「はい、それじゃあ幹部会を始めます」
優子が開始の合図を行う。いつもの幹部会は、時間通りに開催された。教室の中央に五人が机を向き合わせて座っている。些細な連絡から大事な伝達まで、これまで多くの連絡を行ってきた。対面だけではなく、画面上でも何回も話し合いをしたりしている。集団行動はやる事が多い。起きる問題も多い。それを少しずつ処理していくのが我々の仕事だった。
「まず、文化祭の曲決めから。みぞれ、よろしく」
「うん」
みぞれは三年生からの意見を集計していた。今年の文化祭における演奏時間は45分。そのうちの12分ほどは自由曲&課題曲をやる事になっているので、それ以外の33分を何で埋めるのかが問題だった。移動時間を含めると、30分ほどが自由な演奏時間として使えることになる。
「集計したら、こんな感じになった」
渡された紙には多くの曲名が書いてある。三年生十五人だけから集計してコレなので、もっと人数の増える来年の集計はより一層大変そうだった。それでも幾つか被っているモノもある。
「この中からどうやって決めるの?」
「それなのよね……」
希美の質問に、優子は難しい顔をする。どういう風に希望を通す、或いは通さないのか。全部出来れば良いのだが、そういう訳にもいかない。一般受けする知名度も必要だろう。そういう意味では、好きな曲だけ出来るわけでは無い。演奏会はお客さんがいないと成り立たないのだ。それは、文化祭であっても変わりはしない。
「くじ引きでもする?」
「知名度で選ばないといけないから。後は構成も考えて、どういう流れでやるかとか、時間の兼ね合いとか、そういうのを考えないと」
「そっかぁ」
一人で選ぶ時に楽なのは、こう言うことを何にも考えないで決められるということだった。とは言え、それは部活動としてはあまりよろしくない。去年は何から何まで割と強引に話を進めていたし、それでOKの空気感があった。それは、ボロボロだったころの部活を全員多少なりとも知っていたからだろう。今年はその記憶が薄れつつある。そうである以上、勝手なことは出来ない。
「よし、決めた。どうせ決められないし、この中からアンタが選びなさい」
「私が?」
「構成決める人が選ぶのが合理的でしょ」
「なるほど」
好き勝手に私の趣味で選ぶのではなく、出された候補の中から選ぶ分去年よりは良いだろう。どういう選出方法にするかは幹部に一任されているのだから、これでも構わないはずだ。
「じゃあ、そうだな……。まず最初は『宇宙大戦争』で5分、トークを挟んで『クローバー グラウンド』で4分、『パイレーツ・オブ・カリビアン』で5分、『名探偵コナンのテーマ』で4分、トークを挟んで『暴れん坊将軍』で2分。暴れん坊将軍でみぞれの希望通り寸劇入れるなら、プラスで5分くらい余裕を持っておく。それで『リズと青い鳥』で8分、最後は『君の名は。コレクション』で8分。こんな感じでどう? エンディングセレモニーは『前前前世』とアンコールが来たら『学園天国』って感じで」
取り敢えず売れてる映画やアニメなんかから引っ張ってきている。CMとかで放送している曲も多い。文化祭ということで知名度に割と振っている部分が多い。一般客が知らないのは『クローバー グラウンド』くらいだろうか。『リズと青い鳥』はCMでも使われていたし、知名度はある方だと思う。現に、関西大会では多くの人が知っているようだった。
「うん、良いんじゃない?」
夏紀が頷くのに合わせて、みぞれが首を縦にがくがくと振っている。彼女は寸劇をやりたかったor見てみたかっただけだろう。とは言え、一応彼女の希望も通すようにしていた。希美は楽しく演奏出来れば割と曲は何でも良い派だったし、優子は問題なさそうな雰囲気をみたうえで頷いた。
「じゃあ、それでいきましょう」
「了解。譜面を用意して、明日からは始められるようにする。あと、寸劇は演奏中にやるんだろうけど、どういう風にしたいのか、配役をどうするのかは希望者が音頭を取ってね。役者は演劇部を借りるでもいいし、部内で完結させるのでもいいけど、衣装とかも決まったら教えて。演劇部と交渉するなら、私が窓口やるから」
「分かった。今は、部内でやるつもり」
「そっか。配役は?」
「まだちゃんとは決めてないけど……主役は決まってる」
みぞれは楽しそうな声で言っている。自分が出るわけでもないけれど、随分と楽しそうな顔だった。
「誰にするつもり?」
「涼音ちゃん」
「えぇ……?」
「身長高いし、髪結んだらカッコいい感じになるから。それに、もう了承は貰ってる」
「決まる前に許可取ってたの? 君は。もしかしたら選ばれなかったかもしれないのに」
今気付いた、というような顔で彼女は目を丸くした。その表情を見て希美は大笑いしている。やりたいことには一直線で、細かいことを気にしないという性質がみぞれには存在していた。音大も自分は受かる気満々だったり、割といい性格をしている。もちろん、誉め言葉だ。
「ま、まぁいいや。あの子が良いって言ってるならそれでいいけど。殺陣の指導は演劇部に頼もう。確か出来るのが何人かいたはず。あの子も少しは出来るはずだけど、もう随分やってないだろうから」
「お願い」
「ウチから日本刀持ってこようか? 何振か」
「銃刀法違反」
「冗談だよ」
みぞれのマジトーンにすぐに訂正した。家にあるのは否定しないんだ、という声は無視することにした。
「寸劇組はその曲だけ演奏しないことになるから、メンバー選定と指導はみぞれに一任することになる。大丈夫そう?」
「問題ない」
「よろしく。ちなみに、黄前さんは頼れない可能性が高いけど。もしどうしてもお願いしたいなら、今度は自分で頑張って」
「……え?」
「さぁ、部長! 次の話に行こうか」
寝耳に水、という顔になるみぞれをスルーして話を進める。自分がやりたいと言ったのだから、手配はある程度自分でしてもらわないと困る。手助けはするけれど、こっちが助けようか? と気を回すことは彼女のためにならないだろう。もし黄前さんのサポートが欲しいなら、自分で頼まないといけない。とは言え、もし本当に黄前さんを頼るつもりならそれとなく彼女が引き受けてくれるように頼んでみるつもりではあるので、結局私は少し甘いのかもしれない。
「こっからが真面目な話に行くわよ。次の幹部について。何回か話をしてたけど、もう本決定に入りたい」
優子の言葉に、場の空気は文化祭関連の話で緩くなっていたのが一気に真面目なものになる。来年度の幹部をどうするか。これはこの時期になると意識せざるを得ない話になって来る。特に、我々が次代に託す側になった以上は、より一層。ここで適当な人選をしてしまうと来年度の部は大きく崩れてしまうだろう。人間関係など、色んなものを加味して上手く回せる人材を選ぶ必要があった。
「まず、部長副部長から。夏紀とも話し合って、黄前部長、塚本副部長で行こうと思う」
前に話した通りの人選でいくつもりのようだった。私も、この人選は間違いでは無いと思う。部内での人望、演奏能力、人間関係調整能力などを鑑みれば、割と適任だろう。黄前さんはこれまで多くの場面で存在感を見せていたし、行動しようという意思はある。ユーフォニアムのエース奏者であるし、今年一年新入生指導係と言うことで前に立って話をする練習を積んでもらっていた。人間関係にもしっかり把握できる能力はあるはず。
塚本君は、二年生の学年リーダーを任されているくらいには幹部からも、一般部員からも信頼がある。人柄も温厚だし、真面目で誠実な行動を心掛けている節がある。黄前さんとは昔馴染みなので、コミュニケーションも上手く取れるだろう。良い支えになってくれると信じられる。男子が通常コースで幹部に入るのは珍しいので、かなり人望があるのは明白だ。私は例外的なパターンである。
もし何らかの不安要素があるとすれば、それは黄前さんが部長と言う職責に耐えられるのか、ということだろう。彼女はカリスマ性が凄くあるわけでは無いし、普通の部員である。リーダー経験もそこまで無いという話を聞いている。大所帯かつ、上に行くことを目指す中で軋轢も多いだろう部活の統率者になるのに、メンタルが耐えられるのかは不安があった。部活のためにも、彼女自身のために。
「何か、意見は?」
「黄前さん、これ大丈夫? メンタル的に。部長の仕事って明らかにしんどいし」
「大丈夫じゃない? 何も一人でやるわけじゃないんだからさ」
夏紀は私の心配とは裏腹に、割とするりとした口調で言った。同じ楽器の後輩ということで、私よりは彼女のことを理解しているのだろう。私の心配は、或いは杞憂である可能性も高い。それでも、不安材料は潰しておきたかった。来年の部員のためにも。
「何と言うか、立場に囚われてしまいそうな感じがあって。それがちょっと不安だった。後は……」
「後は?」
「いや、何でもない」
初心者やB編成の子のことまで背負えるのだろうか。演奏に、部長に仕事にといっぱいいっぱいになって、後輩の育成に気を配れるのか。才能ある子だけに注力することにならないか。そんな考えが浮かんできた。けれど、それを口にするのはあまりにも黄前さんに失礼だったし、私の考えすぎの可能性も高い。夏紀も自分の後輩がこんな風に言われるのは不愉快だろう。
「立場に囚われるか、立場が人を作るかは、周りの環境次第じゃない? しっかり周りが部長を支えて、その苦労とか悩みを分かち合える環境なら、きっと成長に繋がるんじゃないかと思うな。あくまでも、私の経験からだけど」
希美の声は静かだった。それでいて、確かな意思を感じる。立場が人を育てるのか、それとも蝕むのか。それは確かに環境に依拠する部分が大きいのかもしれない。希美もきっと、部長だった時に悩んだり苦しんだりしたのだろう。それでも、彼女はしっかり成し遂げた。結果は振るわなくても、彼女の行いは今でも優子や涼音の心の中で生きている。
蝕んでしまっても、立ち直れることはある。先輩、同期、後輩、家族。そういう色々な支えの末に、迷いながらも進んでいけることはあるのだろう。私の妹がそうだったように。或いは、去年の小笠原先輩もそうだったのかもしれない。希美の口調からは黄前さんを信頼していることが伝わって来た。
「なるほど」
「信頼して任せてみないと、成長できないしさ」
「……そういう事なら、私も優子の案で良いと思う。黄前部長、塚本副部長で行こう」
「ありがとう。みぞれは?」
「特に、反対する理由が無い。優子と夏紀が選んだなら、良いと思う」
「発表はどうする?」
「これは今までと同じで、全国大会が終わった後に言うつもり」
発表するのはこれくらいの時期で良いだろう。今から発表しても特に良いことは無い。優子はホッとした顔になる。ここで強固に反対されたらどうしようかと思っていたのだろう。最終的な決定権は部長と副部長にあるので、二人が強行採決で決められるのだが、それでも満場一致である方が心情的には良いだろう。
「それで、最後にあんたの裁量の部分を聞かせてちょうだい。ドラムメジャーを設置するのかどうか、もし設置するなら誰にするのか。春に聞いたとき、秋まで保留ってしたけど、その結論を聞きたい」
優子の言葉に、私は少しだけ沈黙する。ほぼほぼ確定で決めていた。しかし、それをここで言葉に出せば、もう本格的に決定ということになるだろう。そうなってしまえば、もう後戻りはできない。この選択が本当は正しいのか。高坂さんを指名することは、部活の、そして本人のためになるのだろうか。彼女にその能力が正しくあるのか。背負わせていい重さなのか。様々なモノが頭の中を駆け巡って、逡巡してしまう。
私は彼女が相応しいと思っている。ただ、それが彼女に対する贔屓目なのではないか、自信が無いのも事実だった。二年間接してきたフィルターで以て、彼女を見てしまっているのかもしれない。とは言え、学生の中で指導を担う人材がいた方が良いに決まっている。その方が部活は強くなれるし、効率も良くなる。彼女に理論的な話もしてきた。必要な布石は撒いてきたつもりだ。要するに、最後は私が彼女を信頼できるのかどうかなのかもしれない。
「設置するつもりでいる」
「指名は?」
「……高坂さんを指名する」
「そう。ま、そうなるだろうとは思ってたけど」
「身内人事にするとは思ってなかった?」
「アンタはそう言う事、しないでしょ。自分の価値を分かってるからこそ、その跡継ぎって言う重圧もわかってる。だから、妹に背負わせるような真似はしない。身内人事の批判は絶対出るだろうし、何より下級生に従うようにさせるには、あの子の実績が弱い。シスコンがそんな目に合わせると思う?」
「些か私の妹に向ける感情について問いただしたいことがあるけど、まぁ良いや。概ねその通りだけど」
優子は椅子に深く腰掛けて何回か頷いた。
「良いんじゃない? 一番近くで見てきた後輩だし、これからも色々教えられるだろうからさ」
夏紀はねぇ、と隣にいる希美に問いかける。希美は同意を示すために何回か頷いていた。
「みぞれはどう思う?」
「高坂さんは、無理させたりしないか、少し心配。無理は良くないから。いきなり、突然壊れる。ゆっくり、成長を待たないと」
「剣崎さんみたいに?」
「うん」
みぞれが珍しく懸念を示した。つまりそれは、それなりに不安要素だったということだろう。ゆっくりと成長を待つ余裕が無いといけないのはその通りだ。いきなりできる人材を育てることは出来ない。即戦力を求めるのはアメリカ的な考え方だろうけれど、それは公立高校である以上必ずしも上手い奏者が揃うとは限らない北宇治には向いていないとは思っている。だからこそ、初心者は三年後に上手くなって戦力になるような育成計画を考えていた。
「分かった。それは私から指導しておく」
「ストッパーを設けるのもいいかもね。高坂さんに意見できるような子」
「一応吉沢さんをトランペットのパートリーダーにすればいいかなぁとは思ってるけど」
「それは、パートの中の話になるからさ。それとは別に、全体指導の時にも相談したり、助け合える存在みたいな」
「高坂さんの後継者も決めておくってこと?」
「そうなるかな。いきなりやれって言われても厳しいだろうし。高坂さんは凛音と二年間やってるけど、それでもいきなりは難しいだろうから。今の一年生の子を来年一年かけて高坂さんの下で成長させる、みたいな」
希美の意見は良いアイデアだった。確かに、ドラムメジャー制度の基になった立華にも、二年生のドラムメジャーがいるらしい。三年のDMの下で一年間修業を積んで、三年生になった時に活躍できるようにしているんだそうだ。そう考えれば、もう指名しておくのは間違いではないと思う。
「それ、採用。後継選択は高坂さんと相談して決めれば大丈夫だろうし」
「じゃあ、アンタは高坂に話をすること。OK?」
「了解」
「断られないようにしなさいよ」
「大丈夫。彼女の人となりはよくよく理解してるから」
断られないように話を運ぶことくらいはできる。迷いはまだある。それでも、高坂さんを信じることにした。彼女の負担をどこまで減らせるか。どこまで私が卒業するまでに技術や知識を伝授させるか。それが大事になるのは明白だろう。全体練習はまだまだ続く。ここから全国大会まで二ヵ月弱。その期間を無駄にするわけにはいかない。高坂さんの育成計画を本格的に練り始めた。
カチャリとカップがソーサーに触れる音がする。クラシックな音の流れる店内で、やや居心地の悪そうな後輩が目の前に座っていた。それを承知ではあるけれど、少し面白い感じもするのでそのまま放置している。彼女はあまりこういう場には来ないのだろうか。出身は良いところのお嬢なんだろうけれど、練習三昧の日々を送っていそうだと勝手に想像した。
「あの……先生。どうしたんでしょうか、今日は」
遂に根を上げたのか、彼女は私に尋ねた。
「ああ、ごめんね。休日の午前にこんなところへ呼び出して」
「いえ、それは構いませんけど……」
「少し、話したいことがあってね」
「あまり長くいると、希美先輩に怒られますよ」
「言うねぇ。ま、希美の件は大丈夫だ。ちゃんと了解は得ている。代償は大きかったけど……まぁ些細な問題だね」
お待たせしました、と店員が注文の品を持ってくる。値段が四ケタのケーキなんてあんまり食べはしないが、今日くらいは良いだろう。
「食べながらで構わないから聞いてね。来年の部活に関する話だ」
私に声をかけられたからか、フォークにケーキの破片をぶっさし、口を半開きにしてなんとも滑稽な感じになってしまっていた。
「どうぞ、食べて食べて」
「すみません」
「さて……高坂さんは優秀だ。だからこそ、来年以降訪れる問題点に既に気付いているんじゃないかと思う。一つはマネージャーの消失。そしてもう一つは私の喪失。最後に最初から強豪校であること」
自意識過剰ではなく、これは事実だった。謙遜しても遠慮してもなにも事実は変わらない。自分の実力、組織へ与える影響。これらを正しく認識することは、決して悪いことでは無かった。私が組織の操縦者である訳では無いが、歯車だとしても欠ければ損失に変わりはない。そして私の意見を肯定するように彼女は頷いた。
この話をいつしようか随分と迷った。全国大会が終わってからでも良いんじゃないだろうか。そう思ったこともある。しかし、動き出すのにおいて早いに越したことは無い。来年の事を見据えるならば、一日一日が惜しい。
「最初に関しては今いる部員でその負担を分け合うしかない。新しい役職付きも増やす事を検討すれば良い話だから、年明け以降でどうにかなる。最後も前二つに比べれば意識的な話だね。そう早くに顕在化はしないはず。だが、真ん中は違う、と私は読んでいる。自惚れている訳ではないけれどね、強豪校には生徒内での指導者が必要だ。立華と春に合同の演奏会をしただろう。あの時に、先年の幹部陣に話を聞いた。そこで私が得た結論だ」
「ドラムメジャー、という事ですか」
「その通り。名称はこの際なんでもいいけど、立華ではそう呼んでいた。勿論、顧問は向こうもこちらも優秀だ。それに疑いはない。とは言え、如何せん生徒との距離が遠い。かつ、向こうの本業は教職だ。部活指導じゃない。仕事もあれば、会議もある。その点これらの縛りに生徒の指導者は縛られない。それが直接どこまで響いているかは分からないけど、先年の立華のマーチングにおける戦績は知っての通り、全国金賞だ」
私たちが目指してやまない色。座奏とマーチングの違いはあれど、それでも同じ音楽だ。
「便宜上私がこれを二年間。北宇治再復活、ある意味では新たな黎明期の二年間務めた。だけど、私は来年ここにはいない。多分、国内にも。空席になったその席に誰かを据えた方が利点も多い。事務を部長副部長にやらせて、音楽上の事だけに集中する役職は必要だと幹部陣は全会一致で判断した。そしてその人事権は私に一任された」
その上で、と前置きして私は彼女を見つめる。半分ほどに減ったケーキから甘い匂いが漂っている。
「もう薄々察しているかもしれないけど、私は私の後継者にキミを指名するつもりだ。どうだろう、引き受けてもらえるかな。高坂麗奈さん」
彼女は即答しなかった。いつも歯切れの良くスパスパ物を言う彼女にとってすれば珍しい話だった。だが、逆に言えば真剣に考えてくれている証拠なのかもしれない。
「勿論、キミにデメリットも多い。忙しさは増すだろうね。自分の練習時間も減るはず。私の後釜としてそれ相応の働きを上からも下からも期待されるのもある程度目に見えている。恨まれることも増えるだろう。事実、私が話を聞いた立華のドラムメジャーも嫌われ役だと言っていた。強制は決してしない。上手い奏者と上手い指導者は必ずしもイコールではないことくらい分かり切っている。これはキミを貶しているわけでは無く、単に適性の問題だ。なのでこの要請はお願いになる。断ってくれても構わない。でももし引き受けてくれるなら、これから卒業まで立派な指導が出来るように教えていく。当然右も左も分からない状態で放り出したりはしない」
彼女の目は泳いでいる。私は卑怯だ。彼女の逃げ道を無くそうと、自尊心を刺激するような言葉を重ねている。やれと言われれば大抵のことはこなせる彼女は「ダメだったら、無理そうなら断っても構わない」という趣旨の発言に弱い。二年間の付き合いで学んだ事実だった。
「キミの夢はまだ変わってない? 去年私に言ってくれた、『特別になりたい』という夢は」
「……はい」
「それは良いことだね。初志貫徹は大事だし。キミの言う特別が何を指すのか私にははっきりとは分らない。それくらいが丁度いいと言えばそれもそうだ。夢は少しフワッとしてた方が良いこともある。……だけどもし音楽で特別になりたいなら、奏者としてだけでなく教導者としても優れていた方が良い」
湯気の立ち上るコーヒーを口に含む。少し冷めていた。
「悲しい現実だけどね。音楽で大成できる奴なんて、一握り。どんな人でも上に居る者はみんな努力してきた。キミと同じくらい。そしてキミ以上に。だけど、それが正しく報われるとは限らないのがこの世界だ。確かにキミは才能があり、努力家だ。大成できる力を持っている。だけれど、そんな人は世界を見れば多くは無いが少なくもない。彼らの上をいかなければ、特別はあり得ない。だからキミが夢破れた時に、何も残っていないのでは生きていけない。指導者としての実力があれば、そちらでも生きていける。夢であるからこそ、シビアになろう。夢を見るのは良いことだけど、本気でプロを目指すなら夢想の時間は終わり。現実は冷酷で、残忍。夢破れたキミのような存在は多く転がっている。ほんの弾みで、ほんの僅かな差で」
彼女はその口元をきつく結んでいる。聡いが故に、私の話をしっかり理解しているが故に、その表情は険しい。
「逃げ道を用意するのは悪い事じゃない。むしろ賢い選択だよ。自分を守り、生きながらえさせる選択肢を増やすのだから。私だって、奏者を捨てざるを得ない環境に陥っても作曲が出来る。それが無理でも、幸いにして文才がある。それを失っても語学系なら活路もあるだろう。馬鹿でない自信もあるので勉強すれば就職先も確保できる。最悪コネでどうにかする。そんな風に道を用意しておくんだ。キミが万が一奏者で無くなっても、音楽に関われるように。我々はどこまで行っても音楽からは離れられないだろうからね」
逃げ道を用意するという話は決して嘘ではない。けれど真実かと言われれば完全に同意できないのも事実だった。私は彼女を説得するために効果的な条件を選んで話している。勿論、嘘八百を並べているわけでは無いが、正しい訳でもなかった。あくまで、私個人の主観に過ぎないのだから。けれど他に誰に任せるべきかと言われればアイデアもそうない。出来れば指導時間が多く取れて接点の多い存在の方が良い。だから私は彼女を口説き落とさなくてはいけない。
「これは完全に余談なのだけど、この仕事は顧問との密接な連携が大事になってくる。その時間も増やさなくてはいけないのも、人によってはデメリットかもしれないね」
揺れ動いていた感情が傾いた音がした。100%ではないけれど、均衡は破られた。ズルい手だ。卑怯と言い換えてもいいかもしれない。けれど、私は知っている。彼女の感情を。利用しないほど、優しさで満ちてはいない。私も、世間も。傾きが付いた段階で畳みかける。
「どうだろう」
沈黙があった。何かを飲み込んで、彼女は頷いた。
「私で良ければ、引き受けさせていただきます」
「そうか。それはありがたい。正直、他にアテが無くてね」
嘘だ。それでも私はここでその事実を黙り通す。そしてニコニコと口角を上げる。このまま彼女の気が変わらないように。空になったカップの底にはコーヒーの沈殿が蠢いていた。
「さっきも言ったけれど、何も指導無しにいきなり明日からはいよろしく、とはしない。私が教えよう。私の卒業までには形にするつもりでいる。なので、そのつもりでお願いしたい」
「分かりました」
「私はキミの全てが完璧だとも、何においても正しいとも思わない。けれど、それは私も同じだ。完璧な存在なんかない。キミが、良い指導者になれることを願っている。キミならなれると思って、私は推薦した」
「……ありがとうございます」
お互いの皿やカップにはもう何も入っていない。大分時間は過ぎ去ってしまった。
「最後に。君の補佐役兼再来年度のDMを今の一年生から決めたい。誰か良さそうな人を見繕っておいてね。また今度聞くから」
「分かりました」
「長々拘束してごめんね。ここの会計は済んでいるから、これから半日になってしまったけど休日を過ごして欲しい」
「ご馳走様でした」
「大したものじゃないよ、得られたものに比べれば。些細な出費だね。家まで送ろう……と出来れば格好がつくんだけど、生憎とこの後も予定が入っているんだ」
「いえ、全然大丈夫です。私も少し寄りたいところがありますから」
「おやそれは良かった。ではまた学校で。……ああ、そうそう。恋愛は待っていても成就しないぞ。ウチの婆さんが一回り以上離れてる爺さんを口説き落とした時は押しに押したらしいし」
多分来年彼女はかなり苦労するだろう。その責務を押し付けてしまった罪悪感から、少しばかりの助言を行う。案の定目を白黒させて赤くなったりもしながら彼女は何とか取り繕う。バレバレだが、その自覚はあるのだろうか。
「ど、どうしてそのようなアドバイスを下さったのか分かりませんが、こ、心には留めておきます。先生こそ、彼女さんに逃げられないように頑張って下さいね」
意趣返しかカウンターか。なかなかの反撃が入ったことに苦笑する。だが、彼女の応援はあまり意味のないものだと言わざるを得ないだろう。
「大丈夫。決して離したりしない。心も身体も、魂も。やっと見つけた運命の人。手放してたまるもんですか。俗に言う『死が二人を別つとも』だね」
私の言葉に、呆気にとられたような顔の彼女は小さな声で「ご馳走さまでした」と呟くのだった。