護ることを知り、護られる者を知るーー
※原作開始10年前、雨上がりの散歩→初めての旅任務
離れの戸を開けて庭に降りると、地面が泥濘んでいた。夜中に雨音がしていたので当然のことだが、ここしばらく晴れていたので、濡れた庭園を新鮮に感じた。新緑が朝日をはじいて眩しい。思わず目を眇めれば、後ろからも感嘆の吐息が聞こえた。
「とても綺麗ね」
少しけだるげな様子の恋雪が戸口に立っている。昨晩は任務がなかったため、夫婦で過ごしたのだ。まだまだ新婚の部類の二人は閉ざされた部屋に二人っきりになると言葉が少なくなる。そして手が触れたり距離が近くなると、顔を赤くして指を絡めるのだ。それが朝や昼なら、しばらくして名残惜し気に離れるが、日が暮れた後なら恋雪の行先は狛治の腕のなかだ。
「恋雪さん、体は辛くないですか? 腰が痛むのでは」
「……そういうことは聞かないでください」
「すみません」
足腰に力が入らない様子に思わず問うた狛治だったが、可愛い妻が熟れた林檎のようになってしまったため、小声で謝った。
「こほん、私は元気なので、少しお庭を歩きませんか?」
「はい、是非。泥濘んでいるので気をつけてください」
庭に降りてくる恋雪の足元に下駄を置き、白い手をとって支える。恋雪は白地に芍薬の柄の着物に芥子色の羽織り姿だが、狛治は朝餉の前の鍛錬があるため白い道着に裸足だ。何百年も履物なしでいたため、この方が落ち着くのだ。
「裏手のつつじが見ごろですよ。薬草園の方でも芍薬が少し咲いています」
宮城の囲いのなかで狛治が足を踏み入れたことがないのは、御上がおわす内裏だけだ。そこ以外は、細部に至るまで記憶しており、警備の者たちの配置も把握済み。たとえ敵が宮城内に潜り込んできたとしても、金烏と恋雪を必ず護りぬくための当然の知識だ。
二人してぺしゃぺしゃと音を立てながら、屋敷の裏手まで小路を歩いていく。恋雪は木々の緑に光を反射する水滴や、水たまりに映り込んだ花々を無邪気に指摘しては喜んでいる。狛治にとっては、黒目がちな可憐な瞳や綻ぶ薄紅の唇のほうがよほど美しいのだが、さすがに口にするのは恥ずかしかったので、静かに手をつないで歩いていた。
「あ、見て狛治さん、虹がでているわ」
「……本当だ」
恋雪が指さしたのは、空に現れかけの薄い七色。狛治にとっては数百年ぶりの光景だ。鬼舞辻無惨の鬼として過ごしていた間は、それが当たり前で不便など感じたこともなかったが、今となっては陽の下で恋雪を見つめることができないなんて耐えられないだろう。彼女は木漏れ日や今のような朝ぼらけの明かりが良く似合うのだ。
しばらく虹を愛でてから、つつじの植え込みが並ぶ方へと足を向ける。明るい紅紫の花が陽光を弾いて美しさを増しており、蜜の香りも相まって、地上の楽園のようだ。小さな池と石灯籠がある場所までやってきて景観を楽しんでいると、ふと恋雪が口を開いた。
「主様から、今後の任務は各地を旅することになるって聞きました」
「はい。手始めに北陸の方の鬼を間引きに行きます」
「私も一緒に行きますね」
狛治の凛々しい双眸がいっぱいまで見開かれ、すました顔立ちを驚きに染めて恋雪を見下ろす。
「主がそう命じられたんですか」
「ええ。一人旅よりも、夫婦の方が悪目立ちしないでしょう?」
にっこり笑う妻に、護鬼も確かにとうなずく。恋雪の仮初めの体は傷つくことも病気になることもないため、ついてくることに危険は伴わない。二人っきりで日本各地を旅できるのだ。思いもよらない素晴らしい条件に、知らずに口元が緩んだ。
「では、鬼を倒しつつ、金沢まで足を伸ばしましょう。美しい城下町で、恋雪さんが好きそうな名所がたくさんあります」
青い彼岸花を求めて日本各地を駆け巡った経験が思わぬところで役に立った。散歩を続けがてら、行き先の予定や先々での 観光や土産物について話してやれば、恋雪は在りし日に病床で狛治の話を聞いていた時のように、愛らしく想像を巡らせていた。
「土産に、輪島塗の揃いの汁椀を買いましょうか。朱と黒の夫婦椀とか」
「まぁ、素敵!」
ゆるりとした歩みの似合いの夫婦に、昇りきった朝日と虹の煌めきが降りそそぐ。恋雪が少し腰が辛いような様子を見せれば、さりげなく狛治の左手がそこを撫で、傍に寄せるようにして労った。薄く頬を染める妻を横目でみつめ、狛治もけぶる睫毛を伏せて何でもないように装うのだった。
※ ※ ※
北陸方面での任務で最初に狩った鬼は、若い娘を風呂や寝所から拐って喰っていた破廉恥極まりない男鬼だった。岐阜の山間の宿場町で噂がすぐさま広まり、護鬼夫婦がやって来なくてもじきに鬼狩りが派遣されていただろう。
「他愛ない」
頭部を失ってぼろぼろと崩れていく鬼を部屋の隅まで蹴りころがし、狛治が吐き捨てる。夕暮れに宿場町に到着した瞬間から、恋雪に向けられる邪な視線に気づいていたのだ。人外の気配を隠す御守りをつけている二人は、鬼にはただの若夫婦に見えただろう。夜になって並べた布団で横になって待っているだけで、鬼はのこのこと窓から忍び込んできた。そして、恋雪のほうへ一歩踏み出そうとしたところに、狛治の蹴り一つで狩られたのだった。
「あなた、もう倒したの?」
「はい、寝たふりはもういいですよ。屍は勝手に消えるので、このまま朝まで休みましょう」
はだけた浴衣を直しながら言う夫に、恋雪は布団の中からおっかなびっくりな視線を鬼へと向けた。灯りを消した後、寝たふりをするように囁かれて目を閉じていた彼女は、窓が開いたことにも気づかなかったのだ。鬼が完全に消滅すると、狛治は少し離していた布団を隙間なくくっつけ、自分の方の布団に潜り込んだ。
「雑魚鬼でも一般市民には脅威だと、主が仰っていたとおりだ。あんな、数十人喰っただけの弱い鬼に、ここまで犠牲者が出ても対処できなかったとは」
「違います、狛治さん。数十人も食べた恐ろしい鬼だったのよ」
行灯ひとつだけに照らされた暗がりで、静かな恋雪の声が聞こえる。彼女のほうに寝返りを打てば、同じように狛治の方を向いた可憐な顔が見えた。
「殺された人は戻らないし、報われない。そうでしょう?」
「……そう、ですね。すみません、傲慢な物言いでした」
「いいのよ。おやすみなさい、狛治さん」
「おやすみなさい、恋雪さん」
布団の端から伸ばされた恋雪の手に狛治の大きな掌が重なり、愛おしみを込めて指が絡まった。人間のように眠る真似事も、もう慣れたものだ。気配察知のみ研ぎ澄まさせたまま、目をとじ、恋雪の体温や優しい香りに酔いしれる。これからの日々も、こうして愛おしい妻と過ごす幸せがある。そう考えた瞬間、すとんと一つ理解できたことがあった。
(鬼が奪うのは食料(ひと)の命だけではない。当たり前だった幸せを、愛しい日々を奪い去っていくんだ。殺された者は戻らない、鬼を退治したって報われない。鬼(おれ)たちが喰った命の数だけ、壊された幸せがあるなら、俺は一体どれだけの)
思わず柔らかい手を握る指に力がこもり、応えるようにもう片手でその甲を包まれた。結局、狛治は朝まで思考に沈んでいたのだった。
「ありがとうございました」
若女将に見送られ、宿を後にする。二人分の荷物を肩にかけ、恋雪の手を引いた狛治は、小さく会釈をして宿場町の出口へと足を進める。この町では鬼の方からすぐにやってきたため、昨日は通りに出ることさえしなかった。こうして見ると、規模はないが活気がある町だ。
「ねぇ、あなた」
「はい」
「あの若女将さんも、あっちの女の子も、鬼の犠牲になっていたかもしれないのね」
恋雪の視線の先には、店先に水を巻いている丁稚の少女がいる。彼女が言わんとしていることを察して、けれどどう返せばいいのかわからず無言でいれば、くいと袖を引かれた。
「ありがとう、狛治さん」
「どうして礼を?」
花のかんばせを綻ばせた恋雪が、逆に狛治の手を引いて歩きだす。歩幅の差があるため、狛治は歩みを遅め、彼女がしたいように先を行かせた。
「この町の人たちを護ってくれたお礼です」
「恋雪さん、俺は別に」
「感謝してもらいたいんじゃないってわかってます。でも私が言いたいの」
そろそろ町並みが途切れ、朝の街道をいきかう少ない人々とすれ違い始める。美々しい青年と可愛らしい少女の二人組に微笑ましげにする者もおり、狛治は色々な意味で気まずくなって視線を泳がせた。恋雪はそんな夫にくすりと笑い、繋いだ手の指を絡め直した。
北陸への道のりはまだ遠く、護鬼夫婦の長い鬼殺の旅ははじまったばかりだった。
【登場人物紹介】
狛治/猗窩座
主人公。嬉し恥ずかしな新婚生活中。任務とはいえ、奥さんと旅行できるのは夢のよう。出立の際、山中温泉あたりまで行っておいでと言われ、揚々と旅だった。まだ新米護鬼なので、心の持ちよう等は手探り状態。主との関係も始まったばかり。
恋雪
ヒロイン。少しぐらい腰がだるくてもお散歩したい奥さん。生前は町から出たことがなく、旅をするのは初めて。想像するだけでうきうきしている様子がかわゆい。無自覚に狛治さんのカウンセリングをしている。主様への接し方は手探り状態。
金烏
ラスボス系巫女さん。原作介入のタイミング以外では、狛治には地方各地の鬼退治を命じて遊撃させる予定。気配察知に優れた護鬼には非常に有利な任務内容である。鬼を倒すごとに送られてくる報告書が新婚旅行日誌を兼ねるとはまだ知らない。使役鬼と幽霊へはまだペットほどの愛着もない。