消し去ってしまった鬼が憎かった。ぎゃんぎゃんと泣く善逸に、普段なら泣くなと拳骨を落とすはずの慈悟郎も肩を落としている。獪岳は、背後の惨状を気にすることなく皿を洗っていた。
※ ※ ※
兄弟子が酷いことになっていても、任務があるのは変わらない。善逸は、師の家を拠点にして、与えられる任務をこなしては帰宅することを繰り返していた。一度だけ伊之助と炭治郎を見舞いはしたが、今はもう二人とも退院しており、文での交流となっていた。
「炭治郎の手紙は、いつも面白いなぁ」
沈んだ気持ちを少しだけ照らしてくれた友人からの励ましに、目を伏せて感謝する。善逸は獪岳のことを同期達には伝えていない。けれど、彼らは特有の勘で何かあったことに気づき、それとなく善逸を案じる手紙をよこしてくれていた。
「伊之助はもうちょっと読みやすい字を書いてほしい」
ウィッヒヒッと一人笑いながら手紙を大事にふところにしまい、ひとつ伸びをする。縁側から視線を流せば、桃の木がならぶ庭先で陽の光をあびる獪岳の姿が見えた。
少年らしさが抜けきった精悍な顔は、眉間にしわもなく、前とは別人のように穏やかだ。慈悟郎のもとで鍛錬を続けているから逞しさを失わず、剣技も相変わらずの緻密さであることを目撃済みだった。
けれど、ふとした瞬間、すべての表情が抜け落ちて無音で佇む獪岳を見つけると、善逸は彼が消えてしまうのではないかと怖くなる。今だって、日向で座禅を組んでいる様子が、ただ生きているだけのように見えてしまうのだ。
堪らなくなって草履をつっかけ、獪岳の方へとずんずん歩く。気配を感じているだろうに、黒々した瞳が開かれることはなく、善逸がすぐ真横を通って桃の木に手を伸ばしても、微塵も動かなかった。
「兄貴」
「なんだ」
「おやつにしようよ。桃、好きだろ」
「どうでもいい」
「好きだろ、ほら。これ凄く甘そうだ」
手を差し出さない獪岳の前に座り込み、強引に果実をもたせる。ようやく目を開けて善逸を見つめた兄弟子は、けれど迷惑そうではなく、促されて無言で桃にかぶりついた。
コロン。
(ああ、この音……)
ここ数日、やっと時折聞こえるようになった音。好物を食べたり、技が綺麗に決まったり、慈悟郎に褒められた時に響く、何かが箱の中を転がる音だ。前のように底抜けではなく、きちんと積み重ねられる音が、善逸は好きで仕方がないのだ。
「兄貴、今度さ、柱稽古があるんだ。俺、もっと強くなるよ。強くなって、兄貴に術をかけた鬼を倒すから」
(多分、鬼を倒しても兄貴は戻らない。だけど、それでも)
無言で桃をかじっている獪岳の口元をぬぐってやりながら、善逸は笑う。嫌いだった兄弟子はからっぽにされたが、今はもうそうではない。少しずつ、少しずつ、かたつむりの歩みよりゆっくりと、彼の中の音は増えている。
(前は穴があいてた兄貴の幸せを入れる箱。それがいっぱいになるまで、爺ちゃんも俺も支えるから、そうしたら)
「絶対、二人で鳴柱になろう。爺ちゃんの後を、俺たちで継ごう」
壱の型しかできない善逸と、壱の型以外しかできない獪岳。かつて、慈悟郎は彼ら二人で柱となれといった。その時、獪岳から聞こえてきた恐ろしい音は、今も忘れることはできない。けれど、それさえも、失われてしまえば懐かしいのだ。
獪岳は答えない。ころん、ころんと胸の内で音を立てながら果実を味わっているからだ。きっと善逸が言ったことなど、気に留めてもいないだろう。
遠くから聞こえてくる雀の羽ばたきに、善逸は名残惜しく思いながら腰をあげる。また新たな任務だ。ひとこと別れを言おうと視線を落とせば、獪岳の黒い瞳と目が合った。
「任務か?」
「うん。行ってくるよ、兄貴」
「……気をつけてな」
善逸は何かを聞き間違えたことがない。けれど、今この瞬間は、耳を疑った。獪岳は目をむいた弟弟子からすでに興味を失い、手に滴った果汁をちろりと舐めていたが、両腕を開いて飛び込んできた善逸にあえなく押しつぶされたのだった。
【登場人物紹介】
狛治/猗窩座
主人公。獪岳の伽藍洞の瞳が何故かとても恐ろしいが、それが鬼になる直前となった直後の自分に重なるからだとは、ついぞ気づかない。「もう……どうでもいい……全て……が」
恋雪
ヒロイン。頭をパーンされてからっぽになった人を見るのは実は初めてではない。けれど愛がなければ寄り添うことができないため、何も言わなかった。かわゆい。
金烏
ラスボス系巫女さん。出番なし。獪岳への呪いは、執着や自己という人間が人生の中で育む土台を真っ新にし、心を空っぽにするもの。有効活用するため記憶や戦闘力は奪っていない。とても惨い。
獪岳
物凄く不憫な兄弟子。頸ちょんぱされた方が本人的には多分マシだった。この後、師匠も弟弟子もみるみるセコム兼モンペに進化してしまう。正気だったら舌噛んで死んでる。
桑島慈悟郎
才能豊かな自慢の弟子が大変な状態になって戻ってきた。ただ今一から情緒等を教育中。人の心を砕く血鬼術を使った上弦の鬼は絶対に許さない。
我妻善逸
兄弟子の気が触れたと狛治から聞き、退院するなり爺ちゃんのところに行ったら、思ったよりも酷くて号泣した。こんなにした鬼は絶対に許さない。兄貴から聞こえる幸せの音が何より大好き。
黒死牟
濡れ衣です。