さあ──『喜劇』を始めよう!   作:Sakiru

39 / 91
看破

 

 夜。

 迷宮都市(ダンジョンとし)オラリオの一日は夜になったからと言って終わる訳ではない。寧ろそれは逆であり、所謂(いわゆる)『夜の店』が開店を始め益々賑わいをみせる。

 そして、西のメインストリート。表通りに数多く()っている建造物の中で、群を抜いて大きいその酒場は熱気に包まれていた。

 

(酒場に来るのは……いつ振りでしょうか……)

 

 クリーム色のローブに身を包んだ少女──リリルカ・アーデはフードの奥から酒場を静かに見渡した。

 神、冒険者、一般市民が楽しそうに食事を共にしている。これはとても珍しいことだ。基本、冒険者と一般市民の仲はあまり良くなく、関わりを持つことは少ない。より厳密には、荒くれ者が多い冒険者を、一般市民が避けている。彼等が好意的に接するのは第一級冒険者くらいなものである。だからこそ、北西のメインストリートは『冒険者通り』だと言われているのだ。

 だが、この酒場──『豊穣(ほうじょう)女主人(おんなしゅじん)』はどうやら違うようだ。見れば、職種関係なしにテーブルを共にしている組が幾つかあり、彼等は楽しそうに時間を共有している。

 

(『豊穣の女主人』──冒険者の間では割と有名な酒場。美女美少女が勢揃いの店員に、美味しい料理。しかし、料理の価格が相場よりも遥かに高いので、下級冒険者が通うのは難しい……)

 

 頭の片隅にあった情報をリリルカは掘り起こした。

 なるほど、確かにこれは繁盛するなと腑に落ちる。料理の価格が高くなっているのは店の維持費によるものだろう。それでも、これだけのレベルを維持するのは並大抵ではない筈だ。何処かの派閥が援助していても可笑しくはないと、彼女は睨んでいる。徽章(エンブレム)が店内の何処にも飾られていないから、憶測の域を超えないが。

 

(まさかリリが此処に訪れる日が来ようとは……)

 

 此処で出される一品で、回復薬(ポーション)をはじめとした様々な道具(アイテム)を購入する事が出来るだろう。そして、リリルカは迷わず此方を選ぶ。

 彼女にとって食事とは生命活動を維持、継続させる為だけの行為であり、そこに『楽しい』という感情は湧かないからだ。

 だから、一時の満足感よりも、少しでも生存率が上がる方を選ぶのは当然だろう。そして、この方が遥かに合理的だと彼女は思っている。

 だが──。

 対面に座っている雇用主は自分とは違う考えの持ち主のようだ。

 騒々しい店の中、白髪紅眼の少年は重厚なステーキを頬張っていた。ガツガツ、そんな擬音が適しているだろうか。それはもう、美味しそうに食事をしている。リリルカは既に食べ終えている為──一番安い料理を注文した──手持ち無沙汰となり、何となく彼を見る。

 

「リリ、どうだ此処は!? 素晴らしい酒場だと思わないか!?」

 

 注がれる視線に気付き顔を上げると、彼はそう言った。

 話し掛けられたリリルカは思考を中断すると、にこりと笑みを浮かべて頷いた。

 

「はいっ、とても素晴らしいお店だと思いますよ!」

 

「そうだろう、そうだろう!」

 

「此処以上の酒場をリリは知りません! ベル様は凄いですね!」

 

 リリルカがベタ褒めすると、少年──ベル・クラネルは自分の事のように胸を張り、頬をゆるませた。気分が良くなったのか、「リュー、果実汁(ジュース)をもう一杯頼む!」と、追加の注文(オーダー)を近くを通り掛かったエルフのウェイトレスに言う。

 

「クラネルさん、今日は随分と羽振りが良いですね」

 

 注文(オーダー)を受け取ったウェイトレスはどうやらベルの知人のようで、その場に留まった。

 エルフの言葉に、ベルは上機嫌で言った。

 

「最近ようやく、収入が安定してきたからな!」

 

「ほう……それは喜ばしい事だ。しかし、くれぐれも注意して下さい。貴方は冒険者だ、あまり散財しないように」

 

「はーい! わっかりましたー!」

 

 本当に分かっているのか、ベルは元気よく返事した。

 はあ、と見目麗しい妖精は嘆息すると、次にリリルカに視線を見せた。

 

「追加注文はございますか」

 

「……いえ、私はありません」

 

「畏まりました。それではお客様、少々お待ち下さい」

 

 ウェイトレスは慇懃(いんぎん)に一礼すると、注文(オーダー)を伝える為に厨房に向かっていった。その様子をリリルカはジッと観察する。

 

(此処に居る酒場の従業員……殆どが『神の恩恵(ファルナ)』持ちですね)

 

神の恩恵(ファルナ)』の有無は神でなくとも見抜くことが出来る。独特の気配、とでも表現しようか。意識すれば分かることだ。

 

(流石に『階位(レベル)』までは分かりませんが……確実に言えるのは、上級冒険者が何人か居ますね。特に、今のエルフに、二人の猫人(キャットピープル)、そして、ヒューマン。この四人はかなりの手練(てだれ)でしょう)

 

 恐ろしい酒場だと、リリルカは内心で戦慄した。そこら辺の弱小【ファミリア】が束になって襲いかかっても撃退されるのが容易に想像出来る。

 とはいえ、『神の恩恵(ファルナ)』持ちが飲食店に勤めているのはさして珍しい話ではない。荒くれ者が多い冒険者は度々食い逃げを企む。その抑止力として、店側は『神の恩恵(ファルナ)』を持っている者を雇うという訳だ。上級冒険者だったら大歓迎されるだろう。

 それを考慮しても、この酒場は戦力が過剰だと思うが。特別な理由でも何かあるのかもしれない。

 

「リリは追加注文しなくて良かったのか?」

 

 分析をしていると、ベルがステーキを頬張りながら尋ねてきた。リリルカは「ええ!」と肯定の頷きを返した。

 

「リリはもうお腹いっぱいですから。これ以上はとてもでないですが食べられませんよ。無理して注文(オーダー)して残す訳にはいきませんから」

 

 そう言うと、ベルは何故か真顔で相槌を打った。

 

「そうだな、己の限界を知ることはとても大切だ」

 

「は、はあ……。まあ、確かにそうですね」

 

 話の規模が一気に大きくなった事に困惑しながらも、言っている事は間違っていない為、リリルカはそのように返事をした。

 そう、言っている事は何も間違っていない。

 特にアルコール。『酒は飲んでも飲まれるな』という言葉があるように、自分がどれ程のアルコール摂取量で酔い始めるのかを知っておくことは大切だ。

 誰かと酒を飲み交わした事が一度もないため言い切ることは出来ないが、自分はかなり飲める方だとリリルカは思っている。とはいえこれは、『普通の酒』ならの話ではあるが。

 

(嫌な事を思い出しました……忘れましょう……)

 

 脳裏に一瞬浮かんだものをすぐに消す。

 

「あれは(さかのぼ)ること数週間前、友人と此処を訪ねた時のことだ──」

 

 リリルカがそうしていると、ベルが苦い顔で独白を始めた。また始まった、と普段なら思うところだが、今回はこれに乗るとしよう。

 友人とたらふくご飯を食べたは良いが一歩も動けなくなり、友人に介抱されたという実に情けない話を聞いていると、気配が一つ近付いてきた。

 恐らくは注文(オーダー)を届けにきたウェイトレスだろうか。そう思いながら視線を向けると、予想は的中していた。

 

「ベルさん、こんばんは!」

 

 そこには、一人の少女が満面の笑みを浮かべて立っていた。

 薄鈍色の髪に、鈍色の瞳。整った顔立ちの少女だ。

 先程のエルフが『綺麗』という分類ならば、この少女は『可愛い』と分類されるだろう。とはいえ、それはあまり関係がない事だ。彼女は誰がどう見ても『美少女』なのだから。

 ──街娘。

 彼女を一言で表現するなら、恐らくはこれが一番適しているだろう。

 そしてどうやら、エルフと同様、彼女もベルの知り合いのようだ。それも、ファミリーネームではなく『ベルさん』と呼んだことから、相当仲が良いことが窺える。

 リリルカが悟られない程度に観察する中、ベルは軽く手を挙げて挨拶に応えた。

 

「おおっ、シル! こんばんは!」

 

「はいっ! お久しぶりです!」

 

 シル、と言われた少女はそれだけでさらに破顔した。彼女はベルに、注文(オーダー)を受けた果実汁(ジュース)を手渡す。それから、驚愕すべき事に、彼女はトレーに乗せていたもう一本の果実汁(ジュース)をリリルカの目の前に置いた。

 

「あ、あのっ! 私は注文(オーダー)していませんが!」

 

 慌ててそう言うと、ウェイトレスは微笑んでこう言った。

 

「ミアお母さんがサービスしてくれました。それからベルさん、ミアお母さんからの伝言です」

 

「うん? 彼女が何か言っていたか?」と首を傾げるベル。

 そんな彼に、シルは受け取った伝言を思い出しながら唇を動かした。

 

「えっと──『いつもこれくらい頼みな!』だそうです。ベルさん、今日は沢山召し上がっていますから」

 

「ああ、なるほど。それなら、私も伝言を頼めるか。『それが出来たら苦労しない! 美味しい料理をいつもありがとう!』と!」

 

「ふふっ、分かりました。確かに伝えますね」

 

 シルは綺麗な一礼を披露すると、厨房に足を向けた。

「あっ、ちょっと!?」と、リリルカが声を出した時には遅く、給仕は厨房に姿を消していた。

 

「べ、ベル様、これはどうすれば!?」

 

「サービスって、言っていたから、有難く受け取れば良いと思うぞ!」

 

「そういう訳にはいきません!」

 

 リリルカが断固拒否の姿勢を見せると、ベルは不思議そうに彼女を見た。

 何が不満なのか分からない、分かりやすいくらいに彼の表情が雄弁に語っている。

 えぇい、どうして分からないのか! そう思いながら彼女は説明した。

 

「ベル様なら兎も角、リリは今日初めて此処を訪れたんですよ!? 常連でもなんでもないリリにサービスしても意味がないじゃないですか!」

 

「えー、そう?」

 

「そうです! リリがもう一度此処に来て、貰った恩を返そうと思えば話は別ですが、向こうからしたらその確証はないじゃないですか! つまり、不利益の方が大きいでしょう!?」

 

「まあ、確かにそれはそうかもしれないが。リリって時々、凄く面倒臭い事を言うよネ」

 

 ベルは呆れたように、苦笑いを浮かべた。

 彼のその反応を見て、リリルカは思わず「なッ……!」と逆に言葉に詰まってしまう。

 自分は面倒臭いのかと自問自答をする彼女に、ベルはこう言った。

 

「ミア母さん──店主からしたら、これは本当に『サービス』だと思う。それ以上でも、それ以下でもなくな。ただの気紛れだと思えば良いさ」

 

「……」

 

「彼女に他意はない。私がいつもよりも奮発してお金を払って、それに気を良くしたからサービスをしようと思った。本当にそれだけの理由だと思う」

 

 リリルカにはさっぱり分からなかった。自分が店主の立場だったら、このような無益な行いは決してしないだろう。

 そう考えていると、ベルは「それに、だ」と言葉を続けた。

 

「損得勘定を考えれば、『損』ばかりでもないだろう。この『サービス』を切っ掛けにリリ、君がこの酒場を気に入って、もう一度来ようと思えば、それは確かな収益となる。そうだろう?」

 

「……それは、そうかもしれませんが。しかし、リリには理解出来ません。それは希望的観測でしょう?」

 

 ところが、ベルはリリルカの言葉に対して首を横に振った。

 

「いいや、希望的観測ではないとも。リリ、君はもう一度、いや、何度も此処を訪れるだろう!」

 

「……その根拠が何処から来るか尋ねても?」

 

「ああ、もちろんさ。──私が居る。これが根拠となる!」

 

 はあ? と、訳が分からずリリルカは首を傾げた。

 そんな彼女を見て、ベルは得意気に胸を張ってドヤ顔になった。

 イラッとしつつも、その先を促す。

 

「私がリリとパーティを組んでいる限り、この酒場を利用することは確定だ!」

 

「ああ……そういう事ですか。しかしベル様、揚げ足を取らせて頂きますが、パーティを解散したら話は別では? あまり文句は言いたくありませんが、此処で出される料理はどれもこれも高過ぎます。リリが此処に訪ねる事はないでしょう」

 

 リリルカが、そう、指摘すると。

 窮地に追いやられた筈のベルは、何故か益々、ドヤ顔の濃度を濃くした。

 

「いいや、それは否だ! 仮に契約期間が過ぎてパーティを解散したとしても、やはり、私はリリを此処に連れてくるだろう! 何故ならば、私が君と一緒に食事をしたいからだ!」

 

「──んなっ!?」

 

「パーティを解散したら私達は赤の他人になるのか? いいや、いいや! 声を大にして言おう! それは否だと! たとえそうなったとしても、私達が繋いだ(えにし)は簡単にはなくならない!」

 

 握り拳を作り力説するベル。

 騒々しい店内の中、彼の声は一際大きく響いた。何だなんだと注目を浴びているのも気にせず、まるで演説をするかのように、彼は言葉を紡ぐ。

 

(なんて恥ずかしい事を平然と……!)

 

 それを間近で聞かされるリリルカは、とてもではないが、冷静ではなかった。

 今日ほど、自分がローブを着ていて良かったと思った日はない。フードがあるおかげで、自分の、熟れた林檎のように真っ赤な顔を隠すことが出来るのだから。

 これが共感性羞恥というヤツだろうか。

 フードを目深に被り、時が過ぎるのを待つ。数分後、ようやく語り終えたベルは、やはり、ドヤ顔のままリリルカに話し掛けた。

 

「──と、いう訳だ。これで分かってくれたか、リリ?」

 

 分かる訳がないだろう! そう叫びたいのを堪えつつ、リリルカは笑顔を浮かべて頷いた。

 彼女は沸騰した頭を冷やす為、サービスされた果実汁を一気に呷る。それを見たベルは「さっすがー!」と口笛を吹いた。

 

(我慢……我慢ですよ、リリルカ・アーデ。たとえイラッとしても、それを表には出してはなりません)

 

 自己暗示をひたすらに掛ける。

 それを知らないベルは呑気に食事を再開していた。リリルカは胸中で溜息を深く吐くと、自分も再開する。

 そうして暫くすると、気配が一つ近付いてきた。軽やかな靴音が耳朶(じだ)を打つ。

 

「ベルさん!」

 

 来たのは、先程のヒューマンの少女だった。

 だが先程とは違い、制服の上からエプロンをしていない。休憩中なのだろうかと訝しむリリルカを他所に、彼女はベルに話し掛けた。

 

「ミアお母さんからお暇を貰いました。御一緒しても宜しいでしょうか?」

 

「私は全然構わないが……」

 

 言いながら、ベルはリリルカに視線を送った。

 リリルカとシルは初対面だ。会話を交わしたことは当然なく、もう少し段階を踏むべきだと、ベルは考えているのだろう。

 その気遣いを他の場面でも見せて欲しいと思いつつ、

 

「リリも構いませんよ」

 

「えっ、良いのか?」

 

「はい! 一人よりも二人、二人よりも三人の方が楽しく時間を過ごせますから!」

 

 雇用主の顔を立てた方が長期的に見れば得があると判断し、思ってもいないことをペラペラと言う。

 それでもベルは迷っていたようだったが「本当に大丈夫ですから!」と、リリルカが再度言うと、シルの同席を認めたようだった。

 

「ありがとうございます!」

 

 シルは満面の笑みでお礼を言うと、店の奥から使われていない椅子を持ってきた。

 そして、ベルとリリルカの中心──否、ややベル寄りの位置に椅子を置くと、彼女は腰掛けた。それから彼女はリリルカに正対すると自己紹介を行う。

 

「はじめまして、私はシル・フローヴァと申します。此処、『豊穣の女主人』に給仕として勤めております」

 

「ご丁寧にありがとうございます。(わたし)はリリルカ・アーデと申します。現在は此方──ベル・クラネル様の専属サポーターをしております」

 

 流石に、自己紹介を返す時にフードを被ったままなのは失礼なので、リリルカは一瞬だけフードを外すと、そう、挨拶を交わした。

 にこり、といつものように人好きのする笑顔を浮かべる。

 するとシルは、「あっ」と小さく声を()らした。怪訝な表情になるベルとリリルカに、彼女は申し訳なさそうに。

 

「ごめんなさい、私、リリルカさんの事をずっと小人族(パルゥム)の女の子だと思っていました。犬人(シアンスロープ)だったんですね」

 

 ああ、その事かと思いつつ、リリルカは「いえいえ」と優しく言った。

 

「よく間違われて、慣れていますから。どうぞお気になさらず。私も身長が伸びて欲しいとは常々思っているのですが、中々思うようにはいかず……」

 

「まあ……そうだったんですね。あっ、私の事は気安く『シル』と呼んで下さい」

 

「分かりました。それでは、『シル様』と、そう、呼ばせて頂きます。『様』を付けるのは私──リリの癖なので気にしないで下さい」

 

 分かりました! と元気よく頷いたシル。

 彼女はテーブルの上に置かれている注文(オーダー)表に手を伸ばすと、「ベルさん、この料理とても美味しいんですよ! ミアお母さんが何回も何回も試行錯誤して完成させた一品で! 今度是非召し上がって下さい!」とアピールを始めた。

 

(ほほぅ……これはやはり……)

 

 その様子を見て、ニヤリ、とリリルカは嗤った。

 黒い笑みをフードで巧妙に隠しつつ、二人──より厳密には、シルを観察する。

 

(恋する乙女、というヤツですか)

 

 同性であるリリルカには分かっていた。

 シルがベル・クラネルに対して恋慕している事を。

 単なる友人では有り得ない距離の近さ、計算された表情など──あからさまに好意を出している。

 可愛い顔には裏があるとよく言うものだが、ほほぅ、中々に狡猾(こうかつ)ではないか。

 

(まあ、この人がそれに気付いている様子はありませんが)

 

 ベルの様子は平生と何も変わっていない。動じることなくシルと会話を楽しんでいる。余程の鈍感なのか、あるいは、女慣れしているのか。

 彼の歳は確か十四だったか。ならば、恋というものに疎くても何ら可笑しい話ではないだろう。

 だが、彼は女好きを公言している。ダンジョン中、すれ違った女性冒険者に意気揚々と声を掛けた回数は数しれず、そしてその度に軽くあしらわれていた。リリルカはその様子を(あざけ)りの表情で見ていたが──ベルはショックを受けていて気付かなかった──、そのような人間の彼が他者の好意に気付かないほど鈍感なのだろうかと考えると首を傾げてしまう。

 

(それに、この人がモテるようにはあまり思えません)

 

 失礼なことだとは若干思うが、そう、リリルカは思わずにはいられない。 

 顔や体格など、全体の素材は良い部類だと思うが、それを打ち消すほどの短所がある。

 そう、彼の言動だ。まるで演者のような巫山戯た言動は、大多数の人間はそこに苛立ちを覚えるだろう。寧ろ刃傷沙汰になっていないのが奇跡だと個人的には思っている。

 

(この女性が惚れる程の魅力があるとは思えませんね)

 

 何故彼女程の美少女が、とリリルカは不思議だった。たとえばシルがそこら辺の若い男子(おのこ)を誘えば、十人中九人は頷くだろう。頷かなかった一人は、その男子(おのこ)にとって彼女がタイプの女性ではなかったか、あるいは、余程の愚か者かのどちらかだ。

 そしてどうやら、ベルはその一人のようだ。少なくとも、そのように見受けられる。彼なりの考えがあるのかもしれない。

 

「今日、ヘスティア様はいらっしゃらないんですか?」

 

 シルが、ベルにそう尋ねた。

 ベルは「ああ」と頷くと事情を説明する。

 

「なんでも今晩は、交流がある神友と夕食を共にするらしい。わざわざ摩天楼施設(バベル)で出迎えてくれてな、そう言われた」

 

「なるほど。それで今晩は此処に来てくれたんですね」

 

「その通り! そう言えば、リリにこの店を紹介していなかったと気付いてな、彼女も連れてきた。それに彼女と外食をした事は未だになかったからな」

 

 リリルカは「そうですね!」と頷いた。自分も同じ思いを持っていた、と暗に伝える。

 するとベルは額面通りに受け取り、喜んだ。「相思相愛だー!」と喧しく叫んでいると、

 

「黙りな! 他の客に迷惑を掛けるんじゃないよ!」

 

 厨房から野太い声が轟く。

 刹那、厨房から黒い物体が飛んできた。少なくとも、リリルカにはそれが何か最初は分からなかった。反応する事すら出来なかった。

 それはベルの顔面に直撃すると、彼を強制的に黙らせた。

 それはなんと──フライパンだった。そう、フライパンだったのだ。

 ドサッ、と椅子から転げ落ち、痛みで(もだ)え苦しむ彼を、酒の(さかな)にして騒ぐ他の客達。酒場に新たな笑いが起こる。

 どうやら、此処の女将は相当肝っ玉が大きいようだと思っていると、シルが「べ、ベルさん!? 大丈夫ですか!?」と慌てて近付き、介抱した。

 

「HAHAHA、相も変わらずミア母さんは恐ろしいネ」

 

「あぁン、何か言ったかい!?」

 

「今日もミア母さんは素敵で美しいと言いました! いやもう、ミア母さんサイコー!」

 

 此処の女将は相当肝っ玉が太いと同時に、相当の地獄耳らしい。店内は彼女の領域(テリトリー)だと思った方が良さそうだ。

 ベルは女将に軽口を叩くと──涙目になっているのは触れない方が良いだろうか──、シルの手を取って椅子に座り直した。

 その時、シルが何かに気付いたのか「あれ?」と声を上げる。

 

「ベルさん、今日は剣を二本提げていられるんですね?」

 

 彼女の指摘通りだった。

 腰の調革(ベルト)の留め具には、長剣が左右一本ずつ留められていた。

 

「私の記憶違いでなければ、確か一本だったと思いますが……」

 

 シルは可愛らしく小首を傾げながら、懐疑的な視線を剣に注ぐ。そんな彼女に、ベルは「いいや、合っている」と言った。

 

「大変恥ずかしいのだが、実はダンジョン探索中、主武器(メインウェポン)として使っていた剣が破砕してしまったんだ。私の使い方が粗雑だったのだと思う」

 

「まあ……そのような事が起こったのですね。でも、こうしてベルさんが無事だったので良かったです」

 

「ありがとう、そう言って貰えると嬉しい」

 

 ベルはそう言って、シルに笑顔を見せた。

 しかし次の瞬間には表情を真剣なものに変え、剣士の顔付きになる。

 

「私が迷宮都市(オラリオ)に来て、冒険者になってからまだ半年も経っていない。なのにも関わらず、私は何本もの剣を駄目にしてしまっている」

 

 リリルカとしても、それは気になっていた。

 彼は時折、後先を考えずに行動する事がある。武器の扱い方にそれは顕著に出ており、内心、いつか剣が折れないかとヒヤヒヤとしていた。

 自覚があるなら、すぐに直せるだろう──戦闘経験がない者はこう言ってくるだろう。結論から言ってしまえば、それは無理だ。本人でさえ自覚していなかった『癖』なら尚更。矯正(きょうせい)するには長い時間と弛まぬ努力が必要となる。

 

「だから、いつ壊れてしまっても問題がないように、これからは予備(スペア)も予め用意しておこうと思ったんだ」

 

「なるほど……ですがベルさん、剣を何本も提げていては戦闘の邪魔になりませんか?」

 

「普通なら、そうなるだろう。だが私には頼りになるサポーターが、リリが居る。話し合いをした結果、ダンジョン探索中は彼女に持って貰う事になった」

 

「そうなんですね! しかし、リリさんは重く感じないんですか?」

 

 シルが恐る恐る、といった具合で尋ねてきた。

 リリルカの身体は小さい。外面からだと、重量がある荷物を持てるとは思えなかったのだろう。

 

無所属(フリー)のサポーターなら無理でしょうが、リリは『神の恩恵(ファルナ)』を主神から授かっています。【ステイタス】が低くとも、荷物を持つくらいは出来ますよ。剣が一本や二本増えたところで、何も問題はありません」

 

神の恩恵(ファルナ)』が刻まれているか刻まれていないか。これだけでも能力値は大きく関わる。冒険者を外観だけで判断してはいけない、とされているのはこれによるところが大きい。

 とはいえ、これ以外にも『理由』はあるのだが、いくら雇用主であるベルであっても、打ち明けるのは無理だ。

 

「しかしベル様、予備(スペア)を持っていたんですね」

 

 予備(スペア)の武器を所持するのは、そう、珍しい話ではない。ダンジョンでは何が起こるか分からない。ベルは極端に多いと思うが、武器が戦闘中に破砕する事は充分に起こり得ることだ。どれだけ入念に剣の手入れをして点検を重ねても、そこに絶対はない。

 だが、ベルにはまだ早い話なのも事実。浅い階層の上層で、そのような強敵と遭遇(エンカウント)する事は殆どないし、何よりも、駆け出し冒険者が予備(スペア)の武器を用意するのは金銭的な面からも難しい。

 それ故に、朝、ベルから相談を持ち掛けられた時は驚いた。

 ベルは店員に声をかけて皿を下げて貰うと、剣を留め具から外してテーブルの上に置いた。片手剣直剣(ワンハンド・ロングソード)ということもあり、テーブルから少しはみ出してしまう。彼は周りに極力迷惑がかからぬよう置く場所を微調整すると、改めて、リリルカとシルに見せた。

 

「えっと……ごめんなさい。私、どちらが主武器(メインウェポン)でどちらが予備(スペア)なのか分かりません……」

 

 シルが困ったようにそう言った。

 その反応は当然だろう。知識が何もない人間が見ても、分かることはそう多くない。

 せめて区別出来る点が何かあれば良いのだが、並べられた二本の長剣は殆ど同じだった。漆黒の鞘に刀身が収まっており、辛うじて、剣の(グリップ)の色で見極める出来る。片方は鞘と同色の漆黒であり、同化している。もう片方は白銀であり、魔石灯の光を眩く反射していた。

 

「こっちが、昨日リリと一緒に購入した主武器(メインウェポン)──《プロシード》だ。そしてこっちが、予備(スペア)の武器の《プロミス─Ⅱ》だな」

 

 ベルが剣の銘を言う。

 その言葉に反応したのは、シルだった。

 

「《プロミス─Ⅱ》……? ベルさん、それって!?」

 

 ベルは顔を向けてきた彼女に、笑顔で頷いて「そうだ」と言った。すると彼女は瞳を輝かせ、《プロミス─Ⅱ》に魅入った。

 事情を知らないリリルカはさっぱり訳が分からず、視線でその先を促す。

 

「これは嘗ての愛剣の正式な後継だ。シルの目の前で折れてしまったから、気にかけてくれていたようだ」

 

「なるほど! そのような経緯が!」

 

 リリルカは相槌を打ちながら、《プロミス─Ⅱ》を改めて観察する。

 

(普通に業物(わざもの)じゃないですか、これ!)

 

 ダンジョン探索中はまじまじと観る余裕がなかった為に確信には至らなかったが、今()て確証を得た。

 この片手剣直剣(ワンハンド・ロングソード)──《プロミス─Ⅱ》は業物だ。刀身が鞘に収められている為、詳しいところまでは分からないが──リリルカ自身、鍛冶師(スミス)という専門職(プロフェッショナル)ではないこともある──、少なくとも、《プロシード》よりは優れた性能を持っているだろう。

 このような剣をいったい何処で入手したのか、という疑問がリリルカの中で生まれる。

 

(……駄目ですね。今持っている情報だけでは到底分かりません)

 

 せめて《プロミス─Ⅱ》を打った鍛冶師が誰か分かれば手掛かりとなり得るのだが、それも難しい。見たところ、製作者の真名()は彫られていないようだ。

 通常なら、製作者の真名()は彫られるものだが──何か理由があるのかもしれない。

 そのようにリリルカが考えている横で、ベルとシルの二人は話を咲かせていた。

 

「まあっ、今日はさらに下の階層に行かれたんですか!」

 

「まぁな。とはいえ、今日はあくまでも下見で、すぐに引き返したのだが」

 

「ふふっ、それでも凄いです。ベルさんのような冒険者様がいらっしゃれば、オラリオは安泰ですね!」

 

「えー、そう思うー!? 嬉しいなぁー!」

 

 リリルカは胸中で深い溜息を吐いた。こうなった雇用主の対応はとても面倒臭いのだ。まあ、完璧な人間はいないから仕方ないとは思うが、もう少し落ち着きを持って欲しい。

 シルはベルからダンジョンの話を聞いて、より一層瞳の輝きを強くした。冒険者が語る数々の出来事──時折誇張しているが本質的には嘘ではないため、まあ、良いだろう──を、街娘は興味深そうに聞き入る。

 リリルカからしたら、それは理解出来ないことだ。何故、危険極まるダンジョンや凶悪なモンスターの話を聞いて、楽しむことが出来るというのか。

 

(まあ……確かに、この人の話し方は上手な部類だとは思いますが)

 

 だが、ベルの話には『華』がない。階層主(モンスターレックス)や、下層に潜んでいる大型モンスターとの一騎討ちならまだ分かるが、彼の到達階層は未だ上層であり、英雄譚のような物語性は皆無だ。

 今日、遂に到達した10階層から出現するモンスターならその条件には一致するだろうが──10階層からは『オーク』といった大型級モンスターが出現し、ダンジョンの構造はより複雑化する為──今日はあくまでも下見、偵察のようなものであり、モンスターと遭遇(エンカウント)する前に引き返した。

 

(恋は盲目ですから、この人にとっては一緒に話が出来るだけでも良いのかもしれません)

 

 そのように考えながら時間を過ごしていると──何もせず座っていると空気を壊してしまう為、時折、相槌を打ったり補足説明をしたりした──先程のエルフのウェイトレスが近付いてきた。

 

「シル、休憩時間がじきに終わります」

 

「えっ、もう?」

 

「かなりの時間が経っていますよ。他のお客様も帰宅を始めています」

 

「……あっ、本当。分かった、リュー。すぐに戻るね」

 

 ミア母さんが怒声を飛ばす前にお願いします、とエルフは言うと、ベルとリリルカに恭しく一礼してから去っていった。

 

「私達もそろそろ出ようか」

 

「そうですね、そうしましょうか」

 

「おっと、失礼! その前に(かわや)に失礼する!」

 

 我慢していたようで、ベルは早足で厠に向かった。

 武器を置いていくのは些か軽率だが、まあ、それが普通だろう。誰も、人の目がある店内で盗まれるとは思わない。

 だが、リリルカからしたらそれはやはり軽率だ。たとえば、今、ベルを暗殺しようとする者がいたとする。そして暗殺者に襲われたら、ベルは為す術なく殺されるだろう。

 無論、その可能性は極めて低い。しかし、零ではない。ましてや数日前にベルは襲撃されたばかりなのだから、もっと警戒するべきだろう。

 これはあとで小言を言うべきか……──そこまで考え、彼女は栗色の瞳を見開いた。

 

(これではまるで、リリがあの人の事を心配しているようではありませんか!?)

 

 そんな馬鹿な!? とリリルカは驚愕する。

 一度冷静になるべきだ。そう、考えた彼女は帰り支度を始めた。

 

「リリさん」

 

 シルが話し掛けてきた。

 いったい何だと思いながら、「何でしょうか、シル様?」と完璧な笑みで尋ねる。

 すると、彼女は微笑を携えて衝撃的な事を言ってきた。

 

「リリさん、貴女、ベルさんに『嘘』を吐いていますね」

 

 刹那。

 ゾクッ、とリリルカの肌が粟立(あわだ)った。

 リリルカは全身の震え、そして、張り詰めた表情をフードで隠しながら、シルに「何を仰っているのですか」と言う。声が上擦らなかったのは日頃の行いの賜物(たまもの)だろう。

 

「ふふっ、怖がらないで下さい。貴女に危害を加える気は、私には毛頭ありません」

 

 シルは変わらず微笑みながら、言葉を続ける。

 

「このお店には長年勤めています。給仕として沢山のお客様と接してきました。ベルさんのような素敵なお客様もいらっしゃれば、素行があまり良くない冒険者様もいらっしゃいます」

 

「……それで、シル様は何を仰りたいのですか」

 

「ああ、ごめんなさい。話がやや脱線してしまいましたね」

 

 シルは、そう、謝罪の言葉を口にすると、リリルカに正対する。

 感情が灯っていない鈍色の瞳が、リリルカの栗色の瞳を射貫いた。

 

「これはベルさんにも以前言いましたが、私、『人間観察』が趣味なんです」

 

「……それは、立派なご趣味ですね」

 

「そう言って頂けると嬉しいです。──だから、自然と分かるようになりました。その人が何を思っているのか。喜んでいるのか、怒っているのか、(かな)しんでいるのか、楽しんでいるのか。その人が本当の事を言っているのか、あるいは、嘘を吐いているのか。そしてリリさん、貴女は嘘を吐いている」

 

「──ッ!?」

 

 息を呑むリリルカ。

 

「ごめんなさいね、リリさん。私、リリさんをずっと()ていました。ベルさんの仲間になった貴女がどのような人間(ひと)か、無性に知りたくなってしまって」

 

「ああ、でも……」と、シルは何でもないように言った。

 

「それは、リリさんも同じですよね」

 

 バレていた!? と、そう、思った時には遅かった。

 驚愕は表情として反映され、間抜け面を晒してしまう。

 

「リリさん、自分を誤魔化すのがとてもお上手ですね。私、これまでに似たような人と何度も出会ってきましたが、リリさんほどの人とはまだ出会ったことがありません」

 

「……」

 

「貴女は『嘘』を吐いている。『言葉』や『表情』、『態度』といった様々な武器を使って、貴女は自分の本心を巧妙に隠している」

 

「…………」

 

「私も詳しくは知りませんが【ヘスティア・ファミリア】の情報は管理機関(ギルド)によって秘匿されているそうですね。とはいえ、情報を完全に封じ込めるのは事実上不可能でしょう。そして、本気で探そうと思えばベルさんを見付けることは可能でしょう。以前、ベルさんから話を聞いた限りでは偶然だと思っていましたが……どうやら、それは違うようです。貴女は偶然を装って、ベルさんに意図的に声を掛けた。違いますか?」

 

 恐ろしい、と思った。

 リリルカには、目の前の少女がただの街娘だとは思えなくなっていた。

 

「……何が目的ですか」

 

 その嗄声(させい)が自分のものだと気付くのに、数秒の時間を要した。

 ここまで来れば、自分に出来ることは何もない。言い逃れる事は出来るだろうが、そうしたら、シルはベルに忠言するだろう。

 ベルがシルの言葉を信じるかどうかは分からないが、親しい相手からの忠告だ、気にはとめる筈だ。

 つまり、ここでの最善手は完全降伏を認めること。間違っても刃向かってはならない。

 

(一番考えられるのはパーティ解消でしょうか)

 

 意中の相手の仲間に女性が居るのだ。恋する乙女からしたら、いつ奪われないかと気が気でないだろう。

 シルの言葉を身構え、リリルカは今か今かと待つ。気分は最悪で、吐気すら催していたが、今は堪える時だと己を叱咤する。

 だが。

 シルは不思議そうに首を傾げながら、こう言った。

 

「私に目的は特にありませんよ」

 

「……え?」

 

「ああ、勘違いさせてしまいました。私はただ、自分の推測が正しかったかどうかの確認がしたかっただけです」

 

 何だそれは、と胸中で呟くリリルカに、シルは「ごめんなさいね」と軽く謝った。

 

「嘘は一般的には悪いと言われていますが、はたして、本当にそうでしょうか。嘘を吐いた事がない人は極めて少ないと思います。なら、この世界中に居る殆どの人は悪人になってしまうでしょう」

 

「……しかしそれは、程度によって変わってくるでしょう。嘘を吐く回数や、その嘘の質が悪ければ、それはやはり悪ではありませんか」

 

「そうですね。ですが、私にはそれが分かりません。リリさんがベルさんに、何か言えない『隠し事』があって、『嘘』を吐いているのは分かりましたが、逆に言えばそれだけです」

 

 さらに彼女は続けた。

 

「私にも『秘密』はあります。恐らくは、ベルさんにもあるでしょう。誰にも打ち明けられない『秘密』の一つや二つを持っていることは何も珍しい話ではなく、寧ろ当たり前だと、私は思います」

 

「……」

 

「ただ、くれぐれも注意して下さいね。もしかしたら私の他にも、リリさんの『嘘』に気付く人がいるかもしれませんから」

 

 そして最後に、彼女はこう言った。

 

「個人的なお願いですが、ベルさんのこと、お願いしますね。あの人、すぐに無茶をして『誰か』を助けようとしますから」

 

「……それは、困った人ですね」

 

「ええ、本当に困った人です。でもリリさん、ベルさんは貴女の事も助けようとすると思いますよ。きっと、彼が憧れている『英雄』のように」

 

「……『英雄』ですか」

 

「そうではなくとも、あの人は貴女に手を差し伸べる」

 

 シルは、そう言って微笑んだ。

「ごめんなさい、私、お仕事に戻らないといけません。次のご来店お待ちしております」と言葉を残して、彼女は店の裏側に姿を消した。

 そして、呑気に鼻歌を歌いながら、ベルが戻ってきた。帰り支度を既に終えていたリリルカを見て、「さっすが!」と褒める。

 勘定を済ませ──ベルが全て支払った。リリルカは断ろうとしたが、強引に押し切られてしまった──二人は酒場をあとにした。月光と魔石灯で彩られた大通りを歩く。

 

「リリ、明日も宜しく頼む!」

 

「はい! リリこそ宜しくお願いいたします!」

 

 別れの挨拶を交わし、リリルカはベルと別れた。

 月の光すらも届かない路地裏を歩き、薄汚れた、安さだけが取り柄の宿屋に向かう。

 

(もう二度と、あの酒場には行きたくありませんね……)

 

 まさか初対面の人間に本性を見抜かれるとは思わなかった。

 今日の出来事は黒歴史(トラウマ)になりそうだと思っていると、不意に、視線を感じた。

 

「……?」

 

 辺りを見渡すが、誰も居ない。リリルカの視力は良いが、それでも尚、見える所には誰も居なかった。

 

(あっ、彼処に猫がいますね)

 

 一匹の黒猫が、リリルカをジッと見ていた。琥珀色の瞳が暗闇の中で光っている。

 黒猫はリリルカと目が合うと、「にゃーん」と一度鳴いてから姿を晦ませた。

 黒猫と人間の視線を間違えるとは、相当、疲れているに違いない。ダンジョン探索に、先程の黒歴史(トラウマ)があったのだ、それも当然だろう。そう認識すれば、身体が一気に重くなった。

 

(早く帰って、今日はもう寝ましょう)

 

 リリルカは気合を入れてバックパックを背負い直すと、帰路につく。

 ──この時、彼女は疲れていた。

 普段だったら警戒し、自分が納得いくまで『視線』の正体を調べていただろう。だが疲弊し、注意力が散漫となっていた彼女は『視線』の正体が黒猫のものだと決めつけてしまい、それを怠ってしまった。

 彼女は最後まで、暗闇から注がれる悪意に気付くことはなかった。

 

章題とは別に各話にサブタイトルは? (例:『1話』→『始まり』)

  • 必要
  • 不必要
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。