さあ──『喜劇』を始めよう!   作:Sakiru

17 / 81




名も無き英雄(ベル・クラネル)VS銀の野猿(シルバーバック)

 

 紅蓮(ぐれん)の炎が巻き起こる。

 剣戟(けんげき)の音が鳴る。

 火花が(はじ)け散る。

 片手直剣(ワンハンド・ロングソード)長槍(ジャベリン)のぶつかり合い。

 

「分かってはいたが……あんた、強いな。Lv.5……いや、団長(椿)より強いなら、Lv.6か?」

 

「チッ、鍛冶師風情が……ッ!」

 

 迷宮街の建造物の屋根の上で、ある一つの戦闘が繰り広げられていた。

 赫灼の青年が感嘆すると、猫人(キャットピープル)の青年は忌々しそうにその美顔を歪める。

 

手前(てめぇ)……それは『魔剣(まけん)』だな」

 

如何(いか)にも。これは俺が打った『魔剣』だ」

 

 鍛冶師は何てことがないように軽く頷いた。

 猫人(キャットピープル)の青年は益々表情を険しくすると、向けられている片手剣直剣(ワンハンド・ロングソード)──否、『魔剣』に視線を注いだ。

 

 ──『魔剣』と呼ばれる武器がある。

 

 まず大前提として、普通の武器は使えば使う程に消耗し、刃こぼれし、やがて折れる。その度に使用者は新しい武器を求め鍛冶師に精製して貰う、あるいは、売られている物を購入する必要がある。

 それが『古代』から今尚引き継がれている、武器の在り方だ。

 しかしながら、神々の降臨──『神時代(しんじだい)』に突入した事によって、『神の恩恵(ファルナ)』の登場によって、その様式は些か変わった。

階位(レベル)』を上げた『昇格(ランクアップ)』。この際、『恩恵』を刻まれた者は『基本アビリティ』とはまた違った『発展アビリティ』を取得することが出来る。

 その者が積み重ねてきた【経験値(エクセリア)】によって『発展アビリティ』の選択肢は決まってくるが、そのどれもが、より専門的なものだ。

 そして、数多く確認されている『発展アビリティ』の中に『鍛冶』というものがあり、『神時代(しんじだい)』の鍛冶師にはそれが必須とされている。

『鍛冶』を持っている鍛冶師は打った武器に『属性』を付与することが出来る。

 例えばそれは、絶対に折れない武器や、絶対に切れ味が落ちない武器など、多岐に渡り──。

 

 そして中には、擬似的な『魔法』を生み出す武器(もの)もあり、人はそれを『魔剣』と呼んでいる。

 

 そして赫灼の鍛冶師は『魔剣』を打つことが可能だった。とはいえ、普通の上級鍛冶師(ハイ・スミス)とは少々事情が異なっているが。

 どちらにせよ、彼は『魔剣』を打ってきた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そのようにして、彼は富と栄誉を築き上げてきた。

 猫人の青年は彼を唾棄する。

 

()()()()()()()()()が……ッ!」

 

「そうだな。俺はその言葉を否定しない。否定なんてする余地がないからな。だが、俺が此処に居る。今はそれだけが重要だろ? それでは改めて名乗ろう。それが戦場の流儀(りゅうぎ)ってやつだからな」

 

「鍛冶師が戦場を語るなよ……!」

 

 赫灼の青年は不敵に笑うと、自己紹介した。

 

「──俺はヴェルフ・クロッゾ。【ヘファイストス・ファミリア】所属の鍛冶師(スミス)だ。神々から頂戴した二つ名は【魔剣鍛冶師(クロッゾ)】。まあ、家名が二つ名なのは変だと思うが、宜しく頼む」

 

 それでお前は? と【魔剣鍛冶師(クロッゾ)】が尋ねると、猫人(キャットピープル)の青年は舌を一度打ち、自らも名乗った。

 

「──【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】。【フレイヤ・ファミリア】所属、副団長アレン・フローメル」

 

 素っ気なくも、真名(まな)を教えてくれたことに、ヴェルフは朗らかに笑った。

 

「さて、もう一度言おう。そこを退いてくれないか」

 

 返答は無言の突きだった。

 音速の一撃がヴェルフを襲うが、彼はそれを冷静に『魔剣』で防ぐ。炎の(うず)が舞い上がり、アレンに襲い掛かるが、猫人(キャットピープル)はそれを軽い身のこなしで避けてみせた。

 その後何度か攻防を繰り広げるが、どちらも有効打にはならない。

 

「無理矢理にでも通ろうと思っていたんだが……それは出来そうにもないか。『魔剣』もあと数発が限界だしな。これは困ったな。『魔法』を使おうにも──」

 

「俺が詠唱(えいしょう)を許すとでも?」

 

「だろうなぁ……困ったことに、俺もお前も主神の神意(しんい)に従って此処に居る。つまり、退()く訳にはいかない」

 

魔剣鍛冶師(クロッゾ)】も【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】も、未だに本気を出していない。もし全力でぶつかり合ったら、二人の周りは更地になるだろう。

 

(それにしても……【フレイヤ・ファミリア】か。さっき会った女神(めがみ)がこの騒動に関わっているとみて間違いないんだろうが……)

 

 話は平行線の一途を辿る。

 ヴェルフもアレンも、どちらも折れる気がない。

 

(まずいな……早く行かないとあいつが死んじまうぞ)

 

 そう思った時だった。

 轟音が鳴り響く。

 見れば、少年が野猿によって腕を潰され、壁に投げ飛ばされ、背中から叩き付けられたところだった。

 

(おいおい、あれ、死んじまったんじゃ……!?)

 

 起きる様子がないのでヴェルフが心配する中、アレンは苛立たしげに懐を探っていた。そして液体が入っている一本の試験管を取り出す。

 それは万能薬(エリクサー)と呼ばれている回復薬(ポーション)。生命さえあれば、生きてさえいればどのような傷も治すとされている、いわば、『奇跡の薬』。

 眉間に皺が寄るのを自覚しながら、ヴェルフはワンオクターヴ音程を下げて問う。

 

「助けるのか?」

 

「……」

 

「どういうことだ。お前は──いいや、お前のとこの女神は何が狙いだ?」

 

 視線の応酬。

 嵐の前を思わせる異様な静寂。

 緊張が臨界点に届き掛けた──その時だった。

 

 

 

「『女子(おなご)』たった一人守れずして何が『英雄』──何が『男子(おのこ)』だ!」

 

 

 

 一つの宣誓が轟いた。

 ヴェルフとアレンが同時に発生源に顔を振り向かせると、そこには、一人の少年が立っていた。背後には、一人の少女。彼女を守るように、否、守り、野猿に真正面から向き合っている。

 

 少女が言う──私に構わず逃げて下さい、と。

 少年が言う──貴女を守らせて下さい、貴女の笑顔を守らせて下さい、と。

 

 立っているのもやっとな状態だった。左腕は辛うじて原形を保ってこそいるが、適切な治療を早期に施さなければならないのは一目瞭然。石畳には血溜まりが出来ており、今尚、血の雫がぽたぽたと落ちている。

 全身が傷だらけだ。

 生きているのが奇跡に等しい。ましてや、彼からしたら格上な相手に挑むなど、愚行に他ならない。

 だが、しかし────少年(かれ)は何処までも笑っていた。何処までも無邪気に、何処までも明るく。まるで『悪』という存在に触れたことがないように、いっそ、能天気に笑っていた。

 

「──はは、はははははははははっ!」

 

 それを見たヴェルフは腹を抱えた。背中に吊るしている鞘に紅蓮の刀身を納める。

 既に彼に戦意はなくなっていた。

 猫人(キャットピープル)の青年の訝しげな視線も気にせず、赫灼の青年は唇を吊り上げた。

 

「ああ、そうか! ()()()()()()()()()()!」

 

 笑声が止められない。

 感動が抑えられない。

 目尻に溜まった涙を取り払うと、ヴェルフは興奮しているのを隠さず言った。

 

「居たんだな、お前も! 此処に! 『世界の中心』である迷宮都市(オラリオ)に!」

 

手前(てめぇ)……何を言って……!?」

 

 猫人(キャットピープル)の青年の言葉は届かない。

 

「俺が此処に居るのも、お前が此処に居るのも! 全ては『偶然』だ! ああそうだ、『偶然』だとも! 俺の主神が『偶然』お前の主神と神友(マブダチ)で、そしてそこには俺が『偶然』居た! だが、『偶然』が何回も積み重なれば、それはやがて『必然』となる! なぁ、そうだろう!?」

 

 赫灼の青年は瞳を見開いて、瞬き一つすらせず、その光景に見入っていた。

 

「ああ、これが神の思し召しだというのなら感謝しよう! これまでの人生に、俺が生を受けたことに意味があったのだと、この出会い──()()()()()()()()()()()!」

 

 炎の瞳が映すのは、一人の少年。名も無き、英雄。

 

「さあ──『喜劇』を始めようぜ!」

 

 

 

§

 

 

 

 紅玉(ルビー)を思わせる輝きを放つ深紅(ルベライト)の瞳と、禍々しさを放つ暗褐色の瞳が交錯する。

 冒険者ベル・クラネルが相対するのは、怪物(モンスター)シルバーバック。

 ギルドで冒険者登録をしてから、ベルはまだひと月も経っていない。どんなに才に恵まれた者であろうとも、新参者が辿り着ける階層には限度がある。そしてシルバーバックが地下迷宮(ダンジョン)で出現するのは11階層。駆け出し冒険者であるベル・クラネルが(かな)う道理はない。

 また、身体の状態(コンディション)も最悪だった。

 背部から全身に広がる痛みはまるで猛毒のよう。少女を庇った際の代償として、左腕は握り潰されており、感覚は既になかった。

 もし此処に彼の友人であるアミッド・テアサナーレが居たら、彼女は表情を盛大に歪めるだろう。そして愚かにも『冒険』をする少年を(いさ)めるだろう。それは治療師(ヒーラー)としての判断であり、また同時に、友人を想ってのことでもある。

 あるいは、もし此処に彼の担当アドバイザーであるエイナ・チュールが居たら、彼女は表情を盛大に怒りに変えるだろう。『冒険者は冒険をしてはならない』という彼女の考えに真っ向から対立する行動を、弟のように思っている少年がやろうとしているのだから。

 そして、もし此処に彼の主神が居たら──()女神(めがみ)はきっと、心配しながらも、最終的には眷族(けんぞく)の『意志』を尊重するのだろう。

 

(モンスターらしからぬ『理性』がこのモンスターにはある! 『本能』にただ支配されている魔物ではなく、『理知』を持った怪物だと思わなくては!)

 

 すう、と息を吸い、ゆっくりと吐く。

 最初に動いたのは、ベルだった。

 

「行くぞ!」

 

 激痛で顔を歪めながらも、一歩踏み込み、自身の最大の武器である『敏捷(きゃくりょく)』を活かし、敵に肉薄する。

 だが、しかし。

 

『グルァアアアア────!』

 

 対するシルバーバックは懐に入られる前に、大きく後退した。

 振るわれた剣が空を切る。

 そう、シルバーバックは冷静に分析していた。

 シルバーバックが眼前の敵に対して抱いている印象は、『脚が速い兎』というものが第一に来る。

 分かっているのは、散々己を苛立たせてくれた『敏捷(あし)』の速さと、傷を負っているということ。逆に言えば、他は判明していない。あの非力な腕と片手直剣(ワンハンド・ロングソード)で自身を切れるとは思えないが、それも絶対という保証は何処にもない。

 今の攻防で、敵対者がどれ程減速しているのかが分かった。鬼ごっこしていた時よりも遅い。そして時間の経過、身体を酷使すればする程に減速していくだろう。

 慌てる必要はない。兎が自慢の脚を損なうのだ、それまで待ち、動けなくなったところを確実に仕留めれば良い。

 

(さあ、『布石』は打った。問題は此処から……!)

 

 脂汗が頬を伝う。それを拭うこともせず、ベルもまた、シルバーバックと同様、冷静に分析していた。

 

(私が勝つ為には、短期決戦に打って出るしかない。次の攻撃で、戦況を五分にしなければならない。問題があるとしたら──)

 

『力』がどれ程通じるかだと、ベルは考えていた。

 少しは表皮を切り裂けるのか、筋肉の壁に食い込むのか、あるいは、傷一つ付けることすら適わず弾かれるのか。自身の弱点である『耐久』よりは遥かに熟練度は高いが、果たして──それが最大の懸念事項だ。

 また、片手直剣(ワンハンド・ロングソード)《プロミス》を使っての実戦は、これが始めて。使い勝手が分からない剣で強大な敵に挑むことが如何に無謀なのかは、ベルは分かっているつもりだ。

 身体の状態は最悪。さらには己の半身である武器ですらこうなのだから、状況は絶望的だ。

 

(それでも……)

 

『英雄』に至る為、何よりも、背後で自身の勝利を信じてくれている少女を守る為。

 

(それでも──私は勝たなければならない!)

 

 僅かでも動くと全身が悲鳴を上げる。少しでもそちらに気を取られたら最後、待っているのは己の死。

 それを打ち消す為、己を鼓舞する為、冒険者は泥臭くも雄叫びを上げる。

 

「うおおおおおおおおお!」

 

 前傾姿勢となり──両脚に力を込め突進する。今度こそベルは敵の(ふところ)に入った。

 

『……ッ!?』

 

 シルバーバックは驚愕する。

 先程の攻防よりも、明らかに速い。そんな馬鹿なと目を見張る一方で、()()られたという激情が沸いた。

 先程の一撃は敢えて速度を抑えていたのだ。ベルが現状出せる最大速度はこれくらいだと思わせる為に。

 ──『技』と『駆け引き』。

 第一級冒険者がよく使う言葉だ。『神の恩恵(ファルナ)』が神々から授けられ、下界の子供達は『可能性』を手にした。その最たる例が『階位(かいい)』。『偉業』を成し遂げることで『器』を『昇華』させ、神に近付くとされる。

 だが、『能力』と『技術』は別物だ。つまるところ、どんなに『階位(レベル)』が高く、【ステイタス】が高くとも、それを使いこなせる程の『技術』が必要となる。

 

『──ッ!?』

 

 それこそ、『技』と『駆け引き』に他ならない。

 

『────ッ!?』

 

『駆け引き』に負けたシルバーバックは予想外の速度に反応が遅れる。

 ──回避、いいや、間に合わない! 

 奴が狙ってくるのは己の『魔石(しんぞう)』! ならば、守るべき場所は──! 

 胸部に埋め込まれている『魔石(いのち)』を守る為、シルバーバックは咄嗟(とっさ)に両腕を組んだ。

 だがしかし、ベルの狙いは『魔石(ませき)』ではなかった。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおッッ!」

 

 野猿の領域に遠慮なく振り込むと、そこからさらに石畳を強く蹴る。あまりの圧力に罅が走るのも気にせず、力を溜め──そして、跳躍した。

 シルバーバックは目を丸くする。自身の眼の高さに、相手の深紅(ルベライト)の眼があるのだ。これまでずっと見下ろしていた相手が、同じ目線に居る。

 呆ける野猿に、ベルは一閃。

 銀閃が横に走った時には、シルバーバックの右眼の眼球は()られていた。

 

『……グァアアアアアアアア!?』

 

 痛みに苦しむ声が迷宮街に轟く。

 視界を永遠に喪ったシルバーバックは思わず手で右眼を覆ってしまう。べちゃりと付着したのは、己の血だ。気持ち悪い感触。

 

「まだだッ!」

 

 ベルは地面に着地すると、さらに連撃を叩き込むため、距離を詰めた。速度は普段の半分以下。

 だが、視野の右半分を失った野猿はこれまで当たり前にあった景色が欠けた為に対応出来ない。闇雲に手を伸ばすが、ベルはそれを右にステップして回避した。そしてシルバーバックの股を潜り、左脚のふくらはぎを切り付ける。

 

『グアアアアアアアアッッッ!?』

 

 左脚の下腿部(かたいぶ)から生じた痛みが野猿を襲う。巨体が地面に崩れ落ちた。起き上がろうとするが、ままならない。

 

(行ける……! この剣なら、私でもシルバーバックに傷を負わせられる!)

 

《プロミス》の切れ味は素晴らしいの一言だった。

 だが、シルバーバックもやられたままではいない。今度こそ身体を起こすと、反撃を開始する。

 

『グガアアアアアアアアアアァァァァ!』

 

 波状攻撃を繰り出す。

 両の手首に連結されている鎖を鞭のように振り回し始めたのだ。

 たとえ敵の姿が捉えにくく、距離感が狂っていようとも、鞭なら殴打よりも遥かに攻撃範囲が広く、命中率も高いとシルバーバックは考えた。

 地面を(えぐ)り、壁を削る。それはまさに暴風。空気を裂くのは不気味な風切り音だ。

 

(くそっ……これじゃあ近付けない!)

 

 近接武器の《プロミス》でしか、ベルは剣の間合いに入ることが出来ない。つまり、降り注ぐ攻撃の雨が止むまで耐え凌ぐしかない。

 そして、ただ出鱈目(でたらめ)に振り回せば良いシルバーバックとは違い、ベルには繊細な技術が求められた。

 時に剣の腹で受け止め、時に剣で弾き、時にステップをして躱す。

 それは、あまりにも危険な綱渡りだ。

 

「────ッ!?」

 

 拮抗していたかのように見えた戦闘は、突如、あっさりと幕切れとなった。

 言葉に出来ないほどの激痛がベルを襲う。攻撃を浴びた訳ではない。

 酷使され続けていた身体がついに()を上げのだ。

 動き続けていた足がついに止まる。追い打ちをかけるようにして、シルバーバックが放った横薙ぎの一閃が大気を切り裂いた。

 ベルは咄嗟に剣で受け止めることを選択。しかし、準備もままならなかったそれは防御とは言えず、途轍もない衝撃が小さな身体に及んだ。

 

「がはっ、ごふっ……!」

 

 口から血を吐き出す。壁に叩き付けられた時以上の吐血量。鮮やかな赤色の液体が石畳を浸食(しんしょく)していく。

 

(くそっ、まだだ……! まだ、倒れる訳には……!)

 

 ベルの思いとは裏腹に《プロミス》が手から滑り落ちる。キン、という金属特有の冷たい音が響き、それは剣の悲鳴のようでもあった。

 遅れるようにして身体が崩れ落ちた。ドサッ、というあまりにも小さな音が、風によって掻き消えた。それは少年の生命の灯火を表しているようでもあった。

 

(身体に力が入らない……)

 

 生命を維持する為、身体に安全機能が働く。

 

『グァァァァ……!』

 

 シルバーバックが、動いた。

 ベルは動けと身体に命令するが、ぴくりとも動かない。

 迫り来る『死』にベル・クラネルは何も出来ない。猛然と相対することも、情けなく逃げることも出来ない。

 

『グァァァァァァァァ……』

 

 そうしている間にも野猿は緩慢な動作で動く。彼自身も、随分と傷を負った。切られた部位を引き摺るようにして、ベルに近付く。

 地響きが鳴る。それはまさに絶望を表現している旋律。

 

 そして、(とき)が止まった。

 

 一つの影が、差した。

 顔を上げたベルは驚愕で目を見張る。

 果たして、そこには一人の少女が居た。守ると言った彼女が、そこには居た。

 

「シ……ルッ!」

 

 ベルに背を向ける形で、彼女は迫り来るシルバーバックと向き合っていた。

 掠れ声を出してベルが「逃げろ!」と言う。

「チッ!」と、遠目から見守っていた猫人(キャットピープル)の青年が駆け出す。歴戦の勇士である彼の脚は迷宮都市(オラリオ)で最速だ。「おい!?」と声を上げる赫灼の青年を置き去りにした。

 

「ありがとうございます、ベルさん。私を守ってくれて。私の笑顔を守ってくれて」

 

「……!?」

 

「実は私、貧相街(スラム)で生まれたんです。色々とあって、今は『豊穣の女主人』で働いていますが……」

 

「何を言って……──!?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 さらにシルは言葉を続けた。迫り来る巨体を瞳を逸らすことなく、じっと見詰めながら。

 

「私はこれまでに多くの人と関わってきました。随分と長く給仕として働いてきました。すると面白いことに、沢山の人が居ると、沢山の発見があることに気付いたんです」

 

『人間観察』って言うんでしょうか? とシルは自答した。

 

「そのおかげで、何となくですけど──分かるようになったんです。その人が怒っているのか、悲しんでいるのか。本当か、嘘か。だから、ベルさんのことも分かりました。まだ全ては分かっていませんけど……これだけは言えます」

 

 そして少女は振り向いた。

 少女が優しく語り掛ける。それはまるで、遺言のよう。

 

「貴方は優しい人。誰よりも優しい人。困っている人がいたら損得勘定関係なく、手を伸ばすことが出来る人。そして、人を笑顔にすることが出来る人だって、私は自信を持って言えます。きっと、ベルさんのような人が『英雄』と呼ばれるんだと思います。これから貴方に救われる人は沢山いるでしょう。だから──」

 

 薄鈍色(うすにびいろ)の長髪が風と共に揺れる。

 少女は最後に、淡く、そして(はかな)く笑った。

 

「だから、今度は私が。今度は私が、貴方を守らせて下さい」

 

 その時にはもう、少女の小さな身体は伸ばされた野猿の大きな手に収まろうとしていた。

 少女の微笑みが、彼女の言葉が檻に入ろうとしている。

 そして、(とら)われる──直前。

 

 再度──(とき)が、否、世界が静止した。

 

 今まさに長槍(ジャベリン)を投擲しようとしていた猫人(キャットピープル)の青年が琥珀色の瞳を大きく見開かせる中、赫灼の青年はそうなることがまるで分かっていたかのように笑みを浮かべていた。

 そして、シルバーバックは呆然と『それ』を見ていた。『それ』は、くるくると回転しながら落ちてきた。見覚えのある『それ』は──己の前腕に他ならなかった。

 

『グアアアアアアアアアアアァァァァッッ!?』

 

 身を焦がすような激痛に晒されながら、シルバーバックは片眼となった左眼で、それを凝視する。

 剣を切り上げた姿勢で、彼は硬直していた。

 紅い目から血の涙を流しながら。全身が傷だらけになりながら。生命を燃やし尽くそうとしながら。

 

「……言おう、我が英雄日誌。──『英雄ベル・クラネルは間一髪のところ、野猿に攫われそうな女子(おなご)を華麗に助けるのだった』──……ははは、脚色も大事だよネ」

 

 それでも、ベル・クラネルは笑っていた。

 いつもと同じようにへらへらと。何処か胡散臭い笑みを浮かべ、唇を曲げていた。

 

「はあ……はぁ……!」

 

 吐く息はとても荒い。肩だけで呼吸をしている状態だ。

 膝から崩れ落ちそうになるのを、気合いだけで堪えている。

 それはまさに『執念』。 

 シルを横抱きにすると、戦闘区域から離脱した。充分に離れた場所で少女を下ろすと、ベルは剣を構え直しながら、

 

「シル」

 

 そう、彼女の名前を呼んだ。

 それは、これから繰り広げる死闘の前にやらなくてはならないこと。

 ベルは道化(どうけ)のように口調を変えて、問うた。

 

「シル。貴女はさっき、私のことはまだ全部分かっていないと言いましたよね」

 

「は、はい……。私達はまだ出会って数日ですから……」

 

「私も同感です。ええ、貴女の言う通りだと思います。私達はまだ、知っていることよりも、知らないことの方が遥かに多い」

 

 沈黙する少女に、ベルは語り掛けた。

 

「なら、もっと多くのことを話しましょう。多くの時間を共有しましょう」

 

「……えっ?」

 

「そして、お互いのことを知っていきませんか?」

 

「お互いのことを、知る……?」

 

「はい! それはとても楽しいこと、面白いことです!」

 

「で、でも……人には誰しも、他人に知られたくないことがあると思います。それすらも、貴方は受け止められると言うんですか?」

 

 さあ? とベルは無責任にも首を傾げた。絶句するシルに、ベルは言葉を続ける。

 

「今は無理かもしれません。ですが、人生というものは、短いようで、とても長いもの。その果てに、いつかきっと、私達は真の意味で分かり合える(とき)が必ず来ます!」

 

「分かり合える……。本当に、ベルさんは……貴方は、そう、思っているんですか?」

 

「もちろん! 私はそう信じています!」

 

「──」

 

 シルは文字通り言葉を失った。それから、眩しいものを見るように目を細める。

 

「待っていて下さい、私の勝利を。そしてどうか見守っていて欲しい、貴女の美しい瞳で」

 

「──はいっ!」

 

 少女の言葉が少年に力を与える。

 それは人が、人だけが持つ『力』。

 たとえ小さくとも、それはやがて大きな奔流(ほんりゅう)となり『想い(いし)』となる。

 

「さて、随分と待たせてしまったな、シルバーバックよ」

 

 ベル・クラネルはシルバーバックを見上げ。

 そしてシルバーバックはベル・クラネルを見下ろした。

 

「私としたことが、すっかりと忘れていた。名乗りを忘れるだなんて、なんて失礼なことをしていたのだろう」

 

 深紅(ルベライト)の瞳と暗褐色の瞳が交錯する

 ベルも、シルバーバックも、その瞳に映すのは対等な敵対者のみ。

 

「私の真名はベル・クラネルという! 『英雄』に憧れ、何れ、『英雄』になる者! そして──貴殿を討つ者だ!」

 

『グアァアアアアアアアアアアッッッッ!』

 

 女神の思惑──『試練』を二人は超越する。

 ベル・クラネルは愛剣《プロミス》を。

 シルバーバックは左腕に巻き付けられている鎖を。

 両者は得物(えもの)を構え、少しずつ距離を詰めていく。どちらも、あるのは『勝利』への渇望のみ。

 それ故に、後退はなく。故にそこには──『意志(おもい)』があった。

 

『グルァアアアアアアアアアアッッッッ!』

 

 戦闘の再開の火蓋(ひぶた)を切ったのは、シルバーバックだった。

 鞭の範囲に入ると同時に、自身の剛腕で鞭を振るう。そこに『技』はない。しかしながら、並外れ、隔絶した力には足りない『技』を補う程の『能力(ステイタス)』があった。

 まともに受ければ死は確実。掠っただけでも大怪我であり、殆ど死に体のベルは掠り傷一つすら許されない。

 縦に振るわれた鞭がしなやかに()を描いてベルに襲い掛かる。それはまるで獰猛な蛇のよう。

 

「おおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 その必殺の一撃を、ベルは大きく横にステップして回避した。叩き付けられた鉄鎖(てつさ)は石畳を文字通り粉砕し、周囲に亀裂(きれつ)が走る。

 

「ナイス回避、流石私!」

 

 ベルはそれに構うことなく、ただただ前進する。速度は歩行よりも少し速い程度。自慢の速力は損なわれていた。

 シルバーバックの攻撃がさらにベルの進行を遅くする。縦に、横に、あるいは斜めに。ありとあらゆる角度からの攻撃を、ベルはギリギリのところで回避する。

 

『グアアアアアアアア!?』

 

 十回目の攻撃を避けられたところで、シルバーバックが驚愕の声を上げた。まぐれではないと認めざるを得なくなったのだ。

 次いで、兎一匹すら仕留められない自分に対しての苛立ちが湧いてくる。

 だが、此処で怒りに身を委ねては敵の思う(つぼ)だと、本能で理解していた。沸騰しかけた頭を冷やし、次の一手を繰り出す。

 

「うお、うおおおおおおおおお……──!」

 

 そしてそれはベルも同様だ。無限に等しい選択肢の中から、状況に適した最適解を刹那の思考から選び、実行する。思考回路は既に加重に負荷が掛かり、脳が割れるような痛みと、熱が濁流(だくりゅう)となって全身へ運ばれる。

 真正面から堂々と距離を徐々に詰めていくベルと、それを真正面から迎撃するシルバーバック。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

『グルァアアアアアアアアアアアアッッッ!』

 

 ベルも、シルバーバックも、どちらも満身創痍(まんしんそうい)だった。

 だが限界を何度も越え、立ち上がり、衝突する。

 正真正銘の真剣勝負。

 物語のような、綺麗な華々しさなどそこにはなく。あるのは、何処までも泥臭い激闘。

想い(いし)』と『意志(おもい)』のぶつかり合い。

 己を賭す者にしか出来ない、『意地』の張り合い。

 

「頑張れぇー!」

 

 一人、避難していた青年が人家の窓から顔を出し、叫び声を上げた。

 

「負けないで!」

 

「お兄ちゃーん!」

 

 また二人、人家の奥で身を潜め、抱きしめ合っていた母娘が人家の窓から顔を出し、声援を(おく)った。

 

「勝て、坊主!」

 

「踏ん張れ! くたばるんじゃねえぞ!」

 

「お前が負けたら、俺が嬢ちゃんを娶るからなぁ!」

 

 一人、一人、また一人……────。

 声が人工迷宮に響く度に、住民達が『源流』に足を運び、それは連鎖して広がっていく。

 

「「「勝てぇええええええええええええ!」」」

 

 一人の少年と、一匹の野猿の死闘を見届ける為に。

『英雄』が産声を上げる瞬間を、しかと目に焼き付ける為に。

 そして、長い、長い攻防の果てに──ついに、ベルは一歩、その領域に踏み込んだ。

 

「「「よっしゃあああああぁあああああ!」」」

 

 刹那、シルバーバックは即断する。中距離武器の鞭では、駄目だと。鉄の鎖が敵の身体に直撃するよりも前に、敵の方が速い。

 ならば──己の剛腕で迎え撃つのみ。

 シルバーバックは左腕を大きく引く。腰を捻り、一拍の貯蓄(チャージ)

 ──解放(バースト)

 迫り来る拳の前に、ベルは剣で受け流すことを選択した。攻撃の軌道の前に斜めに剣を差出し、そのまま軌道を逸らそうと試みる。

 

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!?」

 

 未だ嘗て体感したことがない、身体の芯を根元から折ろうとしてくる衝撃に、ベルは声なき絶叫を上げた。

 あまりの摩擦に火花が飛び散り、視界を苛烈に染め上げる。それはまるで、剣の悲鳴のようでもあった。

 

(まずい……! このままじゃ剣が!?)

 

 折れるという、確信があった。

 そして、ベルの確信は的中する。

 純白の刀身に、ピキ、ピキッと小さな音を立てながら罅が入り始めた。

 片手直剣(ワンハンド・ロングソード)《プロミス》は凄まじい切れ味を誇る。しかしその反面、鋭さのみに特化した武器の耐久値は他の武器と比べてとても低かった。

 使い手であるベル・クラネルの、連続的な無茶な使用。そして極めつけは、野猿の発達した右腕を、実質、剣の性能だけで切ったことが、《プロミス》の損傷を、生命を削っていた。

 

「グルァアアアアア……!」

 

 ニヤリと、シルバーバックは獰猛に嗤うと、剣をへし折ろうと、さらに力を込める。

《プロミス》の罅は既に亀裂となっていた。ピキリ、と致命的な音が零れる。

 そして同時に──シルバーバックの攻撃がようやく終了する。軌道が逸らされた野猿の剛撃は、ベルに的中することなく、約一M(メドル)隣に着弾した。

 石畳が破壊され、破片となって舞う。塵芥(ちりあくた)が舞い上がり、土煙となる。

 

(くそっ、どうする!? )

 

 土煙の中を移動しながら、ベルは思考する。

 受け流しの代償はあまりにも大きかった。片手剣直剣(ワンハンド・ロングソード)《プロミス》の、刀身の半分から上が折られていた。

《プロミス》は死を迎えていた。

 

(この煙が晴れた時、それが最後の攻防の始まり! だが、私には武器がない。これでは戦えない! どうすれば──!?)

 

 いくら考えても、ベルは打開策が考え浮かばなかった。

 そしてそれはシルバーバックも理解している。《プロミス》を折ったという感触が彼にはあった。

 そして無常にも、決戦の(とき)、そのカウントダウンが既に始まっていた。

 土煙が晴れるまで、残り五、四、三、二……──。

 

 

 

「鍛冶師として、武器を持たせないまま戦場に行かせる訳にはいかないな」

 

 

 

 誰かがそう言ったのを、ベルは聞いたような気がした。

 

 ──残り、一秒。

 

 土煙が晴れた。否、切り裂かれた。

 そして一つの大きな音と、衝撃が空を走り抜ける。

『何か』が降り立ったのを、ベルは感じ取った。正体を摑もうと目を細めた彼は、次の瞬間、息を呑む。

 

 ──(ゼロ)

 

 そこには、一本の(つるぎ)が地面に深く突き刺さっていた。

 武器種は、片手直剣(ワンハンド・ロングソード)

 無駄な装飾が一切施されていない、一本の(つるぎ)であった。

 刀身は何処までも荒々しく、何処までも猛々しく、そして何処までも美しい、紅蓮。

 見る者を引き付けて止まない圧倒的な存在感。

 

「──」

 

 導かれるようにして、ベルは(グリップ)に手を伸ばす。そして(つるぎ)を地面から引き抜いた瞬間、思わず目を見張った。

 恐ろしい程に、紅蓮の(つるぎ)はベルの手に馴染んだ。

 

(ああ……そうか……君はまた、(ぼく)を助けてくれるのか……)

 

 一つの、確信があった。

 ベルは胸中に言葉を留めると、シルバーバックに剣を突き付ける。

 そして──にやりと、笑い掛けた。

 

「決着をつけよう」

 

 シルバーバックは、笑って応えた。

 それから、腹の底から雄叫びを上げる。

 

『グアアアアアアアアアアアアッッッ──!』

 

 住民達は本物の魔物の咆哮に恐れ(おのの)いた。ビリビリと肌を震わせる轟音に、大の大人であっても腰を抜かす。

 だからこそ、彼等は冒険者の少年に畏敬の念を抱いた。

 冒険者の少年──否、『英雄』は威風堂々とした佇まいを崩していなかったから。漆黒の外套が風によって靡き、白髪が揺れる。唯一、深紅(ルベライト)の瞳だけが動じなかった。

 それはまるで『英雄譚』の一(ページ)

 凶悪な怪物に立ち向かう『英雄』の姿に、誰もが皆、魅入っていた。固唾を呑んで、目を極限まで見開いて、彼等は『名も無き英雄』の勇姿を魂に刻む。

 

「…………」

 

『…………』

 

 そして──無限に続くと思われた静寂が、破られた。

英雄(しょうねん)』と野猿(モンスター)は、同時に動いた。 

 

『グオオオオオオオオオオオ──ッ!』

 

 シルバーバックが一撃必殺の攻撃を繰り出す。

 より速く、より重く、より強く。

 全身全霊、己の全てを賭して解き放つ、至高の剛撃。

 

「オオオオオオオオオオオオオオ!」

 

 ベルは、小細工が一切ない、真正面からの打倒を決断した。

 剣を真上で振り被り、一拍、力を溜め──最上段から、勢いよく振り下ろす。

 一本の剣と剛腕の拳が激突した。

 そして──。

 

 ────紅蓮の華が咲き誇った。

 

 何処までも赤い、紅い、業火が剣から放たれる。

 それは全てを焼き付くし、燃やし尽くす猛火。

 炎が野猿を覆う。右腕から体幹。体幹から頭部、腰部。腰部から両脚に。美しい銀の体毛が焦げ落ち、身体が焼け、炭化していく。

 

『グアアアアアアアアアアアアアァァァァァ!?』

 

 シルバーバックは悲鳴を上げた。否、それは『悲鳴』ではなく、『断末魔』であった。

 身体が崩壊していく。緩やかに黒灰となっていく。

 モンスターは最期まで生に必死だった。それはまさに『執念』であった。だが、『生』と『死』は万物に必ず訪れるもの。世界の(ことわり)に歯向かうことは(ゆる)されず、『死』に向かって行く。

 

『グァァァァァァ……』

 

 身体の崩壊が胸部まで侵食したところで、シルバーバックは敵対者を赤褐色の瞳に映した。

 紅蓮の(つるぎ)を地面に突き立て、辛うじて立っている。呼吸は乱れ、全身は傷だらけ。骨だって何本も折れているし、特に左腕は見るに堪えない程の損傷を負っている。

 だが、やはり──。

 敵対者は笑みを浮かべていた。何度も己を苛立たせ、憎悪さえ抱いた、けれど清々しい笑みだった。

 

「──私の、勝ちだ」

 

 嗚呼、とシルバーバックは思った。

 敵対者は何て言ったのだろうか。『人語(ことば)』が分からないモンスターは、初めて、そのことが悔やまれてしょうがなかった。

 だが、きっと。

 好敵手は忌々しくも『勝利宣言』をしたのだろう。

 ならば、自分がやることは決まっている。

 

『グァアアアアアアアアアアアアアア──ッ!』

 

 住民達が悲鳴を上げた。絶対悪たる怪物はまだ生きているのかと、その生命力に恐怖した。

 だが、ベルにはそれが勘違いだと分かっていた。

 それは純粋に、強者を、勝者を讃える声だ。

 シルバーバックの最期の想いを聴いたベルは、無言で頷いた。そしてやはり、憎たらしい程の笑みを浮かべ、餞別を込めて言った。

 

「綴るぞ、我が英雄日誌! ──『英雄ベル・クラネルは姑息な手を用いて、強大で勇猛な野猿に勝利した! 』──さらばだ、シルバーバック! 銀の野猿よ!」

 

 その言葉をシルバーバックが聞いたかは定かではない。何故なら、ベルの言葉が終わった時には、彼はもう黒灰となっていたからだ。

 だが、確かにベルは見た。死に向かう彼が、最期には獰猛な笑みを浮かべていたのを。

 黒灰が風によって飛ばされる。地上で死に絶えたモンスターが母なるダンジョンに(かえ)ることはなく、世界を旅することになった。

 残ったのは、ベルがこれまでの冒険者活動で見たことがない大きさの『魔石』。紫紺の結晶を手に取ると、ベルはそれを頭上に掲げ、観衆に告げた。

 

「怪物はこの私、ベル・クラネルによって打ち倒された! これ以上、この地に危機が迫ることはない!」

 

「「「うおおおおおおおおおおおおおお!」」」

 

 歓声が沸いた。

『英雄』に賛美が贈られる。

 

「やりやがったな、坊主ー!」

 

「格好良い……! 僕も、あんな風に!」

 

 大人達の尊敬の眼差し、子供達の憧憬の眼差しを一身に受けた『英雄』は、笑顔で手を振って応えた。

 そして、身体を引き摺って少女に歩み寄る。彼女は約束通り、少年の勝利を待っていた。

 

「お待たせしました、シル。貴女を追っていた野猿は、このベル・クラネルが倒しました」

 

 劇者のように、ベル・クラネルは大仰に言った。

 それから、鈍色の瞳を深紅(ルベライト)の瞳で見詰めて、静かに問うた。

 

「私は貴女を守ることが出来ましたか? 私は貴女の笑顔を守ることが出来ましたか?」

 

「……はいっ!」

 

「嗚呼、素敵な笑顔だ……。本当に良かった──」

 

 言葉が途切れた。

 少年が、よろめき、前に倒れる。住民達が悲鳴を上げる中、少女は優しく抱きとめた。

 服が血で汚れるのも気にせず、彼女は少年の耳元で囁く。

 

「もう良いです。ベルさん、もう、良いですから」

 

「……しかし、ミア母さんに私は、貴女を家に帰すと約束している。約束を反故(ほご)する訳には……」

 

「……いいえ。いいえ、貴方は約束を守ってくれました。だから──……もう、休みましょう?」

 

 少女がそう言うと、ベルは無垢な笑みを浮かべた。

 

「そうか……それなら、甘えさせて貰おうかな。ごめん、ちょっと休むよ……」

 

 歳相応の花のような笑みを浮かべ。

 襲いかかってくる睡魔に抗うことはせず、ベルは緩やかに瞼を閉ざしていった。

 そして、ベル・クラネルはひと時の眠りについた。その顔はとても穏やかなものだったと、後に女性は語る。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。