八咫烏の家紋の御方、金烏ーー
※10歳の金烏のある日の話。
描写がない時間帯はすべて執務にあてられています。
国内政府拠点の術的な守りについて、お手紙書いたりお手紙書いたりお手紙書いたり…
【八咫烏の家紋の御方】と呼ばれる子供の朝は早い。
日の出前にむくりと布団から体を起こす十歳の少女。眠たげに目をこすることもせず、目元の汚れのみ枕元に用意してあった懐紙で拭い、ゆっくりと伸びをする。体系化された、後の世でヨガと呼ばれる運動に似た動きで全身の筋肉と節々をほぐし血液を巡らせた彼女は、そこでようやく布団から出た。
片づけは下女がするため、金烏は簡単に布団を畳むことだけして、少し乱れた夜着と髪を整えてから襖へと目をやった。
「おはよう。入ってよいぞ」
静かに言えば、ゆっくりと襖が開かれ、廊下に膝をついた下女が深く頭をさげた格好で現れた。
「おはようございます、御方様。失礼いたします」
外はまだ暗いため、下女はまず室内の灯りをつけ、続いて金烏のための着替えを用意する。その間、もう一名、こちらは女官が部屋の前までやってきて平伏し、金烏の許可を得て、持参した水盥と白い布を持ち込んだ。
下女の手で巫女服を着つけられながら、女官が濡らして絞った布で自ら顔を拭う。金烏の体に触れる水は、料理に使うものから風呂の湯まで、簡易的な清めが施されている。このため、それを扱うのも身が清らかな女官が選ばれるのだ。金烏自身が清めの呪(まじな)いを一言口にするだけでどんな穢れも吹き飛ぶが、すべては様式美である。格式高い血統の巫女として、傅かれて尊ばれるのも当主の役目なのだった。
「今日の予定に変わりはないか?」
「ございません」
「朝餉の後は、宮内卿の来訪まで執務にあてる。届いている文があれば持ってまいれ」
「かしこまりました」
きゅっと腰紐が美しい結び目で締められれば、身支度は終わりだ。真っ白な足袋をはいた足でゆっくりと部屋を後にする。金烏の性分は早足になりがちだが、身分がある女性に相応しい足取りは、それこそ歩き始めた乳飲み子のころから叩き込まれている。厳しかった金烏の祖母が、文字通り叩き込んだのだ。
平均的な背丈に体格、あらゆる個性が欠落した髪質に肌質、さらに声質。何も特出したものがない顔立ち。この世のすべての平凡を詰め込んだような金烏の姿かたちに対し、まっすぐ伸びた背筋と美しい歩みが彼女を浮世離れさせている。指の先まで気品がある、とは彼女の血縁上の祖父である宮内大臣の言であった。
金烏は傍仕えをつけない。身の回りの世話は、屋敷の者たちの仕事を奪わないためにさせているが、四六時中、誰かをつけることはきっぱり断っていた。用があれば式を飛ばすと言っておけば、金烏に異を唱える者などいるはずがなく、後は気楽なものだ。
「いただきます」
上等な座布団に正座して、目の前の漆塗りの膳に手を合わせる。お手本のような作法で精進料理に箸をつけた頃、やっと朝日が帝都を照らし始めていた。
※ ※ ※
「御方、そろそろ失礼いたします。お話しした件、どうかお願い申し上げる」
「うむ、任されよう。ところで宮内卿」
今代の宮内大臣は金烏の血縁上の祖父である。彼の息子の一人が金烏の母と何度か夜をともにし、子をなしたのだ。何人かいる息子たちの誰が父親なのか、知らされたことはない。【よく見える】目をもつ彼女がその気になればすぐにわかることだが、そも興味がないため確認したことはなかった。
呼び止められた初老の紳士は従順に足を止め、少女を見つめる。そこには何も特別な温度はなく、しかし偽りない畏怖があった。
「そなたの血縁者に病を患っている者はいるか」
「……はい。次男が入院しております」
「そうか。よく見舞って大事にしてやるといい。そやつに妻子があるなら、できるだけ共に過ごせるよう計らってやれ」
抑揚なく述べる顔はのっぺりと穏やかな笑みを称えている。品よく長椅子に腰掛ける姿は、とても大の男を恐れさせるものではないというのに、大臣は顔色を悪くして、謝辞を述べるなり退室していった。
時刻は正午の少し前。次は昼餉か、と金烏は背もたれに身を預け、少しだけくつろぐ。今ほど請け負った依頼の対応で午後が立て込むため、食後の休憩は返上だ。それに、長期任務中の護鬼から報告が届いているのに、まだ目を通せていない。火急なら鏡の術か念話で連絡があるため心配はしていないが、狛治の真面目な報告と、ところどころ脱線して含まれるのろけや個人的な感想が無性に恋しく感じる。
「ふう……」
子供らしくない深いため息をついて赤い袴をはいた膝に手をすべらせる。しばらく無心で皺を伸ばしていたが、数分後には穏やかな微笑みを浮かべて立ち上がった。
※ ※ ※
ざばりと音をたてて水を被る。濡れた髪が頬にはりつき、心地よい冷たさが背を流れ落ちていく感覚に目を閉じた。白い単姿で膝をつく金烏の後ろには女官が控えており、禊が終わるのを待っている。
一通りを終えて桶を放した少女の体から女官が手早く単を脱がせ、全身を拭いはじめる。その間、金烏は目を閉じてゆっくりと深呼吸を繰り返していた。普段から清浄を心掛けている彼女だが、こうして禊を行い儀式の間に向かう前は、現世の空気が苦しく感じるほど、あらゆる障りを祓っているのだ。
着替えの白い着物と赤袴を着付けられ、しめった髪を白い紙紐で括られれば準備完了だ。金烏は年嵩の女官を連れて祈祷の間へと向かい、入り口でひとこと命じた。
「一刻ほど誰も近づけるでないぞ」
「かしこまりました」
宮内大臣から受けた依頼は、いたって単純なものだ。御典医に連なるさる薬師の家が美しい娘を妻に迎え入れたが、その娘の周りがどうもきな臭い。宮内省が秘密裏に確認した経歴はすべて偽りだったうえに、あれだけ美しい娘の足取りがまったく辿れないのだという。怪しい人物を帝に近い家系に入れるわけにはいかないため、『穏便に』消して欲しいというのが、大臣の希望であった。
(十中八九、あやかしであろうなぁ)
神を祀る場所に大幣をかかげ、深く首を垂れれば、ぴんと張った空気が満ち満ちて、遠くから雅楽が聞こえてくる。すでにこの空間は大いなる存在と金烏だけのための場。金烏だけでは及ばない呪(のろ)いも、祭神の助力があれば成すことができるのだ。
「高天原に神留まり坐す……」
会ったこともない相手を呪殺することは難しい。呪いを送るための縁がないからだ。しかし、ここではその限りではなく、すでに金烏の目前にはとある屋敷の中の光景が広がっていた。
分厚いカーテンで窓を覆った、西洋式に彩られた室内では美しい娘が皮張りの椅子に腰かけ、熱心に書物に目をとおしている。ゆるく波打つ黒髪に冷たい白皙が印象的な、大層見目が整った娘だ。年齢は二十歳に届かないぐらいだろうか。長い睫毛をふせて紙面を見やる姿は絵画にも勝るが、金烏はその人物を取りまく縁の方に意識を奪われていた。
(なんと悍しい! これぞ、吐き気を催す邪悪というやつではないか)
思わず大幣を握る手に力がこもる。直接対峙してなくとも、金烏は相手が誰なのか一目で悟っていた。
(鬼舞辻無惨……ここで会うたが百年目。恨むなら棚から牡丹餅を恨むがよい。ふははっ、疾く『鬼滅の刃(完)』としてくれようぞ!)
目下の見た目だけ美しすぎる鬼に内心高笑いしながら、ぶつぶつと最大級の呪いを紡いでいく。無惨はまったく気づかず読書に没頭しており、邪魔するものは何もない。さしもの不死の化け物も、魂を引っこ抜いて冥府送りにしてしまえば即死のはずだ。
「……大祓に祓へ給ひ清め給ふ事を、諸々聞食せと宣る。怨敵退散、死に晒せっ!!」
最後にうっかり本音が出たが、術の効力に支障はない。金烏の周りを眩い光がうずまき、ぐるぐると狙いを定めるように螺旋を描き、そしてーー
何も起きなかった。
「は、ぇ……?」
少女の口から思わず小さな声が漏れる。流石に大幣を取り落とすことはなかったが、金烏は特徴のない目を見開いて不発となった術の反動を咄嗟に避けた。稀代の術者である彼女はこれまで術返しなどされたことがなく、何より今しがたの祭神からの拒否に衝撃を受けていた。
(鬼舞辻めを殺すことを拒まれた! まさか、この千年間アレが野放しになっていたのは、そういうことか? アレの始末は人の力で行えと? どうすればそこまで神仏に嫌がられるのだ。いや、嘔吐物以下の腐臭がする魂に手を出したくないのはわかる…… そうだなぁ、神々があのような汚物にお手を煩わせるはずがないなぁ……)
殺意の塊となった術式が再び襲って来るのを、考え事をしながらも大幣の一振りで反らす。無惨を排除できないのなら、二位の標的はおのずと決まっていた。金烏の視点が切り替わり、無惨が擬態している娘を娶った男、薬師の家の長男に焦点を定める。真面目そうな二十半ばの青年の姿に、ふと幼い眉が寄ったが、呪いを紡ぐ唇に迷いはなかった。
無惨を殺すために練られた呪いが青年を襲い、健全な魂が痛みもなく体から剥がされたのを見届けるなり、再度祭壇へと頭を下げる。怨敵を倒せなかったことへの蟠りはない。それが祭神、大神の取り決めだというならば、従う以外の在り方を金烏は知らないのだ。
「……これで鬼が居つくことはあるまい」
最低限の条件は満たした。結婚したばかりで子もいないのなら、後ろ盾がない美しいだけの娘など、体よく屋敷を追い出されるに決まっているのだ。金烏がもつ絵物語の記憶でも、無惨が潜り込んだ家の人々を殺して人間社会での立場を捨てたのは、最後の最後。竈門禰豆子が太陽を克服した後だった。そうであれば、薬師の家からは穏便に出ていくに違いない。
祈祷の間を後にする少女は、普段どおりの緩やかな表情を浮かべていた。
※ ※ ※
夕餉と入浴を済ませ、布団が敷かれた自室へと移った金烏は、文机に置かれた特殊な封筒を見るなり恰好を崩し、彼女にしては珍しくよろよろした足取りで机の前へと向かった。すとんと腰を下ろして封筒を手に取れば、術式が解けて中身の紙だけが手元に残る。
『拝啓
主、いかがお過ごしでしょうか。俺たちは昨晩、倉敷に到着いたしました。街並みが見事な活気ある街です。ひとまず主にご紹介いただいた宿に落ち着きました。大変素晴らしい部屋で、恋雪と二人ではもったいないほどの広さです。ありがとうございます。用意された錦の座布団があまりに分厚く、恋雪はしばらく腰を下ろしては立ち上がって遊んでいました。《愛らし→二重線で消されている》
ここまでの道中、特に困ることもなく、前回の報告からさらに七匹の鬼を退治いたしました。血気術を使ったのは、そのうち三匹。いずれも能力を活かしきれない《弱者→二重線で消されている》下弦にも至らぬ者どもでした。なお、七匹とも山中で気配を見つけたため、人里で護鬼を名乗ることはしておりません。
明日からしばらく倉敷に滞在し、周辺を掃除することにいたします。日中は恋雪と聞き込みに出ますが、この地の名物でご希望のものがあればお申しつけ願います。恋雪は今晩の夕餉の器に使われていた酒津焼に興味があるようで、明日は夫婦湯飲みを買う予定です。また、この地の名産に手に乗る大きさの動物のはりこがあるそうで、女将に虎を見せてもらいました。大変彩りが美しく、主のお部屋に合うかと思います。はりこの干支を、俺たちからの土産とさせていただきます。
《恋雪の様子や美しかった風景などについて数枚にわたって記されている》
主、ご無理はなさっていないでしょうか。どうか御身を第一に、健やかにお過ごしください。
護鬼・狛治』
火急がなければ三日おきに送られてくる報告は、長さも内容もまちまちだ。狛治の字はお世辞にも達筆とは言えないが、丁寧に書かれており、書き損じの二重線から申し訳なさが伝わってくるのが面白い。何より、数行に一度は脈絡もなく恋雪の様子が書かれているのだ。
金烏は時折くふくふと笑い声を押し殺しながら内容に目をとおし、読み終わった報告を綺麗に畳んで文箱に収めた。
「ようやっておるようだなぁ、狛治」
護鬼夫婦の旅はまだ中ほどで、二人が屋敷に戻るのは早く見積もっても冬の初めだ。今頃仲良く風呂にでも入っているだろうかと想像し、ふと、彼らが今日ここにいなくてよかったと思った。
文机の前に座した小さな背中から力が抜け、伸びていた背筋が緩む。一日ろくに休憩がなかったから疲れているのだ。文箱をそっと引き出しに戻して立ち上がり、金烏は廊下に控える下女に声をかけた。
「入ってよいぞ。着替えを頼む」
「失礼いたします、御方様」
夜着を着せ替え終えた下女が灯りを消して下がった後、布団に潜りこんだ子供は死んだように目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは怨敵の姿と、若くして死ぬことになった薬師の顔。それらを拒むことなく、ただ機械的に意識を落とせば、肉体も休息状態となり、なんでもない一日が終わりを告げた。
【登場人物紹介】
狛治/猗窩座
主人公。妻をこよなく愛し主を心から敬愛する狛犬系護鬼。金烏的癒しその1。西国の方で長期任務中。日々、真面目に鬼を退治している。報告はたくさん書く派。
恋雪
ヒロイン。夫をこよなく愛し上司の健やかな日々を祈るかわゆい奥さん。金烏的癒しその2。狛治さんの長期任務に同行中。宿の座布団が分厚くて、ついふかふかで遊んでしまった。
金烏
ラスボス系巫女さん。日本一多忙な10歳児。狛恋夫婦に出会わなければ癒しゼロの人生が確定していた。そもそも彼らに出会わなければ人並みの良心や情緒に目覚めることもなかった。毎日ほぼ同じサイクルで過ごしているが、この日は急な依頼から怨敵の顔(擬態済)を見ることとなった。神仏が無惨を罰しない理由を想像して「うわあ」となったが、自分もエンガチョしたいレベルだったので致し方ないと諦めた。なお、呪殺依頼は年に何度も舞い込んでくるが、受けるかどうかは金烏に一任されている。