「まずは楽器の搬入です。パーカッションの部員はこのまま松本先生の後について行ってください。楽器ケースや荷物は指定された場所以外に置かないように。北宇治の制服を着ている以上、何か問題を起こした場合は自分だけじゃなくて学校全体に迷惑がかかります。ルールを守って、今日と言う日を楽しみましょう!」
甲高い指示が飛ぶ。関西大会の会場は、外であっても既に夏の温度に負けない熱気が渦巻いていた。それに負けじと優子は叫ぶ。バスを降りてそうそう、会場の隅に集まった北宇治吹奏楽部に周囲から好奇の目線が刺さる。前半の部はもう終わり、その結果も届いている。明静工科や秀塔大附属が金で、立華が銀などと言う情報が飛び交っていた。
トランペットのメンバーに混じり、出番を待つ。演奏者はこのクソ暑い中でも冬服だ。反対にそうでない人たちは夏服。その明確な違いは正装の多い会場でよく目立つ。私は後者の人間なので暑い中夏服で居られる恩恵にあずかっている。去年出たメンバーもいるが、勿論今年が初めての人もいる。府大会ならばまだしも、強豪の集う関西大会。緊張もひとしおだろう。小日向さんはどことなくソワソワしている。
「不安?」
私の声掛けにびくりと反応する。どうやら図星らしい。
「まぁ、そうだろうとは思います。いつだって、どんな場でだって緊張はするものですよ。自分を信じて……と言いたいところですけどもし信じられないなら、自分の使ってきた時間を信じましょう。君は手を抜いてなどいません。ならば、使った時間は君に応えてくれるはずですから」
「……はい」
それでもまだ固い感じはするが、幾分かマシになっただろう。それはともかく、人というものは慣れ親しんだ声と言うのはなかなか忘れない。特に、音楽に従事していると尚更。昔懐かしい声が後ろから響いてきた。
「あ~! いたいた!」
手を振りながら駆けてくる姿に我らの部長はすっかり骨抜きだ。
「香織先輩~~!」
目と語尾にハートマークをつけながら飛び跳ねている。小日向さん他一年生はポカンとした目で見ている。これまで部長としての姿しか見てこなかったのだから仕方ないことだ。反面事情を知っている二三年生は苦笑気味の目だ。それにしても、この感じ。懐かしいものがある。
香織先輩は白いワンピースを身にまとい、幾分か大人になった印象を受ける。あんまり見ていると殺されかねないので、ちょっと目を逸らした。
「久しぶり」
その言葉は私に向けられたものだった。
「ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです」
ピシッとそろえた足。久方ぶりの最敬礼をすることになるとは思いもよらなかった。
「そっちも、あんまり変わってないね」
「おかしいですね。ちょっとは変わったはずなんですが」
「そう言われてみると、ちょっと大人になったのかも」
「良かったです。そうだ、後で滝野にも声かけてあげてください。立派に、パートリーダーをやってますから」
あんまり独占していると過激派のファンが凄い目で見てくるので、そうそうに退散する。それでも伝えるべきことがあった。
「お約束は必ず守ります。全国へ行くのは、私たちです」
返事は無かった。けれど、確かに頷いていた。後は部長に任せて、私は人混みに戻る。名残惜しさはある。私がまだ後輩で居られた時間の象徴に対して、無感動ではいられない。けれど、今抱くべきは感傷などと言う甘い感情では無かった。
「先輩が、あんな風にしているの初めて見ました」
「酷いですね。私だって然るべき人にはキチンとするんですよ」
一年生の、それこそ去年一昨年を知らない後輩からのからかいに冗談っぽく返す。
「あの人は……敬うべきなんですよ。特に私は、ね」
沢山迷惑をかけた一年生の時を思い出す。あそこで残る選択をしていれば違う未来もあったのだろうか。今が幸せであることに間違いはない。それでも少し引っかかった。私の言葉に何かを感じたのか、後輩たちはそれ以上触れてくることは無かった。先輩は田中先輩に連れられ雑踏の中に消えていく。その姿に、また一つ何かと決別できた気がした。
「さようなら、私の後悔。さようなら、私の憧れ」
小さく呟く。恋している今だからこそ断言できるが、あの人に対して抱いている感情は恋などでは無い。希美に向ける感情とは全然違う。けれど、確かに私はあの人に人間性に、その善性に憧憬の念を抱いていたのだろう。そして同時に自分の行動への後悔も。それと別れる事が出来た気がした。
何度目かの音出しを終えて、部員たちは大ホールに隣接するリハーサル室へと移動した。鏡張りの狭い部屋が最後の調整の空間。多くの部員はウォーミングアップに余念がない。雑味のない洗練されたチューニング音が響いている。それ一つとっても強豪の名にふさわしかった。
「三、四、」
先生の指揮棒に合わせて課題曲の一音目を何度も確認する。最後の音出しで何を重視するかは完全に指導者任せだ。人によるとしか言えない。我が校では出だしの発音に拘っている。最初の一音で演奏の良しあしは大分決まる。マラソンをイメージすればいい。大勢がいるのにスタートでコケたら痛いだけでなく踏みつぶされかねない。それと同じだ。ただミスするよりも大きなダメージを食らう。
「皆さん、心の準備は出来ましたか」
深呼吸の音が幾つも聞こえる。
「京都府大会に比べても、皆さんは格段に上手くなりました。結果がどうなろうとも今日の一番の演奏者は皆さんであると私は信じています。最高の十二分間を作り上げましょう!」
「「「はい!」」」
場を包み込むピリピリと皮膚を走る緊張感。この空気は嫌いじゃなかった。先生から場を引き継ぎ、私の話を始める。何を言おうか、色々考えていた。それでも、この場に立つと胸に込み上げてくるもののせいで、考えていたこともどこかへ吹っ飛んでしまう。
「ここまでよく頑張ってきました。私は皆さんの努力を、そしてその成果を近くで見てきた自信があります。皆さんが藻掻きながら、時に苦しみながら。それでも前に進み続けてきたのを、よく知っています。例え今回の結果がどのようなモノになろうとも、皆さんの行ってきた全てに意味はあると、そう考えています。迷いや悩みを抱きながら、それでも前に進んでいく。今年の自由曲はそういう解釈で演奏するようにお願いしました。皆さんにだからこそ、この解釈を自分のモノとしながら演奏できるはずです。皆さんの全力の演奏を聞かせてください」
「「「はい!」」」
「最後はいつものです。今日と言う本番は、何も心配せずに演奏しなさい!」
「「「はい!」」」
「よろしい。では、期待しています」
「ありがとうございました。では、部長から一言お願いします」
「はい」
先生に促されて優子は前に立つ。足を肩幅に開いて、彼女は大きく息を吸った。
「北宇治の吹奏楽部は、二年前は滅茶苦茶でした。私が一年生の時と、今の部活は全然違います。色んなことがありました。本当に」
トラブルは数えきれないほど存在していた。小さなものから大きなものまで。それを一つ一つ潰して、私たちは今ここにいる。私がしてきた苦労なんて微々たるものだろうけれども、それでもこの部に携わって来たことで何か出来たことが少しはあったと思う。この部は去年生まれ変わった。その再誕に立ち会えたのは幸運であり光栄な事だったと思う。
「だからこそ、私はこんなところで終わりたくない。まだまだもっとずっと吹いていたい。次の十二分間に全力をぶつけてやりましょう。全員で、全国へ!」
「「「はい!」」」
他の人の言葉は今はいらない。言うべきなのは全国へ行ってから。
「じゃあ、いつものやります。北宇治、ファイトー!」
「「「オー!」」」
いくつもの拳が天高く掲げられた。揃う声が心を激しく鼓舞する。もう既に音楽は始まっている。全国への切符は、たった三枚だけ。何て残酷な話だろう。どれだけ時間をかけても、それに見合う対価があるかどうかなど誰も分からない。それでもやるしかないのだ。やらなければ、何も変わらない。人生とは、きっとそう言うものだから。
暗幕で遮られた空間では、すぐ隣で十四番目の学校が吹いている。曲名は「ジェリコの戦い」。聖書の中に語られる物語を描いた曲だ。激しい音が心臓を揺さぶる。暗闇でも、黒いポニーテールが揺れているのが見えた。
「やっぱりさ、私は幸福なんだと思う」
唐突に希美はそう言う。
「夢もあって、友達もいて……恋人もいて。そして一度辞めたのにここにいる。逃げ出した癖にもう一度戻ってきただけの人間なのに」
「……」
「でもさ、人間って欲深いって言うけど、私も多分そうだから、もっともっと欲しくなる。全国に行きたいって欲望が渦巻いてる」
「行けるよ、絶対。一人で見てる夢じゃないから。その欲望は、この場の誰もが何かを捨ててでも思い願っているもの。そして、希美はもう十分頑張って、悩んできた。だから、同じ夢を見る資格はもうとっくの昔にあるんだと思う」
「……敵わないなぁ」
彼女は一度スッと髪をほどいて、決意したようにもう一度結びなおす。同時に前の団体の拍手が流れ込む。時間がやって来た。
「私から目も耳も、離さないでよ」
グイと迫って来て言う彼女に私は見つめ返しながら言う。
「ずっと前から見てるよ、いつだって」
満足そうにハイタッチして、彼女は十二分間の戦場へ向かう。その背中は前よりずっと輝いてた。その後ろに私の妹が続く。話の中身を聞かれていたのか分からないが、少しニヤニヤしている。随分余裕のある事だ。その辺図太いのは良いんだか悪いんだか。一瞬振り返り「頑張ってくる」と口パクで言ってくる。「頑張れ」と返したら、ニッコリ笑って前を向いた。その手には、私が送ったフルートが輝いていた。
胸の中ではロザリオが揺れている。彼女は北宇治の演奏を聞いたらどんな風に思うのだろうか。多分、笑ってくれるだろう。何より音楽が好きだった。だから、北宇治の演奏はきっと、彼女の心にも届くはずだ。空の上からでもよく聞こえるだろう。彼らの奏でる、至高の音楽は。
「続いての演奏は、プログラム十五番、京都府代表、京都府立北宇治高等学校吹奏楽部の皆さんです」
ステージに立ったその瞬間から演奏は始まっていると思え。そう口を酸っぱくして言ってきた。私の教授からの教えだった。観客はそのレベルに見合ったものを求めている。当然、この場では全国へ行った実力に相応しい演奏を期待されているのは明白だ。袖から見る姿は頼もしい。希美も見つつ、視界には全体を納める。ついでに希美の近くに座っている妹へも視線を送る。
「課題曲Ⅳ、自由曲は卯田百合子作曲『リズと青い鳥』、指揮は滝昇です」
先生が指揮台に登れば破裂音のような拍手がその背中を殴る。そしてその手が大きく振り上げられた。音もなく楽器を構えた彼らは号令を待つ。研ぎ澄まされた刃のような鋭さで集中は一点に収束する。そしてその腕は振り下ろされた。
静寂を破るけたたましくも柔らかな音が静寂を切り裂く。課題曲はそこまで心配していない。楽器は幾重にも積み重なって音の層を作る。雄大だけれども飄々としたトランペットの音。弾むホルンのユニゾンはすぐさまその形を変えて、トロンボーンのかき鳴らす音の波へ呑まれる。スネアドラムのリズムが旋律に軽快な雰囲気を与える。
フルートやクラリネットが美しい音色を奏でていく。流れる雲のように、草原を走るそよ風のように。全体の演奏は先生と私が念入りに打ち合わせをした通りに進んでいく。今年の課題曲は楽譜に指示が無い部分が多い。そこを無個性に演奏しないように、細かく指示を与えていた。それがしっかりとこなせている。違う動きをするトランペットもキーとしての役目を確かにこなしていた。
ホルンやコントラバスのバランスも良い具合だ。歌うようなサックスも流麗な音を出している。徐々に曲はメインテーマに戻っていく。最後のエンディングは調性含め捻りのある構成になっている。それを上手く終われるように工夫を凝らしてきた。終止感を持って、音程、音型が崩れないように苦労をしたのを思い出す。そして、曲は盛大なフィナーレを迎えた。
今年の関西でⅣ番を選んだのは北宇治だけ。これが吉と出るか凶と出るかはまだ分からない。美しくもどこか不穏を孕んだ課題曲の次にくる自由曲。これがどうバランスを作りつつ物語性を表現しているかで明暗を分けるだろう。
自由曲が始まる。先生の目を真っ直ぐに見つめる希美がその口火を切った。あの目で見られるなら、指揮台に立つのも悪くない。揺れる心を抑えるようにくだらない事を考える。静謐なフルートのトリルのなか、ピッコロが作品全体を通して現れる「青い鳥のテーマ」を奏でる。このモチーフが要になるので最初に示した。
リズと青い鳥。二人の少女が出会い、そして別れるまでの日々。物語をなぞるようにして、音楽の場面は次々と展開していく。リズの穏やかながらも孤独な日常を終わらせる大嵐が吹く。びゅうびゅうと唸る風の音は次第にやみ、リズと少女の幸福な時間が始まる。第二章の喜びに満ちた豊かなメロディー。落ちた沈黙を埋めるトランペットのソロが世界を鮮やかに染め上げる。そこにコントラバスとコントラファゴットのユニゾンが奏でる不穏な和音が、別れを予見させる。
観客にも有名な曲なので、戸惑いが会場の空気として感じられた。第一楽章の後半は町に行くシーンがあるのだが、ここをバッサリとカットしている。リズは森の家で孤独に暮らすだけの少女のように描かれていた。これはリズの孤独性をアピールするための措置。街の中に存在するコミュニティを入れず、彼女と青い鳥が扮する少女の出会いの衝撃性を強調していた。
そして始まる第三楽章。まずはオーボエが先陣を切る。合宿の後のあの演奏から変わらない圧倒的な完成度。美しさ以外を削ぎ落した音色は聴者に麻薬のような作用を引き起こす。ただ、それだけではこの曲は完成しない。さぁ、行け。今だ。今までの全てをここにぶつけてくれ。そう願い、手をきつく握りしめる。
そして、そこに世界が顕現した。ステージを、いや、舞台裏までひっくるめた会場全体を巻き込んで、小さな箱庭が現れる。リズと少女の住まう小さな小さな世界。聴衆はそれを見る事しかできない。まるでミュージカルを見ているような物語が目の前で展開される。フルートとオーボエの掛け合いが、朗々と響く。他の楽器が世界の細部に色を付けていく。別れたくない。別れなくてはいけない。
離れたくない、一緒に居たいと青い鳥は泣く。悲しい、寂しい、つらい。そんな感情が刺すように音に乗る。それに返答するように、リズは包み込む。その身体を抱きながら、きっと翼無き少女は言う。「空を飛べ」と。対話は続くのだ。音色の毛色が少し変わる。嘆くだけだった鳥へ、少女は語る。「先に空の向こうで待っていてくれ、必ずそこへ追いつくから」。翼なき少女は有翼の鳥とは今は対等ではいられない。あまりにも違い過ぎるから。けれど、いつか、いつの日にか二人は共に飛べる日が来るから。生きてさえいるのなら、私たちはまた会える。
歌うような音色がそう語る。諭すようにその音を響かせる。完成した音色が物語を、空想の世界を現実に上書きしていく。きっと、青い鳥は断らないと信じている。例えエゴでも、それが自分だと決めたから。覚悟を決めた少女は、愛ゆえに一時の別れを促す。
青い鳥を示すフルートの音は切なさを込めながら希望の色も加わった音になる。彼女もまた、愛していた。故に受け入れた。少女の決断を受け入れて、先に飛び立つ覚悟をした。きっと、追いかけてくれると信じているから。対話はいつしか約束へと変わっていく。愛と優しさと、そしてエゴに包まれながらも二人はそれぞれの道を歩むだろう。その先にきっと、交わる日が来ると疑わない。それは未来を信じている若者だからこそ、吹ける音なのかもしれない。可能性を疑わず、走り出せる若者故の約束に感じられた。そしてこの約束はきっと叶うだろう。
聴衆は動きすらしない。皆、その世界に心を奪われている。審査員の一人が、持っていたペンを手からすり抜けて落としたのがチラリと見えた。そして第四楽章に入る。そのタイトルは『遠き空へ』。この音楽で示したかったメッセージ。作曲者が付け足した物語の続き。恐らく、観客も審査員も分かっただろう。我々の演奏は童話のなぞるのではなく、作曲者の解釈に基づいているのだと。だから第三楽章もカットされている部分が多い。対話だけを残しつつ、それ以外を削ぎ落した演奏は、全て第四楽章に繋げるための布石に過ぎない。
チャイムの音が鳴らされる。出航する船のベルのように。クラリネットやトランペットが奏でるメロディーはまるで大海原の波のようであり、船の帆を張る海風のようでもある。美しく力強く未来に進む少女の背中を押す。前進し続ける船は人生を示しているとも言えるかもしれない。不安もある。悩みもある。それでも恐れはしない。そう謳うリズの高らかな歌が聞こえてくるようだった。
ファンファーレが希望への道を示す。青い鳥にとっては飛ぶべき進路。リズにとっては追うための航跡。愛と希望という翼を抱き、青い鳥は己の道を飛び始める。その壮大さ、その優雅さ。到底人には手の届きそうもない物だ。走り抜けるフォルティシモが爽やかな風となって駆け抜ける。去り行く羽ばたきの音。そして誰もがその音に、その翼を、明日を信じて見上げる一人の人間の姿を見るだろう。その口元にはきっと笑みがあるはずだ。
これは別れの物語などではない。そう聴衆は気付いただろう。そう、これは愛と希望の物語だ。夢を信じて、走り続ける愚かしくも気高い人の物語だ。そして、また出会うための物語でもある。行進曲は鳴りやまない。止まることなど知らない、青春真っ盛りの高校生だからこそ奏でられる演奏が、全開で展開されていた。
世界は静かに構築を止める。止まった指揮棒。それが、箱庭の終焉。聞き手は一気にこの現実世界に戻される。先生は腕を降ろし、振り返って指揮台から降りる。他の学校よりも圧倒的に長い沈黙の後、割れんばかりの喝采が飛び出してきた。その激しさは去年の比ではない。興奮気味な声が会場中から聞こえる。審査員席でも隣の人にまくし立てている人が見える。
「ただいまの演奏は、京都府立北宇治高等学校吹奏楽部の皆さんでした」
ゆっくりと部員たちがステージを後にする。その間も拍手は消えやしない。この演奏は成功だった。恐らくどんな結果になったとしても、この演奏は伝説として語り継がれるのだろう。その証拠に、彼らがいなくなっても、最後の一人が観客席から見えなくなるその瞬間まで、いやその後ですら万雷の拍手は響いていた。
「表彰式が始まりますので、各校の代表者は速やかに指示された場所へ移動してください」
最後の学校の演奏を終えて、ホール内には後半の部の全ての参加校が集められている。全国大会への出場を決めた三校の発表も同時に行われる。去年、夢物語が現実になったのもここだった。そして最早夢物語ですらなくなった。北宇治が全国を目指す。そう言った時、二年前ならば哄笑されただろう。だが、今はどうだ。笑う者はいない。是非頑張ってくれ、と頷く者ばかりだろう。
この何も出来ない時間は苦手だった。一分が一時間のように感じられてどうしようもない。隣に座っている先生も、私も無言だ。責任を背負ってる者同士、何も言えない。どんな結果であれ、受け止めようと思っている。
しばらくして、ステージの上で各校の代表者が並び始める。北宇治の代表者は当然部長と副部長の二人だ。ステージの端の台にはトロフィーや盾が所狭しと陳列されている。進行役が述べるお決まりの注意事項など、とっとと飛ばして欲しい。もうどうせ誰も聞いてやしないのに、律儀な事だ。多分向こうもそれは分かっているのだろう。軽く咳ばらいをして客席を一瞥した。自校も、他校も、みんな祈るようにステージを凝視している。
「十二番、大阪府代表、大阪東照高等学校。ゴールド金賞」
その言葉に会場の一角から明るい歓声が飛ぶ。流石は強豪の一角。金は固いようだった。
「十三番、和歌山県代表、果永中高等学校。銅賞」
「十四番、兵庫県代表、光川高等学校。銀賞」
矢継ぎ早に呼ばれる学校名。だがまぁ、ここは正直そんなに心配していない。ここで金でなければ審査員に抗議文を送り付けるところだ。それくらい演奏は良かった。観客の反応もそれを示している。あの演奏を評価できないなら、音楽を辞めた方が良い。示された結果に反応する人のそれは様々だ。泣き崩れる者、納得した様子の者、最初から諦観していた者、虚勢を張る者。
「――――十五番、京都府代表、北宇治高等学校。ゴールド金賞」
わぁっと周囲から喜びの声が零れる。だがうかうかしてはいられない。ここはあくまでも通過点。本番はこの後だ。だが、この刹那は金の喜びに拍手を送りつつ、浸っていよう。時間の進みはやや早くなった。
「二十二番、京都府代表、龍聖学園高等部。ゴールド金賞」
プログラム最後の高校名の際に野太い歓声が上がる。男子しかいないスペースで抱き合う部員たち。龍聖が関西へ来たのは今年が初めてだった。その姿はどこか去年の北宇治を思わせる。彼らの中にも外からは見えない色んなものがあったのだろうと思う。そのサクセスストーリーの中にはきっと、多くの思いが詰まっている。だけれど、こっちにだってそれはあって。どちらとも願いが叶うかは分からない。実に、残酷な話だった。
『続きまして、来る十月に行われます全国大会に出場する、三団体を発表します』
ここからが本番だ。午前午後で金を取った資格を有する学校はどれも雰囲気が変わる。ここからが本番だった。身を固くする部員たちの前で進行役は再び咳ばらいをする。もしかすると彼も緊張しているのかもしれない。何千もの視線に見つめられ、何百もの思いの籠った眼差しを受けるのだ。仕方のない事だろう。有力候補は明静工科で三番、秀塔大附属が八番、大阪東照が十二番、北宇治が十五番、龍聖が二十二番だ。自分達の番号より後の学校が呼ばれた時点で、夢は終わる。
誰もが息を止めていた。ゴクリと唾を飲み込み、手を握りしめて凝視する。その唇の動きすら、見落とさないように。
「一校目。三番、大阪府代表、明静工科高等学校」
誰もが納得の結果に拍手が巻き起こる。礼儀として軽く手を叩き、次に意識を向ける。そして、ゆっくりとその口は開かれた。本当に時間が止まったような、その後。
「二校目――十五番、京都府代表、北宇治高等学校」
一瞬の静寂の後に爆音の歓声が響き渡る。大阪三強と呼ばれ、かつてはこの発表で名前を呼ばれ続けてきたうちの二校を破り捨てて、北宇治が取った。ヘナヘナと腰が抜けるのを感じる。これで、ひとまず使命は一つクリアだ。後はこの先で金を取るだけ。一年生は抱き合って泣いている。二年生は飛び跳ねて泣いている。三年生はその場で号泣していた。
希美はみぞれに抱き付いている。吉沢さんは高坂さんと抱き合いながら泣き合っているし、後藤は男泣きしている。小日向さんは失神しそうだった。妹が少し余裕そうなのは去年中学で通った道だからだろう。フルートの泣いてるメンバーに抱き付かれて、揉みくちゃにされながらもパートリーダーの井上の背中をさすっている。私の心安堵と脱力で満たされる。緊張がゆるむと涙が出てきた。だけれど、まだ本当には泣けない。まだ全部の終わりでは無いのだから。
「三校目。二十二番、京都府代表、龍聖学園高等部」
またしても地響のような咆哮が会場を揺るがした。ダークホースがサクセスストーリーをかましている。その姿はやはり去年の北宇治に被って見えた。彼らの演奏は確かに素晴らしかった。聞いていて、それはしっかりと伝わる。府大会から更に進化を遂げている。良くここまで仕上げたと言わざるを得ない。流石は月永源一郎。納得の手腕だった。騒いでいる会場の中で、次への思考を巡らせる。どうすれば、金を取れるか。それが今の至上命題だった。
「嘘でしょ、大阪東照と秀塔大がダメ金?」
「東照、何年連続だっけ。聞き間違いじゃないよね?」
「北宇治今年二年目?」
「まぁあの演奏なら納得でしょ。みんな泣いてたし」
「滝先生に加えて桜地凛音抱えてるんだし、それもそっか。源ちゃん先生も凄すぎる。流石の指導力って感じ」
「明工と龍聖の教え子対決は全国に持ち越しかぁ」
「ここまで来たらもう三強も古いね」
「北宇治も頑張って欲しい。県立の希望だよ」
「来年は厳しいかもしれないけどね。ブレーンは今年卒業みたいだし」
多くの言葉があちらこちらから聞こえてくる。その喧騒の中、私は呆けている先生に声をかけた。
「先生、おめでとうございます」
放心状態だった先生は現世に戻ってくる。ズレた眼鏡を直しながら、彼は何とか微笑んだ。
「ええ、取り敢えずは第二関門突破です」
「ですが、油断はできませんね。厳しく言うなら辛勝でしょう。かなり際どいところでした」
「はい。課題はまだまだ多いです。これからも休めそうにありませんね」
「仕方のない事でしょう。夢に憑りつかれているんですから。私も、先生も。ですがまぁ、今ばかりは素直に祝福させてください」
手を差し出す。一瞬戸惑った先生だったが、私の手を握り返した。その目には光るモノがある。後ろでは松本先生がティッシュの箱を抱えながら号泣していた。
「先生、私、しっかりやれましたか」
「もちろん」
高坂さんは涙ぐみながら私の前でたどたどしく話している。その目は真っ赤だった。
「関西でそんなに泣いてどうするの」
「先生の最後の年だから、絶対全国行くんだって、そう思ってたので、嬉しくて」
「そうか……ありがとう」
吉沢さんがそんな高坂さんの背中を支えながら優しい笑顔を浮かべている。男泣きしている滝野の背中を加部が豪快に叩いている。彼も同じパートの仲間である加部を一緒に全国に連れていくと、パートリーダーとして頑張っていた。その努力が報われたのだから、涙も頷ける。三年生は特に泣いている。あの苦しい日々、悩みの日々。幸せな事ばかりでは無かった。トラウマは我々三年生全員に根付いている。
だからこそ、救われた気分になるのは理解できた。クラリネットパートでは島が後輩たちに囲まれている。トロンボーンの岩田は後輩に支えられながら、へたり込みそうになっている。ホルンの岸部は後輩から胴上げされそうになっていた。喜色に満ちるこの景色に、私も思わず涙が出そうになった。
「いやぁ、最高の演奏だったね」
橋本先生がニコニコと笑いながら近づいてい来る。
「あんな感動する演奏、全国でもそうそう聞けないよ。ボクも高校時代含めて長いこと吹奏楽に携わってるけど、ここまで感動したのは久しぶりだなぁ」
「ありがとうございます。指導者冥利に尽きる結果になりました」
橋本先生は私にスッと手を差し出して来る。
「本当におめでとう。もう、立派な指導者だね、桜地先生」
「ご指導のおかげです、橋本先生」
来年二回目に全国に連れて言ったら先生と呼んでくれ。そういう風に彼に言った。そして彼はそれをしっかり覚えてくれていたらしい。差し出された手を取る。ガッチリとホールドされた分厚い手は、確かな温かさを持っていた。
集合場所に篤まった部員の顔は明るい。誰しも笑顔を浮かべていた。一度ある事は二度ある。その言葉を体現するように、我々は最早奇跡ではない結果を成し遂げたのだ。夕暮れの中、その瞳は空の星を映しながら綺麗に輝いて整列している。
「皆さん、お疲れさまでした。二度目の全国出場という結果を掴むことが出来たのは、皆さんの練習の成果だと思います。しかし、まだ終わったわけではありません。去年よりも私たちに求められる演奏のハードルは高くなっています。それをしっかり意識して、明日からの練習を行っていきましょう」
「「「はい!」」」
その返事は堂々と、そして溌溂と。未来はきっと輝いていて、今年は金を獲って帰れる。そういう希望に満ちた声だった。物語はハッピーエンドが良い。自由曲の作曲者はそう言ったという。その言葉の通りの結末になれそうな予感がしていた。
帰りのバスでは騒ぎ疲れて泣き疲れた部員たちがスヤスヤと眠っている。緊張と解放、そして歓喜。これが同時に来れば疲れるのも納得だ。バスの席はもう好き勝手になっている。優子も松本先生も、今日は止めなかった。隣の希美は寝ているんだかよく分からない。ガコンと揺れた拍子に明らかにこっち側に傾かない筈なのに寄りかかって来たので、起きていて狸寝入りをしていると判断した。ちょっとその鼻をつまんでみる。五秒で根を上げた。
「バレてたかぁ」
「バレバレ」
前の席ではみぞれが剣崎さんと共に爆睡している。起こさないように静かに会話をしていく。思い出したのは去年の関西大会の事だった。
「私はさ、約束を守る人間なんだよ」
「へ? 知ってるけど、いきなりどうしたの」
「去年の関西大会で言ったこと覚えてる? 今日、心の底から北宇治の栄光を笑えた?」
去年私はこう言った。「君を来年あそこに、いいやその先に連れていく。名古屋の会場で、全国から集まった選りすぐりの奏者の前で、演奏させる。必ずだ。だから今はそんな顔しないで。自分の辿る道なんだから」と。
そして今、その約束は果たされ、希美は人生初の全国大会へ進むことになった。去年はただ見るだけだった栄光の舞台に、今は自分が主役の一人として参加している。私はキチンと約束を守れた。それだけでも、とても誇らしく思える。それだけではなく、彼女自身も絶え間のない努力をしてきた。言ってみれば二人で叶えたようなものだった。
それでも良いのかもしれない。全国と言う夢は、一人で見るものでは無いのだから。夢とは、そういうものだろう。
「勿論。ずっと覚えてたよ。みぞれとの約束と一緒に、どっちも」
「そっか」
「ありがとう。ずっと、ずっとありがとう。私との約束、覚えててくれて、叶えてくれて……本当に、ありがとう……」
声に詰まった希美の頬には一筋の涙が流れている。これまでずっと頑張ってきたんだ。あと少し。あと少しで、夢は現実のものになる。五分もすれば、少し落ち着いた様子で、彼女は私に尋ねる。
「後どれくらいかな」
「さぁ、一時間くらいじゃないのかと思う。道が混んでなければ」
「う~ん一時間、か。じゃ、しばらくこうしてても良い?」
彼女の左手が私の右手を掴んでいる。
「断るはずないでしょ」
「……好きだよ」
唐突に言われた言葉に驚いて彼女の顔を見ればスースーと寝息を立てている。寝付きの良いことだ。それくらい疲れていたのかもしれない。私も、この時間くらいは身体を休めよう。寄りかかっている温もりにどこか安心感を覚えながら、ゆっくりと目を閉じた。
―――――約一時間と十五分後。顔を真っ赤にした剣崎さんに申し訳なさそうに起こされるまで二人で熟睡していた。