さあ──『喜劇』を始めよう!   作:Sakiru

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兎と野猿の逃走劇

 

 冒険者ベル・クラネルはひたすらに走っていた。横抱きにしているのは友人の街娘シル・フローヴァである。

 そして彼の背中を追い掛けているのは、一匹の野猿(やえん)──シルバーバック。

 

「はあ……はあ……ッ!」

 

 顔から大量の汗を噴出させながら、ベルは最大速度を維持したまま石畳の上を蹴り続ける。

 しかし、笑みだけは決して()やさない。それは守るべき彼女を不安にさせない為だ。

 

(どうする……!? どうすれば良い!?)

 

 だがその笑みの裏側では、ベルは爆速的に頭を回転させていた。

 思索に()ける時間はない。

 そちらにかまけて僅かでも動作が遅れたら、追走してくる野猿の餌食になることは明白だからだ。

 だからこそ、絶妙なバランスで均衡を保つ必要がある。

 

()()()()()()()()()()……! ()()()()()()()()!?)

 

 およそ、十五分。

 それがベル達とシルバーバックが繰り広げている鬼ごっこの時間だ。

 ベルの見立てでは、それだけの時間があれば充分に救援が望めていたのだ。しかしながら、未だに救援は来ていなかった。

 

(何か他に異常事態(イレギュラー)でも発生したのか……? モンスターを脱走させたのは陽動(ようどう)!?)

 

 この時ベルは知らなかったが、脱走したモンスターは合計九匹。この事態を重くみた『都市の憲兵』たる【ガネーシャ・ファミリア】は事態の早期鎮静化を図るため、他の【ファミリア】にも協力を要請していた。【剣姫(けんき)】アイズ・ヴァレンシュタインを始めとした第一級冒険者が受領し、瞬く間にモンスターを瞬殺。そして最後に残っていたのが、シルバーバックであった。

 ところが、此処で()()()のモンスターが地面から出現。それは()()であった。彼等は埒外(らちがい)の魔物の対応に追われることになり、結果として、ベル達に救援が向かっていない状況だったのだ。

 

『グアアアアアアアァァァァアアア!』

 

 野猿が怒りの咆哮を上げる。

 それは、彼我の距離が縮まらないことに対しての苛立ちだ。彼からしたら忌々しいことに、速度は僅かながらも兎の方が早かったのだ。

 最初は気の所為だと思っていたが、僅かにだが距離が離されていく。恐怖で足を止めろと何度咆哮を背中に浴びせても、兎は止まらない。寧ろその度に加速していく。

 

「に、逃げろ──ッ!」

 

「おいお前、こっちに来るな! せめてあっちに逃げろ!」

 

 代わりに悲鳴を上げるのは、民衆だ。ベル達の進路方向に偶然居合わせてしまった不運な彼等は、恨み言を吐き散らしながら目を剥いて別の路地裏に逃げ込む。

 迷宮都市(ダンジョンとし)の構造はとても複雑だ。方角を示した八本のメインストリートが通っており、表通りと表通りの間には様々な間道(かんどう)が行き交っている。

 

(まずい……もうすぐで南東のメインストリートに着いてしまう!)

 

 縦横無尽に東区画を駆け回っているが、それも限界に近かった。

 嫌な汗が首筋を(つた)う。すると、これまで無言でベルにしがみついていたシルが口を開けた。

 

「ベルさん、そこの角を左に!」

 

「シル!?」

 

「私の言う通りにして下さい!」

 

 反射的に、指示通りT字路を左に曲がる。そして、

 

「──!」

 

 言葉を失った。

 果たして、彼の前に現れたのは『雑多』としか言えない空間。(よじ)れたような何本もの通路、壁から不自然に突き出ている部屋の数々、入り混じる階段。路地を形成しているのは人家の群れ。

 

「これは……!」

 

「──()()()()()()()地下迷宮(ダンジョン)とはまた違った、もう一つの迷宮です」

 

 シルの言葉を受け、ベルは記憶を想起する。

『世界の中心』迷宮都市(ダンジョンとし)オラリオは、世界で唯一地下迷宮(ダンジョン)を保有している。そして迷宮(ダンジョン)は地下だけではなく、地上にもあった。

 オラリオは長い歴史を誇る。その歴史の中で、都市は発展と共に何度も区画整理を行ってきた。その秩序が狂った広域住宅街が『ダイダロス通り』に他ならない。尚、名称の『ダイダロス』とは、当時、区画整理を設計した人物の真名(まな)である。

 都市の貧民層(スラム)が住まう、この複雑怪奇な領域は一度でも道に迷えば最後、二度と出て来られないとまで言われている。真っ赤な矢印で壁に描かれているのは『道標(アリアドネ)』と呼ばれており、これを辿れば人工迷宮から抜け出せる。

 

(──エイナ嬢が言うには、地下迷宮(ダンジョン)と同規模の難易度があるらしいが……)

 

 担当アドバイザーから『講習』で教わったことをベルは思い出した。それから、腕の中にすっぽりと収まっているシルに問い掛ける。

 

「シル、どうして私を此処に……?」

 

「ダイダロス通りなら上手くいけば逃げ切れると思ったんです」

 

「それはそうかもしれないが……」

 

 ベルは言い(よど)んだ。

 眼前に立ち塞がる人工迷宮は未だに構造が解明されておらず、それは地下迷宮(ダンジョン)の未踏破領域と同義だ。地図(マップ)なんてものはない──完全なる『未知』。

 もし袋小路に陥ったら……それを懸念するベルに、シルが微笑み掛けた。

 

「大丈夫です。私が案内しますから」

 

 まるで近所の遊び場に行くような軽い口調だった。

 深紅(ルベライト)の瞳と薄鈍色の瞳が交錯する。

 僅かに引き離した距離を、今この瞬間にもシルバーバックは埋めている。

 ベルは決めた。演者のように大仰に言う。

 

「私が貴女を何処までも運びましょう」

 

「なら、私が貴方を何処までも導きます」

 

 人工迷宮の中にベルは飛び込んだ。数秒後、シルバーバックが遅れて追走する。しかしすぐに、野猿は足を止めた。

 

『グァ……?』

 

 漆黒の外套(がいとう)が陽の差さない迷宮街に同化し、隠蔽を可能にする。

 辺りを見渡している隙に、ベルはずんずんと距離を離していく。

 

「ベルさん、そこの階段を降りて下さい!」

 

「分かった!」

 

 言われるがままに、螺旋階段(らせんかいだん)を下っていく。目まぐるしく横にずれていく景色にシルは酔いそうになったが、何とか堪えた。

 それからベルはシルの指示通りに動いた。何本もの通路を渡ったり、階段を登ったり降りたり、傾斜が激しい坂道を駆け上ったりする。

 

「彼処のバラックで隠れましょう!」

 

 下り坂を降り切ったところで、そう、シルが提案した。彼女が指さした先には、粗末な一つのバラックが()っていた。今にも崩れそうな家屋から、人の気配は感じられない。

 

「だが追い付かれたら……」

 

「時間と距離をだいぶ稼ぎましたから、数分だったら大丈夫だと思います」

 

「いや、しかし……」

 

 渋るベルに、さらにシルは続けた。

 

「どちらにせよ、今後の方針を決めなくちゃいけません。今だったらその余裕もありますから」

 

 そう言うと、ベルは「分かった」と頷いた。横抱きにしている少女を丁重に下ろす。

 立て付けが悪い扉を開けると、

 

「ゴホッ、ゴホッ!」

 

 ベルは思わず噎せてしまった。

 目で見えるほどの尋常ではない埃。部屋を開けたことで空気と風塵が混ざる。

 室内を見渡すと、埃まみれの寝台(ベッド)とボロボロの掛け毛布が一枚あるだけだった。窓もなく、とてもではないが、此処で生活を営むのは不可能だ。

 何十匹もの(あり)が床を()っている光景は、女子(おなご)だったら悲鳴を上げても何ら可笑しくなかったが、シルは表情を崩すことはなかった。それどころか寝台(ベッド)を手で強く叩き、何重にも重なっている埃を落とした。そしてそれが終わると「これで座れますね」と笑顔を向ける。

 

(た、(たくま)しいな……)

 

 そんな感想を抱きながら、ベルはシルの隣に座った。ひと一人分空けた状態で少年が腰を下ろしたので、街娘は頬を膨らませて自分から埋める。

 ベルは最初こそ戸惑ったが、すぐに受け入れた。それから開口する。

 

「シルが先程言ったように、今後の方針を決めたい」

 

「ええ、そうしましょう」

 

 冒険者は自分の推測を口にする。

 

「【ガネーシャ・ファミリア】や他【ファミリア】の救援は望めないと思った方が良いだろう。ダイダロス通りを突破出来るとは思えない」

 

「ごめんなさい……私の所為ですよね……」

 

「謝ることじゃない。貴女が提案してくれなければ、今頃、迷宮都市(オラリオ)を無闇矢鱈に走り回っていただろう。そうしていたら、今こうして体力の回復も出来ず、モンスターに捕まっていた。だからありがとう。シルのおかげで私は今此処に居る」

 

「そんな、お礼を言うのは私の方です!」

 

 シルはベルの片手を両手で包み込むと、感謝の念を伝えた。

 

「助けは期待出来ない」

 

「ベルさんはあのモンスターに勝てないんですか?」

 

「……ああ。非常に情けなく言いづらいが、三合も持たないだろう」

 

「そんなに強いんですね……」

 

「……より正確には、私が弱過ぎるんだがな」

 

 ベル・クラネルがギルドで冒険者登録をしてから、まだひと月も経っていない。駆け出し冒険者である彼がダンジョンで潜れるのは浅い上層。

 対する銀の野猿──シルバーバックはベルの到達階層の遥か下、より具体的には11階層で出現する魔物だ。とてもではないが、駆け出しが(かな)う相手ではない。

 

「あれ? でもベルさん、あのお猿さんからは逃げることが出来ていましたよね?」

 

 シルが疑問の声を上げる。

 ベルはベルで、彼女の『お猿さん』という可愛らしい言葉に反応に困った。それから苦笑い気味に。

 

「私は『敏捷(逃げ足)』だけが取り柄だからな。だがいくら『敏捷』が高くても、他の基本アビリティが低ければ意味がない」

 

 最後に【ステイタス】の更新したのは昨日だ。

 ベルは背中に手を当てて、自身の【ステイタス】を思い出す。

 

 

 

§

 

 

 

 ベル・クラネル

 Lv.1

 力:G204

 耐久:I47

 器用:G230

 敏捷:D598

 魔力:I0

《魔法》

【】

《スキル》

【】

 

 

 

§

 

 

 

 数日前、友人のフィン・ディムナとダンジョンに潜っていて良かったと、ベルは心から思った。

 ベル独りでは到達出来ない階層に行くことが出来、より上位の【経験値(エクセリア)】を獲得することが出来た。もちろん、担当アドバイザーであるエイナ・チュールからは小言を貰った──もし独りで行っていたら説教だった。第一級冒険者である【勇者(ブレイバー)】が同伴していたから、小言だったのである──が、その経験がシルバーバックとの鬼ごっこを可能としていた。

 

「困りましたね……」

 

「ああ、とても困った。正直なところ、先程はあのように言ったが、運良く腕利きの冒険者がシルバーバックを討伐してくれることを祈るしかない」

 

「……」

 

 シルが何か言いたげにしていたことを、ベルは気付かなかった。

『戦略』という概念すらなく。

 突き付けられるのは残酷なまでの『現実』。

 それでもベルは──冒険者ベル・クラネルは何か手はないかと考えることを放棄しない。

 そもそも、とそこでベルはシルを横から悟られない程度に窺った。

 

(何故シルを狙う? 彼女に『何か』があるのか?)

 

 ベル・クラネルがシル・フローヴァについて知っているのは、彼女の勤め先が『豊穣の女主人』で、酒場の給仕をしているということだけだ。

 どんなに考えても、街娘がモンスターに襲われる理由が分からない。

 ベルが知らない彼女の一面があるのは間違いないだろう。まだ会って間もないのだ。事実、ベル・クラネルは一つ『秘密』を抱えている。知っているのは、祖父と主神(ヘスティア)だけ。

 兎にも角にも、そこに『何か』の理由があるのかもしれないし、あるいは、そうではないのかもしれない。

 事態は好転も悪化もせず、時間だけが過ぎていく。

 

『グルゥアアアアアアアアアアアッッッ!』

 

「「……ッ!」」

 

 野猿の咆哮が人工迷宮(ダイダロス)に響き渡る。

 怒りが込められたそれは、爆弾となって弾けた。微かに聞こえてくるのは住民達の悲鳴。

 

(どうする……これ以上隠れていては無辜(むこ)の民が……!?)

 

 街娘を追っているのは断定出来るが、(ごう)を煮やしたモンスターが民衆を襲わないという保証はない。

 決断の(とき)がすぐそこまでに差し迫っていた。

 

 

 

§

 

 

 

 シルバーバックは身を焦がすような『熱』に身体を委ねていた。その『熱』の正体は純然たる怒り。

 忌まわしき兎によって『目標』が持ち逃げられた。

 どうやら奴等には自分とは違って地下迷宮(こきょう)を思わせる此処への理解があるらしく、自分が戸惑っている間に隠れられてしまった。

 

『グルァァァァァ……』

 

 唸り声を上げながら人工迷宮を探索する。臭いを嗅ごうにも、自分は特別、嗅覚が鋭い訳ではない。兎の臭いを辿ろうにも、それが分からないのだ。

 ましてや。

 

「ヒィッ……な、何でモンスターが!?」

 

「逃げろ! 殺されるぞ!?」

 

 こうも沢山のヒトが居ると、臭いも紛れるというもの。

 目が合うと、滑稽なことに憐れな弱者は腰を抜かして尻もちをついた。普段だったら襲って食事をしているところだが、今は構っている時間はない。

 あの愛おしい女神との『約束』を果たすこと。そして女神の寵愛を受ける。

 それ以外は至極どうでも良いのだ。邪魔をするなと睨むだけで、脆弱な奴等は慌てて踵を返す。

 魔物達(どうほう)の気配は自分以外には感じられない。否、()()()()()()()()()()()、自分には関係ない話だ。

 つまり、女神の寵愛を受けることが出来るのは自分だけ。

 そのことに優越感を得ながら、シルバーバックは何も馬鹿正直に探す必要はないと考えた。

 脚に力を込め──跳躍。建造物の上に移動する。高い場所から睥睨(へいげい)すれば、見付かるだろうと考えた。

 

『ルガアアァァ……?』

 

 建物から建物へ飛び移りながら探すが、中々、兎と『目標』の姿は視界に映らない。

 そこでシルバーバックは気付いた。

 恐らく奴等は卑怯にも、建物の中にでも身を隠しているのだろう。

 その考えに至った瞬間、頭が沸騰する。苛立ちが募り、収まることはない。

 手当り次第に建物を壊し、(あぶ)り出そうとした、その時だった。

 

「ハッ、あの方に選ばれておきながら、なんてザマだ。兎一匹と娘一人すら見失うとはな」

 

 背後に一つの気配を感じた。

 シルバーバックはモンスターである。魔物である彼は『人語(ことば)』というものが分からない。

 だが、投げられたものが嘲りであることは分かった。

 憂さ晴らしに此奴を殺そうと振り返ったところで──シルバーバックは自身の死を錯覚した。

 

『グァ……ッ!?』

 

「彼我の実力差を理解するくらいの知能はあるようだ」

 

 果たして、振り返った先に居たのは一人の猫人(キャットピープル)だった。黒と灰の毛並みを持つ小柄な青年は長槍(ジャベリン)(たずさ)えている。

 シルバーバックは恐怖した。

 本能が警戒音(アラーム)を頭の中で(やかま)しくも鳴らす。そして告げている。

 ──自分は猫人(キャットピープル)には天地がひっくり返っても敵わない、と。

 自分が一歩動こうとしたその時には、長槍(ジャベリン)によって胸の魔石(いのち)ごと貫かれている。その確信があった。

 

「全く……あの方も困る女神(ひと)だ。それに娘も。何で俺が──」

 

 猫人(キャットピープル)の青年はぶつぶつと独り言を言うと、やがて「チッ」と舌打ちをした。

 機嫌の悪さを隠そうともしない彼は、石像のように固まっているシルバーバックに「おい」と声を掛けた。

 

「あのクソ兎の居場所を教えてやる。彼処だ」

 

 戸惑う野猿に、猫人(キャットピープル)が告げた。ある方向を手で示しながら。

 導かれるようにして暗褐色の瞳を動かすと、そこには、小さな木造家屋が建っていた。距離は遠い。あんな場所に隠れていたのかと、ただただ怒りが募る。

 

「あの方の御命令を遂行しろ。それがお前の義務だ。さっさと行きやがれ」

 

 言われるまでもない。

 終始上から目線で言ってくるのは気に食わないが、歯向かったところで自分が惨殺されるのは目に見えている。

 ならば──この屈辱を、この怒りを『力』に変えよう。

 気付いた時には猫人(キャットピープル)は姿を消していた。女神以外に見物している輩が居るのは残念だが、精々、指をくわえて自分が『約束』を果たし、寵愛を受けているところを見るが良い。

 

『グルゥアアアアアアアアアアアッッッ!』

 

 これは宣誓だ。必ずや女神との『約束』を果たすという誓いだ。

 雄叫びが人工迷宮に木霊する。すると天高く(そび)えている巨塔の頂上から、視線が注がれるのを感じた。

 間違えないようもない。女神だ、女神が自分の『勇姿』を見ようとしてくれている! 

『目標』は眼前にある。

 いくら兎が速く逃げようが、関係ない。一撃で屠ってみせよう。そうすれば邪魔者は居なくなる。邪魔者の始末は特に言及されていないから、殺しても構わないだろう。

 あとは『目標』を女神の御前に届けるだけだ。

 シルバーバックはググッと両手両脚に力を込めると、大きく飛び跳ねるのだった。

 

「……」

 

 その様子を猫人(キャットピープル)の青年は離れた所で眺めていた。シルバーバックを凝視している。

 そして移動しようとしたところで、彼は足を止めた。近付いてくる一つの気配を感知したのだ。

 待つこと数秒、一人の人物が現れる。その人物は気さくに手を挙げながら彼へ挨拶をした。

 

「よう」

 

 対面するのは初めてだが、猫人(キャットピープル)の青年はその人物のことを知っていた。

 迷宮都市(オラリオ)に居る殆どの冒険者は彼のことを知っているだろう。第一級冒険者とはまた違った名声がその人物にはあった。

 炎を連想させる赫灼(かくしゃく)の短髪に同色の瞳。黒色の着流(きなが)しはせっかくの上品さが損なわれ襤褸衣(ぼろそ)となっている。170(セルチ)を優に超える身長を誇る青年は、挨拶の返事がなかったことに落胆しつつも、視線を鋭く向けていた。

 

「……どうして手前(てめぇ)が此処に居る?」

 

 口火を切ったのは猫人(キャットピープル)の青年だった。

 尋ねられた赫灼の青年は肩を竦めてみせると、

 

「それは俺の質問だな。どうしてお前が此処に?」

 

「……」

 

(だんま)りか。ああ、じゃあ質問に答えよう。偶然にもうちの主神と、あの野猿(モンスター)が追い掛けている冒険者の主神が神友(マブダチ)らしくてな。そうなったら、助けない訳には行かないだろう? 主神の神意に従うのが、眷族(ファミリア)ってものだ。それくらいは俺にだって分かる」

 

「…………」

 

「恐らく、お前も主神の神意に従っているんだろうさ。見てたぜ、お前がシルバーバックを誘導するところをな。まあ、とはいえ。俺はお前が何処の誰かは知らないから、ギルドに報告するのは出来ないんだが……」

 

「やれやれ、もうちょっと俗世にも興味を持った方が良いかもな」と、赫灼の青年は呟いた。

 さらに言葉を続ける。

 

「それに、俺も()()()には個人的に興味があってな」

 

 だからさ──、と赫灼の青年は朗らかに笑った。

 

「そこ、通らせてくれるか」

 

 返答は簡単だった。

 猫人(キャットピープル)の青年が無言で長槍(ジャベリン)の穂先を向けたのだ。

 道を空ける気はないという、意志の表れだ。

 

「まっ、だろうな。寧ろわかりやすくて助かる。なら、強引にでも通らせて貰うぜ。此奴(こいつ)の試し打ちもしたかったところだしな」

 

 赫灼の青年は不敵に唇を曲げると、背中に吊るされている片手剣直剣(ワンハンド・ロングソード)に手を伸ばした。鞘袋ごと破り、勢いよく抜刀する。

 紅蓮の刀身が(あらわ)になった。

 それを見た猫人(キャットピープル)の青年は「チッ」と盛大に音を立てると、鋭い突きを放ったのだった。

 

 

 

§

 

 

 

 無言の時間が流れる。

 ベルが打開策を必死に考える中、シルは横から何度か視線を送っていた。

 しかし、考え込んでいる彼には届かない。

 

(さっきの咆哮……! もう、すぐ近くに──)

 

 ベルがそう考えた、その時だった。

神の恩恵(ファルナ)』で刻まれた五感──聴覚が感知する。

 それはまるで、飛来物が風を切って上から下に下降しているような──。

 

「……ッ! シル!?」

 

「……え?」

 

 自分の直感を信じ、ベルがシルを抱き寄せると同時。

 バラックの天井が突き破られた。粗末な造りの木造家屋はあっさりと倒壊し、粉々に砕けた木の板が二人に降り注ぐ。街娘の悲鳴が音に掻き消された。

 土煙のような埃が舞う中、頭を手で守っていたベルは奥に居るであろう存在を強く睨め付けた──瞬間。

 煙を裂いて剛腕が伸びてきた。少女に魔の手が迫る。

 

「すまない!」

 

 そう、言葉を言いながら、返事を待つことなく、ベルはシルを右手で横に投げ飛ばした。「きゃっ!?」と少女が固い石畳に投げ落とされる音が出る。

 しかしながら、ベルは気遣うことも、謝罪をすることも出来なかった。

 

「べ、ベルさん!」

 

 擦りむいてしまった肘から血を流しながら、シルがよろよろと立ち上がった。

 一陣の風によって煙が晴れる。果たして、瓦礫と化した木材の上では、一人の少年と一匹の獣が超至近距離で相対していた。

 そして彼女は見た。見てしまった。

 ベルの左腕が野猿に握り潰され、そのまま身体が吊るされているところを。

 

「──ッ! ────ッ!」

 

 声にならない絶叫が口から洩れる。

 

(まず……い。これ……は、冗談抜きで……)

 

 激痛で顔を歪めるベルを、シルバーバックが投げ飛ばす。砲丸の如し勢いでベルは受身を取ることもままならず壁に激突し、口から大量の血を吐いた。

 

(『耐久』が低過ぎる……。友人(フィン)が言った通りになった……!)

 

 それは、ベルと一緒にダンジョンに潜った第一級冒険者であるフィン・ディムナが、駆け出し冒険者に告げた忠言だった。彼は僅か数刻でベル・クラネルの最大の弱点を、背中に刻まれている『神の恩恵(ファルナ)』を読み取ることなく見抜いていたのだ。

 ベル・クラネルの最大の弱点──それは、『耐久』の熟練度が他の基本アビリティと比べてずば抜けて低いこと。

 自慢の『敏捷(あし)』を活かした戦闘をベルは行っている。瞬く間に敵に肉薄し、また、距離を取ることで攻撃を喰らわないことを念頭に置いている。傷を負わないこと、それは良いことであるが、今回のような強敵と相対した場合、たった一撃で沈むことも充分に起こり得る。

 

(まずい……意識が……)

 

 視界が点滅する。ぼやけて見えるのは、野猿が少女に近付いていく光景。未だに救援は来ず、遮る者は居ない。

 耳鳴りがする。耳朶を刺激するのは、野猿の勝利の雄叫びと、少女の「ベルさん!」という悲鳴にも、泣き声にも似た音。

 意識が朦朧とする。

 

(全身が痛い。特に背中。左腕は感覚がないから、寧ろこっちの方が助かる。ああ、正直なところ泣きたい)

 

 思考が纏まらない。

 

(ここ最近は良いことがあり過ぎたから、そのツケが回ってきたのかもしれないなぁ……。特に美少女とばかり交流を深めていたから、嫉妬に狂った男神(おがみ)が天罰を降したのかも……)

 

 狂人のような考えすら浮かび上がる。

 

(うん、決めた。次にヘスティアと会ったら、彼女の胸にダイブしよう。そうしよう!)

 

 取り留めのないことが想起される。

 それは、ベル・クラネルが歩んできた物語(みち)だ。

 新しい記憶から、古い記憶に遡っていく。

 迷宮都市(オラリオ)でこれまで出会ってきた人物達が脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。敬愛している主神、尊敬している数多くの友人達。

 次に脳裏に浮かぶのは、故郷での思い出。愉快な祖父と暮らしていた、愉快な毎日。両親が居なかった少年にとって、祖父が育て親だった。祖父と一緒に営んでいた生活は、とても大切な思い出として、これからも残り続けるだろう。

 

 ()()()──()()()()()()

 

 刹那、ベルは深紅(ルベライト)の瞳を開眼させた。

 右手を壁に当てて身体を支えながら、よろよろと緩慢な動作で立ち上がる。

 今まさに『標的』を捕らえようとしていたシルバーバックは、立ち上がった気配に思わず顔を振り向かせた。

 

『ルガァアアアア……!』

 

 あらん限りに目を見張る。

 果たして、そこには一人の雄が居た。

 瞠目している間に、彼は覚束ない足取りで歩く。何度も、何度も小石に躓き、転びそうになりながらも、動いていた。

 

「……アミッド女医に私は何を偉そうに言っていたのだろう。『人類は停滞している』か……ああ、なるほど。どうやら、停滞していたのは私の方だったようだ」

 

 恥じ入るようにベルは呟く。

 そしてシルバーバックと少女の間に割って入ると、鞘から剣を抜刀。その切先を魔物に向けた。

 

「ベルさん、無茶です! 私には構わないで、逃げて下さい!」

 

「シルの願いであっても、それを叶えることは出来ないな」

 

「お願いですから! 動かないで下さい! ベルさんが死んでしまいます!」

 

 少女が甲高い悲鳴を上げた。それは慟哭のようでもあった。

 

『……』

 

 シルバーバックは眼前の()を冷静に分析する。

 握り潰された左手は辛うじて原形を保ってこそいるが、とてもではないが使えないだろうことは想像に難くない。身体の骨は何本か折れている筈だ。

 己を散々苛立たせてくれた自慢の『敏捷(あし)』も、少し動いただけで激痛が全身に走り渡り、走るという行為すら難しいだろう。

 

『…………』

 

 なのにも関わらず、シルバーバックは油断が出来なかった。本能が、眼前の敵対者が対等だと告げてくる。

 紅玉(ルビー)を連想させる、深紅(ルベライト)の瞳に込められた強き意志。

 何よりも、絶望的な状況にも関わらず、今尚、浮かべている笑み。

 敵対者は唇をさらに曲げる。決然と、自身の想いを声に出して叫んだ。

 

「『女子(おなご)』たった一人守れずして何が『英雄』──何が『男子(おのこ)』だ!」

 

 ベルは顔だけ後ろを振り向かせて、優しく微笑んだ。薄鈍色の瞳を見詰めて、語り掛ける。

 

「安心して下さい、美しい女性(ひと)。私が貴女を魔の手から守ってみせましょう」

 

「ベルさん……でも!」

 

「どうか私に、貴女を守らせて下さい。どうか私に、貴女の笑顔を守らせて下さい」

 

「──!」

 

 シルは泣き笑いを浮かべると、やがて、大きく頷いた。

 

「お願いします、英雄様! 私を助けて下さい!」

 

 ベルは笑った。

 天まで届けと、声を立てて笑った。

 高らかに、人工迷宮に声を響かせる。何処までも元気良く、そして、何処までも滑稽に。

 自身の物語(ものがたり)を天に綴ろう。果てなく広がる青色のキャンバスに描くのだ。

 

「言おう、そして、綴るぞ英雄日誌! ──『()()ベル・クラネルは愛すべき女子(おなご)の声援を受けて、野猿(やえん)と対峙! 繰り広げられるのは死闘だった!』──

 

 そして、ベル・クラネルは(うた)った。

 

 

 

「さあ──『喜劇』を始めよう!」

 

 

 

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