4月は間もなく終わりを迎え、5月が迫ろうとしている。もう4月の終わりから熱気が漂い始める京都盆地。夏は来ぬと歌えそうな気候になった今日この頃。その高まりつつある熱気に押されるように、吹奏楽部の熱意も高まっていた。
あの海兵隊の演奏以来、部の空気は変わった。空気がここまでがらりと変わるのを体験したのは久々だ。やってもダメという諦観から、あの成功体験により頑張ればよくなるはずという向上心に変化したのだ。見返りがあれば人は頑張れる。それは演奏の機会である人もいれば、可愛い衣装の人もいる。サンフェスというイベントに参加することをその一つにしている者もいるだろう。それと同じくらい、努力の成果が出るという事実は見返りになるのだ。
誰だって報われた方が良いに決まっている。当たり前のことだが、結果が伴うことは人生においてそう多くない。故に、あの体験は大事なことだったのだろう。尤も、ここまであっさりと空気が変わってしまうと去年を知る者としては思う所が無いわけでは無い。
一年生の楽しそうな顔は嬉しいが、上級生の顔には複雑な思いを抱かざるを得ない。こればっかりはどうしようもないことだろうと自己弁護する。表に出さないように気を付けながらも、私は内心で苦々しく思う感情を嚙み潰していた。決して、外に漏れ出ることが無いように。
「トロンボーン、出だしが気になります。後、テナーサックスはもう少し主張を強くしてください。今のままでは埋もれてしまいます」
「「「はい」」」
「では、もう一度」
的確な先生の指示が飛ぶ。この部活の指導陣は金管が強い。先生の現役時代はトロンボーンだし、私は言わずもがなのトランペット。それを活かした曲を選ぶことになるだろう。
サンライズフェスティバルの曲は既に決定している。イエロー・マジック・オーケストラの二枚目のシングル曲である『ライディーン』だ。名前の由来はアメリカで放送されていたアニメのタイトル。盛り上がる曲なので、マーチングには合っていると思う。先生の選曲だが、中々のセンスだ。
金管畑に生きてきた人間としては、マーチングは結構好きなジャンルに入る。金管と打楽器が目立つのがマーチングだ。元々マーチング自体が軍事用のものであり、士気高揚に使われていたのだから勇壮な曲が多い。好みの音楽ジャンルなので、個人的には少し楽しいのだ。
というより、こういう事に楽しみを見出していないとやってられない。序盤はシンバルから始まるが、その後はすぐ一気にトランペットなどが入る。そのため、練習はより念入りになる。奏者組は演奏と歩調の両方が要求されるので一層大変だ。
「何かありますか」
「チューバ、少し遅いです。トランペットは……良い感じですね。ホルンはもう少し丁寧に。一音一音の出し方に注意しましょう。座奏でこれだと、足を動かしたときに崩れてしまうかもしれないので」
「「「はい!」」」
吹奏楽部では返事は大きくしないといけない。体育会系と言われることもあるのは、これが所以だろう。後輩である一年生は良いとしても、二三年生は同輩・後輩である私に対してこうして大きな声で返事をするのは決して心地の良いことではないはずだ。今は取り敢えずそれよりも意識を向けることがあるのであまり気にしている人がいないのが幸いだ。
それに、返事をしてくれるだけ大分マシになった。海兵隊の全体練習時は不貞腐れた返事があったり、そもそもしてくれない時もあった。イラっとすることもあったが、我慢して耐えてきた効果が出ているのかもしれない。
「よし、座奏でのレベルは十分です。休憩したら、今度はその場で足踏みしながらやります。大事なのは座りながらより意識を足に取られるので、その違いをしっかり理解することですね。去年までは適当でもよかったですが、今年はそうはいかないので」
では休憩。そう言って私が手を叩くと、トランペットパートが休憩モードに入る。この時間は意外と大事だ。休憩することも勿論、それ以外に人間関係が把握できる。一番最初に話しかけに行く相手。それはかなり仲が良い証拠である。まぁもっとも、いの一番に中世古先輩に話しかけに行く吉川は参考にできない。
「ふいぃ……」
気の抜けた声が響く。試合に敗れたボクサーのようになりながら椅子に座っているのは吹奏楽部の数少ない男子部員である滝野純一。トランペットパートの同期でもある。モテたい願望が強い彼であるが、腕自体は悪くない。別に顔も悪いという訳ではないので、問題は押しつけがましさのある気配りだろう。女子相手だと特にそうなるので、恐らく下心が問題なのかもしれない。
「男子が先にへばってどうする」
「そうは言ってもよ~」
「あれを見て見ろ。1年生はまだまだ元気だぞ」
「うっ……それを言われると……」
視線の先には高坂さんに話しかけている吉沢さんの姿。疲れていないということはないだろうけれど、どちらもまだ体力にも精神力にも余裕はありそうだ。吉沢さんは楽譜を出しながら質問している。私がそうするように言ったので、その通りに実行してくれているようだ。どの道同期なのだし、交流はあるに越したことはない。
質問内容とその返答の仕方もしっかり聞き耳を立てている。高坂さんが間違ったことを言うとは思わないが、伝え方に問題がある可能性は存在する。なので油断はできない。滝野と話しつつ、意識はしているのだ。
「先輩なんだし、ミスも減らしていこうな」
「この老人がいう事聞かないからなぁ」
「楽器じゃなくて自分の実力の問題だろ、今は。楽器のせいにしない。楽器は自分を映す鏡だ。実力も、何もかも反射する」
「おんぼろなのは事実だぜ」
「まぁしょうがない。他の楽器も大分ガタが来てるしな……」
この部活の楽器は昔買ったものが多い。今では大分古くなっている。買い替えようにも、先立つ物も無い。結果を出せば予算も増えるだろうし、或いは寄付という手も使えるかもしれない。しかし今はまだ捕らぬ狸の皮算用。
「どこも世知辛い……」
「そういやお前、バイトは?」
「今月半ばで辞めた」
「あー、そうなるよなぁ。あそこの店長も可哀想に。口コミで外人対応が凄い良いって書かれてたのに、肝心の英語出来る上に夜はいつもいる店員が辞めたんじゃ、商売あがったりだろ」
「実際泣きつかれた」
「だろうな」
滝野は苦笑しながら椅子を揺らす。彼と私の関係は普通に友人と言ってもいいだろう。辞めた後、ほとんど部活の関係者と話すことは無かった。しかし男子のつながりは一応残っていたため、それなりに交流はあった。特に滝野は交流が広いタイプなので、他の部活の男子と混じることもしばしば。そのため、なんだかんだ一番近しい人間の一人と言えるかもしれない。吹部男子の仲は悪くないのだ。それこそ、田邉先輩や野口先輩のような上級生組とですら。
「彼女出来たか?」
「いたら戻ってこない。こんな部活三昧じゃ、吹奏楽と私とどっちが大事なの、とか言われる」
「はは、言えてる。そう言われたらどっちって答えるんだ?」
「音楽」
「即答かよ」
「と言うか、それも分からず私と付き合ってる方が変ではある。ま、今はトランペットが恋人だ」
「またまた、そんな事言っておいて、俺はお前の趣味知ってるんだからな」
「それ以上言うと、練習量を倍にするぞ。連帯で」
「おま、ちょ、それはダメだろ」
焦った顔は面白い。昔から彼は適度に良い反応を返してくれる。付き合いやすい相手であることに間違いない。この気安さは、清涼剤になっている気がする。
「それはそうと、サンフェス終わりに男子会やるってさ。千円先輩がお前も来るかって。どうよ」
「またいつものカラオケ?」
「そうそう。お前来ないと盛り上がらないんだよなぁ」
「分かった。行くって言っておいてくれ」
「りょーかい」
なんだかんだ仲良くしてくれるのはありがたいのだ。居場所を作るという目的の為に吉川を説得し、中世古先輩と笠野先輩の優しさのおかげでトランペットパートに存在できているのが現状だ。何かあるときはここと行動を共にすればいいし、先輩同輩もそれでいいと言ってくれている。これと同じように、数こそ少ない上に力も弱いけれど男子組もそこそこの居場所になっている。
パーリー会議では色々言ったけれど、普通に付き合っている分には野口先輩も良い人だ。田邉先輩も同様。他にもクラリネットの臼井先輩もいるが、彼も大人しく優しい人である。
「先輩、カラオケとか行くんですか?」
高坂さんへの質問が終わったらしい吉沢さんが小首を傾げながら尋ねてくる。普通ならばあざといと言われてしまいそうな仕草だが、雰囲気のなせる技なのかなんとなくみんな普通の事であるように捉えていた。同性相手にも容赦ない吉川が何も言わないということは中々珍しいので、個人的にはスゴイもんだと思っている。
「そりゃ誘われたら行くよ。今月ちょっと財布が厳しいけど……まぁ多少なら何とかなるし」
「へぇ~、ずっと練習ばっかりだと思ってました」
「まぁ、そういう日もあるけどさ。色んな経験してこそ、音楽にも深みが出る」
この前パーカスの井上さんに言われたことを思い出す。人間らしいところを初めてみたと言われ、ちょとショックだった。そういう意味では私も高坂さんのことをとやかくは言えない。尊敬されることは上下関係を生み、それは教える上では大事なことだ。だがそれが怖がられることに繋がっては意味が無い。怖い相手に質問などはしづらいはずだ。そうなれば、実力向上に繋がらない可能性が生まれる。
「コイツ、凄い上手いから。一回行けば分かるぜ」
「そうなんですか。じゃあ、今度一緒に行きませんか?」
「二人で?」
「それでもいいですよ」
冗談で言ったのに真顔で返されると反応に困る。吉沢さんは意外と男子との距離が近いのかもしれない。男兄弟でもいるのだろうか。
「まぁそれは冗談として……トランペットパートで?」
「そこは先輩のお好きなメンバーでOKです」
「それが大事だと思うんだけどね。面子で色々変わるし」
「確かにそれもそうですね……。高坂さんも、来る?」
楽譜に書き込みをしていた高坂さんに向かって、彼女は呼び掛けた。仲良くなろうと試行錯誤してくれているのだろう。ありがたいことだ。実際それがいい結果を生むと思っているので、この調子で頑張って欲しい。ハリネズミとまでは言わないけれど、高坂さんがとっつきやすい人でないのは事実だと思う。悪い子じゃないし、付き合いが悪いわけでもないけれど、こちらからアクションを起こした方が巻き込みやすいのも本当だ。
「……吉沢さんがそれで良ければ」
「じゃあ、また連絡するね」
「分かった」
言葉は少ないけれど、話をしようという意思は感じる。ヨシッ!と心の中で軽くガッツポーズ。全く喋ってなかった最初の頃に比べたら大きな成長だ。自分の思惑が取り敢えずこの部の一年生の人間関係においてはいい影響を及ぼしていることが分かっただけでも嬉しい。
「先輩たちも来てください~」
「いいよ」
「私も行く」
加部と吉川はすぐ頷いた。後輩と交流することは大事だと彼女たちも知っている。高坂さんは二年生、特に吉川と決して仲が良いわけじゃない。お互いに気の強いところがあるので、ぶつかることもあるだろう。上級生との軋轢に屈するような高坂さんではないと思うけれど、無駄な諍いは無いに越したことはない。中世古先輩もそう思っているだろうし、相手の人となりを多少なりとも知っておくことは大事だ。いざという時に、相手への配慮を生みやすくなる。
まったく知らない存在というのは、攻撃しやすい。何故なら、何らかの攻撃をする際にためらいが無くなるからだ。知っている存在ならば多少は躊躇する。特に吉川は何だかんだ優しい人間である。それは私もよく知るところだ。それが暴走すると変な方向に突っ走りかねない怖さがあるけれど、それでも悪人ではない。
「香織はどうする?」
「私たちも行こうよ。折角だし」
三年生二人組も頷いてくれる。
「やったー! 香織先輩マジ
恍惚とした表情を浮かべている吉川。軽く宗教の域に入っている。路上でこの顔をしたら、警察官が来かねない。具体的には変なお薬をやっていないかどうかの質問で。
「あの……それ、俺も行っていい、んだよな?」
「えぇ……好きにすれば?」
急転直下な吉川の態度に滝野が軽く涙している。とは言え、断っているわけじゃない。吉川は本当に嫌なときはそう言う人間なので、間接的なOKのサインである。滝野と吉川が何か舌戦をすると大体滝野が負けている。そして自爆したりしている滝野を眺めながら加部が笑っていて、三年生二人は見守っていることが多い。吉沢さんは所々で面白いツッコミを入れていくことがしばしば。
決して楽な仕事ではない今の状態だけれど、ここにいる間は色々忘れられて助かる。だから、このパートの中にすら微かに漂っている不穏な空気、高坂さんと中世古先輩のどちらが上なのかという問題は見ない事にした。この前は考えなくてもよかったそれが、海兵隊の関門を超えたことで現実に近づきつつある。
黙っているとそう言う考えばかりに支配されてしまいそうなので、頭の中から振り払った。そして中々集団の会話には参加しないことが多い高坂さんに話しかける。
「高坂さんは今更だけど、マイ楽器だよね?」
「はい」
「何か、名前とか付けてる?」
「名前、ですか?」
「いるでしょ、自分の楽器に名前を付ける人」
「私は特には……」
「そっか」
「何か、名前をお付けになってるんですか?」
「まぁね。楽器は自分の武器であり、十年以上を共にした戦友だ。だから名前を付けてる。今は持ってきてないけど、ヴィクトリカっていう子だ。君と同じ、金色のトランペットだよ」
名前の由来は昔読んだ推理小説の探偵役から取っている。響きが気に入って名付けた。ヴィクトリーにも通じるし、個人的にはかなり良い名前だと思っている。ちょっと中二病っぽいかもしれないけれど。
「女性名なんですね」
「元々母親の物だったからね。受け継ぐ前の名前がエリザベスだったから、その名残で」
「お母さんの……」
「元吹部だったんだよ。しかも部長までやってたらしい。全国も行ったし金も取った。そりゃ清良だからそれくらいの実績はあるだろうけど。おかげで私も留学できたわけだし……感謝してる」
「お会いしたかったです」
「……そうだね。私も、今こうして部活運営に携わると、相談したいことが多い」
遠くを見ながら呟くように言う。最後の言葉は漏れ出た本心だった。あの大所帯を統率していたのだ。その手腕は気になるところが大きい。今の私に、一体どんなアドバイスをするのだろうか。やり方がよろしくないと怒られそうでもある。それならそれで構わないけれど。
「私が楽器に名前を付けてるのは意外だった?」
「それは……はい、それなりに」
「そうか。あそこで話してる面々も、そんな風に意外な一面があったりする。例えば吉川は神経衰弱が上手い」
「そうなんですか?」
「私は15戦挑んで15敗だ。鬼のように強い。今度暇な時に挑んでみるといいさ。負けず嫌いだから勝負には乗って来るから」
私も苦手なつもりは無いのだけれど、ホントに異常なくらい強い。今まで負けたことが無いらしい。大会があったら出禁になるくらいには強いと思う。
「人は単純な一面だけじゃないからね。そういう色んな面が重なり合って、一人の人になって、そういう要素があるからこそ、色んな音を奏でられる。合奏が大事な吹部は特に人となりも大事だ。人が変わるだけで、演奏の色は変わる。同じ曲でもね。だから相手の色んな側面を知ることが、上手くなるのにも役立つと思うんだよ」
私の言葉に返事は無い。けれど何も感じなかったわけでは無いようだ。それは目を見ていれば分かる。彼女は上手い。だからこそ、それ以外の部分にも気を配ったり、意識できるようになればもっと上に行ける。それは単に上手いだけの奏者ではなく、他者から評価されやすい奏者になる事でもある。そういう積み重ねが、将来の彼女の役にきっと立つはずだと、私は信じていた。
「先生。今回は致し方ないにしても、来年以降はもっと早くに行動しましょう」
職員室で私は少々語気を強めに言った。今回のサンフェス申請はかなりギリギリになっている。最悪の事態も想定していたので、そうならずに済んだのは幸いだった。しかしだからと言って早めに申請しておくのに越したことはない。
「普通は期限ギリギリに出さないものです。大体出場校は固定なんですから」
「面目ないです」
「後、行くならバスの手配をしないといけませんけど、大丈夫ですよね?」
「はい、それは一応。松本先生にやって頂きましたので」
「それは何よりです」
先生が顧問を行うのはこれが初めてと聞いている。去年までとは動きも大分変ってくるだろう。なにせ、全国行きを目指すのに全く同じでいいはずがない。
「まぁ今回は良いですけど、各種手続きはお早めにした方が良いと思いますよ。特にホールや宿所は。するんですよね、ホールでの練習」
「はい。府大会の前に一度貸し切っての演奏を考えています」
「府大会前は皆考えることは同じです。早めに抑えておかないと、取られますよ。合宿とかをするならその宿所の手配もしないといけませんし」
「合宿……。なるほど、夏休みの話ですか」
「そうです。早いに越したことはありません。一応よさそうな施設は幾つかピックアップしておきましたので、参考までに」
先生にプリントを渡す。先生が京都出身なのかどうかもよく分からないので、取り敢えず用意はしておいた。現在は府大会すらまだの状況だが、準備しておいて損はない。それに、真面目に練習を重ねるなら取り敢えず関西までは行けると思っている。
府大会の状況は毎年ある程度固定化している。府大会に限らず、吹奏楽部の大会は強豪校が固定化しがちであり、それが批判材料になっているということもしばしば耳にする。我らが京都府大会では毎年立華高校と洛秋高校が関西に進んでいる。どちらも私立の名門校。特に前者はマーチングでその名を世界に轟かせる超強豪だ。当然演奏も上手い。だが三校が関西に行ける内、残りの一校は毎年コロコロ変わっている。
つまりだ。その一校の枠に入り込んでしまえばいい。序盤の難関であった空気作成に成功した以上、後は我々指導陣でどこまで実力を高められるかにかかっている。成功できれば、残りの一枠に入るのは凄く難しいというほどではないだろう。その先の保障は出来ないが、関西までは割と何とかなるはずだと思っている所はある。
ゆえに夏休みをどう過ごすかも重要であり、その一環として合宿の提案を行ったのだ。
「まぁ、まずは目の前のサンフェスですが。出場校のプログラムはもう来てると思いますけど、どうですか?」
「はい。このような感じになりました」
先生がパソコンの画面を見せてくるので、文面に目を通す。
「なるほど……立華、北宇治、洛秋と」
「はい。図らずも強豪校に挟まれる形になりました。恐らくは、繋ぎ役或いは箸休めに使われたと言ったところでしょうか」
「そうでしょうね。ですが僥倖です」
「と、言うと?」
「倒すべき相手の実力を測るにはいい機会です。関西大会に進出する場合、恐らく立華・洛秋・北宇治となります。前二校はどうせ去年もそれ以前も出てますし、変わらないでしょう。なので府大会までは気にすることもありません。ですが、もし全国に行くなら話は変わります。どちらも全国には行っていない」
「つまり、全国大会に行く上では最低でも立華や洛秋を上回る演奏をしないといけない。そのために、実力を測ると」
「えぇ。それに、意識を作ることも出来ます。アレより上手くならなくては全国など行けないぞ、というね。成功体験で自信を付けたなら、次はライバルとの距離を知る時間です。そして再度働きかけて奮起させる。この山と谷が交互に来る状態が実力を上げるためには有効と思いますので。ですから今回の並び順はむしろ幸いですらあるのです」
先生は納得したように何回か頷いた。この代で全国に行くのは厳しくても、来年再来年と挑んでいく間には絶対に超えないといけない相手だ。立華に関してはマーチングは無理でも座奏では絶対に上に行かないといけない。音楽の本質は勝ち負けなどないが、そんな理想論で飯は食えない。
「そのためには、やはり一度外で練習したいところです」
スケジュールの書かれたカレンダーを眺めながら先生は言う。確かに、音楽室では限界がある。
「じゃあ、私がグラウンドを貸し切りましょうか?」
「出来るのですか?」
「えぇまぁ。サッカー部の顧問は私の担任ですし、野球部の顧問は私の担任の後輩なので。お願いしてみます。後で先生からもお願いしてくださいね」
「分かりました」
「後、今日の報告と、明日以降の練習に関する諸々です。目を通しておいてください。グラウンドを貸切れた日で衣装合わせも行ってしまいましょう。間もなく到着するはずなので」
伝達事項を伝えて、私は職員室を後にする。あの海兵隊の演奏以来ずっと考えていた。先生の方針はこれで正しいのかと。疑問を持ちながらも追随することしかできない。目的が同じであり、かつやり方が効率的な以上、口を挟むのは難しい。
本来は効率的だという要素だけで考えてはいけないのだが、全国に行くという最難関の課題を前にしてはつべこべ言っている余裕もない。故に感情を捻じ曲げてでも納得するしかないのだ。結局、これは私の主義主張と折り合いを付けられるのかという。私個人の問題であるのだから。
職員室を出てグラウンドへ行く。サッカー部の練習は既に終わり、片付けの態勢に入っている。段々遅くなっていく日没だが、今はまだ暦の上では春。温度に反して太陽の沈むのは早い。沈んだ夕陽の紫色の残滓が、遠くの空の端に輝いている。サッカー部の友人を探したが、どこかで片付けているか着替えているのだろう。姿は無かった。
「鈴本先生」
「おぉ、桜地か。どうした、珍しい。ついにサッカー部の勧誘を受ける気になってくれたか?」
「残念ですが、それはまたの機会に……」
私の担任は去年と同じだ。恐らく来年も同じの可能性がある。担当教科はこう見えても英語。私からすれば半分くらい船を漕いでいるので、申し訳ないところはある。30代半ばの中堅教師という見た目をしている。
「吹奏楽部の件でお願いがあるのですが……今お時間よろしいですか?」
「部活は丁度終わったし、大丈夫だぞ」
「ありがとうございます。サンライズフェスティバルが近いので、一度マーチングの練習を外でしたいのですが……どこか近日中にグラウンドを貸し切れる日は無いでしょうか」
「そうだな……5月の3日の日曜日なら何とかなりそうだ。その日は俺が出張でいないから自主練にする予定だったし、サッカー部は休みで構わない。野球部の高木先生も同じ出張だし、俺から言っておく」
「すみません、お手数おかけします」
爽やかに言ってくれる担任に、頭を下げる。これで日程は確保できた。後は先生からも頼んでもらえば問題ないだろう。滝先生が同僚とどういう関係を築いているのかは不明だが、全国行きを掲げている風変わりな人と思われているのはなんとなく察していた。私との関係性もよく思っていない先生も多いだろう。一応私は優等生枠になっているので、私から頼んだ方が頷いてくれる先生が多いと思う。
「今年の部活は順調みたいだな。それに頑張ってる。正直去年までのだらけている姿はどうかと思っていたからな。去年はグラウンドを使うっていう話も無かったし、それだけでも大きく進歩してるんだろう」
「はい。おかげさまで何とか……」
「困ったことがあればいつでも言ってくれ。ついでに、サッカー部の大会応援もして欲しいところだ」
「府大会の決勝に行ったら行きますよ」
「それは頑張らないとな!」
ハハハと笑って私の肩を叩き、職員室へ戻っていく。割と気のいい人で助かっている。私の事情にも多少なりとも理解を示してくれている。何かして欲しいとは思っていない。ただ無知でいられるのも困る。今の距離感が程々丁度良く、そのスタイルがそれなりの人気を確保している理由なのかもしれない。
尤も、没交渉の人と同じクラスにするのだけは勘弁してほしかったが。ともかく、これで日程の確保は出来た。後はそれを先生に伝えて、その後部長たちに報告すれば、下の部員には自動的に下達される。これで当面はどうにかなるだろう。
マーチングで立華を上回るのは無理だ。とは言え、引けを取らないと自分で思えるような演奏技術を披露することができれば、府大会への弾みになる事だろう。そうなれば、指導する側としては幾分も楽だ。前途多難ではあるが、五里霧中という訳でもないし暗中模索という訳でもない。その分だけ、幾分かマシだろうと思うことにした。