それは広大な
発生する頻度が最も高いのは、『深層』。反対に最も低いのは、『上層』である。
その『上層』に、
(有り得ません有り得ません有り得ません!?)
ダンジョンの冷たい地面に力無く臀部をぶつけながら、リリルカの脳は目の前の現実を受け入れられずにいた。
だが、何度瞬きしても視界は変わらず。否応なしに現実だと突き付けてくる。
ともすれば、その牛頭人身の『怪物』は悠然と佇んでいた。
(何で『上層』に、ミノタウロスが居るんですか!?)
リリルカ・アーデは優秀にして
優秀であるが故に、目の前の『それ』が現実なのだと認めざるを得なかった。
津波のように大きく荒ぶる感情を置き去りに、理性が今起こっている出来事を分析してしまう。
(この『惨劇』を引き起こしたのはこのミノタウロスで間違いありません。カヌゥ様も、その他の冒険者も! このミノタウロスが、全て殺した!)
仮説を立てていく。
(
それ故に、ミノタウロスが出現する階層はリリルカ達の居る階層よりも遥かに下である。
そう、ミノタウロスは『上層』に出現して良いモンスターでは断じてない。
本来、この牛頭人身の『怪物』は『中層』にて冒険者を待ち構えているのだ。
(──それなのに! 何故、ミノタウロスが此処に!?)
これまで見てきた数々の冒険者の死体。
間違いなく、彼等はこの『怪物』によって葬られたのだろう。状況証拠ではあるが、リリルカはこの推測を確信している。
分からないのは、何度も抱くこの疑問。
即ち──何故、『上層』にミノタウロスが居るのか。
(階層を越えてきた……? いいえ、それも有り得ない! 通常、階層越えはあってもそれは精々が二つ程! もしこのミノタウロスが遠路遥々階層越えを決行したとしても、道中、上級冒険者と会敵している筈!)
ミノタウロスは確かに強い。
リリルカのような下級冒険者が束になっても敵わないだろう。
だが、
リリルカの考え通りなら、ミノタウロスはこの階層に辿り着く前に上層冒険者のパーティと何度か会敵している筈であり、そこで討たれていなければ可笑しいのだ。
(そうだと言うのに……!)
ミノタウロスは、すぐ目の前に居る。
彼我の距離は、地面から絶えず立ち昇ってくる『靄』が邪魔して判別難しいが、150……いや、100
100
あまりにも心許ない距離だ。
サポーターのリリルカをして、この距離なら数秒も掛からず通り抜ける事が出来る。
つまり、自分が殺されるのに数秒も掛からないという事に他ならない。
(……ッ! 落ち着きなさい、リリルカ・アーデ! 思考の優先順位を間違えてはなりません!)
頭を振り、リリルカは一度深呼吸した。
考えるべき事は、それではない。
今考えるべきは、目の前の異常存在の対応方法だ。そうでなければ、この場面を生き延びる事は出来ない。
リリルカはミノタウロスから自分の雇用主へ視線を動かした。流石と言うべきか、リリルカよりも先に我を取り戻し愛剣《プロシード》を構えている。
(ですが、幾らこの人が強いとは言っても、ミノタウロスには敵わない! 打つべき手は、逃走! それしかない!)
結論を出す。
そして、自身の考えをリリルカは雇用主へ伝えようと口を開けるが、それよりも、
『ヴァアアアアアアアア──ッ!』
ミノタウロスの方が早かった。
『怪物』はその巨体からは想像も出来ない程の速度で、走り始めた。その向かい先は──。
「ぁ……」
その向かい先は、リリルカ自身だった。
どうやらこのミノタウロスはこの数秒の間に、誰が一番弱いのか判別したようだった。
その走り方に迷いは一切なく、最短距離でリリルカに突撃する。
(あ、足が……。足が、動かない……)
頭ではこの場からの離脱をすべきだと分かっているのに。
リリルカの足は、身体は。
ちっとも動いてくれなかった。
地面に縫い止められているかのように、リリルカは、ともすれば呆然と、『怪物』が近付いてくるのを眺める事しか出来なかった。
『ヴゥモアアアアアアア──ッッ!』
リリルカの小さな身体を、巨大な影が覆い尽くす。
反射的に顔を上げた時には、ミノタウロスはすぐそこに居た。
正しく、その顔は『怪物』。『恐怖の権化』ですらあった。
一瞬、視線が交わる。
そしてリリルカは見てしまった。
ミノタウロスが嘲笑を浮かべ、見下ろしている。
「………………ぁ」
上段から、大剣が無造作に振り下ろされる。
当たれば、絶命は確実。
自分の小さな首は何の抵抗を示す事も出来ず
その確信が、リリルカにはあった。
瞼を閉ざす時間もなく。
一秒後に訪れるであろう、死の痛みに備える事も出来ず。
リリルカはぼんやりと、迫り来る大剣を眺める事しか出来ない。
そして、大剣がリリルカを斬り裂こうと──するよりも、前に。
「させないッ!」
決然とした声。
次いで。
ガキィン────!
耳を
リリルカが見ると、白髪紅眼の剣士──ベルが、リリルカとミノタウロスの間に割って入っていた。
(助けられた……!)
急速に、止まっていた脳が回転する。
リリルカは今起こった──起こっている出来事を受け止める。
今正に斬り裂かれようとしていたリリルカを、ベルが助けてくれたのだ。
振り下ろされた大剣に対し、斜め右からの斬り上げを以て真正面から迎え撃っている。
だが、膠着はすぐに終わりを迎えようとしていた。
見れば、剣士の身体は真上からの圧力により徐々に動いていた。
「……グッ! ──リリ、離れてくれ!」
苦悶の声を出したベルが、リリルカに離脱を指示する。
それを受け、リリルカは考えるよりも先に動いていた。
足に力を込め、後方へ大きく下がる。
「せぁあああああああ!」
リリルカが戦闘領域から安全圏へ移動を完了させると、ベルは雄叫びを上げながら大剣を自身の長剣で受け流す事に成功していた。
ズドンッ! と質量の大きい物が地面にぶつかる音が出て、亀裂が走る。
『ヴモォッ!?』
「うおおおおおおおおおお!」
受け流しに成功したベルは、出来た『隙』を見逃さなかった。体勢を崩すミノタウロスの懐に入り、その横腹を渾身の力で押す。
『ヴゥモァアアアアアア!?』
驚愕の声を出す、ミノタウロス。
元々右に傾いていた巨体はあっさりとそのまま倒れ、次いで、地響きが出る。
(す、凄い……!)
リリルカは目を見張り、感嘆する他なかった。
あのミノタウロスを相手に、ベルは戦えている。
これならもしかして──そんな愚かな期待を、ベルは見透かしたようだった。
「リリ、逃げてくれ!」
剣の切っ先をミノタウロスに向け、リリルカの数歩前に立つベルがそう言った。
「……え?」
困惑するリリルカに、ベルは切羽詰まった声で衝撃的な事を言った。
「私じゃ、このミノタウロスに勝てない!」
リリルカは最初、何を言われたのか分からなかった。
リリルカの頭の中は、疑問で埋め尽くされた。
(逃げる……? 何で……? いえ、それよりも──この人は今、何て言いましたか……?)
そうだ、聞き間違いでなければ、ベルはこう言った。
──『私じゃ、このミノタウロスに勝てない!』
理解出来なかった。
ベル・クラネルがそんな事を言うのを、リリルカはこれまでたったの一度だって聞いた事がない。
だって、そうだろう。
ベルは、自分が仕えているこの冒険者は。
こちらが呆れるくらいに楽天家で、不幸なんて知らないと言わんばかりにいつも馬鹿みたいに笑っていて……──そうやって、窮地を乗り越えてきたのだ。
そうだと言うのに。
「リリ、早く! ミノタウロスの注意は私が引き付ける! だから、ミノタウロスが立つよりも先に、此処から逃げるんだ!」
ベルの声には余裕がない。焦燥感に駆られ、その声音には恐怖すら含まれているようだった。
まるで、目の前の『怪物』の異常さを知っているかのような言動。
「──ッ、リリッ!」
顔だけ振り向かせ、ベルがリリルカの名前を呼ぶ。
そこに、いつもある優しさやあたたかさはなかった。
「この場から離脱し他の冒険者に状況を報告、助けを求めるんだ! 私はこの場に残り、時間を稼ぐ!」
それは非常に合理的であった。
この場で戦えるのはベルだけだ。残りは負傷している冒険者が二人と、戦闘が出来ない『
全員での逃走は出来ない。仮にベルが負傷者を纏めて抱えて運んだとしても、ミノタウロスは余裕で追い付いてくるだろう。
この場に居る全員が助かる方法は、一つしかない。
それ即ち、ベルが言った通りの事である。
ベルが『囮』となり時間を稼ぎ、その間にリリルカは他の冒険者へ助けを求め、その冒険者にミノタウロスを倒してしまう。
(ですが、それって……!)
成功確率は限りなくゼロに近い、作戦とも言えない品物だ。
問題は山のようにある。
まず第一に、ベルが時間稼ぎを出来るのか。ミノタウロス相手に勝てないと断言したベルが、それを遂行出来るのか。
第二に、リリルカが他の冒険者を見付けられるのか。この広大な
第三に、仮に冒険者を探し当てたとして、その冒険者が力を貸してくれるのか。原則、ダンジョンで起こった出来事はその全てが自己責任として扱われる。助けを求めたとして、必ずそうなるとは限らない。
第四に、此処は『上層』。仮に力を貸してくれる冒険者が現れたとして、その冒険者が強いかどうかは別問題である。運良く上級冒険者と会えるのだろうか。
ぱっと思い付くだけでもこれだけあるのだ。
それが分からないベルではない筈だ。
リリルカは何となく……そう、何となくではあるが、徐々にベルの事が分かってきていた。
普段の姿は仮のもので、本当は、自分と似たような性質の持ち主だという事に。
それはきっと、『道化』と言うのだろう。
ベル・クラネルは仮面を被り、『道化』のように振る舞い、舞台を踊っている。
「リリ、何をしている!? 早く行ってくれ!?」
仮面を外したベルが叫ぶ。その
「いや、だって……それは……!」
リリルカが二の句を継げないでいると。
ベルは決定的な一言を口にした。
「──ッ、リリルカ・アーデ、これは命令だ!」
パーティリーダーのみが行使出来るそれは、逆らう事の赦されない絶対的な権限である。
それを今、ベル・クラネルは初めてリリルカ・アーデに行使した。
その意味が分からないリリルカではない。分からない筈がない。
つまり、ベルはこう言っているのだ。
自分を置いて逃げろ、と。
ミノタウロスに勝てないと断定したベルは、せめてリリルカだけでも生き延びれるよう、そして、その事に負い目を感じさせないよう『建前』を使っているのだ。
パーティリーダーの命令であれば、パーティメンバー、ましてやサポーターが断る道理はない。
他者から誹謗中傷される事もなければ、
それはベル・クラネルの優しさであった。
だがそれは同時に、残酷であった。
『ヴルゥゥゥ……!』
荒い息を吐き出しながら、ミノタウロスが大剣を杖代わりにゆっくりと立ち上がっていく。
猶予は、無かった。
「──行ってくれ、リリ!」
それは、懇願であった。
そして何処までもリリルカ・アーデは
「うわ……、うわああああああああああ!?」
リリルカはベルに背を向けると、叫喚を上げながら走った。
無我夢中に、上の階層へ通じる階段を目指した。
自分の弱さを呪う事しか、まだ何者でも無い少女にはそれしか出来なかった。