放課後の音楽室では、文化祭とコンクールに向けての練習が行われている。文化祭の練習があるからと言って、コンクールの練習を疎かにするわけにはいかない。だからこそ、どっちも並行してやっていた。複数の曲を同時並行でこなすのは楽では無いけど、色んな曲を演奏できる楽しさもある。
今は文化祭用の曲の練習時間だった。先生は文化祭の曲に関する諸々を凛音に託しているので、彼が前で指揮を執っている。とは言えこれは今までもそうだったので特に変なことは無い。少し変わったことがあるとすれば、この前の発表以来高坂さんが隣にいるということだ。今まで奏者だった彼女を前に出しているのは、自分の後継としての勉強をさせるためなんだと思う。
奏者として演奏しているのと、指揮者として前に立っているのでは見方も注意するべきところも変わって来る。私だって指揮の経験くらいあるので、それはよく分かっていた。演奏途中で彼が手を下ろす。今の演奏に問題があったということだ。
「何か気付くことは?」
「ホルンと、コンバスの音が弱いです」
「その通り。ホルン、もっと前に出してください。見せ場です。コントラバスも同様」
「「「はい!」」」
「後は?」
「これくらいじゃないですか?」
「……なるほど。クラはこれでいいの? 妥協しないで」
ピシャリと告げられた彼の言葉は鋭く厳しい。けど、その言葉に表情を変えることの無いまま、高坂さんはメモを取っていた。指揮者としての感覚や態度はそう簡単に身に着くモノじゃない。彼はそう考えているようで、こうして文化祭の曲練習期間はなるべく高坂さんを鍛えるために使おうとしている。高坂さんが演奏に参加できない分の練習は彼が代わりに見ていた。
「クラリネット、今一瞬見落としましたね。油断しないように」
「「「はい」」」
彼の一方後ろに立っている高坂さんの顔に一瞬悔しそうな表情が浮かぶ。もしかしたら気付いていたのかもしれない。それでも、まだ指摘しなくていいと思ったのか、もしくは自分で直せると思ったのか。どっちにしても、その考え方は彼にとって望ましいモノでは無かったのだと思う。妥協しないで、と言う言葉にはそういう意味も込められているんだろう。気付ていない、ということは無いという信頼は感じた。
高坂さんと彼の間には、私たちとは違う種類の信頼関係が存在している。それは当然、誰にでもあって当然のモノだけれど、ちょっとだけ妬いてしまうのは、私の心の中にだけ留めておく。
「では次に、最初のユーフォのソリ。ここは久石さんでやってみましょう。ちょっと経験を積んで欲しいので」
「はい!」
「他は引き続き黄前さんでお願いします」
「はい」
文化祭での演奏で、彼はソロやソリ、目立つ部分を一年生や二年生に任せようとしていることが多かった。もちろん、一番外したらマズいところは一番上手い人にやらせている。ただ、カバーが出来るところは少しだけでも下級生にやらせてみるようにしていた。何でも、経験を積める機会を与えたいのだそう。少しだけなのは、その部分だけでも先輩より上手く演奏させるために、集中的に練習しやすくするためらしい。
この話は各パートにされていて、しっかり上級生の承諾も得ている。この辺の根回しは流石だった。フルートも涼音ちゃんや私だけではなく、他の子にもソロを任せている場所がある。トランペットは高坂さんが指揮の指導を受けている中なので、吉沢さんが代理でやっている箇所が多い。ただ、トランペットは元々二年生二人組がかなり上手いので、特殊な例かもしれない。
来年度を見据えた動きは、こういう所にも反映されていた。今を大切にしつつ、未来をしっかり考える。同時にやるのは難しいかもしれないけれど、その難題を彼はやろうとしている。同じ環境を作り出すことは出来ない。だからこそ、せめて技術だけは残したい。そういう強い意志を感じた。
「演奏はトライアンドエラー。その繰り返しです。それを疎かにしない。疲れても面倒でも、妥協しないように」
「はい」
あの厳しい練習が、部活後の個人レッスンでも行われているんだろう。あれについて行っている二人は、本当にやる気があるんだと思う。そうじゃないと、そこまで出来ない。時々詰められているのを見ているとうわぁと思うけれど、それも師弟関係のなせる技なのかもしれない。私にできるのは自分の演奏を精一杯こなすことと、あの二人の関係を優しく見守ることだろう。時々牽制を込めながら。
「皆さん、こんにちは! 北宇治高校吹奏楽部です」
体育館のステージ上で優子が屈託のない笑顔を振り撒いているんだろう。演奏席からはその顔は見えないけれど、表情はなんとなく想像できた。何人かいる他校の生徒や中学生の恋愛観が破壊される音が聞こえる気がする。毎年9月に行われている北宇治高校の文化祭では、文化系の各部活がステージ上で発表を行う。今年はかなり時間を拡大されており、長時間の演奏が許されていた。なかなかの好評で、立ち見の人までいる。
学校のHPでも大々的に取り上げられている吹奏楽部は、北宇治高校の部活の中では頭一つ飛びぬけた成績を確保していた。スマホ世代の私たちにとってすれば「……」というクオリティーの学校ホームページにも吹奏楽部のページが作られている。進路を考える中学生にしてみれば大変魅力的に映るんじゃないかと思っていた。
「先ほどお送りした曲は、『宇宙大戦争』でした。映画音楽の中でも昨今話題になっているので、耳にした事がある人も多かったんじゃないでしょうか。指揮者も怪獣並みに大分暴れていましたが……」
まず一発目から注意を引くような目立つ曲を演奏したおかげか、会場も大きく盛り上がり万雷の喝采を飛ばしている。去年も大きく受けていたし、凛音はこういう構成が上手い。どうすれば一番盛り上がるのかをしっかり理解して、曲や順番を考えている。その能力は、もしかしたら私も将来的に必要になるのかもしれない。
「止められない止まらない。音楽家の性ですよ部長」
「かっぱえびせんじゃないんだから」
いつもの学生服ではなく、今日はピシッとこの時用にスーツを着ている指揮者。彼が学生だと聞いたら驚く人も多いんじゃないか。良いだろう私の彼だ。軽いドヤ顔を挟みながら席を移動する。この間に優子がMCで繋ぎ、凛音がそれに合いの手を入れている。
「今年北宇治高校吹奏楽部は無事、二年連続で全国大会に出場することが出来ました。皆さんの暖かいご声援のおかげであると思っています。本当にありがとうございました」
優子が深々と一礼して凛音が続く。美形二人が前で話してお辞儀してるだけで様になるので、良い宣伝効果かもしれない。一部女子中学生の目が怪しいけど……まぁ大丈夫だよね、と自分をなだめる。会場のあちこちからおめでとう! とか頑張れ! などと声援が飛んでいた。今年はそれが自分にも向けられていると思うと、無性に嬉しい。私も胸を張って、この歓声にこたえることが出来る。
「次の曲は今年のコンクールにおける課題曲『クローバー グラウンド』です。聞いたことの無い方も多いかもしれませんが、どういう世界観を持った曲なのか、是非想像しながら聞いてみてください」
優子が席に着くと、彼が指揮棒を上げる。そして腕を振り下ろせば、各楽器が勢いよく音を鳴らして演奏が始まった。拍動するリズムに合わせてドンドンと演奏が進行していく。マーチのメロディーに合わせて踵は勝手に浮き上がり、リズムを取り始める。心の底から楽しい。この感情を、ここで抱ける幸運を噛み締めていた。
発表を終えると部員たちはすぐさま楽器を片付け音楽室へ戻す。体育館を出て通路を通って校舎へ入る。多くの保護者や生徒、一般のお客さんで溢れる中をかいくぐって進んでいく。着ているTシャツは部活で揃えたものだけれどどういう訳かクラスの物より地味だった。裾をつまみながらそう思う。
「ねぇねぇ聞いた?ここ、イケメンの占い師さんがいるらしいよ~」
「手相とか見られちゃうのかなぁ!」
すれ違った他校の女子生徒二人の発言にピクっと頬を引き攣らせる。平常心平常心と言い聞かせて中に入ってサッと着替えた。服はそんなに凝ったものじゃない。長めのローブに先っぽの折れたとんがり帽子。見事なまでの魔女フォームだ。去年のメイド服に比べれば羞恥心も少ない。去年の服はまだクローゼットの中で眠っている。
私のシフトは呼び込み兼受付。しばらくは廊下でお客さんの相手をすることになっている。正午に近付くにつれてどんどん人も増えて行く。途中で交代があったけれど、練習のせいで準備期間はあんまり参加できなかったから、なるべくクラスに貢献したいので中で案内なんかをしていた。
それでも午後1時くらいになると少し客足も落ち着いてきた。笑顔を振り撒いてハキハキとを意識しているのも疲れるもので、ふいーっと教室の隅の椅子に腰を下ろす。これこの後どうしようかなぁと思っていると、ピタッと冷たい感触が頬に走る。
「ひぇっ!」
「あはは。ビックリした?」
見上げれば指揮者の時とは装いを変えた凛音が立っている。手にはペットボトル。何か買ってきてくれたらしい。ずっとブースで占いやってたのに元気そうだった。スーツの上から黒いマントを羽織り、赤いカラコンを目に入れて、爪にも緋色のマニキュアをしている。笑みを浮かべる口元には仮装用の人工犬歯が光っている。まごう事無き吸血鬼の姿だった。
「ありがと」
「ま、頑張ってたしね」
プシュッと開けた蓋から威勢のいい音が漏れる。清涼な辛みが喉を潤してく。形容するのが難しい関係性を続けていた去年とは何一つとして違う。自分の立ち位置も、感情も、関係も。365日はあっという間だ。流れるように過ぎて、何もかも変えていってしまう。
去年はメイド喫茶だった。涼音ちゃんとの再会やその後の思わぬハプニング。懐かしいと感じるのは大人になった証か、まだまだ幼かった時代への郷愁だろうか。一緒にお化け屋敷に行って、ご飯を食べて、寝落ちして……。随分と青春をしていたもんだなぁ、と現在進行形で青春真っただ中にいてもそう思ってしまう。過去は懐かしい。そして今も嫌いじゃなかった。まだまだ不透明な未来だけれど、きっとそう悪いことにはならないだろうと言う予感があるから。楽観的だと笑われそうだけれど、私は上手く行くような気がしていた。何より、一人じゃできない事も二人なら……とそう思っている。
「やっと空いてきたね~」
「おかげさまで働き詰めだよ。赤の他人の人生を見るのはなかなか結構疲れるね。それっぽいアドバイスも必要だし、ここを受けようとしてる受験生に適当な事言う訳にいかないし」
「受験相談、やっぱあるんだねー」
「藁にも縋ると言うけれど、そんな心境だろうから。高校生活にあまり期待を持てて無い人や新しい事を始めたい人は吹部を勧めればいいし、丁度いい勧誘の場だよ」
吸血鬼が缶コーヒーを飲んでいる。妙に様になっていた。お客さんが減って手が空いたのと少し疲れたので休むべく私は提案する。
「ね、私も占ってくれない」
「希美を? 別に良いけど」
そう言って彼は私の手を引き黒い布で覆われたスペースに連れていく。制作班の頑張りが結構うかがえる内装なのは知っていたけれど、こういうブースにもこだわっている。彼はタロットカードだけれど、他にも筮竹だったりおみくじだったり水晶玉だったり占星術だったりと色々だ。意外とこう言うのが得意な子も多い。普段見えない長所が見えたりするのも文化祭の良いところかもしれない。
「どうぞ、お嬢さま」
私をスッと引いた椅子に座らせて、彼は対面に座る。魔女が吸血鬼に占ってもらっている奇妙な構図だった。シャッフルされた22枚のカードが裏返されて並べられていた。
「占って欲しい事を念じて、カードを横からひっくり返してみて。直感でピンと来たやつを」
「わかった」
知りたいことは何だろう。取り敢えず受験と、部活と、私たち二人の今後の関係だろうか。それぞれ引いて行くことにする。
「審判の正位置と、月の逆位置、それと女帝の正位置、か」
「どういう意味があるの?」
「最初のは今まで頑張ってきてよかった、と思える出来事が訪れるって意味だね。二つ目は苦手な人の長所を発見する、三つ目は家族や恋人など大切な人の愛情を実感できて、幸福感にあふれるって意味。概ね順調そうだね。良かったじゃん」
「ま、まぁでも占いだしね」
そう言って誤魔化しているけれど多くの女子はこう言うのが好物な訳で。私も例にもれず結構好きだったりする。ピンポイントで良いものを引けているのは私の運の良さかもしれない。でも、ここで調子に乗っていると多分転落する。今私は幸せの絶頂期にいる。それは間違いなくそうで、ここ数年で一番ハッピーが続いている期間だと思う。だからこそ、失わないようにしないと。そうやって頑張って自分を戒めているのを見抜かれているのか、目の前の彼は楽しそうに笑いながらカードを切っている。
「ま、占いくらいは正直に喜んでしまおうよ。そっちの方が多分精神衛生的に良いはずだからね」
浅い考えは一発で見抜かれたらしい。恥ずかしくて火が出そう。前からずっとそうだった。私の考えは割といつも見抜かれている。ちょっぴり悔しいけれど、まだまだ追いつけない方が私としても張り合い甲斐がある。どっちかにおんぶだっこの関係はきっと長続きしないし、どちらも求めている物じゃないから。お互いに叱咤激励しつつ支え合うのが正しいパートナーなんじゃないかと17の小娘が思ってみたりする。
「バレたか~」
「何年の付き合いだと思ってらっしゃる。バレバレのお見通し。全部ちゃんとわかってるし、顔に出てるし」
「え~そんな意地悪な事言うと、恋の魔法にかけちゃうぞ?」
キャラじゃない事を言ってる自信しかないけれど着ている衣装に合わせて言ってみる。勢いでやったらなんか痛い感じになってるのでなんでも良いから反応が欲しかった。彼は少しポカンとこちらを見て、軽く笑って言う。
「もうかかってる」
関西大会から数えて二回目。またしてもカウンターを食らい、私は顔を赤くして接客に戻るしかなかった。対戦経歴は負けっぱなし。全然勝てないままだけれど、このままでも良いんじゃないかと思っている。恋の魔法は、自分がかかっていないと相手にかけられないのだろう。彼が一つ分かってないことがあるとすれば、それは私が彼よりも早くその魔法にかけられていたということだろう。
「ここか……」
おいでませメイド喫茶と書かれた看板を前に彼は複雑そうな顔をする。シフトに少しだけ空き時間の出た私たちは一年生のフロアに来ていた。まず取り敢えずの目的は1年7組などが合同でやっているというメイド喫茶。去年私たちが発案した複数クラス合同で大きくクオリティーの高い出し物をするというアイデアは結構良いモノだったようで、こうして今年も採用されていた。
「ほら、入り口で立っててもしょうがないよ、行こう」
「分かった」
教室に入ると、綺麗な装飾が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、二名様ですか?」
「はい」
「お席にご案内しますね」
言われるがままに席に座る。去年の私たちの時より教室内装のクオリティーは高いような気がした。衣装は去年のとはまた違うデザインになっている。どこで発注してきたのか、ちょっと気になった。遠くの席では涼音ちゃんが華麗に紅茶を淹れている。なんだかあそこの一角だけ別の世界みたいだ。お給仕はどっちかと言うとされる側だと思うけど、する側でも完璧なのはスゴイと思う。
「流石ウチの妹。何着ても似合ってる」
「はいはい。確かに似合ってるけど」
「あの客馴れ馴れしいな」
「大丈夫だよあしらってるから」
「あぁ、でも可愛さだと希美の方が上かも」
「はいは……そういう事人前で言わない」
まったくと思いながら目の前に座っている彼の足を私の足で軽く突っつく。そういう事言えば満足だと思ってるんだろう。実際そうなので何も言えないけど。
久石さんたちのクラスも合同に参加しているみたいで、みぞれの後輩の梨々花ちゃんもいる。コケそうになっていた久石さんを涼音ちゃんが華麗に受け止めていた。身長差があるので、久石さんがしっかり抱き留められている。片方の手で久石さんを支えつつ、もう片方の手ですっ飛びかけていたお盆をキャッチしている。軽く拍手が起きていた。
「ドジっ子メイドは今どき流行りませんよ」
「だ、誰がドジっ子メイドですか」
「その格好で言っても説得力がありませんね」
文句を言ってる久石さんだけど、顔が若干赤い。夏紀にも弱いらしいし、久石さんは結構弱いのだろうか。色々な意味で。涼音ちゃんとはどういう関係なのか、兄である凛音もよく分かっていない部分はあるらしい。腐れ縁なのかもとは言っていた。ただ、学校では済ました顔の事が多い涼音ちゃんが割と感情的になっているのは久石さんの前なので、そういう意味では優子と夏紀の関係に近いのかもしれない。
後輩たちの微笑ましい時間を眺めながら、私たちは窓際の席で座っている。喧騒に満ちた学校に、秋に近くなった日差しが差し込む。まだまだ暑いけれど、それでも少しずつ秋が近付いている。それは同時に、私たちの青春を彩った部活の終わりが近付いていることも意味していた。
文化祭が終われば、またいつもの日常に戻る。非日常が残滓を残している放課後。片付けが終われば今日の練習はないので家路につくことになる。けれど、真っ直ぐに帰宅ではない。行くべきところがあった。
「お邪魔しまーす」
もう何度目かもわからない玄関を潜り、純和風の廊下を歩く。背後ではガチャリと鍵の閉まる音。一緒に帰って来た彼が閉めたのだろう。ここは桜地邸。私の恋人の実家だった。そうそう何度も来るようなところじゃないのは知っている。けれど理由があって来ていた。
手を洗ってそのまま通された部屋に入る。ここももう何度目だろうか。最初はここで寝たという衝撃の過去を持っている部屋、つまりは彼の自室だ。ここで何をしているのか、別に遊んでいる訳じゃない。そんな余裕はない。バックからいそいそと筆箱とノートを取り出す。やる事は一つ、お勉強だ。
「じゃ、始めますか」
さっきの占いの時のように向かいに座った彼が教科書を開く。と言っても普通の五教科じゃない。やっているのは楽典や小論文。つまりは音大対策の時間だった。みぞれは専用の先生にお願いしているし、新山先生のサポートも手厚い。反面私はその進路決定の遅さからそういう存在はいない。このままでは学力はともかくそれ以外で落とされてしまう。なので彼が頑張って教えてくれていた。お陰様で大分出来るようになってきている。知識以外にも暗譜や譜面起こしなんかもやらされていた。実践するしかない科目はこういう練習が凄くありがたい以外の言葉が出ない。
私も普通の塾に行っているので、毎日ではないけれど週に四日。門限が夜10時半なのでそれに間に合うように8時半から9時くらいには返してくれる。よく友達や恋人と勉強しても捗らないと言うけれど、全然そんなことは無い。余計なことにうつつを抜かす時間がないのはお互いに良く分っているし、彼はそういうところで手抜きは絶対にしない。かなり厳しく教えてくる。スパルタ……では無いと思うけれど、きつい人にはきついだろう。私は自分のために努力するのは嫌いじゃないので普通に頑張れている。もしかしたら、その頑張れるラインを分かってその中に収めてくれているのかもしれない。
時々英語やセンター試験の対策もしてくれる。前者は彼が、後者は主に雫さんが。お尻叩かれてやると案外伸びるもので、自分自身でも力がついてきた感じがする。夏紀に借りた進学クラス用の教材もちゃんと理解できるようになってきた。センター試験対策は本当に拝み倒す勢いだ。学校や予備校とは違った感じのする教え方がある。流石は元京大生。バイトは家庭教師をしていたらしい。そのノウハウはまだしっかり生きていた。
だから時々思ってしまう。こんな恵まれた環境を、そのまま享受していて良いのだろうかと。私にこんな風にしてもらう権利はあるのだろうかと。私の迷いや遅さが生んだこの状況を、それでも文句も言わないで支えてくれるのはどうしてなのか。
「どうしてこんなに色々してくれるの?」
「藪から棒に、そっちこそどうしたの?」
「なんとなく……ちょっと聞いてみたくなって。涼音ちゃんとか凛音だけじゃなくて、雫さんにも沢山色々してもらってるし」
「私や涼音はやりたくてやってるから。雫さんは……贖罪かな」
「贖罪?」
「涼音が参ってる時に、大人だったのに何もしてあげられなかったってかなり悔やんでたから。だからこそ、あの一件を解決してくれた希美には感謝してるんだと思う。出来る限りその恩を返したい。そういう風に言ってた」
「そっか……」
「でも勘違いしないで。私は、別に同情だとか彼女だからだとかで力を貸している訳じゃない。希美自身が頑張ってるからこそ、手伝いたいって思う。それに、昔の私を見ているみたいなんだ。夢に向かってひたすら努力し続けている姿がさ。私の時は親が協力してくれた。だから、今度は私の番だと思ってる。引け目とか感じなくていいからね。私たちは好きでやってるんだから。次に希美が誰かの夢を助ければいい。それに逆に言えば、夢を目指してる子なんて幾らでもいる。でも私たちが希美にだけ今こうやって協力しているのは希美だからこそ、だってことを忘れないで。誰にでもこんな風にしてる訳じゃないから」
その言葉に含まれた優しい音に、不覚にも少し泣きそうになってしまった。私のしてきたことが無駄じゃなかったと思えてくる。同時に決意する。ここまでしてもらって出来ませんでした、で終わらせる訳にはいかない。絶対に受かって、今度は私が誰かの夢を後押し出来るようにする、と。いつの日にか、自分の子供が産まれたらその子の夢も、こうやって後押し出来るように。出来れば、彼と二人で。
「こういうのはやっぱり運命って言うか、巡り合わせだよね」
「運命?」
「私と凛音は付き合ってるけど、私より魅力的な女の子なんて世界の半分は女性なんだし多分かなりいると思うんだよ」
「いや、そんな事は無いけど」
「いいから。でも、そんな中で私たちはこうやって出会って、それだけじゃなくてこういう関係になってる。何かの弾みが違ったら、こうなってなかったかもしれない。凛音の隣にいるのはみぞれだったかもだし、優子や夏紀だったかも。でもそうなってない。それって、巡り合わせとか、もっと言えば運命なのかなって。だから、涼音ちゃんがそういう気持ちを抱くようになったのも、きっと何かのきっかけが導いた運命なんじゃないかな~っていうファンタジーでメルヘンなお話」
私たちは向かい合いながら手を動かしている。頭の中はあんまり好きじゃない日本史で渦巻いているし、目の前の問題を処理はしていた。それでも口は全然違うことを話している。私も、ちょっと器用になったのかもしれない。
「そういう考え方もアリかもしれない、とは思う」
「そう思えばこの特別な運命を祝いましょう! って気分になって来ない? 出会って、仲を深めて、恋に落ちてって時点で対人関係の中ではかなり特別だよね」
「まぁでも」
彼はそこで一旦言葉を区切った。
「希美のいう運命なんてモノが無かったとしても、私は多分、希美のこと好きになると思う」
屈託のない顔に、私はしまりのない笑顔を浮かべることしか出来ない。それでも私は運命があると思うのだ。あの日、私たちが出会ったあの夏の終わりの日。もし南中の先生が彼のクラスを別にしていたら。私の隣がたまたま空いていなかったら。彼が、もし転校してこなかったら。もっと違う未来になっていたはず。でも、今はこうして現実が目の前にある。彼は、私の前でその優しいまなざしを向けてくれている。それが運命じゃなくて、何だと言うのだろう。
彼はもしかしたら、私は優しくないと言うのかもしれない。それでも、私にとっては優しい人だった。出会えてよかった。心の底から、そう思っている。もし出会えなかったらきっと、私は今でも迷いの中にいて、素直になれない感情を呑み込もうと頑張って、そして抱えきれないままにしていたはずだ。もっと言えば、部活に戻ることも出来なかったかもしれない。戻れても、今みたいに過ごすことは出来なかったかも。
「ほら、手が止まってる。あと、その問題の答え違う」
「え? どれ?」
「問8。財閥解体とか、目の前にその関係者いるのに間違えないで。新興財閥は日窒と日産。ウチは新興じゃないです」
「あ、そっか」
「後、問13も」
「うっそ、何が違うの?」
未来を夢想しながらも、手を止める事は無い。夜の帳の中で、時間が進む。時計の針が今どこにいるのかなんて気にもしなかった。何もかも違う景色。去年やそれ以前とは何もかも。この時間や景色は、拭い去る事など不可能なくらいの幸福なものだったから。
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