※零話の続き→数日後
客間にいる間に朝日はとっくに登っていたため、狛治は分厚い黒い布を被せられ、恋雪に手を引かれて廊下を歩いていた。側から見ればまさしく物の怪だったが、金烏の城と言って良いこの屋敷では、気にするものはいなかった。先をいく金烏の歩幅に合わせ、ゆっくりと進んでいく。
「この先は祈祷場だ。私が先に入り、許可を口するまで足を踏み入れてはならんぞ」
「はい。狛治さん、ここで止まりましょう」
「わかりました」
からからと木戸が滑る音。開け放たれた空間から漂ってきた空気は、布ごしでも鳥肌が立つほど居心地が悪かった。見なくとも、悪しき人外が立ち入ることが本来許されない場所なのがわかる。
「入室を許す」
「ありがとうございます。さあ、行きましょう」
「はい」
甲斐甲斐しく手を引かれて足を踏み入れた途端、全方向から監視されているような感覚に浸された。金烏に命じられた恋雪が戸を閉めて、ようやく布を脱ぐと、そこはいくつもの燭台に照らされた空間だった。神社のお堂の中のような作りの中央奥には、大きな神棚が置かれ、格子になっている合わせ扉から中に安置されている札が垣間見えた。
「準備をするから、そなたらは端に寄っておれ。静かにな」
巫女姿の子供は、それだけ言って、神棚の前で大幣をかかげて深々と頭を下げる。狛治も恋雪と並んで壁際に座り、ぼうっとその様子を見ていた。
無惨の血の呪いから外れ、血そのものをほとんど抜かれた狛治は、すり傷を直すこともできないほど衰弱していた。上弦の参として得ていた膂力も、人間と同等かそれ以下まで下がっているだろう。無惨の血を失った鬼の体は、とにかく脆い。鬼の恐るべき再生能力は、喰った人間の数と無惨の血の量に裏付けされたものであり、血を与えられた瞬間から体を作り変えられている。だから太陽を浴びれば死に至り、その力を宿した金属で頸を切られれば死体も残らない。
(金烏は、前より強くなれると言ったが、本当だろうか。)
強くなりたいという望みは、今の瞬間もなくなっていない。恋雪と花火をみたあの美しい夜に、約束したからだ。
いくつもの蝋燭の火が揺れる中、金烏が何やら大きな白い布を運んできて、床に広げる。硯に墨を用意するところまでは、予想の範囲だったが、徐に小刀で左の親指に傷をつけ、できた墨に血を混ぜたのには、思わず狛治も恋雪も腰を浮かした。
「案ずるな、術に数滴必要なだけだ。この場なら、私は怪我をしてもすぐに治る」
そう言って金烏が向けたもみじのような手は、確かにすでに傷が塞がっていた。まるで鬼のような速さの回復だった。
太い筆で布に完璧な円をなぞり、均等に五本の線で星を描く。そうして出来上がった五芒星の中心に呼ばれた狛治は、描かれた線を踏まないようにそこに立った。
「よいか、狛治、今からそなたの体は全く別の何かになる。苦痛があるかはわからん。だが、悪いようにはならんから、とにかく耐えるのだぞ」
「お前が毒抜きと言ったあれより酷いことはないと思うが」
「ふふっ、そうだなぁ。あれはわざと痛くしたのだ。痛覚に直接働きかけてなぁ、肉体が感じ得る最たる苦痛を生み出した」
「……何だと」
ひらたく幼い顔がにんまりと笑い、円の外から鬼を見上げる。
「訳もわからず無様に這い蹲り、一方的に瀕死まで痛めつけられた状態で、愛しい女子に慰めさせる。全てそなたの中の悪鬼をぽっきり折るための布石だったのさ」
どうしても強い僕(しもべ)が欲しくてなぁ、と悪びれず言う子供に青筋を立てた狛治だったが、ばさりと大幣が一振りされれば、それどころではなくなった。
「高天原に 神留ります 神魯岐 神魯美の命以ちて……」
金烏の高い声につむがれる祝詞と、邪魔にならないようにただ心配気に見つめてくる少女の気配。儀式が始まった途端、体内に残っていた無惨の血が毛細血管を破って体外に追い出され、力の根源を失った鬼の肉体の崩壊が始まった。ぼろぼろと頸を切られたかのように指先から崩れていく。
「狛治さんっ」
「来るな!」
こんな状態でなければ、はじめて恋雪に怒鳴りつけてしまったことに頭を抱えたことだろう。二の腕まで失った狛治は、まさか失敗かと金烏に目を向けたが、得体が知れない子供はじっと彼を見据えたまま祝詞を唱え続けていた。ばさり、とまたもや大幣が宙にひるがえり、そこで蝋燭とは異なる光が祈祷場に広がった。
「あっ」
驚きの声をあげたのは恋雪だけだったが、狛治も突如光輝き出した円と線に目を奪われていた。陽光にも似た光は、意思をもつかのように狛治を取り巻き、少しの熱を持ってその身体を浸食していく。青ざめた肌が光を取り込めば、健康的な血色となり、乾いた血がこびりついていた上半身も清められていった。崩れた両腕や壊れかけた節々も再生し、目の前に両手をかざせば、見慣れた幾何学の線が、藍色ではなく淡い光として浮き上がっていた。
鬼らしい鋭い手足の爪も光を宿し、体の芯から力が湧き上がってくる。どん、と右拳を左の手のひらに当てて試せば、己の両手足が凶器に戻ったのだと確信できた。
「……天津神・国津神・八百万の神等共に 聞こし食せと恐み恐み申す」
金烏の祝詞が終わり、しずしずと大幣を掲げて一礼することで、陣の光も収束していく。狛治の全身に浮かび上がった模様も同じように薄まり、やがて室内は燭台だけの明るさへと立ち戻っていた。
「終わったぞ。これより、そなたは私に使役される護鬼(まもりおに)。別に媚びへつらう必要はないが、命令には従ってもらうからなぁ」
「ああ、拝命する。お前、いや、貴方のことはどう呼べば?」
「主(あるじ)でよい。間違っても外で私の名を言うでないぞ?」
「承知いたしました」
これで全て整ったと理解して、ずっと見守っていた少女へと目を向ける。いつしか陣の間際までやってきていた恋雪は、感極まった様子で震えていた。
「狛治さん、とても綺麗よ。ああ、よかった、よかったです!」
尋常ではない喜びように呆気に取られる男をよそに、恋雪は逞しい体に抱きすがり、泣き出した。それが嬉し泣きだとわかったから、狛治はどう慰めていいかわからず、ただ細い背を抱いていた。
※ ※ ※
狛治が護鬼となってしばらくは、まず体に慣れろという命令の元、金烏の屋敷こと【八咫烏の家紋の屋敷】の周りのひらけた場所を借りて鍛錬する日々だった。金烏が約束通り狛治の父親と慶蔵の姿と声がわかるようにしてくれたため、二百年以上ぶりに慶蔵の指導を受けたのだ。とはいっても、猗窩座として長年鍛え続えた結果、人間では辿り着けないほどの技量を身につけていたため、主に心技体の心に関する指導であった。
恋雪はというと、金烏のより強い降霊術により、普段は生前とほとんど変わらない状態になっていた。しかし、やはり幽霊であるため、金烏か恋雪本人が望めば霊体となり、取り憑いている相手である狛治か金烏の元になら、一瞬で移動することができた。悪霊のように現世に影響する力は使えないが、仮初めの体は怪我も病気も無縁と聞いて、狛治はホッとしていた。
「そろそろ試運転といくかなぁ」
ある朝、狛治を呼び出した金烏は小さな手に高価そうな皮表紙の紙束を持っていた。彼女はそれを「救済ノート、いやデスノ……ではなくて、じゃぷにか救済帳とでもしておこう」と開いてみせ、最初の頁に万年筆で書いたらしい綺麗な文字の羅列を示した。
「文字は読めるか?」
「簡単な読み書きはできます」
文机に二人並んで座り、紙面を見つめる。そこには、いくつかの人名と思わしき文字が書かれており、それぞれの横には地名や年月が大まかに記されている。また、人名の頭に星やバツ印があり、バツ印がある項目は直下に「強化に不可欠」など補足があった。
「そなたにだけ教えるが、私は生まれた時からいくつか異能を持っていてなぁ、その一つがこういった漠然とした情報だ。私は宮城を出たことがなく、世間のことはほとんど知らぬが、鬼舞辻や鬼殺隊のことは知っていた。そなたのことだって少しはわかっておったよ。まぁ、実際にまみえるまでは絵物語の登場人物ぐらいにしか思っておらなんだが」
「千里眼というものでしょうか?」
「いいや、そんな便利なものではない。例えばこの世を一つの物語として、どこかで頁を破いたり内容を訂正したとする。するとなぁ、そこから物語は当初とは違う方向に乖離していくのだ。死んだはずの人物が生きていたり、その逆もしかり、生き死にに限らず、変化があればその後の展開が変わる。現実なのだから、当たり前だなぁ。私がわかるのは、この改変される前の物語だけで、未来がどう変わるかわからない以上、迂闊なことはできん」
そも情報が足りぬしなぁ、と金烏が人差し指で示したのは、バツがつけられた「時透有一郎」という名だった。
「こやつは弟の無一郎と一緒に鬼に襲われて大怪我を負い、命を落とす。鬼は、天才的な素質があった無一郎が朝日にあてて倒すが、無一郎も傷で動けなくなり、目の前で有一郎の遺体が腐っていくという壮絶な経験をする。そうして生まれた激しい怒りを燃料に鬼殺隊に入り、わずか数カ月で柱となり、鬼舞辻無惨との決戦において活躍する。私が知る物語ではそうなっている」
そこで言葉を区切り、狛治を見つめた眼差しは、声と同じくひどく平坦だった。
「この経験がなければ無一郎が短時間でそこまで強くなることはなかったであろう。つまり、私が望む未来には、この兄が故人である方が都合が良い。故に手は貸さず、本来の運命に任せる」
「……主が望まれるのは、どのような未来なのですか?」
鬼の問いかけは責めるものではなかった。そも、金烏のような特殊な立場の者が抱える胸の内を、その責任を知らない者が触れることはできない。
「この国から、鬼舞辻無惨と連なる鬼どもがいなくなった未来だ。そのためには、才ある人間を生かし、戦力の増強に努めねばならん。私が使えるのはお前だけだからなぁ、鬼退治は鬼狩りどもに頑張ってもらわねば」
金烏は気を取り直したようで、改めて紙面の名前に目を落とし、そのひとつを指し示した。
「手始めに、こやつを消したい。狛治、初任務だ」
まろい指さきが示すのは、藤襲山という地名。その隣には、短く【手鬼、早々に始末】と書かれていた。
「この山は鬼殺隊入隊の最終試験の場なのだが、本来は弱い鬼しかおらん。しかし、この手鬼はそれなりに人を喰っておってなぁ、向こう十年で有望な剣士の子供を何人も殺してしまうのだ。そなたなら、退治に時間はかからんだろう。早々に消して参れ」
期待しておるぞ、と笑う金烏。この時が、護鬼たる狛治の始まりであったのだが、真面目に拝命した彼がそれを知るのは、まだ先のことだった。
【登場人物紹介】
狛治/猗窩座
主人公。護鬼になったら、戦闘時に体の模様が光って浮き出るようになった。夜は目立ってしまうのが難点。恋雪が怪我も病気もしないとわかってとても嬉しい。新しい仕事が始まった。
恋雪
ヒロイン。狛治さんに悪鬼の穢れがこびりついているのが悲しかったが、きれいきれいされたため、感極まって泣いてしまった。金烏を主様と呼び出す。とてもかわゆい。
金烏
悪気なくグレーなラスボス系巫女さん。手に入れた強い鬼を生まれ変わらせてみたら、思ったよりも綺麗に漂白されて内心ガッツポーズ。救済系のネックと言うべき命の選択にも容赦がない。
手鬼
この後オーバーキルされた。
じゃぷにか救済帳
百人以上の情報が記載されている。ただし助けるとは言ってない。