シュッと髪を結って鏡を見る。いつも通りの自分が映っていた。トレードマークでもあり、好きな人の好みの髪型でもあるポニーテールにしている。顔には超薄いお化粧と口紅。まぁこれくらいはいいよね、恋する乙女としてさと言い訳してカバンを取る。今日から始まるのは私にとって最初で最後の合宿だ。
家を出る前にもう一度荷物の確認をしておく。何だかんだで少し楽しみな私がいた。長い事私と一緒に音楽人生を歩んできたフルートは今日も変わらず銀色の輝きを放っている。よし、問題なし、と頷いて、ケースの蓋を閉めた。ほの暗い玄関で靴を履いてもう一度姿見をチラ見する。
「行ってきまーす」
小声で言うけど返事はない。流石に朝も早いから、二人とも寝ている。まだ日も昇りかけの今は、そこまで暑さもない。悩みの多くは消え去った事もあり、どこか清々しい気分の中学校への道を歩いた。
到着すれば早速練習。それは私の想像以上の厳しさと過密さだったけれど、終わってみれば心地よい疲労感があった。日程は殆どが練習で構成されている。きっと、その一つ一つに意味があるのだろう。指導者を目指す身としては、こういう一つ一つの練習の意味を理解することも大事なはずだ。今までのようにただ奏者として吹いていいればいい時間は終わりを迎えたことを改めて実感させられる。それでも一歩一歩進んでいって、その成長が実感できるのは魅力的な体験だった。元々強豪と言って差し支えない中学出身なので、これくらいはどうとでもなる。
ご飯を食べながら後輩の話に相槌を打っているけれど、思考はこの後の事でいっぱいだった。取り敢えず、先生のところへ向かわないと。この前言われたように、先生に受験に関する相談をしないといけない。受験の話は専門家である先生に聞いた方が確実だし早い。そしてその後はマンツーマンの練習が待っている。多分、一筋縄ではいかないだろうと簡単に想像できるけれど、どこかで二人きりで練習と言う状況に喜んでいる私もいる。
だからと言って邪な気持ちでは上達するものも上達しない。折角の機会を逃さずに練習しないと。色ボケに腑抜けた自分を心の中で叩きなおした。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を開けた先には目的の人がいる。私たちの部活を一年で復活させた立役者。偉大なる指導者と名高い滝先生その人だ。思えば、しっかりとこうして話すのは去年の秋前頃に再入部の届け出を出した時以来になる。案外、先生とは接点が薄かった。凛音とは濃い付き合いのようだったけれど、実際二人が何をしているのかを私はよく知らなかった。
「お時間いただいてすみません」
「いえ、お気になさらず。生徒の自主性を重んじるのが私のモットーですが、それは決して突き放す事ではありませんから。それで、今回はどうしましたか」
「実は……」
かいつまんで必要な事だけを話す。凛音関連の話を取り除いて、音大進学を考えていること、学科も決まっていて吹奏楽指導に行きたいこと、資格や受験制度に関する話を聞きたいということ。これらを話していく。先生は終始ジッと私の話を聞いていた。
「なるほど……お話は分かりました。合宿後にはなりますが、詳しい受験制度のアドバイスは私の方からしましょう。担任の先生にも伝えておきます。進路希望調査を白紙で出すのは出来る限り控えてもらえると、私としては嬉しいですが」
その一言で、多分担任の先生から滝先生に話がいって部活でもキチンと指導してくれと頼まれたのだろう。まったく言われた記憶はないので、敢えて黙殺していたんだと思う。その理由ははっきりしないけれど、迷惑をかけたのは事実だった。
「すみませんでした……ありがとうございます」
「いえ、進路が定まったようで何よりです。やはり、学生の本分は勉強ですから」
「はい」
「しかし……指導者ですか。傘木さんは、確か中学時代に部長をしていたと」
「はい。南中でやらせていただいてました」
「指導者と言うのは音楽をするうえで欠かせないものです。私も、他の先生方も、桜地君も指導者無くしてはこれまで音楽をすることは出来ませんでした。未来ある次の奏者を育てる反面、その芽を刈り取ることも容易にできてしまいます。ですが、指導者なしに音楽は作りえません。余計な話かもしれませんが、もし傘木さんがこの道を目指すのでしたら知っておいて欲しいと思いました」
「……前に聞いたことがあります。奏者だけが、音楽家じゃないと。りん……桜地君のご学友の奏者の方から」
「そうでしたか」
先生は少し興味深そうに私を見てきた。
「もう一つ、知っていて欲しいことがあります」
「何でしょうか……?」
先生は言葉を区切ると、置いていた鞄の中から何冊ものファイルを取り出した。表紙には大きな文字で楽器の名前が紙に印刷され貼ってある。それがパートと一致していると気付いた。そして、それは私に渡される。
「これは、何ですか?」
「見てみて下さい」
敢えて質問に答えないで先生は促した。疑問はあるけれど、その中身を開く。中には何枚もの紙が挟んである。そこには名前と共に一人一人への細かいアドバイスや指導内容、現状の問題点などが事細かに書いてある。フルートのファイルを見れば、私のものもあった。そしてその字は良く見慣れたものだった。
「これって……」
「指導報告書です。一週間の終わりに必ず、部員全員分を貰っています。桜地君が書いてくれているものです。これの他にも毎日練習後に報告をくれますが、この覚書にそれがまとめられているのです。私や幹部だけ閲覧可能なモノですが、傘木さんは幹部に近い立場ですので構わないでしょう。ただし、書いてある内容は他言無用でお願いします」
読めば読むほどその精度が分かった。日付を見れば確かにその頃苦労していた箇所だったり、ミスすることの多かった場所が書いてあった。加えてそれへのアプローチ方法、前から改善されていること、合奏時の様子、端から端までもれなく書いてある。初心者の子にはそれに合わせたものを、慣れてる三年生にはそれに合ったものを。それこそみぞれや高坂さんのような超高校生級奏者には、とびっきりハイクオリティな指導内容が書いてある。
「吹奏楽部と言う大所帯で顧問が全ての生徒を把握するのは不可能です。故に私は、生徒の自主性を重んじる事でそれを解消しているという側面もあります。ですが、彼のおかげでこうして多くの情報を手に入れられます。これのおかげで演奏の組み立ても、部員の実力把握も容易にできます。合奏だけでは指導出来ない細かいところを一人一人分作ってくれているおかげで、北宇治の演奏は一層レベルの高いものになっています。パートでの行動に参加せず、自由に動ける制度の結果とも言えます」
「先生は、どうしてこれを?」
「どうして……と言われると困ってしまいますね」
先生は苦笑しながら言う。
「指導者の側面としてこういう形もあると知って欲しかったと言うのが正直なところかもしれませんね。色んな形を知る事で、自分に合った教え方を習得する必要がありますから。これは生徒に最も近しい指導者たる彼だから出来る形でもあります。私にこういうのは向いていませんから。来年からはどうしたものかと、困ってしまいます。当初の考えよりもずっと頼っている部分が大きくなっているもので……」
来年。そうだ。来年、彼はあの指揮台には立たない。そして、私や後輩に教えない。私もここにはいられない。彼はきっと、この地にもいないだろう。このファイルは確かに彼がここにいた証だ。例えコンクールには出なくとも、彼のいた証は確かにここにある。
「合奏の指導も随分と助かっています。やはり、一人では気付けない事も多いので」
先生にファイルを返す。焦がれる相手が予想よりもずっとすごい人だったことに喜びを感じつつも、自分にこんな風に指導が出来るのかと言う不安もあった。それを機敏に感じ取ったようで先生は言う。
「焦ったり悩む必要はありません。自分にできる事を一個一個こなしていきましょう。かく言う私も、若い頃は父と自分を比べた物です」
先生のお父さんはかつてこの学校が強豪だった頃にずっと顧問を勤めていた。逆に、彼の退任がこの部の凋落を招いたとも言えるかもしれない。けれどそれは責任転嫁なのかもしれないと、どこかで思った。
「先生は、この一昨年のこと、どこまでご存じなんですか?」
ふと、気になっていたことが口に出た。私が再入部する際についぞ聞かれる事は無かった。一昨年の事も、去年の騒動も。
「大まかな話は聞いていました。部内対立が原因で、集団退部が起きたと。職員会議でも問題になったようです。ただ、当時の私は状況こそ知りつつ、感情で理解はしていませんでした。だからこそ、今は今と切り替えていくべきだと思い、そういう指導を行っていたのです。ですが、その結果はあまり良いモノではありませんでした。初めて感情面での理解を行ったのは、中世古さんの再オーディションを行った時かもしれません」
それは、私の知らない話だった。私はその頃、まだ戻ってきていない。それでも多くの人から話を聞いていた。香織先輩と高坂さんが衝突して、そして高坂さんが勝った。その際に再オーディションが行われたという話。諦める理由を、先生は香織先輩に与えた形になっていた。
「私はその時、初めて多くの部員が中世古さんを支持した理由を知ったのです。確かに、その環境にあっては私もそうしてしまうかもしれないと思っていました。高校生だった頃の私は、恐らく中世古さんを支持していたでしょう。顧問を恨んでいたかもしれません。彼のように、毅然とした決断を下せなかったかもしれません」
先生は少し笑う。大分、子供っぽかった。
「自分を切り捨ててでも進め。彼はそう言いました。停滞だけはしたくない。そういう想いを強く感じたのを覚えています。私は多くを学びました。教師という存在は、生徒に教えつつ教えられるものであると実感させられました。尤も、彼は普通の生徒の枠に入れるには些か大き過ぎるかもしれませんが。ただ、後悔もあります。もしかしたら私は、彼の普通の高校生としての生活を奪い、その結果背負わなくとも良いモノを背負わせてしまったのではないかと」
「それは……もしかしたらそうかもしれないです。でも、きっと大丈夫だと思います。彼は、自分がこの仕事が好きだし誇りを持ってやっていると言ってますから。自分で決めたことは曲げないが、彼のモットーですし」
「確かに、そうでしたね」
先生はそこで懐かしそうに目を細める。きっと過去を見ているのだろう。彼は自分の意思でここに戻って来た。辛いことも沢山あったと思うけど、それでも今は多分、本心から指導者であることに誇りを持っていると思う。それに、もし本当にダメそうなら涼音ちゃんが強制的に止めるだろうし。
先生は現実に戻って時計を見た。
「ああ、少し長く話し過ぎてしまいましたね」
「いえ、貴重なお話です。お時間いただきありがとうございました」
「先ほどの件は全て了承しました」
「ありがとうございます」
ペコペコお辞儀をしてから部屋を出るために扉を開く。そこで背後から声をかけられた。
「傘木さん」
「はい」
「良い指導者となれるよう、頑張って下さい」
「……はい!」
扉を閉める。あんな言葉を言われるとは思ってもみなかった。この後は深夜のマンツーマン特訓が待っている。今夜からはまた、彼を違った目で見れそうだ。知らない事を知れた喜びと、進路に関する応援を貰えた喜び。その両方を理由に、私は足取り軽く指定された部屋へと向かっていった。
その次の日も、ずっと練習だった。みぞれと私の演奏は、やっぱりどこかで噛み合わない。多分、私にも原因はあって、どっちが悪いって言う話でもないのだろう。でも、新山先生が注意するのも指導するのもみぞれの方。それにムッとしない訳じゃない。多分、私は期待されてないんだろう。今となっては別に良いけれど、やっぱりスッキリはしない。
でもそれを気にしていたって何にも良いことは無い。だから一回新山先生のことは忘れることにした。先生が期待してくれなくても、私に期待してくれている人はいる。教えてくれている人も。だから私が見るべきは私を取り巻くマイナスなものじゃなくて、プラスなものなんだと思う。そっちの方が、多分建設的だし幸せになれるはずだ。
私は奏者にはなれないし、ならない。きっと私にその才能はない。仮にあったとしても、始めるのが遅すぎた。元々奏者になりたかったのかと聞かれると、少し疑問を覚えてしまうし。宙ぶらりんで何もなかった私だけれど、今はもう夢がある。考えるべきはそっちのことだった。みぞれが奏者として活躍している世界に、ドンドン新しい子を送り出していくのが私の役目だ。みぞれや凛音を脅かすような存在を、もしくは一緒に素晴らしい音楽を作っていく存在を育てて送り出す。自分で並び立つことは出来ないかもしれないけれど、こういうやり方で追いかけることだって出来るはずだから。
最後の日の朝、フッと目が覚めた。障子の外にはもう日が昇っている。携帯を開いて時間を確認したら、彼からのメッセージが来ているのに気付いた。朝早くにどうしたんだろうと思って見ると、みぞれと話しているから来ないかという内容だった。これは、私にとってはいいチャンスだ。渡りに船って言うべきかもしれない。みぞれにしっかり自分の感情を伝えていく。それが私の今やるべき事。いつ話をしようかと迷っていたけれど、彼がその場を整えてくれたなら、それを活かさない手は無いと思う。もしかしたら目が覚めたのは、虫の知らせ的なものだったのかもしれない。
布団から起き上がって静かに部屋を出る。めちゃくちゃすっぴんだけど、もうこの際しょうがない。部屋の古い引き戸はギシっと音を鳴らした。起こしてしまったかなと思って振り返ったけれど、皆はまだまだ夢の中にいる。朝の廊下はもう少し暑くなっていた。外に出れば、広大な敷地は一面緑に満ちている。その向こうにベンチがあって、二つの人影があった。ほんの少しだけ涼しい風に吹かれながら、ゆっくりと二人の方へ歩いて行く。
私の姿に気付いた彼に、私は手を振る。軽く振り返した後、凛音はみぞれとの話を終えて私の方へ歩いて来る。けれど、何か話をすることは無かった。私がこれから何をしようとしているのは、彼はよく知っている。敢えて何かを言わないで、そのまま送り出してくれたのだろう。すれ違う時に小さく頷いてくれたのが、その証だと思う。
夏草が緑に映えている静かなベンチに座ったみぞれの前に、私は立った。どういう風に話をすればいいのだろうか。凛音だったらもっとスマートに、そして上手に話をできるのだろうか。私の想いは迷惑なエゴだとは分かっている。それでも、どうしても私たちにはそれが必要だと思えるから。そう言い訳して、頬を叩いた。
「おはよう」
「……うん、おはよう」
みぞれは少し目を伏せて、私の挨拶に応えてくれる。
「ちょっと、話さない?」
「……私も、そうしたいって、思ってた」
「そっか。隣、いい?」
「うん」
みぞれが頷いてくれたので、私はスッとベンチに座った。そして、みぞれの方へ身体を向ける。その瞳は揺れていた。いきなり話をしようと言われて警戒しない方がおかしい気もする。
シミュレーションしたようにはすらすら口が動いてくれない。言いたいことは出かかっているのに、それが出てこないもどかしさ。何を言うのか。どういうのか。その葛藤だけがそこにはあった。でも、素直に伝えないといけない。対等とはそう言うものだと、彼は言った。
「私、音大受けるって言ったじゃん。みぞれと同じとこ」
「うん……止めるの?」
「止めるって言ったら、みぞれはどうする? 一緒に止めちゃう?」
「それは……分からない」
「ダメだよ、絶対にやめたりしたら」
強い口調で言った私にみぞれは目を丸くする。今までこんな風な口調を向けたことなんてなかったから。
「みぞれが止めちゃったら、私追い付けないじゃん。それに自分の人生を、誰かのために左右させないで。今まで色んな人がみぞれの進路を応援してきた。新山先生も、凛音も優子も夏紀も、後輩たちも……私も。そんな人たちの思いを踏みにじって欲しくない。だって、みぞれは止めたくないんでしょ? そんな顔しないでよ。なんか、イジメてるみたいじゃん。……イジメてるようなもんか」
私は少し自嘲気味な声を出した。虐めてるみたいなモノかもしれない。でも私にだって少しくらい言い分はある。自分の人生の基準を私にされたくはない。そんな重たいモノを背負えるほど、私は強くないし大きくもない。みぞれは不安そうな目で私を見ていた。
「……止めるの?」
「止めないよ? ただ、そんな風に自分の人生を決めないでほしくて」
ポカンとしたような顔でこちらを見てくる。そして私の言葉を理解したのか、混乱と僅かな怒りを込めた目線でこちらを見てくる。ああ、そうか、と私は思った。私はずっと、みぞれに怒って欲しかったのかもしれない。何で、あの時勝手に辞めたのか、と。けど彼女はそうしない。わかっているからこそ、苦しかった自分がどこかにきっといた。
「音大は受ける。けど、みぞれの受ける器楽科じゃない。吹奏楽指導の学科を受ける」
「吹奏楽、指導」
「そうだよ。吹奏楽指導。楽な道じゃないと思うけど、決めたことだからね。多分、頑張れる気がする」
「でも、どうして」
「……多分私さぁ、ずっと嫉妬してきたんだと思う。みぞれに」
いきなり違う話をし始めた私に、みぞれの戸惑いは増しているように見えた。引き返すなら今だ。また彼女を振り回すのか。そう心の中で弱い私が囁く。けれど迷わずに私は、自分の中の弱い自分に告げた。振り回す。そして、振り回してもらうんだ。きっと、それが友達だから。
軽蔑されるかもしれない。嫌われるかもしれない。それでも私の背中を押してくれた凛音を信じる。どんな私でも尊敬していると言ってくれた涼音ちゃんを信じる。醜くても、汚くても、これが本当の私なんだ。平凡で、普通で、何者かになれるかなんて分からない。そんな凡庸な存在。でも、星に手を伸ばすことは出来るはずだ。それが、遠い存在でも。
「情けない話だと思うよ。自分勝手だし。私がみぞれに吹奏楽を薦めたのに、どうして私よりって。そう思ってた。当たり前だったよね。私が腐ってる間も変わらず練習してたら、そりゃ差も開くよ。それでも、私は、私の持ってないものを持っているみぞれが羨ましかった。だから音大のパンフレットを見せられた時、つい、受けるって言っちゃった。そうしたら、なんか、対等になれる気がしてた。そんな訳ないのにね」
言葉は溢れるように濁流となって流れ出た。
「……希美はいつも勝手。今いきなりそんな事言って。一年生の時だって、勝手に辞めた。私に黙って」
「うん、まぁそうだよね。……そう言われるとは思ってた。前に、みぞれがそれを気にしてるって聞いた時、随分前の話だなって感じた。二年生の頃の話ね。でも、今は違う。あの時のみぞれの気持ち、やっと分かれたような気がした。ああ、なんて事したんだろうって」
「それは……恋してるから?」
「そう、だね。うん、そうかも。もし彼が今私の前からなにも言わないでいなくなったらと思うと、それだけで苦しくなる。でも現実はそうじゃない。けど、みぞれは違ったからね」
「……」
「謝ってもどうしようもない事だとは思ってる。過去は変わらないし、みぞれが傷ついたのも、変えられない。見栄はってどうでも良い自尊心で嘘吐いたのも変わらない。でも、何もしないよりかはずっとマシだと思う。だから謝らせて。……ごめんなさい」
深く頭を下げた私に、みぞれは苛立ちの滲んだ声に困ったように私に言う。
「今更、そんなこと言われても、困る。私にとって、このことは昔のことなんかじゃない。ずっと今だった。でも希美だけ先に進んじゃう。きっと、去年の秋から、希美の時間は前に進んでる。凛音と会えたから。好きになったから。違う?」
「そうだと、思う」
「……ズルい。希美は、そうやって、ズルい。私の持ってないものを全部持ってる。沢山友達がいる。明るくて、後輩からも好かれてる。みんなの中心にいる。他にも沢山。全部、全部私にないもの。ずっと希美の背中を追いかけてきた。こんな風になりたいと思って、認めて欲しくて、ずっと頑張ってきた」
「私、そんなすごい人じゃないよ」
「それでも、私にとっては特別。私の、憧れ」
その想いはきっと純粋なもので、その目に宿った光も純情なもので。私の心にはそれがガラスの剣のように突き刺さった。
「それなのに、希美は………ずっと……」
お互いにすれ違ってきた。みぞれは私に憧れて、私はみぞれに嫉妬して。互いに持ってないものを欲しがっているだけの子供だった。それなのに、どうしてこうも拗れてしまったのか。傷つけたくないからなのかもしれない。壊したくなくて、壊れたくなくて、傷つけるのが嫌で嫌で、だから私たちは停滞を選ぼうとしていたんだと思う。
でも今はそれが間違っているのを知ってる。大事なのは傷つけたくないという思いよりも、どうして傷つけたくないかの理由なんだ。それでも傷つけないのは不可能だから、殴り合って前に進むしかない。
「そう。私は、ずっとみぞれを羨んできた。嫉妬してきた。罪悪感を押し殺してきた。でも、もうやめる。羨むのも、嫉妬するのも。私には、私にしか出来ない事があって、私のやるべきことがある。そう、色んな人が教えてくれたから。私は奏者としてみぞれには勝てない。それでも違う道で、音楽の頂を目指す」
「ほら、希美は勝手。そうやってまた一人だけ先に進もうとする。私はいつも、ひとりぼっちで置き去り」
それは違った。私よりもきっと、みぞれの一歩は大きい。まだ歩みだせていないだけ。彼女を縛る鎖はもう、ほとんどないはず。後は、自分の意思だけなんじゃないかと思った。みぞれの手を取る。ぐいと近付いた距離にみぞれはのけぞった。
「置いてけぼりなんかじゃないよ。みぞれが先に飛んでいくんだから」
「私が、先に……?」
「みぞれはさ、きっと大きな空に羽ばたいてくんだと思う。リズと青い鳥を演奏する事になった時、私たちみたいだって思った。私が青い鳥で、みぞれはリズ。でも逆だったんだと思う。みぞれはその大きな翼で広い世界を見に行くんだよ。その時私は一緒には行けない。私には翼は無いからさ。前までなら、昔の私なら多分その姿を見て諦めてた。ぼうっと立って、ああ、あの子は私じゃ届かない世界に行くんだなぁって諦めながら見ていたんだと思う。そして、ずっとあの世界にいる自分を想像し続けるんだ」
過去の自分なら、絶対に認めなかったこと。けれどどうしてか今はすらすらと言葉になった。
「でも私には足があるから。きっと追いつけるように走る。だから先に行って待っててよ。絶対に、追いつくから。何年かかっても、走るのを止めたりなんかしない。船に乗って、今いる場所から離れてでも、追いかけ続けるから。だから、みぞれもやめないで。私の好きなみぞれだけの音をずっと、響かせてて」
「……やっぱりズルい。そんな事言われたら、断れない」
「断っても良いんだよ?」
私の提案にみぞれは首を横に振った。
「それは、出来ない。だって、希美のことが好きだから」
「そっか。ありがとう。嬉しいよ。私も、みぞれのこと好きだから。演奏も、それ以外も。だからこそ、みぞれには輝いてて欲しい。私が嫉妬できるような存在で居て欲しい。大丈夫。今回のリズの演奏でだって、きっと対等に吹いてみせるから。こう見えても頑張って隠れて練習してきたんだよ?」
ギュッと、その身体を抱き締める。細い身体は、仄かな熱を持っていた。
「な、なに」
「大好きのハグ。やってなかったからさ。私はみぞれと対等でいたい。みぞれとこれからも友達でいたい。どっちかに偏ってて対等じゃない関係なんて、本物じゃない。友達でもない。みぞれの全力、聞かせて欲しい。私も、全力で応えるから」
「私、吹いていいの。飛んでいいの?」
「いいよ、もちろん。でも油断はしないでね」
抱き締めていたのを止めてみぞれの顔を見る。充血して兎みたいになった目が、私の視界に映る。声も心なしか涙声だった。
「油断してたら、追い抜かすから。もしかしたら、私の教え子がみぞれの席を蹴落としに行くかも」
「……だったらそうならないように練習する。一杯、練習する。だから大人になっても、また一緒に吹こう?」
「いいよ。いつだって、待ってるから」
お互いがお互いの鎖になっていた。でも、そんな関係も今日で終われる。みぞれの顔を見て直感的に感じた。そうだ。今日から、ここから始まるんだ。今までとは違う関係が。二人の、対等な関係が。涙を拭きながら、みぞれは私の顔を見つめる。その目に、不安の色はもう無かった。今日が私たちの、スタートラインなのかもしれない。
「凛音が前に言ってた。別々の道を行っても、生きてればまた会えるって。あの時はよく分からなかったけど、今なら分かる気がする。また会えるって信じられるなら、私は青い鳥を送り出せる」
力強い声と言葉で、みぞれは前のめりに言葉を繋げた。前の言葉に被せるように、ドンドンと。止まることは無いその声の羅列は、みぞれの中に秘められていた燃えるような感情の集まりのように思えた。
「私、吹く。希美のために、自分のために。他の、私の背中を押そうとしてくれてる人のために。全力でやれる。だから、希美も……」
「分かった。ありがとう。私も頑張るよ。それに明日だけじゃないでしょ。私たちは全国を目指してる」
そんなことはわかってると言わんばかりの目でみぞれは私を見る。時々みぞれはナチュラルに私に厳しい。
「前にした約束、ちゃんと実行しないとね。高校入ったら金を取ろうって、約束。まだ有効なはずだから。今年が最後のチャンスだし、絶対に行こう」
「覚えててくれたの?」
「当然。友達なんだから」
自然に口角が上がる。嘘っぽ笑みでも、無理矢理作った笑顔でもなく、自然に今は笑えている気がした。つられたように、みぞれも少しぎこちない笑みを浮かべる。太陽の光が私たちを照らし始めた。心の中にの熱にも負けない暑い日差しが降り注ぎ始める。
話を始めてから今までの時間はそんなに長くはない。けれど、最初と今とを比べれば、私たちの関係は、確かに別のものになっている。それは多分、絶対の無き真実だった。やっと、みぞれと同じ位置に立つことが出来たような気がしたけれど、これで満足してはいけないと心の中で首を振る。研鑽をつまなくてはあっという間に先に行かれる。でもこの焦りも、どこか心地よかった。
「ねぇ、みぞれ」
「どうしたの?」
「私のこと、引っぱたいて良いよ」
「……え?」
「今まで迷惑かけちゃったし、その分と言うか罪滅ぼしと言うか、これからもよろしくのための儀式と言うか。なんか、一度ダメなところをリセットして、リスタートしたいなぁと思って」
「……やっぱり勝手」
「う~んまぁ人は勝手な生き物だから。だからみぞれももう少し勝手にして良いんじゃない」
「……段々誰かに似てきてる」
「かもねぇ」
「希美は好きな人に趣味が似るタイプ」
自分では意識したこと無いけれど、どうなんだろうか。でもホラーは未だに苦手だし、そんな事無いような気もする。
「……それは置いておいて、分かった。痛かったらごめん」
「思いっきりやっていいよ」
ペチンと情けない音が響いて、蚊の止まったような痛みがする。全然痛くない。へなちょこなビンタが私の頬に炸裂した。赤ちゃんに叩かれたみたいだった。なんとも締まらないけど、少し救われた気持ちになる。
「希美もやっていいよ」
「ええ!?」
「私も、色々言ったから」
「でも……」
「勝手にして良いんでしょ」
さっき自分がいったことだから取り消せない。躊躇いはしたけれど、みぞれからのお願いも珍しいのでやることにした。目を閉じてプルプル震えている姿に若干良くない感情を感じつつも、ピンっとおでこを指で弾く。けれど、上手く行かずこちらもへなちょこなデコピンになってしまった。お互いに顔を見合わせる。どちらからとも分からないまま、笑いがこみ上げてくる。朝の光に包まれながら、二人でしばらく笑い転げていた。なりたかった関係が、そこにはあった。