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第一音 始まり
「ミスター。どうか、受けてはいただけないか」
目の前の男性に対し、私は無表情のまま相対する。熱を込めて話す初老の白人。その地位は万人に知られるものではないけれど、欧州音楽界という狭い世界で切り取ってみれば、人口に膾炙したと言ってもいいだろう。そんな人物からの勧誘。楽団に来てほしいという願い。身に余る光栄と人は言うのかもしれない。
「申し訳ありません」
つっかえることのないドイツ語で答える。四年の日々は、私の語学力をも鍛え上げた。そうならなければ生きていけなかったから、ということでもあるが。熱のこもらない私の声に、翻意は難しいという意図を込める。コーヒーカップを持っても、私の手は冷たいままだった。
「そうですか……残念です」
「本当に申し訳ないです」
「これから、どうするのですか」
「私は……帰国します」
失望か、落胆か。男性は息を吐き、立ち上がる。罪悪感がないと言えばウソだ。なんのためにここまでやってきたのか。こういう日の為ではないのか。クラシックの本場で、自分の名を轟かせたかった。それはもう、過去形の夢になってしまったけれど。くすんでいく情熱が、私の体温を奪っているのかもしれない。春の街は、暖かいはずなのに。
「またこちらへいらしたら連絡をください。その時は喜んで迎え入れます」
「えぇ、ありがとうございます」
そんな日が来ることはないだろうと思いながら、私は曖昧に微笑む。
「では、さようなら」
私は返答しつつ、彼の言葉を反芻した。さようなら。このフレーズを私は後何度繰り返せばいいのだろうか。わからないまま、喫茶店の席を立つ。ハンブルクの海風が鼻腔を突く。
「さよならだけが人生だ」
高名な詩を和訳した言葉がこれだ。まったく、何と残酷なのだろうか。親友を喪った後、私の心には穴が開いている。私はこの酷く哀しい事実を受け入れられるほど、大人ではなかったと思い知らされた。空虚な穴は、満たされない。立ち直りたいのか、すべて忘れたいのかわからないまま、私は帰国を選ぶ。京都府宇治市。懐かしの、我が故郷。
そこでしばらく休もう。そうすればきっと、心も晴れるはずだ。そう思って店を出た。
「さようなら」
この言葉を両親にも告げた。汗がとめどなく流れ落ちる、夏の日だった。悲しみを、喪主である義務感が覆い隠していく。抜け殻になってしまった妹を介抱しながら、私は孤独を感じていた。
「さようなら」
この言葉をもう一度友に告げた。このまま塞ぎこんでも仕方ないと思い、入ることにした新天地で。ただ幸いなことがあるとすれば、それは永遠の別れではなかったこと。尤も、私にとっては同義だった。だから私は―――部活を辞めた。もう、二度と戻らないだろうと思いながら。
きっと私より不幸な人はたくさんいる。私は恵まれている。それは理解していた。ただ、理解しているのと納得しているのはまた別問題であり、感情は苦痛を叫んでいる。だが叫んでもどうしようもない。ゆえに、ただ受け入れて前に進むしかない。かくして私、桜地凛音の生涯は、怒涛のように押し寄せた別れによって歪んだのであった。少なくとも、私の望まぬ方向に。
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花が綺麗だ。満開の花の下を、紺色のスカートと茶色の上着、あるいは黒い学ランが歩いていく。その多くは新品の輝きを放っていた。歩いていく一年生たちは希望とわずかな不安を感じさせる面持ちをしている。上向き加減の吐息の数々が、それを証明しているようだった。
京都府立北宇治高等学校。偏差値は中の上、進学実績は普通、立地も普通、部活が強いわけでもない。市内唯一のセーラー服が女子受けしてるというのが数少ない特徴であると言えるほど、ここには何もない。
そんな場所に何故来てしまったのか。後悔はある。だが、悔やんでも仕方ない。私をここへ誘った張本人は、私と喧嘩別れしたまま一年が経とうとしている。
昇降口へと続く階段の途中には、人が多くいた。その手には各々の楽器。吹奏楽部か、とすぐに見当がつく格好をしている。大体ある程度の人数がいる学校には必ずと言っていいほど存在している部活の一つ。その巧拙はともかくとして、全国的に名の知れた部活動。当然、我が校にも存在している。その技量は拙の方だが。
指揮棒が振られ、音が響く。進化は見られない。素人が聞いてもこれが最高品質だとは到底思えないだろう。とんでもない不協和音。調子っぱずれなリズムは不揃い以外の何物でもない。テンポもまばら。指揮棒は人形が振っているかの如く音とマッチしない。そんな状態の部活がコンクールで得る評価は推して知るべしである。
万年銅賞。しかも府大会。出れば銅賞は貰えるので、お情け以外に形容すべき言葉があろうか。去年の演奏は失笑すら買ったという。
ふと近くを見ると一年生らしき茶色の髪をポニーテールにした少女が目に入った。彼女は経験者なのだろう。目に期待はもう無かった。もしある程度の腕前なら最低でも南宇治を目指す。もし自信があり、金銭に余裕があれば立華や洛秋もいいだろう。京都は大きい。高校の数も私立公立合わせて幾つもある。此処より上手い場所など、いくらでもあるのだ。
「ダメだこりゃ……」
呟かれたその言葉に心中で激しく共感を示す。
しかし、相変わらず何の進歩もない。普通の部活なら一番上手かった三年生がいないのだし、多少は音が薄いのは許容すべきだろう。しかし、それはここには当てはまらない。去年の三年生は上手くなどなかったのだから。いや、子供のお遊戯会の方が可愛げという点で優っているとすら言えた。去年の顧問の方針もそれを助長させていた。嫌いではないし、悪人ではなかったが、好きにもなれなかった。聞いた話では前の顧問は産休に入るらしい。
しかしながら、ここをまともな演奏ができるようにするのは並大抵の顧問では不可能だろう。それはなぜか。朱に交われば赤くなるという言葉がある。中学時代が真面目であっても、言葉通り赤く染まっていくのだ。そうなれば、三年経った頃にはもう不真面目で言葉を選ばなければ下手くそな奏者が一名出来上がる。悲惨なことだ。
クラス替えの貼り出しを見てややげんなりする。喧嘩別れした元友人や同じ部活だった人間が何人かいる。学校を恨みたかった。
この後にあるのは入学式と始業式。いずれも退屈な行事だ。適当に近くの席の男子たちと談笑する。見たくないことを、見ないようにしながら。
校長が眠たい話を話している。春の陽気に包まれているものの、まだどこか肌寒い。体育館には数百の人がひしめいていた。退屈な空間の中、目を閉じる。微睡でこの時間をすっ飛ばしたかった。
回想、あるいは明晰夢。まるで人生を辿るかのように、景色は広がった。これは夢であるとわかっているのに、目覚めることはない。そんな夢を、時々見ることがある。そしてその後には何か、虫の知らせとでもいうかのように、何か自分に大きな転機が来るのだ。それは良いこともあれば、悪いこともあった。今のところ、後者が多いように感じている。
自宅が見える。空から俯瞰したように、日本家屋があった。私は京都の所謂旧家というべき古い家で産まれた。元は大阪で商いをしつつ、今の京都市内に屋敷があったらしい。そちらの家にはほぼ没交渉の親族が住んでいる。そして今住んでいる家は宇治にあった別宅だった。生まれはそうでも、育ちは普通だったように思う。金銭で苦労していない分恵まれているとは思うが、それ以外は特段変わった教えを受けた記憶はない。
楽器に興味を持ったのはまだ幼稚園生の頃だったと思う。元吹奏楽部だった母の持ち物のトランペットに惹かれた。その前後で『天空の城ラピュタ』を観たことも関係しているが。才能があったのかは分からない。まあ、多少はあったのだろうか早くに習得できた。
明けても暮れても練習していたら多少は上達するもので小学校の頃には一人前には出来ていた。勉強も必死にこなし多く練習できるようにした。それを見た両親はドイツへの留学を勧める。親戚が向こうに一人だけだがいたので条件は申し分なかった。そして小学校高学年で私は単身異国へ向かった。
ドイツは飛び級がある。正確には進級試験を受けまくれば上へ進めるのだ。とにかく死に物狂いで勉強した。早く音大で学びたかったのだ。言語の壁を必死に超え、なんとか受かった。鳴り物入りであったと後に聞かされることとなるが、その時の私には知る由もない。
北海の海が見える。またしても空から見下ろすように。この夢はまだ覚めないらしい。
大学で私は一人の少女と出会う。彼女は奇しくも私とよく似た境遇であった。飛び級で音大にいた彼女とは歳も近いという事もあって打ち解けた。年は向こうが少し上。そして……才能も。井の中の蛙であったことを悟り、努力を続けた。
そして四年生になった。四年間はあっという間だった。彼女のほかにも友人ができた。それもありがたいことに複数。極東から来た東洋人の、しかも年の離れた自分を友として扱ってくれていたことには、今でも感謝が尽きない。
夢はまだ続いている。校長はどこまで話したのだろうか。ひょっとしたら既に生活指導のありがたいお話になっているのかもしれない。頬をつねっても、何も起きなかった。そもそも、つねれているのかも分からない。
彼女に勝とうと思い二人で申し込んだ世界大会の一週間前に彼女は突然死んだ。事故だった。春先の出来事だった。最早言葉などなかった。私の憧れでありライバルだった少女はあっさりといなくなった。”約束だから”と身に鞭打って大会には出た。結果的には優勝できた。最年少での受賞。ニュースにはなった。プロからの打診も来た。だが、すべて断った。彼女の最後の練習風景の動画を見せられたからだ。その音は明らかに私より上だった。この席に座るべきは私ではなかった。こんな譲られた勝利などいらない。
それに、空虚だった。私の、まもなく十五になろうとしていた心は、この別れに堪えられるほどまだ強くはなかった。空虚な穴は埋まらず、目指していた星は消えた。だから――全ての誘いを断り日本に帰国した。それが逃避なのか、安息を求めてなのかも、理解できないまま。止める友の声も、聞こえないまま。
そんなであっても、音楽それ自体を止めるという選択肢だけはなかった。それはきっと、もう演奏できない者に対する冒涜でしかないと思ったから。止めてしまったら、もう吹くこともできない人になんて言えばいい。心が持たないなら、少しだけ演奏から離れればいい。それでも音楽からだけは、逃げてはいけない。思い出がよみがえるたびに苦しいけれど、それでも。そこからだけは、逃げられないから。
夏の景色が映る。鮮やかな緑が、生と死を象っている。唇を噛んだ。夢はまだ、終わらない。
疲れ切った顔のまま帰った私を、両親は暖かく迎えた。夏休みの前の話である。何もしないままぼーっとしているのは好ましくないと諭され、私はとりあえず学校へ行くことにした。それ以外に、日々を埋められそうなものはなかった。環境が変われば、人間関係が変われば、煩雑な日々で予定が生まれば、心の隙間も埋まると思った。
車の衝突音がする。鈍い音と共に、何かが倒れる音も。私が聞いたわけではない。けれど夢は記憶を整理する場所だという。昔聞いた別の音を、記憶が勝手につなぎ合わせているのかもしれない。
更なる不幸が襲った。八月に両親が死んだ。奇しくも彼女と同じく事故だった。二歳下の妹と私と歳上の従姉を遺して。悲しみに暮れつつも今後の生計を考えねばならなかった。親の労働収入は消えたが事故の慰謝料と遺産があったのでぎりぎり生活は出来た。しかし余裕があるわけではない。妹に今まで通りの水準の生活をさせるためには、金を得る必要があった。作曲の仕事を引き受けるようになった。物書きにも手を出した。いざという時に、どうにでも出来るように。
そんな状況で夏明けには編入された。場所は宇治市立大吉山南中学校。通称南中と呼ばれているのだと妹に聞いた。そこでは幾人かの知り合いが出来た。
そして、一年前にこの高校に入った。理由は家から近い公立校だったから。ただそれだけであった。そこで中学で出会ったフルート吹きの友人に誘われ吹奏楽部へ入った。もう一度吹くことでかつての情熱を取り戻せるかもしれないと思ったからだ。結果的に止めておけばよかった。そこは私の期待した場所とは程遠かった。
私を誘った友人は真面目な人が不遇を被るこの状況に義憤を募らせ三年生と明確に対立した。私はというと嫉妬からか、その態度が良くなかったのか、同じパートの三年生に嫌われていた。適当にあしらってはいたが、実に大人気ない攻撃を受けていたのは確かだ。二年生の優しい先輩が私や他の生徒を庇ってくれたが状況は変化しなかった。私は特に気にしてはいなかった。半年ほどで彼らはいなくなる。別に良いではないか。そう思っていた。
しかし、多くの真面目な一年生が不満をためていた。それと比例するように三年生たちのヘイトも溜まっていった。一年生が退部を考えているというのを耳にした。個人的にはどっちでも良かった。部活は個人で決めることだ。
この部活がどうなろうと知ったことではなかった。残された人材が何とかするだろうとは思った。そこで耳にしたのは友人の、最早このときは親友と呼べるくらいにはなっていたと自負していた彼女は、大規模抗議を考えていた。デモ、あるいはストライキ、クーデターとも言える。私は止めた。結果は目に見えていた。二年生は染まりつつある。三年生は端から大半が敵。一年生も全てを掌握しきれてはいない。こんな状態では勝てるわけない。
止めた。止めて、失敗した。そして大喧嘩になり、私をここへと誘った彼女は辞めてしまった。その決意は何よりも固かったのだろう。もしくは、決意が固かったと言うより、失望が大きかったのかもしれないが。結果的に私は彼女の居場所も守れなかったのだ。
そして、私はそれに罪悪感を感じた。もっと上手く立ち回れたのではないか。その思いを募らせた私は、ついには退部届を書くに至った。彼女の不本意であろうが残してしまった負の遺産の清算を行った末に。彼女に告げたさようならという声の残響を、ずっと耳に木霊させながら。
それでも音楽だけは止められなかった。もう一度奏者としてスタートしようとした矢先のこの退部。正直、少しばかり疲労した。心がなのか、身体がなのかは分からない。もしかしたらどちらもなのかもしれない。いずれにしても、奏者として生きるのはしばらく止め、それ以外の音楽活動を続けることにした。
音楽からは……絶対に逃げてはいけないから。それは自分で選んで、それに負い目も苦しみも感じていない、本心からの使命だと思っている。
重苦しさを感じながら目を開ける。まだ式は終わっていない。校長の話は続いていた。彼の話が長いのか、今のは胡蝶の夢のようなものだったのか。見たくないものを見せつけられた。嫌な記憶、思い出したくない思い出。小さく心中で舌打ちをする。私にこんな過去を見せつけてどうしようというのか。見たくない現実を突きつけて、何をしろというのか。
もう一度目を閉じた。だが、何も起きないまま、時間だけが過ぎ去っていった。幸せな夢を見る資格はないと告げるように。
あれから数日が過ぎた。四月も終盤に差し掛かり、桜も散ってしまった。平凡な日々が続く。別に変化が欲しいわけでは無いが。そう、この時まではそう思っていた。この日、運命は急速に動き出す。
昼休み。男子の友人数名と席を囲み、くだらない話に花を咲かす。内容があるかと言われれば微妙かもしれない。ないという人もいるだろう。だが、それが今の私の過ごし方だった。それでいいと思っている。自分で選んで、そうしているのだから。
すると、教室がにわかにざわめく。黄色い声と視線の先には見知った顔がいた。何を隠そう新任音楽教諭としてというよりそのルックスで話題の滝教諭であった。何用なのか。このクラスの吹部の人に用なのだろうか。
「モテてんなぁ、あのセンセ」
サッカー部の生駒は菓子パンを口に含みながら言う。
「だなぁ」
バスケ部の柏原が相槌を打つ。あの先生が吹部の顧問になるという話は知っている。だがそこには触れないでいてくれるクラスメイトがありがたかった。なにせ、私は吹部を辞めているのだから。
「なんの用だろうなぁ」
「桜地、お前の勧誘じゃね?」
「まさか」
冗談めかして言う二人に、私は肩をすくめて返答した。だが、私の予想とは裏腹に彼はまっすぐ私の席にやってくる。
「桜地凛音君でしょうか」
「……はい」
「今お時間大丈夫でしょうか?」
「一応は」
「そうですか、それは良かった。よろしければ付いてきてほしいのですが」
溜め息を吐きたくなりながら答える。
「分かりました。どこへ行けばよろしいですか」
「こちらです」
呆気に取られる友人たちに、「お前がああいうこと言うから……」と冗談めかして告げる。いってらー、と気の抜けた声たちに見送られ、私は教室を後にした。
先導されながら後に続く。廊下での視線が痛い。何事かをやらかした生徒が不貞腐れつつ指導室に連行されているかのように見えているのだろう。ドナドナが頭の中を流れていく。連れてこられたのは職員室の隣の来客などに使われる部屋だった。多少の長丁場を覚悟して、席に着く。
「それで、何用ですか?」
「まぁそう急がずとも」
「私は昼食の最中だったのですが」
「見たところ、食事は済ませていたようでしたが?」
「食物を摂取することだけをこの場合の昼食とは定義していないつもりでした。友人と語らうことも含めての食事であると思っておりますので」
少しばかりとげのあると、自分ですら思う言葉に先生は少し苦笑したように見えた。あるいは、楽しそうにも。
「一理ありますね。わかりました。世間話はそこそこに、本題に入ります。私は、今年この高校に赴任しました。そして吹奏楽部の顧問に就任しました」
「存じています」
「去年の吹奏楽部の目標は全国大会出場でした。おそらく今年もそうなると予想しています」
「何もしなければ、そうなると思います。変える理由も彼らには無いでしょうから。惰性で続けた目標ですが、言うだけならタダですからね。あれが本当だった日も、かつてはあったことでしょうが」
我が校は全国大会の常連だった。尤も、それは十数年近く前の話。顧問が変わり、世代が変わり、栄光は堕落していった。今あるのは、輝かしい歴史の残骸と、その結果残った無駄に多い眠る楽器たちだけ。
「そうなったのなら私は、何が何でも全国を目指します。その為の労力は惜しまないつもりです」
「先生。無礼を承知で申し上げますがお許しください。それはとても正気の沙汰とは思えない。夢物語、フィクションですらない妄想です。こんな物語を書こうものなら出版社に突き返されるようなストーリーです。現実的に考えて、不可能に限りなく近いと言わざるを得ない」
「手厳しいですね。確かにその通りでしょう。しかし私は本気です。例えどんな心境であれ、掲げたならそれを真剣に目指してもらいます。意思ある所に、道は拓けるのですから」
残酷なことだがこれは正論だろう。自分の意思がなくとも賛同したならばそれに向かい努力をしなくてはいけない。これは社会の真理だ。だが、そういう言説を振りかざして目指させたところで、実際に彼らは行動するのだろうか。大きな反発が予想された。染まってしまった色は、かなり深いところまで染み込んでいるとみている。
「そもそも、先生は何の根拠があって可能だと? ご自身にそういう成果を挙げた経験がおありなのですか?」
「いいえ、こういう大きな学校で顧問をするのは初めてです」
「……」
それでよくもまぁ、あそこまで堂々と言いきれたものだ。あの言葉がハッタリなら、大した演技力だ。
「それはともかく、しかしです。それと私に何の関係が? 私は吹部ではないのです。まさか二年生から部員として加われと仰るのですか?」
「そうではありません」
「じゃあ私は無関係な部外者ではないですか」
「ですがあなたは昨年度、吹奏楽部に所属していたそうですね」
「……それは事実です。しかし、夏を迎える前に辞めています。あそこに未練も後悔もありません。レベルの低さに呆れ、見放したが正しいかもしれませんが。時間の無駄、これに尽きます」
「今年と去年、部員のレベルに差はありましたか?」
「いえ、無いように思います」
「では、それをあなたは気付いていた。知っていた。分かっていた。にも拘らず桜地君、君は吹奏楽部に入部した。何故ですか? 本当に時間の無駄だったのなら、そうなることは容易に予想がついたはずです」
そうだ。実際、彼の言うことは正しい。私は、私を誘った少女の言葉を受けて入部した。その低いとしか言えない実力を知りながら。
「もう、忘れてしまいましたよ」
喉につっかえたモノを吐くように言った私を、先生は目を細め見つめる。そして言葉を続けた。
「戦力としては大変欲するところではありますが、あなたの才能をそこに抑えてしまうのは些か采配としては不適と思っています。桜地君ならばもっと、大きなことができる。部活動には外部指導員という制度があるのはご存じだと思います」
「はい。……まさかとは思いますが、私にそれをやれと?」
「正確には外部指導員とは言えないですが、私の手伝いとして準顧問のような立ち位置で参加してはもらえないでしょうか? 生徒の音楽面・表現面での指導を行い、私と生徒の間を繋いでほしいのです。私だけでは手が回らないところも多いでしょうし、職員会議などで指導できない日があります。それに、私一人では指導の視点が偏ってしまいます。別の視点からのアドバイスが欲しいのです」
「それは……仮に引き受けたとして、名目上は部員なのでしょう?」
「はい。そうなるかと」
「では仮に、先生の言う全国行きが叶ったとして、大会には出られるのでしょうか」
「指導者はオーディションでコンクールメンバーを選ぶ役割もあります。選ぶ側が選ばれる対象でもあるというのは公平性の観点から問題があります。難しいと言わざるを得ないでしょう」
私は思わず立ち上がる。
「舐めないでいただきたい!私は確かに演奏界からは身を引いています。しかし、音楽活動自体は止めていません。今の私は、それでも奏者なんですよ。トランペットだって、一日も欠かさず練習している!」
演奏していなくても、心はずっと奏者のままだった。少しだけ距離を置いているだけ。私がそうしていることと、私の腕前は関係ない。文句を言わせない技術を今もしっかり持っている。それは自分への甘えなど一切捨て去った上での見地だ。
情熱は義務に変わって、それでも音楽は続けている。あの日からずっと、使命だと信じて。今は奏者であることに少し疲れているだけ。そう言い訳しながら。それくらいの言い訳は許してほしいと、懇願しながら。
「にも拘わらず、私に大会には出れないけど生徒と先生との間を取り持って、かつ音楽指導もしろ? そんな、そんなものは都合のいい奴隷じゃないですか! 私にだって、母校の名前を背負っているプライドはあるんです。持ち得る技術も、積んできた研鑽も、思い出も、時間も苦労も! それだけは捨てていないし、まだ残っている。上には上がいる。そしてそれにもう届かなくても、それは私が他に劣っている理由にも、プライドを捨てる理由にもならない。残りカスみたいな私の、最後のプライドだ!」
肩で息をしながら叫ぶ私を、先生はただ冷静に見ていた。その静けさがどうしようもなく腹立たしかった。埃が宙を飛び交う。電球の光がキラキラとそれを照らし、私の目の前に灰色の雪が舞っていた。
「指導しろというのは、この緩み切った弛んだ部活を、どうしようもない技量の、子供のお遊戯の方が可愛げがあって評価されそうな演奏を、態度を、精神をどうにかしろということでしょう。じゃないと音楽は成り立たない。技術だけじゃ、なにもならない」
「必要とあらば」
「……冗談じゃない。人はそう簡単には変われないんですよ。去年までだらけきった空間がそう簡単に引き締まりはしませんよ。もしどうにかできたとしても、反感を買うのは必至。嫌われるかもしれない。なのに大会にすら出れず、私は先生と違ってどこにも名前も残らない。万雷の喝采も、スポットライトの熱も、私には注がれない! 大会に出られないことが、どれほどの屈辱か。成功を収めた、去年まであんなに不真面目だった人を舞台袖で見つめる惨めさが、どれほどのモノか。想像するだけで……こんな、こんな屈辱があってたまるか!」
吐き捨て、私は扉へ足を向ける。もうこんなところにいたくなかった。何故、こんな屈辱を受けなければならないのか。無償労働の末に、使い走りのようなことまでさせられて。そのうえで得るものは一体何だというのか。指導するなら、しかもそれが部活単位なら最低でも何らかの見返りが必要だ。名誉であれ、金銭であれ。そういうものを対価とされるからこそ、仕事として責任をもってこなすのだ。責任を負うために金銭は存在する。私はそう思っているし、決して間違ってはいないはずだ。
なのに、なのにだ。やりがい搾取なのか何なのかは知らない。だが少なくとも、得るものなど何もないと私には思えた。私の演奏は何一つ衰えていない。それは自分がよくわかっている。私はこれでもプロだ。これでも、奏者だ。音楽への情熱が消えかけていても、心の穴は埋まらなくても、それでも私にはまだ、残っているものがある。煮えたぎるような苛立ちを感じながら、錆びた扉の取っ手に手をかける。そんな私に対し、後ろから声がかかった。
「成功を収める、ですか。では、あなたが加われば少なくとも喝采を浴びるような状態に持っていける自信はある、ということですね」
「当たり前です。私を誰だと思ってるんですか。それも出来ないようで、クラシックの本場で生きていけますか。私は、少なくとも私の音楽技能に関しては揺るぎないプライドを持っています。勝てない相手はいるけれど、今いる奏者に負ける気はしません。名プレイヤーが名監督とは限りませんが、先生の全国行きが妄想から手が届くかもしれないおとぎ話くらいにはして差し上げますとも。具体的には関西行きくらいには」
全国は厳しすぎる。いくら何でも、付け焼き刃で関西三強を倒せるとは思えない。だが、京都なら大きなライバルは立華と洛秋だけ。三校出場できる内の二校はここが占めている。だが、残りの一校は毎年コロコロ変わっている。なら、入り込める隙もある。
「私は……上には上がいることを知っている。けれど、それはもう届かない。だから、今生きている中では、私が少なくとも私が知る限りの頂点に最も近い位置にいるというプライドは持っているつもりです。そこから落ちないように、上に行けるように練習はしています。たとえ、公で吹いていなくても。だからこそ……屈辱なんですよ」
「あなたを侮辱する意図はありません。それはご理解いただきたいと思います」
「……こちらも言葉が過ぎました。申し訳ございません」
「確かに、上級生はなかなか変わってくれないかもしれません。ですが一年生はどうでしょう」
「……」
「多くの一年生が入部しています。この部の現状の実力は全体の上層に位置している、と思って入部していない人が大半でしょう。それでも、彼らはどこかに期待を持っているはずです。これからの生活に不安と希望を持っている。中には初心者の生徒もいました。高校から新しいことを始めたい。そう思ったのかもしれません。そんなスタートダッシュを切ろうとしている生徒に対して、この部活の状況はどうでしょうか」
可哀想だ、とは思った。スタートダッシュすら決められず、果たして音楽に楽しさを見出せるのだろうか。そう考え、少しだけ胸に痛みが走った。一年生に罪はない。それは、分かっているのだ。
「……そんなの、私の知ったことじゃありません」
「あなたならば、そんな一年生たちのよき導き手になってくれるのではないか。私はそう思っています」
「導き手は先生がおやりになってください。全国に行くんでしょう。じゃあ、それくらいできないとダメでしょうから。では、失礼します」
「もし、考えが変わることがありましたら……」
「あり得ない未来の仮定は結構です!」
捨て台詞のような言葉を残して、私はピシャリと応接室のドアを閉めた。何とも言えない不快な気持ちが、心の中を渦巻く。私はあの先生が失敗してしまえばいいとすら思っていた。だって、上手くいってしまったら。もし仮に成功してしまったら。彼女があんまりにも惨めじゃないか。そんな風に思えたから。
不快だ。色んなものが積み重なって不快さを形成している。むしゃくしゃする心を落ち着けながら、教室に戻った。閉めた扉の後ろにいるであろう人のことを考えないようにしながら。心の中にある棘はジクジクと刺さったままで、抜けそうになかった。
「おっすお帰り」
「どうだった、怒られたか?」
風船のように張っていた気は、教室に戻ったことで少し抜けたように感じた。
「いや、全然。ちょっとした世間話だ」
「ホントかよ……そうだ、お前を訪ねて後輩が来てたぜ。黒髪のエライ美人な子。『桜地先輩はいらっしゃいますか』ってな」
「どこの誰?」
「いないって言ったら帰ってった」
「それを聞いてくれないと困るんだがなぁ」
妙なところでいい加減な奴らだ。その分気が抜けるので良いのかもしれない。
「黒髪以外に特徴は?」
「いったじゃん、エライ美人って」
「それはお前の主観だろ。もっと他にないのか」
「胸がでかい」
「……聞いた私がバカだった」
ケラケラと笑うサッカー野郎。これで女子人気は高いので世界はわからない。
「告白じゃね?」
真面目くさった顔で言う柏原に、私は心底呆れた顔をして返した。
「流石に早すぎるだろ、いくら何でも」
「告白されるという可能性は否定しないんだな」
「そういう意味ではない……とは完全に言い切れないが」
コイツはこいつで恋愛脳なのが玉に瑕。なお、一年の早々に同級生に告って玉砕した。まぁその対象は色んな人を振っているので別に特別彼に問題があったわけではないのだろうが。
「ま、そのうち会えるだろ。用事があるならもっかい向こうから来るはずだし」
「それもそうか」
その生駒の言葉は、思ったよりも大分早く現実のものとなった。
確かに長い黒髪だ。発育もいい方なのかもしれない。顔も年下ではあるが美人顔だった。友人二人は決して間違った情報を告げていたわけではない。だからと言ってやはり名前は聞いていて欲しかった。
私を探していたという
「ホラ、あれが例の子。出待ちしてるぜ」
「……」
私はその見覚えある容姿に、ため息をこらえられなかった。そう、私は彼女を知っている。名前は知らないが、顔とその技量は。音楽に関連する話を一日の間に二回も持ってこられるとは、厄日なのだろうか。彼女が吹部なのだとしたら、先生の回し者かもしれない。
彼女は目ざとく、この場合は耳ざとく、我々の会話に気付いたらしかった。そして、私がお目当ての人物であるということにも。近づいてくる彼女を尻目に、二人は部活へ向かっていく。薄情者、と言いたかった。
「じゃ、部活行くわ」
「ごゆっくり~」
引き攣る頬を抑えて、一年生の少女に向き合う。
「桜地凛音先輩ですか」
「まぁ、一応は。……とりあえず場所を変えよう。ここで話すのは少し、ね?」
彼女が同意したので、場所を移す。あまり人の来ない校舎裏。ここでならばどんな話でも大丈夫だろう。私はあまりいい話である予感がしなかったが。トランペット奏者がトランペット奏者を訪ねてくる理由はそう多くはないはずだ。興味本位ならば話しかけようとまで思うだろうか。わざわざ出待ちまでして。
「名前、教えてくれる?」
「高坂麗奈です」
「高坂さん、ね。ペットで高坂……。そういえば娘がいるとどこかで……。まぁいい。キミ、北中で吹いてたでしょ。名前は知らなかったけど演奏だけは覚えている」
「見ててくださったんですか!」
クールそうだった顔が途端に赤く染まり、興奮気味に彼女は言った。前のめりという言葉がここまでピッタリ当てはまる事例もそう多くはないんじゃないかと思うほどに。
「いや、君目当てではなくて妹が南中にいてね。だから大会に行ったんだがえらい上手い子がいるなとは思った。あの中学にはもったいないくらいに。そんな奏者がなんだってこんな高校に……。それで、そんな高坂さんが私に何用かな」
「お願いがあって来ました」
「どんな?」
彼女は一瞬だけ迷ったように目を泳がせて、だがすぐに決意し直したようにこちらを見据えた。あまりに真っ直ぐな瞳に少しだけ気圧される。演奏家の目だ、と咄嗟に思った。エゴイストであり、譜面と戦う戦士でもある演奏家の顔だった。この子はきっと大成する。私の勘はそう囁いていた。
そして、彼女はよく通る声で私に告げた。もう一度始まる、運命の転換点となる言葉を。
「私の、先生になってください!」
<パーソナルデータ>
名前:桜地 凛音(さくらじ りんね)
誕生日:7月4日
性別:男
身長:185cm
星座:蟹座
出身地:京都府宇治市
血液型:O型
担当楽器:トランペット。演奏できるのはキーボードやギター、ベース、他の金管
好きな曲:ハトと少年、ワーグナー
私生活:質素。家事や仕事で忙しい。
趣味:読書、音楽系なら何でも、料理研究
得意科目:英語、世界史
苦手科目:古文
特技:トランペット、人の声を覚える、イントロクイズ、ピアノ
好きな物:トマト、トランペット、ドイツのお菓子、百合の花、天使
嫌いな物:ナメクジ、救急車、病院
好きな色:緑と青