音を愛す君へ   作:tanuu

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第九十三音 鎧塚みぞれ

 機械のような正確な音色が細い指先でさばかれた楽器から奏でられる。みぞれは間違いなく優秀な奏者であり、彼女がいなければ我々もこの曲を選ばなかっただろう。超絶技巧と言っても差し支えない演奏は確かに超高校級だった。彼女より上の奏者を何人も知っているとはいえ、年齢は皆彼女より上であった。卯田百合子の楽曲の中で最高難易度を誇るこのソロをこなせる時点で文句なしのはずだった。けれど、確かに物足りない。それは心理的なものなのだろうとは、とっくの昔に見当がついていた。そしてそこは我らがコンダクターの苦手とする範囲である事も。

 

 フルートは大分良くなっている。元々正確性はある上に感情的に吹くことも苦ではない希美はしっかり表現が出来ている。昨日の今日ではあるが地獄の訓練も成果が見えてきている。これまでの練習が土台となっていたため、より上級の練習でもしっかり吸収出来ていた。今までの彼女の努力の成果だろう。とは言え、まだ足りないところも散見される。それは今晩。そして今後だ。あと半月をとうに切った本番までの日数の中で、締め切り前の作家のようになっていた。

 

 演奏がかみ合わない。元々参考音源を切り抜いたような吹き方の多いみぞれは、そうではない希美とはそこまでかっちりとは組み合わない。これを組み合わせるにはみぞれが感情を込めるか、希美が機械になるかのどちらかだ。それ以外の解決策はあり得ない。異質さの際立つ演奏は、耳を持っている人が聞けばちぐはぐなものに感じてしまう。それこそ水と油が同じビーカーに入っているように。この状況を打破するには、希美が積極的に動いてくれれば楽なのだけれど、そんな余裕はなさそうだ。

 

「う~ん、何と言うか……前から聞かせてもらってて思ったんだけど……これ……オーボエとフルートの掛け合いのとこ、これ、大丈夫?」

 

 シャツの袖をまくりながら橋本先生は唸っている。ボタニカル柄の半ズボンは南国のような出で立ちでそれに付随するビーチサンダルのデザインは、昨日も思ったけれど明らかにホールに似つかわしくなかった。

 

「オーボエの子、今年もキミがソロなんだなぁ」

 

 みぞれは頭を軽く下げる。多分、挨拶のつもりだろう。

 

「これ、去年も言ったような気がするんだけど、演奏自体は悪くない。むしろ、このレベルの曲を吹けてるってのはもうめちゃくちゃ評価したくなる。いやぁ、高校生にしては凄いよ。ホントに。でもボクは『高校生にしては』って言いたくない。君ならもっと行けるんじゃないかって。少なくともボクにはそう見えるけど」

 

 ちら、と彼は背後を見る。けれど、そこに立っている新山先生の顔は優し気な、しかし含みのある笑顔をするだけで何も言わなかった。あの人の考えは今一つ読めない。みぞれに肩入れしているのは知っているが、それ以外に彼女の目的が読めない。何故、ここで何も言わないのか。間違いなく、木管担当の彼女の出番だと言うのに。橋本先生はガシガシと自分の頭を掻きまわす。

 

「この曲はさ、めちゃくちゃ物語性のある曲なのは分かると思う。去年よりもぶっちゃけ分かりやすいはず。君はここのソロ、何を思って吹いてる? このオーボエは何を表現してると思う?」

「……リズの、心」

 

 吐息に混じる彼女の声はかすれている。問うた相手は想定通りの答えに満足したようだった。同じ問いを前にもした気がする。

 

「物語をどう解釈してどう演奏していくか。それを考えずして、ここの演奏は始まらないとボクは思うけどなぁ。それはもう、桜地クンから散々言われてるんじゃないの? どういう風に吹くのか、どういう風に繋げるのか。今回の編曲は第四楽章をメインにしてる。世間の声とは違う、大胆な構成だよ。けど第三楽章が無いと第四楽章に繋げられない。そこを意識しないと」

「……はい」

 

 目を伏せ、彼女は頷く。十本の指が縋るように楽器を握りしめている。橋本先生は肩をすくめると、一度だけこちらをチラリと見て、その後振り返るようにして希美を見る。

 

「フルートの子は堂々と吹いてる感じだね。そういう生き生きとした演奏、ボクは結構好き。なんなら昨日より良くなってる? 何かあった?」

「少し、練習しました」

「なるほど。ただ、オーボエに合わせられてないところがある気もする。オーボエが合わせてないのか、フルートが合わせてないのか、それは人によって解釈別れるだろうけど……。ボクは感情出してる方が良いと思うね。この場面で冷静になれる訳無いし。感情のぶつけあいを経て、第四楽章に繋がる方が編曲者の理想には合ってるだろうから。取り敢えずもう少し二人で見つめなおして欲しい」

「はい」

 

 希美の声は明快だけれど、その反応を見ても唸り声は止まない。

 

「なんかボクばっかりベラベラ喋っちゃったわ」

「それはいつもの事じゃないですか」

「いやいや、こう見えてボク、優秀な男だから。どれくらい喋ろうかとかちゃんと考えてんの……それで、滝クンからは何かないの」

「そうですね。ほとんどの事は橋本先生からおっしゃっていただいたので追加はありません。新山先生は何かありますか」

 

 一歩前に歩み出た彼女は両手を重ねて淑やかな仕草で楽器を持った二人を見た。そうね、とその口が開かれる。

 

「橋本先生は心配しているけれど、私は二人ならきっと何とかなると思っているの。どちらの演奏も高校生とは思えないほど素晴らしいもの。でもね……でも、」

 

 これは個人的な感想だけれど、と遠慮がちに続けた。

 

「去年橋本先生が仰ったでしょ? 音楽は楽しむものだって。勿論、陽気に吹けって意味じゃないのよ。ただなんか二人とも噛み合わなくて、少しすれ違っている感じがしたから、そこが少し気になって。折角の合宿だもの、二人とも曲のアプローチについてもう少し考えてもいいかもしれないわね。特に鎧塚さん。いつも冷静なところが貴方の強味ではあるけれど、橋本先生の仰るようにこの曲を吹く上ではもう少し感情的になっても良いんじゃないかしら。だって、リズも少女もきっとこの場面では冷静ではいられないでしょうから」

「……分かりました」

 

 みぞれは伏せ気味な目線のまま言う。希美もそれに続いてはい、と返事をした。希美にも問題は多くある。完璧はあり得ない。それに気付かないほどのレベルの指導者じゃないはずだ。ではなぜ、指摘しないのか。

 

 ふと、ある考えが浮かんだ。みぞれは競争相手がいない。入部して以来ずっとオーボエだ。そのまま、一年の頃も、大会に出ていた。他に奏者がいないから。二年生の時も。そして今年は後輩が出来たが、そのレベルは申し訳ないけれどみぞれには届かない。

 

 競う相手が、己の位置を脅かす存在が、有体に言えばライバル不在だった。音大は他人よりも上手くなるための空間だ。誰かと競ったり、追い落としたことの無い人に、そこで過ごすのは厳しいものもあるだろう。だから、敢えて新山先生は希美を使っているのではないだろうか。希美を踏み台にして、みぞれのレベルを上げるために。

 

 そんなまさかと思ったが、この勝手な想像に思考が囚われる。あの柔和な笑みも、素直に受け止められなかった。みぞれのレベルアップに、間違いなくそれは有効な手段の一つだったから。

 

「何かありますか?」

「……」

「桜地君?」

「すみません、失礼しました」

 

 考え込むあまり、先生の問いかけに一度気付かなかった。

 

「オーボエが込めるべき感情、そしてリズの感情の解釈は既にお伝えしました。それを後は自分のモノにするだけであると思います。もし一つ何か言うことがあるとすれば……」

 

 踏み込んで良いモノか、それを迷う。みぞれの演奏が上手く行かない原因は、自分と希美の関係性を曲の内容と照らし合わせてしまっているから。現実の問題は音楽のようにはいかない。意識をするのは別に構わないけれど、みぞれはそれを超えて曲に囚われてしまっている。だから希美の少しずつしている変化にも、気付けないでいるのだろう。要するに、どっちも対話不足なのだ。

 

「曲の中のストーリーを、現実に照らし合わせすぎないように」

「……はい」

 

 私は言葉に少し逡巡した後、みぞれは小さく返事をした。その目の中には、確かな迷いが存在している。橋本先生は難しそうな顔をしている。私が妥協していないのは理解しているだろう。でも現状は理想通りじゃない。だから難しい顔なのだ。新山先生は何を考えているのか。その表情から、真意は読み取れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「食べる?」

 

 私の差し出した皿を希美は一瞬戸惑ってから受け取った。皿には不格好に割られた西瓜。今日も今日とて練習室には二人しかいない。冷房のある程度効いた部屋で食べるにはやや不似合いの食べ物かもしれなかった。

 

「行っても良かったんだよ? 合宿係だったんだし。折角準備したのに、食べれないのは悲しいと思うけど」

「いいの、私のやるべきことはこっちだから。遊んでる場合じゃなかったし」

 

 外では他の部員が西瓜割りに興じている。せめてもの娯楽という事で、行われていた。去年は花火だったことをぼんやりと思い出す。希美はそれの参加を辞退し、こうして練習する道を選んだ。練習に疲れたのか、既に睡眠に入ったみぞれも不参加だった。

 

「じゃ、始めるか」

 

 そんなに量も無かったので、すぐに食べ終わりお手拭きで手を拭いている彼女に告げる。その練習は昨日よりも過酷だった。自分で言うのもなんだが超細かいところまで口を出している。何度もミスするところ、何回繰り返しても足りないところは重点的に。音の出し方、吹き方。抑揚に息の量。コンマ単位の間隔。そしてバランス。感情のこめ方。出来るをより出来るに。より出来るをもっと出来るに。もっと出来るを滅茶苦茶出来るにする練習は深夜まで続いた。ソロの部分だけでなく、それ以外も、より洗練されたものになるように。今朝になって送られて来た友人からの大量のフィードバックも反映されている。

 

 砂漠が水を吸うように、と言っては過剰かもしれないが贔屓目に見ずとも彼女はよくやっている。そのレベルも超高校生級に近付いている。少しずつ、けれど着実に。追いつくのは流石に不可能でも、去年の関西大会前に見せた本気モードのみぞれの演奏と比べても見劣りはしないだろう。オーボエの方が上手いとはなるはずだが、フルートも悪くないと言われるくらいにはなっているはずだ。もし、みぞれが完璧に第三楽章を理解し、ものにして演奏したとしても彼女の作りだす世界についていけるはずだ。演奏が止まったり、ミスをする可能性は薄い。むしろ、二人で世界を構築できる。

 

 そろそろ終わりにするかと思った時、おもむろに希美は口を開いた。

 

「私、みぞれとしっかり話してみるよ」

 

 その言葉の意味を噛み砕くのに少し時を要した。

 

「何について?」

「ここのソロについてとか、それ以外にも色々。多分、私たちはしっかり話さないといけないんだと思う。これまでのこと、今のこと、これからのこと」

「それは、これまで私に話してくれたような事?」

「うん、まぁ大体ね。流石に言葉は選ぶけど……」

「対等で居たいんでしょ? 音楽の面はしばらく時間がかかるとしても、友人関係としては」

「それはそうだけど」

「なら言葉を選ばない方が良い。自分の気持ちに正直にさらけ出して来るべきだと思う。自分を見せて、その上で相手を見ないと。少なくとも、去年のみぞれは自分を希美に見せていたし」

「……」

「嫉妬しているなら素直にそう言えばいい。それだけじゃない事は昨日言ってくれたでしょ。嫉妬もして、悔しいとも思ってるけど、それでもいつか追いつきたいから先に飛び立ってくれって。必ず追いつくからと思ってるって」

「自分で改めて聞くと恥ずかしいかも……」

「私に言えたんだから、きっと彼女にも言える。真摯な言葉はきっと届くよ。何なら殴り合ってきな。それくらいが、二人にはちょうどいい。間違えられるのも青春時代の特権だと思うし。ほら、去年井上とやったみたいに」

 

 私の言葉に何を考えたのか分からないけれど、彼女はしばらく考えた後にゆっくりと言う。

 

「分かった。全部ぶつけてくる。だから……終わったらまた話させて」

「ああ、勿論」

 

 それ以外に、私が答えるべき言葉を持っているはずがなかった。練習は深夜まで続き、そして終了を迎える。疲労困憊という顔の希美だけれど、顔色は悪くない。指針が見つかって、やるべきことも見つかって、真っ直ぐに進んでいこうという決意を感じさせていた。

 

 お休み、と彼女を部屋に帰してから目を抑える。希美の方の目途はついた。問題はみぞれの方。あっちをどうにかしないと、全体の改善には繋がらない。希美だけ出来てもしょうがないのだ。去年は、結局みぞれと話す前に事態が大きく動いたために話さずじまいだった。今回はそういう訳にもいかないかもしれない。

 

 希美がいきなり行ってもいいけれど、それでは少し早急に過ぎる可能性もある。それに、個人的に少し話したいという想いも存在していた。疲労感からくるため息を零していると、扉が叩かれた。

 

「はい、どうぞ……」

 

 こんな夜中に誰だろうと思いながら返事をすると、開け放たれた扉の向こうには、今できればあまり会いたくない人が立っている。

 

「こんな夜半にどうされましたか、新山先生」

「少しお話したいと思ったの。時間、いいかしら」

「えぇ、まぁ、一応は」

 

 あくまでも声や表情に感情を見せないように。取り繕った態度のまま彼女を迎え入れた。この人が何の用事で来たのか。その大体の察しはついている。みぞれがイマイチ不調の中なのだから、みぞれ関連の何事かであろうことは容易に推察できる。

 

「ごめんなさい、夜遅くに」

「いえ、全然構いません。普段もこれくらいまで起きておりますので。それで……みぞれの件ですか?」

「それもあるのだけど、もう一つあって。桜地さんのことで」

「涼音の?」

「彼女は素晴らしい才能を持っているわ。確かに少し演奏が固いのと、理論的すぎるきらいはあるけれど、それも立派な演奏者の個性。これから練習していけば、徐々に感情も乗って来るでしょうし、いずれ大きな武器になるでしょう」

「そうですか。妹がお褒めに預かり光栄ですね」

「それでなのだけど、桜地さんは音大に興味があったりはしないのかしら」

「あぁ、無いと思いますよ」

 

 私のあっさりした声に、新山先生は少し驚いた顔をした。こんなにスッパリと否定されるとは思っていなかったのだろう。ウチの妹に才能があるのは事実だと思う。ただし、才能のある子が必ずしも音楽の道に進みたいと思っているとは限らない。

 

「ウチの妹は理系ですので。行くなら医学部かIT系と言ってました」

「そうなのね……。もし気が変わったらいつでも伝えて頂戴。いくらでも紹介するから。もしかしたら、お兄さんと同じで海外志向かもしれないけれど」

「えぇ。その際はお願いします。しかし……先生はどうしてそこまで?」

「同じ音楽をやっていると、次の世代で活躍してくれそうな奏者の子にはついつい目を向けてしまうのよ。桜地君も、高坂さんに似たような感情を抱いてるのでしょう?」

「それはまぁ、そうですが。けれど私は、全員分妥協しないでレベルを上げたいとも思っています」

 

 妥協してはいけない。去年、橋本先生から言われたことは私の中に深く根付いていた。指導者である以上、妥協してはいけないのだ。相手の才能や能力がどの程度だから、この辺で良いだろう。そういう指導ではいけないはずだ。私は教えられたことを、そう解釈している。高坂さんは自分から申し出てきた。それは自主性によるもので、尊重するべきだろう。全員分妥協しない事と矛盾はしないはずだ。

 

「それは……傘木さんのことかしら」

「えぇ、ハッキリと言えば。みぞれは確かに、新山先生のおかげで新しい進路を得ました。そして、実力向上もしています。それは日々見ている身として実感しています。ただ、あのソロ、第三楽章は確かにオーボエがメインですけれどそれでもフルートだって大事なピースのはずです。だというのに、先生はフルートを放置して、オーボエにばかり注意を向けている。それは、希美の限界がもう来ていると、そう決めつけてはいませんか」

 

 私の声はきっと冷たいのだろう。夜中の室内で、蛍光灯に照らされながら私たちは向き合っていた。私は淡々とした声と顔で。相手はこの期に及んでも特段感情を見せることは無かった。

 

「そんなことは無いけれど、もしそう見えてしまったなら傘木さんには謝らないといけないわね」

「……」

「傘木さんのことは、私より桜地君の方が良く知っていると思っていたの。毎日練習を見ているのは桜地さんから聞いていたから。良く知っている人が教えた方が効率が良いと思って、こちらで勝手に傘木さんは桜地君、鎧塚さんは私と担当分けをしてしまった。しっかり伝えるべきだったと、今聞いて思ったわ」

「そういう事でしたか。失礼しました」

 

 本当にそうかよ、と心の中で思う。しかし、涼音が新山先生に話をしていたのは少し意外だった。もしかしたら、妹なりに思うところがあって希美の話を先生にしたのかもしれない。あの子は色々見えている。私には無い、部長としての視点や私が途中で放棄した当主教育の末に得た知見があったりする

 

 その視点から気付いたことに基づいて、新山先生に希美の情報を伝えたのだろう。或いは、あの指導の中にある歪さを彼女なりに感じていたのかもしれない。だとしたら、私と同じことを考えていることになる。

 

「話がそれてしまいましたね。みぞれが、どうかしましたか」

「鎧塚さんは、まだ現状曲の解釈を掴み切れないみたいなの。何か、いい方法が無いかと思って」

「……なるほど。それは確かに大事ですね。私も少しみぞれと話してみます。そこで何か、彼女なりに掴めるモノがあるかもしれません」

「そう……それなら、お願いしてみてもいいかしら。友達から話した方が、距離感的に伝わりやすいかもしれないし」

「承知しました」

 

 実際みぞれと話をしようと思っていたのは事実だ。彼女に例え何も言われなくても。

 

「ふふ」

「何か?」

「ごめんなさい、ただ、桜地さんとそっくりだと思って。その承知しましたの言い方は特に」

「兄妹ですので」

 

 あの子のトーンは私のそれとは少し違う。とは言え、長く付き合っていないとそれには気付けないだろう。と言うより、あの子が「承知しました」と言うのは大して親しくない人相手。滝先生には「はい」としか言わないので、新山先生には若干警戒してるのだろう。悟らせてはいないようなので、流石だ。希美派の妹としては、新山先生は警戒するべき相手なのかもしれない。

 

 私と新山先生は相性が悪いようだ。友人のお嬢は何を以てこの人と上手くやってるのだろう。身内だけだと割と傍若無人な彼女と、割と許容範囲の広い新山先生は意外といい組み合わせなのだろうか。

 

 新山先生は言いたいことだけ言って、部屋を出ていく。なんとなく話していて疲れるのはなんでだろうか。この状況で、みぞれだけに肩入れするのが誰にとっても良いことではないのは明白だと思う。

 

 とは言え、向こうには向こうの考えがあるのだろう。それならそれで大いに結構。私は私の信念に基づいて、正しいと思うことをするのだから。私の指針は変わっていない。私を取り巻く人間関係や私の考え方が変わっても、指針だけはブレないでいるつもりだ。吹奏楽部のためになる事をする。去年そう言って以来、私のやるべきことはいつでもそれだった。

 

 

 

 

 

 

 夏の朝の光が差し込んでいた。その輝きが顔に当たったことで目を覚ます。時計を見れば六時少し前だった。どうやらまた寝てしまっていたらしい。机には楽譜やメモが散乱している。頭を掻きながらそれを綺麗にしていった。今年は香織先輩のモーニングコールは存在しない。ここで寝ていたら迷惑をかけてしまうところだった。今日は合宿最終日。特段何事もなく終わりたいので、自分がその何事の一つになりたくはなかった。

 

 朝の合宿所はもう既に少し暑い。ただ、まだそこまで温度が上がり切っていないので、吹いている風はいつもよりは爽やかだった。深緑に染まった木々の向こうには、青い空が見えている。外のベンチに腰掛けて、買ってきた缶コーヒーの蓋を開ける。

 

 こんな情景を前にして何かを考えたくはないのだけれど、頭の中では色々なことが取り留めも無く渦巻いている。ため息を吐きながら、冷たいコーヒーを喉の奥に流し込んだ。

 

「はぁ……」

「大丈夫?」

 

 突然声を掛けられたことに驚いて、缶をひっくり返しそうになりながらも横に置いた。後ろを振り返れば、謎のイラストが描かれたTシャツを着たみぞれが立っている。昨日はさっさと寝てしまったからか、もう目が覚めてしまったらしい。早めに寝てさっさと起きるのは健康に良いのだが、やっていることはどことなくおばあちゃんみたいに思える。

 

「まぁ、ぼちぼち」

「寝なくて良いの?」

「別に。睡眠時間が少ないのは慣れてるから。そっちこそ、昨日の練習は大丈夫だった? かなり絞られてたけど」

「まだ私が足りてないから仕方ない」

 

 彼女は私との間に少し隙間を開けて、ベンチに腰掛けた。鳥の鳴き声がどこかから響いて来る。思えば奇妙な組み合わせだった。こうしてしっかり時間を作って話すのは、随分久しぶりの事なのかもしれない。大体いつも誰か第三者が間にいる。

 

 我々の関係は奇妙だった。希美の紹介で引き合わされて、何の縁かこうして交友関係を持っている。或いは、我々は希美と言う太陽に焼かれたイカロスたちなのかもしれない。どこまで行っても、どれほど音楽で栄達しても、あの屈託のない笑顔を我々は浮かべることなど出来ないのかもしれない。勝手にみぞれを仲間にしているのも、ちょっと失礼かもしれないけれど。

 

「ま、それだけ期待されてるってことだね」

「期待」

 

 彼女は私の言葉を小さく反芻した。

 

「誰かにこうあって欲しいって思うことは、期待?」

「期待か、願望か、欲望かってところじゃないの? 言語化するなら」

「じゃあ、私は希美に期待してる?」

「かもね。具体的に何を願ってるのかは分からないけど」

「私は、ずっと一緒にいて欲しいと思ってる」

 

 私たちの間に風が吹いた。少し生暖かくなった南風。緑の葉がそれによって揺らされている。今恐らく、私は核心に近い部分にいる。彼女は少しだとしても胸襟を開こうとしてくれている。その話を聞かないという選択肢はなかったし、流すという選択肢も無かった。

 

「そうか」

「気持ち悪い? こんな風に思うの」

「いや、普通に恋敵みたいで困ってる。そんなんこっちも同じこと思ってるよ。希美、分裂してくれないかな……」

「私のは多分、そっちとは違う」

「そう?」

「そっちのは、恋心。私のは、そうじゃない。もっと違う気持ち。なんて言ったら良いのかは分からないけど……恋だったら良かった。付き合いたいとか結婚したいって感情だったら諦められたのに。希美を、もっと早く」

 

 その言葉に私は一瞬黙るしかなかった。恋だったら良かった。そういう風に言う関係性というモノを、私はそこまで詳しく知らない。彼女の想いや苦しさは、きっと想像することしか出来ない。私は付き合うことも、結婚することも可能ではある。みぞれが不可能とは言わないけれど、希美がそういう未来を望んでいるかは分からない。

 

「それは……愛だね」

「……分からない。もっと執着みたいなモノかもしれない」

「愛は執着じゃない? 悪し様に言えば。そういう分かりにくいけど取り敢えず相手を思ってるっていう感情は全部愛って言う言葉に投げておけばいい。そうすれば、一応のカテゴライズは出来るし。実際、そこまで深く考えてることが愛じゃないなら、何を愛と呼べばいいのか分からない。愛の種類は一つじゃないでしょ」

 

 第三楽章のテーマは「愛ゆえの決断」だ。その愛が何なのか。日本語は便利だ。愛という大まかな概念にも細かく違いを用意してくれている。その中のどれを使ってここでの愛を表現しても良いし、或いは大雑把な概念のままでも構わないだろう。みぞれが進路を選ぶことは、希美と同じ道ではない方向へ行くのは、どういう種類の「愛」が生み出した結論なのだろうか。

 

「私は、何で自分が音大に行きたいのか分からない」

「……」

「この前言って、ちょっと怒らせちゃって、それから真剣に考えたけど……やっぱり分からなかった」

「希美が言うから、音大に行くの? じゃあ、希美が音大に行かないなら、みぞれは音大受験止める? これまでの全部を放り投げて、何もかも捨てて。喜んでくれた人も、応援してくれた人も、支えてくれようとした人も、期待してくれた人も。その全部を無視して」

 

 希美はコースを変えただけで別に諦めたわけでは無い。ただ、それは本人の口から伝えるべきだと思う。私がするべきなのは、そのお膳立てだけだ。

 

「さぁ……知らない」

「あっそ」

 

 私はため息を吐いて、空き缶を持って立ち上がった。飛び出た心なしか冷たい声に、みぞれは少し動揺したような表情を見せた。

 

「軽蔑した?」

「してないって言って欲しいの?」

「……」

「まぁいいけど。別に軽蔑とかはしてない。と言うか、私が誰かを嫌ったりすることはそんなにないよ。心から嫌ったり、軽蔑したりすることは少ないと思うし」

「それは、どうして?」

「……あんまり人に期待して無いから」

 

 期待しても無駄なことが多い。裏切られることも多い。ならどうすればいいのか。誰かに期待するより、自分の望む方向に誘導してしまった方が早い。言葉を尽くして、状況を作り出して、自分のあって欲しい未来に多くを誘因する。そうすれば、他人に期待しなくても済む。最近はそのスタンスも、少し崩れてる気がするけれど。

 

 でも今は分からない事の方が多い。そもそも、私が希美やみぞれにどうなって欲しいのか分からないからだ。と言うより、これは二人が見つけて行くべきモノなのだろう。ただ一つ願うことがあるとするのならば、幸せになって欲しいという、ただそれだけである。

 

「別にみぞれを嫌ったりはしない。ただ、自分の人生を生きられないヤツは嫌いだ。自分の人生は自分しか生きられない。なのに、その選択を全部他人任せにしてる人は嫌いだよ、そりゃ。そんなの、責任を押し付けてるだけだと思う。自分の人生における失敗の責任を、誰かに転嫁したいだけでしょ」

「それは私のこと……」

「違うと思ってる。と言うか、違くあって欲しい。だって、君は自分の人生を自分で生きようとしてるから。もし本当に全部押し付けてるなら、希美が辞めた時に一緒に辞めてるよ。もしくは、希美が音大を迷ってる段階なのに、志望校を一つにしたりしない。藻掻こうとしてるなら、それは全然良いと思う。悩んでるのは、藻掻いてる証。私が嫌いな人種は、悩んだりしない」

「……」

「本気で行きたいと思ったんじゃないの。だから、希美が迷ってる中でも、受けるって言い続けてた。違う?」

 

 私はポケットに入っていた携帯を取り出す。メッセージを送れば、意外な事に既読はついた。あんなに遅くまで練習していたのに、随分と早く起きているらしい。取り敢えずここへ来るように送ってから、また携帯をしまった。

 

「……分からない」

「じゃあ、分かるまで考えないと。分からないで放棄してたら、いつか本当に大切なモノまで見落とす。これまで色んなヤツと関わって、失敗しまくって来た人からのアドバイスだ。素直に聞いてね」

 

 人間関係の失敗なんて沢山してきた。その経験の数は誇れることではないけれど、少なくとも彼女よりは経験豊富だと思う。私の言葉に、みぞれは膝を抱えて黙り込む。その表情は、迷子の子供のようでもあった。或いは、櫂を失った舟人か。

 

「取り敢えずさ、思いの丈をぶつけてみたら?」

「誰に?」

「誰にって、希美に」

「……でも、受け入れてもらえないかもしれない」

「大丈夫。それは無いから。少なくとも、今の希美なら、大丈夫。私を信じて。それとも、信用できない?」

 

 彼女は首を横に振った。私はそれに頷く。遠くからこちらに向かってくる人影があった。残りは彼女に任せるしかないだろう。みぞれの心に小さくても楔を打ち込むことは出来たと思う。今の希美なら、その楔で十分のはずだ。なんだかやっていることは去年の秋とあんまり変わらない。最後の最後で当事者任せなのは少し無責任かもしれないけれど、むしろその方が良いと思っている。自分たちの人生における問題のケリは、自分たちでつけるべきなのだから。

 

「自分の人生の主人公は、自分以外になれないんだ。傷つくのが怖いのは分かる。私だって怖い。いつだって臆病だ。でも、前に進むしかないよ。戻れないんだから、人生は。自分の人生の傍観者でいたらダメなんだ。自分の人生を歩けるのは、自分だけ。怖くても、辛くても、再会を誓った別れは永遠じゃない。生きていれば、きっとまた会える。そう言ったでしょ」

「そう、かも」

 

 彼女は呟くように言った。その声は、前に同じ話をした時よりも、私の言葉を自分のモノとして受け入れてくれているように思える。

 

 遠かった人影は随分と近付いていた。その表情はしっかり見える。軽く手を振って来たのに手を挙げて応えた。彼女にバトンタッチして、私は建物の中に戻る。遠くで振り返った時の二人は、向かい合いながら話していた。その話の中身は聞こえないし分からない。けれどきっと、いい方向に向かうんじゃないだろうか。そんな予感がした。何故なら、あんなにも真剣な目をしているのだから。




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