青い風が吹いている。登校する時に空を見て、そう思った。夏の真ん中にしてはやけに涼しい。空に雲は少なく、けれど太陽はまぶしすぎない。一瞬だけ秋になったかのような日だった。青い風と形容するしかない風が頬を撫で、飛んでいく。それに運ばれたのか、真新しい青い鳥の羽が足元に転がった。ルリビタキかカワセミか。もしくはそれ以外の鳥のものか。鳥に詳しくない身としてはまったく分からなかったけれど、何となしに拾い上げて本に挟んだ。
もうすぐ関西大会。その日まで一桁を数えるようになった今日。練習は毎日続く。合宿での地獄の特訓で、北宇治の演奏は大分変わってきている。艶めいた色を出せるようになってきたと言うべきか、より感情を込めた表現が可能になっていた。
後は、最後の懸念である第三楽章。ここをどうにか出来れば第四楽章に繋がる。という事でやった深夜の講習会だった訳だが、その結果が今日現れようとしている。みぞれと話したのは知っているけれど、果たしてその結末がどういうもので終わったのか、私はよく知らないでいた。合宿最終日は課題曲を中心にやったので、まだその結末を確認できていない。悪い方向には転んでいないだろうという事は様子を見ていれば分かる。それは一つ、安心材料だった。
希美の実力をグラフで表すなら少し歪な形だろうといつも思っている。多分、最初は斜め右上へ一直線だ。そしてある時を境に横ばいになってしばらくそのまま続く。結構長い時間横ばいになってある時を境にもう一度跳ね上がる。その跳ね上がる段階に彼女は今いる。長い横ばい期間を去年の段階で経過してきた手応えはある。後は跳ね上がるきっかけだけだろう。
みぞれは多分右上へ向けてずっと一直線だろうと見立てている。練習を欠かさない彼女は着実にステップを踏むタイプだ。そう考えると対照的だ。それはさておき、希美が跳ね上がるために必要な材料はもう精神的なものだろう。ともすれば対話が何らかの良い効果を及ぼしていることを一人の音楽家兼指導者として願うほか無かった。全体練習開始前の僅かなひと時。やはり不安なので、声をかけることにした。
「結局、あの後上手くまとまった?」
私の問いに希美はここ数日で最も愉快そうと言うか楽しそうと言うか、ともかく嬉しそうに笑った。その意味を計りかねた理由は断じて笑顔に惹かれたからなどではないとこの期に及んで自己弁護をする。そんな私の内心を知ってか知らずか、彼女は笑顔を崩さぬまま言う。
「まぁ見ててよ」
「……わかった。頑張って」
そう言われては引き下がるしかない。信じる事も勇気だと思うことにした。教室の脇に立って見渡せば、話に興じつつもまとう雰囲気は真剣だ。楽譜を睨んでいる人も多い。もうすぐ関西。その事実は全員が正しく認識している。油断する気配はもうない。上に、とにかく上に。がむしゃらに上手くなりたい。少なくともA編成に選ばれたメンバーの中には、そういう空気が存在していた。ガラガラと音を立てて扉が開き、講師陣が入ってくる。ピタリと話が止み、視線が一か所に集まった。
「では、全体練習を始めましょう。まず……」
指示を出そうとした先生を遮るように手が上がる。それをやや珍しそうな目で先生は見た。
「第三楽章、通しでやっても良いですか」
「……良いでしょう」
少し悩んだ後そう言うと、先生は右手を上げた。それに従い、出番のある人たちは準備を始める。先生の目が、この章の要たる二人を交互に見つめる。その二人は、互いに目線を交わし、小さく頷いていた。それを、先生の目は黙って見守る。みぞれがリードを咥えた。希美がフルートに口をつける。そして先生の手は振り下ろされ、第三楽章が始まった。
第三楽章『愛ゆえの決断』。そう名付けられたサブタイトル通り、ここは己の元にいた少女は鳥であったことを知ったリズの苦悩の日々。第二楽章から続く生活を貫くオーボエソロから始まる。相変わらずの技量に舌を巻くしかない。一気に多くを呑み込んでいくような、まるで底なし沼のような演奏が展開されていた。その演奏に続き、フルートを始めとする他の楽器が入った。
ハープの美しい爪弾き。そして、甘美な響きで流れ込むオーボエの旋律が、少女に身をやつした青い鳥を自由の世界に帰そうと思いつつも、いまの幸せな暮らしを手放したくないと葛藤するリズの想いをしっとりと歌い上げる。
綺麗な、そうとしか言えない歌声だった。だが、まだこの楽章の真骨頂は来ていない。これから、あと少し。これまでの成果が、あと僅かのところまで見えそうになっていた。痛いくらいに手を握りしめる。身体は、いつの間にか前のめりになっていた。
想いを秘めながらも、少女と過ごす日々の暮らしに幸せを感じるリズの様子を転調して明るくなった曲調が代弁する。しかし、その平和な日々に終止符を打つかのようにして、突如として現れたオーボエが苛烈な独奏を畳みかける。それは正体が知られた事を察した鳥の嘆きか、或いは否定の叫びか。それを端緒として、曲調はクラッシュシンバルとトランペットによる激しい衝撃に変わる。そうだ。ここから、ここから始まるのだ。この楽章の、真の姿が。
ここまで、みぞれの演奏は圧倒的だ。他の多くを凌駕している。彼女は今既に、全国大会の会場にいるがごとき演奏をしている。そしてそれに希美が食らいついている。この二人が競り合っていて、他は後方に半分置いてけぼりだ。それでも彼らもプライドがある。それ故に必死について行こうとする。先生の目は演奏を止めるか迷っていた。しかし、結果的に続けることを選択する。もっと聞いていたい。そういう想いを、先生も抱いたのだろう。
希美の表情から焦りは感じられない。むしろ、みぞれの演奏力を受け入れているような雰囲気さえあった。だが、受け入れるとは決して自分の演奏を諦めるのではなく、実力を認めたうえで食らいついている、そんな姿に思えた。段々と世界は二人だけの世界へと変化していく。
そして、トランペットたちがいなくなり、ソロが始まる。まずはオーボエ。その一音目を耳にした瞬間、皆が息を呑んだ。複雑な指使い。それをものともしない歌声のようなメロディー。楽器ではなく、オペラを見ているような感覚に囚われた。放たれた音は繊細で、かつ力強い。濃縮された感情は、空気を支配した。木管の演奏が加わるも、もはやそれは意味をほとんどなしていなかった。本能を惹きつけられるような演奏に、誰もが吸い寄せられる。目頭を抑えている者もいる。
そんなオーボエの王国に、ただ一人だけ、足を踏み入れた者がいた。フルートの音色が、世界を切り裂いた。いや、正確には塗り替えていく。孤独に叫んでいたみぞれに、光を当てている。その光景に、まったく見たこともない二人の出会いのシーンを幻視した。同時に、かつて私に声をかけた希美を想起させる。きっと、私もみぞれもこの光に惹かれたのだ。そう思わずにはいられなかった。
実力ではみぞれが上。揺るがない事実だ。けれど、演奏は決して独唱にはなっていない。その理由は希美の演奏ただ一つだった。彼女の演奏は、しっかりと音を奏でている。周りから音が消え去り、世界は二人だけのものになる。比喩ではなく、周りが脱落したのだ。世界についていけなかった。ただ、それだけのこと。しかし、それだけのことでありながら、音楽においてそれは致命的だ。
新山先生はハッとしたようにこちらを一瞬見る。気付かれたのだろう。私が何かしたことに。正確にはそうであり、そうでないのだがと私は苦笑する。ここまでやってのけたのは本人だ。希美自身の力だ。私はその手伝いをしたに過ぎない。そう言い張るには私の演奏方法に似すぎているかもしれないが。希美は去年の秋から半年間の間にいつの間にか、私の演奏法を取り入れていたようだった。先生がみぞれにご執心の間、彼女もしっかり成長している。どんなもんだ、と密かに思う。私だって、指導者なのだ。
演奏は進む。物語は頁をめくられる。離れたくない、一緒に居たいと青い鳥は泣く。悲しい、寂しい、つらい。そんな感情が刺すように音に乗る。それに返答するように、リズは包み込む。その身体を抱きながら、きっと翼無き少女は言う。「空を飛べ」と。そして対話は続く。「飛びたくなどない。今ここにいて、二人でいるのが幸せだ」そう鳥は言う。だがそれではダメなのだと、少女は答える。
希美は青い鳥であり、リズだった。みぞれはリズであり、青い鳥だった。現実に無理やり当てはめるならばこうだろう。けれど、演奏では違う。フルートは青い鳥を完璧に演じきり、同じようにオーボエはリズを演じる。心情としては見送るのが希美だとしても、ここでは飛び立つのは希美の方だ。あくまでも二人は役目を全うしている。
音色の毛色が少し変わる。嘆くだけだった鳥へ、みぞれのオーボエが役を担う少女は語る。「先に空の向こうで待っていてくれ、必ずそこへ追いつくから」と。翼なき少女は有翼の鳥とは今は対等ではいられない。あまりにも違い過ぎるから。けれど、いつか、いつの日にか二人は共に飛べる日が来るから。諭すように二人は音を響かせる。きっと、青い鳥は断らないと信じている。例えエゴでも、それが自分だと決めたから。覚悟を決めた少女は、愛ゆえに一時の別れを促す。
フルートの音は切なさを込めながら希望の色も加わった音になる。彼女もまた、愛していた。故に受け入れた。少女の決断を受け入れて、先に飛び立つ覚悟をした。きっと、追いかけてくれると信じているから。対話はいつしか約束へと変わっていく。愛と優しさと、そしてエゴに包まれながらも二人はそれぞれの道を歩むだろう。その先にきっと、交わる日が来ると疑わない。それは未来を信じている若者だからこそ、吹ける音なのかもしれない。可能性を疑わず、走り出せる若者ゆえの約束に感じられた。そしてこの約束はきっと叶うだろう。生きてさえいれば、きっと。
遂に二人以外の最後の音が脱落する。音量は決して大きくない。それでも、二人以外は目に入らない。耳に入らない。完全に伴奏は二人の世界から排除された。物語に余計な登場人物はいらないと言うかのように。私の妹は悔し紛れに演奏を放棄した。世界を壊すのは不可能と悟ったようだ。これまで積み上げられてきた演奏が見るも無残に崩れ去っていく。砂上の楼閣の上で二人だけがダンスを続けている。
二人の演奏はどんどん迫力を増していく。互いの音しか聞いていないのがはっきりわかる。もしくは、他の音など不要なだけだったかもしれない。指が躍り、息が走る。そして世界は完成した。この世界を上書きするように描かれた新しい世界。音楽にはそれを作る力がある。なにより私自身がそれを知っている。それを知って追い求めてきた。この地で、この場所で見られることに興奮を隠せない。無言の高笑いが止まらない。最高だ。最高の気分だ。こんなにも素晴らしい、世界の創造に、物語の成立に出会えることがこの先何度ある事だろう。
この物語は彼女達でなければ創れなかったものだ。他の誰でもいけない。この世界を、この表現で、この形で創れるのは彼女達しかいない。希美とみぞれの関係性こそが、この演奏を形作っている。
楽章の終わり。そして、小さな世界の終わり。オーボエただ一本によるカデンツァは、愛ゆえの決断に至ったリズの独白を内心で振り返るようにしながら、散りばめられる連符の一つひとつを繊細に束ね上げていく。
まずは青い鳥のモチーフを。彼女の心の中で生き続けていく、これからの人生を進む指針になる青い鳥。そして次に諦めのモチーフ。現代でこそ諦めはマイナスイメージだが、元はプラスな言葉だった。自分を明らかにしてみる。それが諦めの語源。リズが諦めたのは青い鳥との暮らしだけではない。このままの安穏にいることを諦めたのだ。自らの心を明らかにして。
最後に羽ばたきのモチーフ。ここにいる全員が、羽ばたきの音を聞いた。少女が追いかけてくれると信じて振り返らずその翼を動かす姿を見た。そしてその後ろで見送りながら手を振り、そして走り出した少女の姿も、確かに見えていた。あり得ない景色。
けれど、この場の全員がその光景を見たのだ。例えそれが幻でも、確かにそこに世界はあって、それを皆が見ていた。我々は、その世界の観測者であって、その物語の読者であって、決して当事者足り得なかった。少なくとも、今この瞬間には。
この演奏ならば、第四楽章に繋がる。メインに据えた希望のある未来へ向かうストーリーへと繋がる中身に仕上がっていた。そう感じる。ふうっと息を吐く。どうにか、形にできた。希美は、しっかりみぞれと一つの世界を構築するレベルまで至れていた。これまでの日々に意味があった事の証明だろう。
みぞれが吹き上げたのを確認して、先生は力尽きたように手を降ろそうとした。皆がハッと、まるで何かから目覚めたような顔をする。中には感極まって号泣している人もいる。
「続けて!」
私の鋭い声に、先生は一瞬だけこちらを見て、小さく頷くとすぐに手を動かし始めた。一度終わりそうになったが、ここで終わらせるわけにはいかない。大事なのはここから。本番はここからなのだ。チャイムが鳴らされ、出航の鐘が鳴り響く。回想から覚めたような気配の中、旅立った少女を乗せた船は動き出す。
メンバーとしてのプライドで指を動かしているトランペットやユーフォニアムが穏やかながらも前進していくメロディーを奏でた。第四楽章で何度も登場する羽ばたきのモチーフ。それは船の帆を張る海風であり、舳先がかき分ける大海原の波の音でもある。自分が愛した鳥の羽のように青い空と海の間を、少女を乗せた船は行く。
曲は雄大な行進曲になった。優雅に、堂々と、そして希望を持って。高らかな終わりは希望を歌う。迷いながらも、傷つきながらも、それでも未来に進め。必ず希望は待っている。人生と言う大海原の、その先に。そういうメッセージが伝わって来る。感情に満ち溢れた演奏だ。だがこの演奏は、きっとプロには出来ない。多くの迷いや悩みの中にいる高校生だからこそ、この演奏は真の意味での命を宿すのだ。それはきっと、登場人物と年の近い存在が吹いているからこその当事者意識が為せる技だろう。
未来へ、きっと明るいだろう私たちの未来へ。進んでいくこの物語はハッピーエンドである。全身でそう告げるようなフィナーレを迎えて、演奏は終わった。誰もが事態を呑み込めないような、それでいて興奮を隠せないような顔を見せている。そしてそれ以上に私は歓喜していた。自らの目指していた演奏は、今その形を持って出現した。これに興奮しないわけがない。私がイメージしていた曲の音色が奏でられていたのだ。
勝った。そう確信する。それくらい、今の演奏は素晴らしい。笑いだしそうになりながら天井を見上げる。ここまでの演奏が出来るようになった彼らの成長に、涙が出そうになる。その私の感動の横で、パチパチと拍手が響く。新山先生が歓喜の笑顔を浮かべていた。その傍らで橋本先生は喜びと困惑の混じった顔で唸っている。
「これは……とんでもないもん掘り起こしたね」
その言葉が全てを語っていた。滝先生は何も言わず、タオルで目元を拭った。その間に新山先生は興奮しながら言葉を発する。その姿に優雅さの欠片もない。そこまで取り乱すとはしてやったり、と密かにガッツポーズを決めていた。希美の成長が、我がことのように嬉しかった。
「二人とも、素晴らしかったわ。今の感じを忘れないで」
その言葉に二人は顔を見合わせて計画成功とでも言うように笑う。始まる前に言われた「見てて」の意味はよく分かった。なるほど、遂に鎖は解き放たれた訳だ。
伴奏を担当していた木管の子たちは悔しそうな顔をする。二人の演奏は決められたルールから何一つ逸脱していない。テンポは指定通り。奏でられたソロは譜面通り。完璧な正確性の上に表現力は成り立つ。それをモットーにして希美を仕上げてきた甲斐があった。彼女の演奏はしっかりと寸分違わぬ正確性を持っていた。それなのに演奏は破綻した。音の力に圧倒されていた。それが原因だろう。故に世界の構築についていけなかった。委縮したのだ。圧倒的な力に。
それまで黙っていた滝先生は頭を振る。制すように手の平を向け、楽譜を睨みつけた。そして私に視線を送る。どうだ、今ので良いのか。そう問いかけているように思えた。私は一歩前に出る。
「今のです。今のが私が散々告げてきた解釈に沿った演奏です。第三楽章から、そしてメインの第四楽章へ。別れを告げつつも希望のある終わりに向かう。まさにハッピーエンド。そうです。これがやりたかった。これを聞きたかった。二人とも、この演奏を続けられますね?」
「「出来ます」」
二人の声は同時に、そして素早く答えた。周囲がその息の合った即答にどよめく。
「全員、今の二人に合わせるように演奏してください。今完全に解釈を出来ていたのはこの二人だけでした。別れは悲しいことだけではありません。希望を持ちつつ、愛を抱きつつ別れることもあるのです。ハッピーエンド。この曲の結末はこの言葉に集約されるのです。ここでの別れの言葉はさようならではありません。また会おうです。よろしいですか、希望を持って、悩みながらも前に進むのです。高校生の皆さんだからこそ、この演奏は一番青い輝きを持って奏でられるはずです。出来ますね?」
「「「はい!」」」
大きな返事が返って来る。音楽室は熱気で満ちていた。冷房はもう悲鳴を挙げている。上手い演奏を前にした時に、演奏者なら思う感情が全員の心の中に渦巻いているのだろう。私もあんな風に。そういう熱意が部員の魂に燃え盛る火を灯していた。
「一度、十分休憩を取ります。休憩後、第三楽章と第四楽章を繰り返し練習します。この部分、編曲において一番強調したい部分を完璧に演奏できるように。それでは、しばし休憩です」
そう言うと先生は返事も待たずに休憩を指示した。途端に渦中の二人は人に取り囲まれる。凄まじい勢いに特にみぞれがタジタジだった。大人気だと思いながら、私はそれを他所に一人の後輩の元へ向かう。
「君は呑まれちゃダメだよ」
私がそう言うと、高坂さんはハッとしたような目でこちらを見る。
「それとも、その席は私が代わろうか?」
次の言葉でその視線はキッとしたものに変わる。期待の後輩、部のトップエース、私の弟子なだけのことはある。
「必要ないです」
「それは良かった。期待してるよ」
それだけ言って私はその場を去る。楽譜を睨んでいる先生の手助けに行かなくては。あの悩みの原因を生み出した一端に、確かに私はいるのだから。
「まとまりそうですか」
「……難しいですね。鎧塚さんの演奏が素晴らしいのは昨年からよく知っていました。その予想すら上回るものが来たことにはやや驚きましたがまだ想定の範囲内です。傘木さんがここまで仕上がって来るとは完全に予想外でした。第三楽章は鎧塚さんを主軸にする音楽構成を考えてきましたが……二人を主軸に据えたものに変更が必要です」
先生は絞り出したような声で言った。しかし、悩んでいるような内容とは裏腹に、どこか感動したような声色を感じた。
「高校生で……と言うのは失礼かもしれませんが、まさかあそこまでとは」
「優れたる芸術は我々の世界の上にもう一つ新しい世界を創る。文学であれ、音楽であれ、美術であれそれは出来る。そして諸君らはその選ばれし世界創造に携われる者なのだ、とかつての我が師は言いました。言葉通りのものを、ここで見られました。私は、もしかしたらこれを見るためにここでの活動を続けたのかもしれませんね」
「世界の、創造、ですか。それはなんとも……」
「まだ未完成ではありますけどね。今のままでは二人きりの舞踏会だ。ですが、音楽とは本来そうでは無い。特にこの曲は。この55人には、55個の悩みや不安があります。それでも、55個の希望を見出すことも出来るはずです。未来へ漕ぎだしていく船の漕ぎ手である彼ら一人一人が、第四楽章では主役なのだと私は思います。青臭いけれど、その青さこそ今しか奏でられない、高校生だからこその演奏になるために大事でしょう。ともあれ、私のやりたいことはほぼ実現されました。後はどこまで全体を引き上げられるかです」
「間に合うと良いのですが……しかし、何とかするのが私の役目ですね」
「ですね」
先生は眼鏡をくいっと上げる。色んなものを迷っていたのがスッとまとまったような雰囲気を醸し出している。
「解決策は見えてきました。ここからはお願いすることも増えると思います」
「お任せあれ。その為に私はここにいます。なにせ、この物語を解釈したのは私ですから」
リズと青い鳥はこれで万全のものになった。恐らく関西大会は突破できる。あと数日。間に合うか否かの瀬戸際。それでも何とかなるだろうという、第四楽章に似た希望の光が私の前に見えていた。二人の周りは人だかりで溢れている。それを横目で見ながら、打ち合わせは続いた。
夕焼けが世界を染めている。校庭も、校舎も、私自身も。グラウンドを見渡せる位置に藤棚がある。その下にベンチがあるのも、北宇治生ならば誰もが知っている。あの後練習はより激しさを増した。二人の飛びぬけた世界についていけるように、途中で脱落しないようにと続けられた指導は苛烈そのものだった。ぐったりとした部員たちを見渡しながら明日も頑張りましょうと先生は告げていた。その時の彼らの顔は……あまり言うべきではないだろう。小さな息遣いやコンマ単位のタイミング。そして凄まじいまでの曲理解。他にの様々な要素が必要だ。全体のレベルを上げるのは容易な事ではない。
けれど、あの二人の演奏に触発されたのか、皆必死に食らいついた結果大分良くなっていた。間に合う。その目途は立ったと言うのが講師陣の見解だった。今は練習が終わり、藤棚を目指して歩いている。探し求めていた人物がそこにいるかもと後輩に聞いたから。
坂を登れば人影が見える。ベンチに腰掛けている。シルエットでそれが誰かを判別するのは容易だった。
「今日の主役の片割れがこんなところでどうしたの」
「ああ、うん。ちょっと涼もうと思って。音楽室の熱気が凄いからさぁ」
「たしかに、今日は一段と熱が出ていた気がする。理由は大体察しがつくけど」
希美の足がぶらぶらと揺れている。私は座らず立ったまま彼女と同じ方向を見る。夕日色の街が見えた。
「いやぁ凄かったよ。やっぱり、みぞれは凄い。まだまだ私じゃ追いつけない。今日のだって、何とか付いて行くので必死だったし。ちょっと油断したらすぐ脱落しちゃいそうだったしね……」
ネガティブな発言とは違い、彼女の声は明るかった。
「まぁでも、ちゃんと現状を認識できたのは大きかったかな。支えるだけは嫌だからね。だったら、もっとしっかりやらないと。並び立ってると言われるくらいには。そうやって戒めないと、すぐ調子乗っちゃうからさ、私」
「よく知ってるよ」
「え~酷いなぁ」
「それとも、そんな事無いよって言ってくれる人の方が良かった?」
「全く。そんな事絶対言わなそうだなぁって思ってるから。言われたらむしろ嫌だ。上辺だけしか見られてない感じがする」
彼女はまだまだ努力している。きっとこれからもし続けるのだろう。信じて夢見た未来を目指して。その両足で走り続けるのだ。自分の意思で、自分の感情に従って。彼女は前よりもずっと、強くなっている。その確信が、私の中にあった。
「一つだけ、よくわかんない事があってさ」
「なに?」
「みぞれが私を好きでいてくれるのは分かってる。別に嫌でもないし、嬉しいよ。ただ、何でそこまで……とはたまに思っちゃうことがある。どうして、私なんだろうって。別に優子だっていい訳じゃん? 仲の良さとかそう言うのは過ごしてきた時間の長さとかで決まるもんじゃないし」
「……それはそうだね。まぁ天啓みたいなものなのかもしれない。多分、希美にとって何でもない事だったんだと思う。けど、一人きりだった少女には、手を差し伸べた希美はきっと救世主にさえ見えたのだ。希美が大したことないと思っていても、救われた方は、ずっとそれを忘れない。そういうものなんじゃないかな。希美は恐らくだけど、みぞれのその『救われた』っていう感情を理解できる日は来ないのかもしれない。来なくても良い。意識しなくてもいい。自分でその行いをどんなに卑下しても、それに救われてる人はきっとどこかにいるのだから」
「そう、なのかな」
「そう。それが傘木希美の優しさ。それが美徳。差し伸べた光が、きっと誰かの明日を照らしてる」
「そんな凄い人じゃないんだけどなぁ、私は」
彼女は照れるような声で言った。夕日は半分以上沈んでいる。彼女の顔はどんな色なんだろう。そう思って振り返ると、案外普通そうな表情でそこにいた。少し紅いのは光りか紅潮か。受け取った方がどう思うか。それが一番重要だと、去年香織先輩は言った。きっと、希美とみぞれの関係もそうなんだろう。みぞれがどう受け取ったかが重要だった。例え、それを希美が大したこと無いと思っても。
その自称大したことない行いに救われている人は沢山いる。妹だってその一人だ。その一本筋の通った行いに救われて、妹はもう一度日の当たる場所に歩き出した。希美の太陽のような明るさは、多くを照らしている。空に輝く導きの光のように。私はきっと月なのだろう。彼女がいないと、輝けなかった。
「少なくとも、みぞれも、涼音も、そして私も救われている」
「え?」
「初めて会って、それから声をかけ続けてくれた。希美がどうしてそうしたのか、私は知らない。けれど、私は確かにその行いに救われた。失意のどん底から立ち上がろうと思えた。私はそう言う形や数に出来ない大きなものを、しっかり貰ってるんだよ。ずっと、これまでの長い時間」
彼女の返事はない。ただ、それでも嬉しそうな顔をしていた。
「もらいっぱなしじゃ、なかったんだ」
「勿論。むしろ、私が返してるんだよ。それが、いや当然それ以外にもたくさんある訳だけど、それは君の良いところで、綺麗なところだ。だから……」
「だから……?」
接続詞の使い方が間違っている気がする。けれど、もうそんなことを気にしている場合じゃない。きっと今しかないんだ。この後、私は卒業と共に日本を発つだろう。そうでなくても練習は激しくなり、きっとこういう時間はとれなくなる。彼女も受験勉強がある。音大だけでなく、他の学校も受けるのだから。そうだ、今しかないんだ。普段は良く回る口も今は鋼鉄の扉のようで、とめどない思考が脳内をミキサーする。怪訝そうな顔で見つめる彼女を見て、最後の決意を固めた。合格発表よりも緊張しながら、人生で最初の台詞を話す。このままで終わりたくはないから。
「だから、私は希美が好きなんだ。今言うのは場違いかもしれないし、上手い言い回しも思いつかない。だけど、もし嫌じゃなければ……ずっと前から好きでした。私と付き合って下さい」
その瞬間は一瞬だっただろう。けれど、私にとって永遠だった。陳腐な表現だ。けれど、現実はそんな表現でしか表せないくらいに心臓が早鐘を打っていて、私の思考はぐちゃぐちゃだった。彼女が一瞬フリーズして、瞳が揺れている。私は今どんな顔をしているのだろう。自分史上最高に情けない顔なのは容易に想像がついた。断頭台への列に並ぶ死刑囚のような緊迫が私の胸を満たす。早く終わってくれないか、私の心臓が破裂する前に。
僅か十秒かそこらの時間が、百年にも感じられたその終わり。彼女は私をしっかり見据えながらゆっくり口を開く。その頬は夕日では言い訳できないくらいに真っ赤に染まっている。
「嫌じゃなければって……そんなの、嫌な訳無いじゃん!」
そう叫ぶと彼女は勢いよく大地を蹴って立ち上がる。そして一気に私の方へ間合いを詰めた。跳ね上がった衝撃でポニーテールが揺れている。黒い髪が視線を誘う。それを遮るように彼女の両手は私の頬に触れて強制的に視界を彼女の顔で満たすようにさせる。そして、本当に一瞬。一拍のうちに。背伸びした彼女の唇が私の唇に触れた。
混乱と困惑と歓喜と幸福がごちゃ混ぜになった私の小さな感情を彼女の色が侵食していく。レモンの味がどうとか言ってる場合じゃないほどに、動揺していた。終わるなと願うものほど早く終焉を迎えるもので、ゆっくりと彼女は私から離れる。先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか煙を上げている。目は白黒しているし、視線は所在なさげに宙をさ迷っている。
「これが答えだから、これからよろしく!」
それだけ言うと凄まじい速さで彼女は坂を駆け下りていく。その背中を呆然と見送りながら、私は立つことしかできなかった。徐々に現実を認識していく。同時に思考がはっきりしてきた。叫び出したい気持ちを抑え、抑えめのガッツポーズをする。足はがくがくとしている上に手は震えている。
それでも思いが通じたという喜びは私の全てを支配していた。恋が実るとはこういう気持ちなのだと、不思議な感動と共に初めての気持ちを味わっていた。自分の顔が今どうしようもないほどだらしないのだろうと思っているが、それすらもどうでも良いほど、幸福感に包まれていた。
グラウンドの上の空を、二羽の鳥が寄り添うように飛んでいた。